トラック島
この七月末日で,吉村昭が亡くなってからもう十三年も経つ (平成十八年七月没).
先日,アマゾンで何か面白そうな本はないかと探し回って,吉村昭『海軍乙事件』(Kindle版) が眼にとまったので購入した.
これには「海軍乙事件」の他に「海軍甲事件」「八人の戦犯」「シンデモラッパヲ」の四篇が収録されている.
海軍甲事件とは,太平洋戦争中の昭和十八年 (1943年) 四月十八日,連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され,山本大将が戦死した事件である.(Wikipedia【海軍甲事件】)
海軍乙事件は,山本海軍大将戦死の翌昭和十九年の三月三十一日,山本大将の後任として連合艦隊司令長官に任ぜられた古賀峯一海軍大将が,搭乗機の墜落により殉職した事件である.(Wikipedia【海軍乙事件】)
山本司令長官の戦死は正真正銘の大事件であったが,海軍乙事件は,大事件というよりも大不祥事というほうが適切かも知れない.
事件当時,拠点としていたトラック島 (後述) から退避した連合艦隊はパラオ (現パラオ共和国のコロール島) を拠点にしていたが,パラオも米空軍の空襲の標的となったため,パラオからさらにミンダナオ島のダバオへと退避することとした.
三月三十一日,古賀大将ら艦隊司令部要員が搭乗した飛行艇二機 (二式大艇) は低気圧に遭遇し,古賀大将の搭乗した一番機は行方不明となり,連合艦隊参謀長福留繁中将以下の連合艦隊司令部要員が搭乗した二番機はセブ島沖に不時着したが,親米ゲリラの捕虜となった.古賀司令長官と福留参謀長は,後述する海軍丁事件の主役でもある.
この時,東條英機の「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱を受けず」 (*ブログ筆者の註) が福留参謀長らの頭にあったかどうかはともかくとして,福留らは,いとも易々と最重要機密書類 (連合艦隊の作戦計画書,司令部用信号書,暗号書など) をゲリラの手に渡してしまった.
(*ブログ筆者の註)
東條は皇軍兵士に「捕虜になるくらいなら死ね」といっておきながら,ポツダム宣言を受諾して日本が敗戦した昭和二十年八月十五日以降もずるずると一ヶ月近くも過ごした.八月十五日には現職の陸軍大臣阿南惟幾が割腹自決した.宇垣纏海軍中将は玉音放送後に特攻した.東條の娘婿であり,宮城事件 (徹底抗戦派軍人によるクーデター未遂事件) の首謀者のひとりであった近衛第一師団の古賀秀正少佐も自決した.しかるに東條に自決する気はさらさらなく,裁判で所信を述べると語った.しかも連合軍が自分を捕虜 (逮捕) ではなく戦争指導者として処遇することを望んだという.何様のつもりであったのだろうか.
しかし九月十一日,当然のことながら米軍が東條の私宅に来て逮捕令状を示すと,ようやく逃れられぬことを悟り,応接間で椅子に座り,拳銃自殺 (未遂) を図ったのである.しかもこの自殺未遂は,左手で左胸を撃つという,本気が疑われるものであったため,情けなくも,死ななかったのである.
ちなみに,宇垣中将は自分が搭乗した彗星43型艦上爆撃機一機で特攻すればよいものを,特攻隊合計十一機二十三名を道連れにして特攻した.しかも宇垣機は米空母発見を打電したあと,敵艦に損傷を与えることなく洋上に墜落したとされる.
さてセブ島でゲリラの捕虜となった福留中将であるが,捕虜となることには何らの問題もない.しかし機密書類を敵の手に渡したことは,高級軍人として極めて無様なことであった.仮に自分より下級の軍人がそのようなことをしたら,死をもって償えと福留は要求したであろう.しかし皇国日本の指導部層の精神性は悲しいかな「他人に厳しく自分に甘く」であった.
福留はゲリラから解放されたあと海軍に戻ったが,一向に反省せず,自決によって責任をとろうとはしなかった.福留の扱いに困った海軍は,この件は「なかったもの」とした.すなわち福留を第二航空艦隊司令長官に任命し,海軍の要職に留めたのである.この不祥事を海軍乙事件と呼ぶ.
福留は戦後になっても全く反省をせず,機密を敵に渡したなどというのは事実ではないと主張していたそうである.半藤一利がそう書いている.
上に記した海軍甲事件と乙事件は有名であるが,もう一つ海軍丁事件というのがある.これは昭和十九年二月十七日から十八日にかけて,米軍機動部隊が日本軍の拠点であるトラック島の停泊地 (泊地) へ攻撃を行い,日本軍に大打撃を与えた空襲を指す. 海軍甲事件と海軍乙事件は,甲乙丙丁の甲乙だが,海軍丁事件の丁はトラック島の頭文字をとったもので,海軍T事件とも書く.
詳細はWikipedia【トラック島空襲】に譲るが,この米軍の空襲によってトラック島の泊地が壊滅的な打撃を受けたことを海軍丁事件と呼ぶのは,不祥事だからである.
ここでいう不祥事には二つの意味がある.
一つは,戦争遂行上,あってはならない失策が起きたということ.
もう一つは,いわゆる不祥事である.
まず前者について,掻い摘んで記す.昭和十九年二月五日にマーシャル諸島守備隊が玉砕したことで,日本は絶対国防圏構想に破綻をきたした. (破綻したというより,元々日本のこの構想は,島嶼に置いた拠点を制空権で繋ぐという思想を持たずに,遠く離れた島々に孤立した守備隊を置くだけという,ザルのように抜け穴だらけの構想であったという.事実,終戦まで米軍に無視され,日本軍にも捨てられて孤立した基地もあった)
マーシャル諸島の守備が壊滅したあと,米軍の攻撃がトラック泊地に及ぶのは必至の状況となった.そこで日本海軍は,拠点とするには防備も兵站も貧弱なトラック泊地からの撤退を決定した.そしてこれ以降,現代の私たちから見ると信じがたい事態が進行した.連合艦隊司令部は,トラック泊地に米軍の攻撃が迫っていることを,トラック泊地の他の艦船に知らせることなく,つまり置き去りにして,内地へ転進したのである.
連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機が米軍機に撃墜され,山本が戦死した事件に関して,Wikipedia【海軍甲事件】に次の記述がある.
《無能な敵将であれば生かしておくほうが味方に利益である。そのため山本の前線視察の予定をつかんだニミッツは幕僚と会議を開き、そもそも山本を殺害すべきなのかを検討した。検討の結果、真珠湾攻撃の立案者として人望の高い山本が戦死すれば日本軍の士気が低下すること、山本長官より優れた者が後任となる可能性は低いことを理由にニミッツは山本の殺害を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに山本長官の行程を連絡、予備計画の作成を命令した。》
まさにニミッツが予想した通り,山本五十六亡き後の連合艦隊首脳 (古賀峯一司令長官,福留繁参謀長) は無能だった.現代の会社員なら情報の共有と報・連・相は業務遂行に関する基礎中の基礎である.
例えばある会社に営業部に第1課と第2課があるとする.そして第1課の営業課員がある日,第1課と第2課共通の顧客が不渡りを出しそうだとの情報を得たとする.部下から報告を受けた第1課長は,営業部長に報告すると共に第2課長にも情報を伝えるだろう.会社なら当然の事である.
しかし古賀・福留ラインには一切そのような職務遂行能力はなかったようだ.当時のトラック泊地には,日本のシーレーンの防備を担当していた海上護衛総司令部の輸送船や駆逐艦などが在泊していたが,古賀・福留は,自分たちの直接的な指揮系統にない艦船にはトラック泊地に迫る米軍の襲来を知らせることなく,トットと内地に帰ってしまったのである.連合海軍司令部における情報共有意識の欠如,これが現代の私たちからすると,トラック泊地が壊滅的打撃を受けた主たる原因であると考えられ,上に述べた「あってはならない失策」であった.
次に,不祥事について.
二月十日に連合艦隊主力がトラック泊地を去ったあと,トラック地区の最高責任者は連合艦隊隷下第四艦隊司令長官小林仁海軍中将 (内南洋方面部隊指揮官) となったが,これ以降,トラック泊地の防備は弛緩していく.この状況をWikipedia【トラック島空襲】から引用する.
《2月16日の索敵結果を受けて、日本側は同日午前中に警戒体制を緩めた。ちょうど大本営陸軍部 (参謀本部) の秦彦三郎次長以下瀬島龍三や服部卓四郎らと大本営海軍部 (軍令部) の伊藤整一次長一行が南方視察行の途中でトラックに立ち寄っていた。この件に関し、16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れなくなった……という噂がある。なお次長一行は翌17日の空襲に遭遇し、18日サイパン到着 (秦次長はサイパン島防備について懇談) 、20日東京に戻った。また士官の人事異動のため深夜まで送別会を開いており、多くの者が陸上施設に泊まり込んでいた……という噂もあった。元海軍大尉の佐藤清夫 (トラック島空襲時、駆逐艦野分乗組) によれば、五五一空の肥田真幸飛行隊長 (機44期、当時海軍大尉) や整備長の回想に「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」という記述があっため、瀬島に手紙で質問した。瀬島からは、陸軍単独の視察であったが、料亭に泊まった士官は居り、空襲に対する警戒心が弛緩している傾向は見られた旨の返信があったという。
戦後、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見 (元海軍軍人) が、本空襲についてのセッションで、事前警戒の不備問題について、「 (前略) トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。同時にやっぱり、さっきいったように防備施設というようなものは、中央の問題もあると思うんです。私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした。そのことから『太平洋方面の海戦』の中では『専任防空戦闘機隊の不在、所在航空機部隊の不明確な指揮関係、多数商船隊の在泊など、むしろ連合艦隊司令部あるいは大本営海軍部が事前に適切に処置すべき問題が多かったように思われる。』という表現になったわけです」と語っている。》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
戦争の真っ最中に警戒態勢を弛緩し,陸軍視察団一行の接待で艦船指揮官たちが自艦を離れて料亭で飲酒したり,士官の送別会とやらの宴会が行われていたとか,トラック島防備態勢の緊張感のなさに驚くが,これはおそらく,トラック泊地の総責任者となった第四艦隊司令長官小林中将の資質によるものだろう.上記Wikipedia【トラック島空襲】からの引用文中の着色部分「…という噂がある」「…という噂もあった」には,以下の出典が示されている.いずれもアマゾンで入手できる.私は注文済みだが,まだ手元に届いていないので未読である.
* 門司親徳『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』(光人社NF文庫)
* 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』(光人社NF文庫)
* 三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか―第二氷川丸の航跡』(光人社NF文庫)
実は,これらの書籍に書かれている第四艦隊の「噂」の他に,Wikipedia【トラック島空襲】が触れていない「噂」がある.それは,空襲が行われた二月未明,小林中将は釣りに出かけて司令部を留守にしていたというのである.これは複数のウェブページが記述しているのだが,どれも出典を示していない.この「噂」の出処をウェブ検索したが,見つからない.根も葉もない嘘かも知れないが,さりとて事実でないと断定する資料もない.肯定否定のいずれになるかはともかく,流言の伝播を追跡して事実を明らかにすることは,社会学や心理学の学問的研究の対象となるくらい難しい.
海軍甲事件と海軍乙事件のドキュメンタリー作品を書いた吉村昭が,なぜ海軍丁事件を取り上げなかったのか.
吉村昭には流言による悲惨な事件を扱った作品『関東大震災』がある.私の推測であるが,吉村昭の調査力をもってしても,海軍丁事件の「噂」を資料的に裏付ける確かな証言が得られなかったのではあるまいか.充分な根拠に立たずに書けば,自著が流言の伝播に与するもあり得る.それを吉村は避けたのであろう.
実は今年の二月にNHK『歴史秘話ヒストリア』で《南の島は戦場になった トラック空襲75年目の真実 》が放送された.
番組はトラック泊地の海底に潜水調査を行った.撮影された沈没艦船の映像は私も所見で,これには見るべきものがあったが,その他の内容は御粗末だった.それは番組アーカイブに書かれている次の記述を読めば明らかである.
《エピソード2 消えた連合艦隊
トラック島には連合艦隊の大作戦を支える物資輸送のため、民間から徴用された船がたくさん送られました。そこに迫るアメリカ軍の大艦隊。連合艦隊はこれに決戦を――挑まず、なぜか撤退してしまいます。取り残された徴用船とその船員たち。彼らには壮絶な運命が待っていました。》
この引用箇所に《連合艦隊はこれに決戦を――挑まず、なぜか撤退してしまいます 》とあるが,これはおかしい.「決戦を挑まなかったのはなぜだ」と言われても,連合艦隊のトラック泊地からの撤退は,トラック空襲の前に既に決定されていたことなのだと答えるしかない.そういう事実関係を調べずにNHKは番組を作っているのか.不思議なことをいうものである.
もし「なぜだ」と問うのであれば,連合艦隊がトラック泊地を捨てた理由 (これは調べればわかること) ではなく,トラック泊地に在泊していた民間徴用船など多数の艦船に,米軍の攻勢に関する情報を伝えずに,連合艦隊がトラック泊地を去ったことを問題にしなければならない.ところが番組のナレーションは情報共有が行われなかった原因を「指揮系統が複数あったからである」で済ませていた.大組織であるNHK的感覚ではそう理解するのだろうが,上に会社組織を例にして述べたように一般には,情報共有と指揮系統の問題は別々のことだ.指揮系統 (縦割り組織) を横断して情報共有するのが近代組織である.
一般には,トラック泊地が壊滅した責任は,当時の連合艦隊司令部の,縦割り意識に囚われて硬直した組織が原因だと理解していいのだろう.また連合艦隊司令部のエリート意識に遠因を求めることも可能だろう.Wikipedia【連合艦隊】に次の記述がある.
《長い間、連合艦隊が帝国海軍の戦力のほとんどを占め、戦艦など主力艦はいうに及ばず、駆逐艦・輸送艦のような補助艦まで、大多数が連合艦隊に取り込まれた。また、連合艦隊こそが実戦部隊のエリートであり、そこに有能な人材を集中し、局地警備部隊や海上護衛隊の人材育成を軽視した。》
エリート中のエリートたる大本営海軍部と古賀司令長官ら連合艦隊司令部には,トラックに在泊の民間徴用船がどうなろうと関心がなかったのかも知れない.米軍のトラック空襲によって軽巡洋艦三隻,駆逐艦四隻,徴用商船三十四隻が沈没し,戦わずして破壊された最新式零戦52型百機を含む航空機三百機弱が失われた.戦死者は陸上部隊六百名,沈没艦船乗組員を合わせると七千人と言われる.まさに『歴史秘話ヒストリア』が語った《取り残された徴用船とその船員たち。彼らには壮絶な運命が待っていました 》の通りであろう.
しかし, この大損害に関して,真の責任者である古賀司令長官らには一切の咎めがなかった.もしもこの時に連合艦隊司令部が刷新されていれば,海軍乙事件はなかったはずである.
またトラック泊地守備の責任者であった小林中将は,更迭されはしたものの予備役に編入されただけで厳しい責任追及はなかった.そして小林中将は戦後もトラック空襲について硬く口をつぐんだ.
これが帝国海軍の体質だったと言えばそれまでだが,今の私たちの感覚ではどうにも理解しがたい.現代社会の企業経営者のほうが余程厳しい責任を負わされているように思う.これではトラック泊地の七千人の戦死者は浮かばれまい.
『歴史秘話ヒストリア 南の島は戦場になった トラック空襲75年目の真実』は,海軍丁事件の原因についても責任論についても全く語らなかった.一切の《真実》を示さなかった.そのような番組は放送する意味がないと私には思われる.吉村昭を筆頭とする戦争ドキュメンタリーを書ける作家がもはやいない現在,トラック空襲の「真実」は謎のままに残されたのである.
ちなみに空襲の際に,トラックには特務艦宗谷が在泊していた.宗谷は高角砲と機銃の全弾を撃ち尽くすまで奮戦したが,座礁したため総員退鑑して放棄された.しかし沈没は免れたため,後に内地に帰還し,現存する唯一の帝国海軍艦船となった.
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(トラック島 (補遺一) へ続く)
[この連載は以下の三記事です]
トラック島
トラック島 (補遺一)
トラック島 (補遺二)
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