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2019年6月12日 (水)

祈る人 後白河院

 昨年,クラブツーリズム主催の講座「国宝」で講師の橋本麻里さんが,三十三間堂 (蓮華王院本堂) の諸仏について解説をされた.この講座の受講者はほぼ全員が高齢者だったのだが,橋本先生は「高齢者のかたは意外と,修学旅行で一度しか三十三間堂に行ったことがないようです.それはもったいないことですから,ぜひもう一度,千と一体の木造千手観音立像を拝観に行っていただきたいと思います」と話された.その講座が終わったあとの秋に,木造千手観音立像が国宝に指定される予定であることも.
 その時は「そうだなあ,京都に行くことはあっても三十三間堂はお詣りしないなあ」と思っただけだった.

 この四月にNHK『歴史秘話ヒストリア』のキャスターが渡邊佐和子さんに交代した.それ以後,あまりおもしろい内容の放送はなかったのだが,先日の《三十三間堂 国宝大移動 よみがえる平安の祈り》はなかなか興味深かった.番組内容は,主に放送時間の前半に,昨年夏に行われた二十八部衆立像と風神像および雷神像の配置変更について紹介した.後半では,三十三間堂と後白河院のことについてであった.
 
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 三十三間堂諸仏の配置については,Wikipedia【三十三間堂】に次のように書かれている.
 
木造二十八部衆立像
国宝。寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天王が169.7センチ、最少の神母女(旧称・摩和羅女)が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙(ばすせん)像は28体の中でもよく知られている。
 
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 NHKの取材に対する寺院側の説明によると,二十八部衆は千手観音の眷属であるが,その中でも大弁功徳天と婆藪仙は千手観音の脇侍であり,特別な地位にあるのだそうである.ただしこれは三十三間堂側の現在の見解であり,他の寺院では,天部の中では別格の地位にある梵天と帝釈天を配する例もある.実際に昨夏までは三十三間堂でも梵天と帝釈天を脇侍に配置していたのだから,急に掌を返されたのでは,他寺の立場はどうなるんだということになる w
 
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 三十三間堂側の見解では,仏教美術で,千手観音の足元左右に女性と老人が描かれているものがあり,これが大弁功徳天と婆藪仙だという.
 それはそれでいいのだが,番組のナレーションが,大弁功徳天は《音楽や芸能を司り,財を授けてくれる女神として広く信仰される弁天様です 》と言ったので,私は驚いて安楽椅子からヘナヘナと崩れ落ちた.しかしこれはお間違いのコンコンチキなのだ.
 大弁功徳天は功徳天に同じ.功徳天は別名を吉祥天 (吉祥天女とも) といい,元々はヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Lakṣmī)が仏教に取り入れられたものである.
 一方の弁財天は大弁財天ともいい,吉祥天と同様にヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教に取り込まれた呼び名である.
 この二天は,字面が似ていることから混同されるが,起源が異なる別の女神である.これについてはWikipedia【吉祥天】に《早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった 》と書かれている.「弁才天と混同」というよりは弁才天が,美と財宝の女神であった吉祥天の性格を取り込んで変容したらしい.そのため弁才天は弁財天とも書かれるようになった.さらに弁才天は,出自不明の蛇神である宇賀神と習合し,頭上に翁面蛇体の宇賀神を載せた奇怪な異形の神となった.その代表格が近江の竹生島弁才天である.一方で吉祥天は美女の代名詞として尊ばれた.代表的な像は,奈良・浄瑠璃寺の吉祥天女像である.
 下の画像は三十三間堂の大弁功徳天像であるが,どう見ても弁才天には見えない.今の高齢者の趣味として「仏像鑑賞」が定着した感があるが,お寺巡りのベテラン爺婆に訊ねてみれば,皆がこれは吉祥天だと答えるだろう.
 しかも,蓮華王院三十三間堂の公式サイトに次のように明記されているのだ.
 
【大弁功徳天像】
通常、吉祥天と呼ばれる施福の女神で、二十八部衆の婆数仙と共に千手観音の脇侍として必ず登場する一尊。
 
『歴史秘話ヒストリア』は痩せても枯れても歴史番組なんだから,NHKの制作スタッフはもっと勉強してもらいたい.勉強といっても簡単なことだ.取材させてもらった僧侶に「大弁功徳天って何ですか?」と訊けばいいだけである.さすれば「吉祥天の別称で…」と教えてくれたであろう.そこまで知恵が回らなかったら,帰ってから三十三間堂の公式サイトを閲覧すればよい (というより,これは取材先に対する礼儀であるなあ).それすらやる気がないなら,せめてWikipediaを読んでくれ.頼むからNHKにお金を払っている視聴者に嘘を教えてくれるな.
 
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 上に掲げた大弁功徳天と婆藪仙の二尊が,元々どの位置にあったかを示したのが下の図である.下の段に並べられていた大弁功徳天と婆藪仙は千手観音座像の脇侍として上段に移動した.
 この図で,二十八部衆像の左右両端にあるのが風神像 (左) と雷神像 (右) である.この二像も今回の移動で大きく位置が変わった.左右の配置を入れ替え,左に雷神像,右に風神像としたのである.
 
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 下の画像は,言わずと知れた俵屋宗達の風神雷神図 (建仁寺蔵;京都国立博物館に寄託) だ.Wikipedia【風神雷神図】には次のようにある.
 
風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらした雷神の姿は、北野天神縁起絵巻(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図様からの転用であるが、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される。
 
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 この日の放送では《三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される》から一歩踏み込んで,宗達の風神雷神図は三十三間堂の風神像と雷神像を基にして描かれたとした.そして宗達の屏風絵では左に雷神,右に風神であることから,三十三間堂の両像は左右が入れ替わってしまっている,とした.ただし,この仮説の根拠についてナレーションは全く触れず,放送終了後にネットを探し回ったのだが,類似の説は見当たらなかった.仮にこの説が,ネット上に書かれている程の広く知られた説ではなく,高度の専門書に書かれていることであるならば,その説の提唱者が誰であるかを,番組は明らかにして放送すべきであった.それがない以上,これはNHKの「独自研究」としなければならないだろう.
 一方,風神像と雷神像の左右配置を入れ替えたことについての,三十三間堂側の説明は,この両像の「向き」が根拠であった.
 すなわち,昨夏以前の配置では,本尊千手観音座像と二十八部衆が構成する世界へ,風神と雷神が外部からやってきたという「向き」になっている.ところが風神像雷神像を入れ替えると,両像は本尊千手観音座像の足元から外部へ向かう形になる.つまり二十八部衆像と同一の世界観に組み入れられることになる.それ故に両像を入れ替えたという寺側の説明は,説得力があった.なるほど,と私は納得できたのである.従ってNHKは,俵屋宗達を持ち出す必要はなかったと思う. 
 
 さて,前半はボロボロだった番組の後半は,後白河院の千手観音信仰と,三十三間堂についてであった.Wikipedia【三十三間堂】から引用する.
 
この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、現在の三十三間堂である。上皇が眠る法住寺陵は三十三間堂の東隣にある。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 残念ながら,これだけでは蓮華王院三十三間堂の何たるかは全くわからない.そもそも三十三間堂の公式サイトにしてからが,創建に関して,わずかに下のことしか記していないのだ.
 
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行いました。三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
 
 たったこれだけである.それでは法住寺殿はどうか.現在も法住寺という寺はある.しかしこの寺は,後白河院と全くの無関係ではないものの,ややこしい沿革を持っている.その話の始まりは平安時代中期の公家である藤原為光である.
 為光は第六十五代花山天皇に娘の忯子を入内させ,宮中で重きを為した.しかし永祚元年 (989年) に妻と忯子が急死してしまう.そこで為光は妻と忯子の菩提を弔うために法住寺を建立した.寺域は,南北は八条から七条の北に及び,東西は東山の裾から現在の京都国立博物館あたりまでの広い土地を占めていたようだ.ところがこの寺は,残念ながら長元五年 (1032年) に焼失してしまった.
 この跡地に離宮を造営して住んだのが後白河院である.後白河院はここで院政を行った.この御所は,かつて法住寺があったところであることから法住寺殿と呼ばれはしたが,為光が建てた法住寺は焼けて廃寺になったのであるから,法住寺と法住寺殿の間に直接の関係はない.
 後白河院は
 それどころか後白河院は,新たにこの地に,長寛二年 (1164年) 十二月十七日,千体の観音堂・蓮華王院を造営し,千手観音の信仰を深くしたのであった.
 後白河院はその後の永暦元年 (1160年) に,御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請して新日吉社 (いまひえしゃ) とした.これについてはWikipedia【妙法院】の記述を下に引用する.
 
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。妙法院の門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。
 
 時代は遥かに下って豊臣秀吉の治世に,秀吉は自らの権勢を誇示すべく蓮華王院の北に方広寺と大仏殿を建立し,土塀を築いて新日吉社と三十三間堂を境内に取り込んだ.しかし豊臣家が滅ぶと,徳川幕府に積極的に協力した妙法院がこれらの寺院を支配した.近代になって方広寺と新日吉社は妙法院から独立したが,三十三間堂は現在も妙法院の所有である.余談だが,妙法院が徳川に与したというのは世を偽るためであり,実は豊臣家の再興を密かに図っていたとする説があり,調べていくと実におもしろいのであるが,そこを書いていくとキリがないので深入りしないが,Wikipedia【新日吉社】に僅かに記述があることを付記するに止める.
 ところで後白河院は没後,三十三間堂の東隣に祀られた.法住寺陵すなわち後白河天皇陵である.明治維新後,後白河天皇陵は宮内省の所管となったが,陵の域内にあった不動堂は大興徳院の寺号で独立した.宗派は天台宗であるが,浄土真宗ゆかりの仏像を所蔵している.
 昭和三十年に大興徳院は,藤原為光が建てた法住寺とも,後白河院が造営した法住寺殿とも無関係であるにも関わらず,法住寺に寺号を変えた.これについて「現在の法住寺」公式サイトには次のように,たった一行の説明がなされている.
 
昭和三十年、法住寺の名を止めるため大興徳院は法住寺と復称されることとなりました。
 
「法住寺の名を止めるため」は目的であって理由ではない.どのような理由で大興徳院の名を捨て,「法住寺の名を」復活させる必要があったのかは,示されていない.「法住寺」の方が何となく由緒正しい寺院のようだからか.(^^;)?
 
 以上,ネット上の資料を調べた限りでは,後白河院の生涯や三十三間堂の歴史についての資料はあるが,後白河院の千手観音信仰に関する資料は見つからなかった.大雑把に言えば「後白河院は三十三間堂を建てて千手観音を信仰した」と一言で言える程度のことしか書かれていなかったのである.もし資料があるとすればそれは,おそらく日本史研究者の論文レベルであり,私のような一般人には簡単には入手できないものだろうと思う.
 それでは歴史学的な見方から方向を変えて,後白河院の人物像の観点から,その信仰がどのようなものであったかを見てみよう.
 この日の放送では,二人の学者が後白河院について見解を述べられた.同志社大学名誉教授の竹居明男先生 (日本文化史) と元杉野服飾大学教授であり,梁塵秘抄の研究者である馬場光子先生 (日本歌謡文学) である.
 竹居先生は『年中行事絵巻』(平安後期の絵巻,六十余巻;後白河院の勅命で常盤光長らが宮中および民間の年中行事を描いたもの) を例に用いて,後白河院は庶民の暮らしに対する強い関心を持っていたと解説した.
 馬場先生は,梁塵秘抄に採録された今様の多くが庶民の生活を描いたものであったことから,やはり後白河院の庶民に対する強い関心を指摘した.その馬場先生の指摘の中で興味深かったのは,作者不詳とされている今様の一つを後白河院の作であるとしたことだ.
 その今様とは,梁塵秘抄の中で最も有名な下の歌である.
 
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそゆるがるれ

 この歌は,小西甚一著『梁塵秘抄考』(三省堂,昭和十六年) 以来,いくつかの異なる解釈が為されてきた.
 余談だが,昔から文章中でこの書物の著者を呼ぶ時は,小西甚一先生でも小西甚一教授でもなく,特別な尊敬を込めて小西甚一博士とされてきた.昭和四十年代に大学受験勉強に励んだ高齢者諸兄は,小西甚一博士の『古文研究法』をご記憶であろう.大学受験参考書でありながら,一般向け書籍としても読み継がれ,とうとう文庫化された.後にも先にも文庫に入った受験参考書はこの一冊だけである.
 閑話休題
 小西博士はこの歌の作者を遊女であるとした.「遊び」や「戯れ」は遊女の生業を指す.そして博士は「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みつからの沈淪に対しての身をゆるがす晦恨をうたったものであらう」と解釈した.私はこんなことをして生きるために生まれてきたのでしょうか.遊女は我が身の取り返しのつかない転落をそう嘆いたのである.
 私たちの世代の人間は,「遊びをせんとや生まれけむ…」を小西博士の解釈によって理解した.たぶんそれ以外の解釈は受験参考書にも註釈書にも書かれていなかったと思う.
 ところがいつの間にか,この今様は全く違う意味に解されるようになった.私がそれを知ったのはWikipedia【梁塵秘抄】を読んだときだから,Wikipedia発足以後のことで,そう古い話ではない.違う意味とは,この歌は童心を歌ったものだとする解釈のことである.
 すなわちこの歌謡をWikipedia【梁塵秘抄】は,
 
『梁塵秘抄』と言えば、
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
のような童心の歌が有名であり、…》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
と記述し,「童心の歌」だとしている.つまり「遊びをせんとや生まれけむ」を推量の意味に解している.この解釈の立場に立って私が現代語訳すれば次のようになる.
 
「きっと子供というものは遊び戯れるために生まれてくるのであろうよ.遊んでいる子供たちの声を聞くと,その子たちの声に釣られて私の体までがつい動いてしまう」
 
 ところが,もう十年以上前に亡くなったミュージシャンの桃山晴衣が残したCD『遊びをせんとや生まれけん 梁塵秘抄の世界』に付けられた解説によると,現代語訳は次のようである.
 
遊び戯れようとしてこの世に生まれて来たのだろうか。遊ぶ子どもの声を聞くと、自分の体までが自然に動き出すようだよ。
 
 この現代語訳は,いかにも中途半端である.これでは前半部が,子供が遊ぶことの意義に疑問を呈する形になっているが,後半部では一転して子供の遊びの楽しさを肯定している.どっちなんだと言いたくなる非論理的な訳文だ.高校生の試験答案ならこの程度の意味の通らぬ逐語訳でも構わぬが,こんな「現代語訳」の付いたCDを売って人様からお金を頂戴してはいけない.この今様を童心を詠んだ歌に解釈したいならば,「遊びをせんとや生まれけむ」を,はっきりと推量であることがわかるように訳さねばいけないのである.
 実はこの桃山晴衣の訳文と同工異曲の「現代語訳」を,同志社大学文学部の植木朝子教授が著書に載せている (『梁塵秘抄 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』,角川ソフィア文庫等々).この程度で中世歌謡の専門家を名乗れるのだからお気楽ではある.
 ついでに言うと,桃山晴衣はCDのタイトルを『…生まれけん』としているが,原文の「…生まれけむ」を書き換えた意図が皆目わからない.私はこのCDを持っていないが,Amazonのユーザーレビューにも否定的評価が一件あるけれど,その通りであり,梁塵秘抄に敬意を払って作った作品ではないと思う.
 
 さて仏文学者の鹿島茂氏が立ち上げた書評サイト“ALL REVIEWS”に,俵万智さんが書いた『梁塵秘抄』(筑摩書房) の書評が再録されている.(初出は『本をよむ日曜日』,河出書房新社)
 その中から一部を下に引用する.
 
遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声聞けば
 わが身さへこそゆるがるれ

 好きな歌はと聞かれれば、まず第一にこれである。『梁塵秘抄』の歌は、どれもしらっと冷めた感じと、きゅっとせつない感じが融けあっていて、そこに惹かれる。
「しらっ」と「きゅっ」が、一番深く胸に迫ってくるのが、この歌だ。
遊びをしようとこの世に生まれてきたのだろうか――という問いかけには、何のために生まれてきたのかわからない、という純粋な疑問と、いいやそうじゃないはずだ、という複雑な反語とが、微妙に混ざっている。
そして遊んでいる子供の声を聞くと、なおその思いが深く胸を去来する。追いかけっこをしたり、勝ち負けを争ったり、歌をうたったり……子供の遊んでいる姿を見ていると、人生とは結局この繰り返しなのではないか、と思われてくる。
――正確な解釈ではないかもしれないがこんなふうに私はこの歌を受けとめてきた。「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景を考えると、少し違うのかもしれないけれど。
 
 俵万智さん自ら《少し違うのかも知れないけれど 》と書いているように,この歌の解釈には難しいところがある.まず第一に「や」と「けむ」の係り結びを,推量とするか,疑問もしくは反語と解するかによって解釈が変わるのだが,俵万智さんは後者の,疑問と反語が混じった心境だとしている.次に,文法的な点だけなら,俵万智さんの解釈は小西甚一博士の見解と同じであるが,この歌を詠み歌ったのは誰かという観点によって,歌の解釈がまた異なってくるのである.
 俵万智さんは遠慮がちに《「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景をかんがえると、少し違うのかも知れないけれど》と書いているが,明らかにこれは,古くから小西甚一博士の解釈が行われてきたことを踏まえている.そしてしかし,小西解釈の遊女とは異なった作者像を,つまり近代知識人層に近い精神性の人物を,俵さんはこの歌から感じ取っているのだ.桃山晴衣や植木朝子教授あたりにはわからぬだろうが,これは歌人の感性というものだろう.
 そして俵万智さんとほぼ同じことを指摘したのが,番組に今様研究者として出演した馬場光子先生である.ただし馬場先生は,俵万智さんの解釈を一歩進めて,作者不詳とされる「遊びをせんとや生まれけむ…」の作者は後白河院その人であろうとした.
 馬場先生と歴史学者の竹居先生によれば,後白河院は庶民の暮らしぶりに強い関心を寄せて,御所を出て唐車の窓から市井の人々の暮らしを見て回ったと言う.その時,後白河院が見たものは何であったか.新興武士階級が争う戦乱の世の底辺で苦しむ庶民の姿であったと番組ナレーションは語った.それが後白河院を千手観音信仰に向かわせたのであると.
 飢えて死を待つ底辺の人々にとって,帝の政など何の意味もない.児戯に等しい.そんな現実を目の当たりにして後白河院は,自らが生まれてきた意味を自問するしかなかった.それが今様「遊びをせんとや生まれけむ…」であったというのが番組の語ったところである.
 観音は一切の衆生に救いの手を差し伸べる菩薩である.この国の庶民の信仰は観音信仰であった.すなわち後白河院が三十三間堂に千体仏を祀って祈ったのは,自分ではなく民草の救済に他ならない.そう考える馬場先生の意見に私は納得したのである.
 ちなみに,「遊びをせんとや生まれけむ…」は遊女の作ではなく,教養人であろうとの見解を述べている資料があるので下に一部を引用して紹介しておく.(了)
 
梨塵秘抄の歌一首とその作者推論
  鈴木一男(奈良教育大学名誉教授)
 
遊びをせんとや生まれけむ戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けばわが身さへこそゆるがるれ
 この歌について、小西甚一博士が『梁塵秘抄考』で「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みつからの沈論に対しての身をゆるがす晦恨をうたったものであらう」と述べられたが、今日の注釈書類では、無心に遊ぶ児童の天真瀾漫の声を聞いての感懐としている。
 筆者はこの歌の用語から歌の作者を仏典に親しんでいる階級層、僧侶またはそれに近い教養をもった知識人ではあるまいかと想像している。以下その根拠となる点を述べてみることにする。
(中略)
 筆者はこの点に注目して、この歌謡の作者は、仏典の「為」字をもつ疑問文の形式と同一発想の上でこの歌謡を作ったと推定したく思う。そうすると既述の「遊戯」の背景に仏典を予想することと相まって、いよいよ遊女の感慨を述べたとみる説を否定し、僧侶または、仏徒の誰かの作と認めたいような気がしてならないのである。

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