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2019年7月22日 (月)

『天気の子』 / テラスモール湘南「梅蘭」

『天気の子』を観てきた.
 前作『君の名は。』に続いて“Boy Meets Girl”のストーリーである.ただし,いい意味で.
『君の名は。』は物語にSF的な設定を施すことで,ストーリーの解釈に多様性あるいは膨らみとでもいったものを持たせることに成功していたが,今作『天気の子』は,SF風味を全く削ぎ落して,軽いファンタジーに仕立てている.
“Boy Meets Girl”モノというのは,少年と少女 (あるいは青年と乙女;特殊な例では『マジソン郡の橋』など) のあいだに何かしらの「試練」がなければいけない.その試練を二人が乗り越えて (あるいは乗り越えられないことで) 初めて物語が設立するのである.試練が何もなければ,よかったよかった,の一行で話は終わってしまう.
『天気の子』のストーリーは一本道で,「そうだったのか!」と驚くような仕掛けはない.それに粗筋はWikipedia【天気の子】に書かれているので,何を書いてもネタバレというほどのことはないから書いてしまうが,『天気の子』では東京を襲った異常気象が,今作『天気の子』の“Boy Meets Girl”における「試練」となるのである.
 
 家出して上京した高校一年生の森嶋帆高は,小学生の弟と暮らす中学生の天野陽菜と知り合う.この陽菜は,天空と地上の人間界を繋ぐ巫女として描かれる.『君の名は。』の宮水三葉と同じである.おそらく巫女は,新海誠監督にとって少女という存在が持つイメージなのだろう.
 ちなみにここで「天空」と書いたが,これは天界ではない.この物語の中では,天空に聳える積乱雲の最上部には,地上と異なる世界があるのだとされている.
 さて東京を襲った異常気象,すなわち降り続いて止まぬ「異常な連続降雨」は,このファンタジーにおける災厄である.しかし「異常な連続降雨」が起きた理由は,作品中で説明はされない.これはファンタジーのお約束だ.そして陽菜はこの「異常な降雨」を局所的かつ一時的に停止する「晴れ女」の能力を持っている.しかしそれは陽菜の真の能力ではない.
 ファンタジーの世界では,ヒーローあるいはヒロインの真の能力とは,この世において与えられた使命を果たす能力を意味する.使命とはこの世の災厄を祓うことである.そしてヒーローあるいはヒロインが,なにゆえにその使命を与えられたのかは不明でも構わない.一例を挙げれば,現代ファンタジーの出発点である『指輪物語』で,主人公フロド・バギンズ は,古の王の末裔でもなければ剣の達人でもない.たまたま「一つの指輪」を破壊する旅にでることになってしまったのである.
 陽菜も同じ.雨が降り続く東京.母の臨終の病室で,たまたま窓の外を見たら,廃ビルの屋上にそこだけ陽光がさしていた.誘われるようにして
そのビルの屋上に行くと,稲荷社があった.ちなみに稲荷は農業神であるが,すべての商工業の神でもあり,ビルの屋上には稲荷社が祀られていることが多い.
 民間信仰的な根拠資料を私は知らないが,新海誠監督は『天気の子』の物語において,雨は水神が,晴は稲荷が司っているとしている.両神の拮抗バランスが崩れて,異常な降雨現象が発生したという設定だ.
 降り止まぬ雨という災厄を祓うために稲荷神が人柱に立てた巫女こそが陽菜である.それは,たまたま,であった.陽菜でなければならぬということはなかった.しかし陽菜は,自分の運命を抗わずに受け入れて,人柱となった.
 陽菜の運命を受け入れなかったのは,帆高であった.ここから先は映画を観て欲しいが,物語は“Boy Meets Girl”から初々しいラブ・ストーリーへと変わる.
 普通のヒロイック・ファンタジーであれば,主人公は世界を救うことを選ぶか,愛する娘を選ぶか,悩み葛藤するのであるが,帆高は全く躊躇しない.ただ一途に陽菜を選ぶのである.世界なんかより愛だ.そしてその結果,東京は水没する.
 だが,若い人たちは帆高の選択に共感するだろう.私みたいな老人だって,若ければ帆高のように生きたいものだ.
 色々あって,帆高と陽菜は二年間,遠く離れて暮らす.二年後,二人は再会するのだが,帆高が坂道を歩いて行くと,坂の上に陽菜がたたずんでいる.このシーンで新海監督は観客に「回収されない伏線」を提示する.観客の想像力を掻き立てるかのように.『君の名は。』のラストシーンは素晴らしかったが,『天気の子』も劣らない.
 映画を観終わったらエンドロールで主題曲「愛にできることはまだあるかい」を聴いて頂きたい.『天気の子』は前作よりも音楽性の高い映画になっていると私は思う.
 才能ある若い人というのは羨ましい.『天気の子』公開の朝,新海監督がテレビに出て,音楽を担当すると共に映画創りにも大きく貢献したRADWIMPSに謝辞を述べていた.おそらくこれからもRADWIMPSは新海監督作品に関わっていくのだろう.
 
 さて物語のいくつかのシーンを反芻しながらシアターを出ると,昼飯時をかなり過ぎていた.いつもなら藤沢駅に戻って昼飯にするのだが,空腹だったので,テラスモール湘南の中にあるフード・コート「潮風キッチン」で済ませることにした.潮風キッチンには「梅蘭」という中華料理の店が入っていて,そこの「梅蘭焼きそば」が一風変わった料理なので食べてみることにした.(下の写真)
 

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 梅蘭焼きそばは,どこが一風変わっているかというと,普通の餡かけ焼きそばは,中華鍋またはフライパンで蒸し麺をパリッと焼き,その麺の上に八宝菜風の餡がかかっているのだが,梅蘭焼きそばは,餡と麺が上下逆になっている.作り方は,調理の実際を目で見たわけではないが,蒸し麺を中華鍋に押し付けるようにしてパリパリになるまで焼く.そこに餡をタップリと載せ,これに皿を上から被せる.あとは鍋を引っ繰り返して皿に載せる.チキンライスを薄焼き卵で包んでオムライスを作るのと同じやりかただ.(オムライスの動画)
 さて実食した感想.
 普通の餡かけ焼きそばは,餡の水気が麺に移って,食べていくうちにパリパリの食感からシンナリとした状態に変わる.この変化が餡かけ焼きそばのおいしさなのだと私は思うが,梅蘭焼きそばは麺が餡の上に載っているので水気が移らず,麺はパリパリのままで,軟らかくほぐれるということがない.全体が焼き固まっているので,箸先でほぐすのが難しい.いわゆる「ちぎり箸」をせずに上品に食べるのは少々大変だった.プラスティック製でディスポのナイフがあれば持参するのがいいだろう.というか梅蘭の店員は中国人だが,客は日本人である.日本人は箸のマナーを大切にしている.この焼きそばを箸だけで食べろというのは客への配慮が足りない.ま,そういう店なんだと思う.
 余談だが,以前中国旅行の時に,ちょっと高級な料理店で食べた餡かけ焼きそばがおいしかった.作り方は,まず麺をパリパリに焼いて半球状の器を作る.大きさは大き目のメロンの横二つ割りくらい.それに野菜と肉の餡を盛り付ける.そして餡を食べ進んでいくと,次第に麺でできた器が食べ頃の軟らかさになるという次第だ.
 それはさておき,梅蘭焼きそばのお味はどうだったか.残念ながら餡の塩味にしても旨味にしても,一味足りないというか味がボケているというか,それが正直な感想だ.この焼きそばは見た目は面白いが,この味で九百二十円はいかがなものか.話のネタに一度食べれば充分だ.ごちそうさま…か…な…
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