早春の思い出
会社員時代の友人と会って昼飲みをし,色んな昔話をした.「そんなこと,あったっけ?」という話題もあったが,二人ともよく覚えていた話もある.そのうちの一つはずっと以前,今は閉館して久しい個人サイト『江分利万作の生活と意見』の「雑事雑感」に記事 (2002年2月1日付) を書いた.三十年近く昔の話だが,別稿で早春のザゼンソウの話を書いている最中でもあり,懐かしい文章なので再掲する.
--------------------------------------------------------------
取り立ててどうということもない出来事なのに,いつまでも覚えている事ってあるものだ.
もう随分と前の冬のこと.僕は同僚と二人で出張し,上越新幹線を新潟で乗り換え,午後も遅くになった頃,日本海に面した雪国のとある駅で下車した.
その時の出張の目的は,この駅からタクシーで30分ほどのところにある顧客の工場で,うちの会社の製品を使用した新製品の試作を指導する事だった.仕事は翌日の朝からの予定であったが,真冬のことで不測の交通事情が発生しないとも限らないから前泊することにし,その日の夜はフリーなのだった.
その駅のある町は一応○○市という名であるが○○郡○○町でもおかしくはない,というかその方が相応しいような田舎町だった.
出張先の工場の人から,その町を真冬に訪れる人間は滅多にいないから特に宿泊の予約をしなくても大丈夫と聞いていたが,駅を出てその駅周辺でたった一軒の旅館に電話で問い合わせてみると,はたしてその通りだった.
僕達は部屋に案内されてとりあえず荷物を置き,相談の結果,外へ酒を飲みに行くことにした.なにしろ新潟で,米処で,日本海の魚で地酒なのだというわけだった.
お茶を運んできてくれたおばさんに夕食は要らない旨を告げて外に出てみるともう薄暗くなっていた.
その年は暖冬で,駅の周辺にはそれほど雪が積もってはおらず,普通の靴でも歩くのに不自由はなかった.年が明けてから少しずつ陽の落ちるのが遅くなってはいたが,それでも雪国という先入観のせいか,何となくまだ冬の底にあるような日の暮れかただった.
駅前をぶらついてみると,蕎麦屋の他には焼き鳥屋らしき赤提灯が一軒あるだけのようであったので,僕達はその焼き鳥屋の引き戸を開けた.客は僕達だけだった.
椅子に腰をかけ,壁に貼ってある品書きを眺めて見ると,焼き鳥と肉ジャガと,つまりはそういう感じの普通の飲み屋であった.店のおやじに酒は何があるのか訊ねると伏見の酒の名が返ってきた.
地酒は置いていないとのことであったが,地元の酒を有り難がるのは旅行者だけかも知れないなあと思った.
僕達はレバやらタン塩やらを食ってから早々にその店を出ることにし,おやじに近所にスナックみたいな店はあるかと聞いてみると一軒だけあるという.その店の名と場所を聞き,ごちそうさん,と礼を言って外にでた.
教えてもらった方向に少し歩いていくと,突然家並みが途切れて町はずれになってしまった.あれれ,と思ったが,よく見るともう少し先の雪だらけの田んぼの中にポツンと看板らしき灯りがある.
あれだあれだ,と僕達は雪をキシキシと踏んで歩いていった.
店の扉を開けて中に入ると,その店は五人掛けのカウンターだけの作りで窓はなく,壁際で石油ファンヒーターが盛大に燃えていて暑いくらいだった.
女性一人でやっている店のようだったが,歳の頃は四十くらいと思われるママと思しきその女性が,何だかびっくりしたような顔で僕達を見て,いらっしゃいませと言った.彼女は,袖がシースルーでグリーンのワンピースを着ていた.冬でも強力暖房だからそれで良いという方針のように思われた.
型どおりとりあえずビールを頼み,おしぼりで手を拭いているとその女性が「……(お客さん達は東京の人であるか?)」と言った.
二人とも東京都民ではないが,口を揃えてそうだそうだと答えた.
(この「……」は土地の言葉なのであるが,正確に書けないのでカッコ内にいわゆる共通語にしたものを書く)
他に客もいないので黙って飲むわけにもいかず,色々と会話をしてみたところ,彼女の名前はユミという名らしかった.僕が彼女に,若いのに一人でお店をやってるなんて大変ですねと言うと,三十二歳だからもう若くはない,と推定年齢四十歳のユミさんは言った.
三人の会話がうち解けてきた頃,僕達が店に入ってきた時に驚いたような顔をしたわけを聞いてみた.
ユミ「……(お客さん達はいわゆるサラリーマンであるか)」
我々「そうです」
ユミ「……(この店の客でサラリーマンは初めてである)」
我々「はあ?」
ユミ「……(この町にサラリーマンはいないのだ)」
何だかすごいところに来てしまったようであったが,瓶ビールを二本あけて,次は水割りに変えることにした.ボトルキープの値段を訊ねると格安なので国産ウイスキーを一本出してもらった.
彼女と話をしていてナルホドと思ったのは,ここらの土地の人達の気持ちとしては上越の山のある方向が「前」で,日本海は背中側なのだという事だった.ユミさんはこの土地の生まれ育ちで,東京には数えるほどしか行ったことがないという.東京は雪がなくっていい所だろうね,とも言った.
僕達はボトルを半分以上あけて,カラオケで『北国の春』なんかを歌い,それからお勘定をしてもらった.とうとう最後まで次の客は来なかった.ユミさんはカウンターの外に出て,扉を開けて僕達を見送りながら言った.春はまだ先の話だけど,春になったらまた来てね,ボトルはとっておくから.
二月はまだ冬だけれど,早春の気配がしないでもない.あれから何度も何度も二月が来て,またもうすぐに春がやってくるけれど,あの時のボトルがまだユミさんのお店のボトル棚の隅においてあるような気がする.
--------------------------------------------------------------
上の記事を書いたのは2002年だが,同僚と新潟の寂れた町へ出張したのはそれよりまた十年ほど前だった.
これを読み直して思うのは,もうこの頃から私は,こんな文体で書いていたのだなあということだ.そしてあと十年くらいは,こんな文体で記事を書けたらいいなあと思う.(了)
| 固定リンク
「私が昔書いたこと」カテゴリの記事
- 焼きネギ味噌 (補遺)「高円寺駅南口青春譜」(2021.06.29)
- 焼きネギ味噌 (二) 「啄木亭篇」(2021.06.27)
- 真・眠れる森の美女(2019.08.15)
- 早春の思い出(2019.05.24)
- ザゼンソウ (三)(2019.04.23)
コメント