« クラシック・レイディオ (一) | トップページ | 本件、隠蔽せよ (二) »

2019年5月 9日 (木)

ザゼンソウ (七)

 前回の記事に「ザゼンソウは積雪を融かして開花する」という珍説が広まっていることを紹介した.数少ないが各地の群生地に関する公式サイトにそう書かれているし,ヨタ話を疑うことを知らぬブロガーが自分のブログに引用してこの説を拡散している.
 そんなことを書いているサイトが例に挙げているのは,積雪がほんの少ししかないザゼンソウ群生地の話だ.たかだか五センチとか十センチメートルの積雪であれば,開花期を迎えたザゼンソウの苞は積もった雪を割って顔を覗かせるだろう.そうすればしめたもので,あとは暗色のザゼンソウの苞が太陽光の熱エネルギーを吸収して,周囲の雪を融かすのである.これはザゼンソウ以外にも,冬の終わりに姿を見せる植物一般にも観察される現象だ.ザゼンソウの苞が発熱して雪を融かすわけではない.
 この小稿の目的は,なぜ尾瀬にはザゼンソウが,近縁のミズバショウほどには群生せず,むしろ尾瀬ではレアな植物であるかについて述べることなのだが,その前にザゼンソウの変わった性質について,もう少し考察してみよう.
 ザゼンソウの特徴は,Wikipedia【ザゼンソウ】によると以下の通りである.
 
ザゼンソウの発熱細胞には豊富にミトコンドリアが含まれていることが明らかになっている。しかしながら、発熱の詳細な分子メカニズムは、現在のところ分かっていない。動物における発熱には、「脱共役タンパク質」(だつきょうやくたんぱくしつ)が関わっていることが突き止められているが、このタンパク質は、発熱しない植物にも幅広く存在しており、ザゼンソウの発熱に関与しているかは不明である。
 
一つの肉穂花序には約100個の小花(両性花)がある。個々の小花は雌性先熟の開花システムを持ち、雌性期(雌蕊のみが成熟して露出した期間)と短い両性期(雌蕊と雄蕊が同時に露出する期間)を経て、雄性期(雄蕊のみが露出した期間)の順で性表現を変える。花序での発熱は雌性期と両性期で顕著であり、雄性期に至ると急速に発熱は低下する。この植物は自家不和合であり、昆虫などによる送粉(花粉の運搬)を必要とする。しかしながら気温の低い時期に開花するため、訪花昆虫の活動は低調であり、そのため種子の結実率は低い。
多くの種子は野ネズミによって食害されるが、一部は野ネズミの貯食行為によって運ばれる。種子はそれによって散布され、被食を逃れて発芽することが出来る。
 
 まず,最初の引用箇所について.実はザゼンソウが雪を融かすというヨタ話の出処は,日本人研究者なのである.その研究者は,岩手大学農学部付属寒冷バイオフロンティア研究センター研究員 (2010年当時;現在は宮崎大学農学部植物生産環境科学科・准教授) の稲葉靖子氏である.氏の研究テーマは観葉植物の開花結実における熱産生機構で,その概要は宮崎大学のサイトに紹介されている.小生浅学ながら氏の研究の凡そを拝読するに,氏の主たる研究課題はザゼンソウを材料に用いて植物細胞の熱産生機構を解明することである.すなわち氏は,ザゼンソウのミトコンドリアに存在する二つのタンパク質 (シアン耐性呼吸酵素と脱共役タンパク質) の働きが,ザゼンソウ花序の発熱に関して重要なタンパク質であるとして,その働きを分子生物学的に明らかにしようとしている.
 それは貴重な研究であることは間違いないと考えるが,しかし,発熱するザゼンソウの花序が実際に雪を融かすほどの熱を産生するのかという“高校の部活レベルの物理実験結果”(ザゼンソウ花序の比熱を測定したりすることは稲葉氏の全くの専門外もいいところであるし,氏はそんなことに関心はないだろう) を,氏の論文の中に私は見つけることができていない.しかるに氏の研究研究結果を報じた朝日新聞DIGITALの記事《ザゼンソウ咲く 雪解けの岩手・北上「ざぜん草の里」》(2010年3月19日掲載) には次のように書かれている.
 
ザゼンソウについては昨年、岩手大学農学部付属寒冷バイオフロンティア研究センター研究員の稲葉靖子さんらのグループが、雪を溶かして花を咲かせるザゼンソウの発熱はミトコンドリアが影響していることを世界で初めて解明した。》(文字の着色はこのブログの筆者が行った)
 
 稲葉氏の論文には書かれていないこと (上の引用中の赤字の箇所) を,なぜか新聞が報道している.想像するにこれは,取材にきた新聞記者へのリップサービスだったのではないか.例えばこんな遣り取りだ.
「ザゼンソウの花は雪を融かすってことですか?」
「その可能性はありますね」
 
 この朝日の記事に先行する地方紙の記事があったかも知れないが,岩手県の地方紙,例えば河北新報などには見当たらなかった.朝日の記事が初出のように思えるが,それはそれとして「ザゼンソウは雪を融かす」という妄説は,新聞記事であった可能性がある.それがいつの間にか,各地のザゼンソウ群生地の公式サイトや Wikipedia【ザゼンソウ】に無批判に引用され,
 
そのため周囲の氷雪を溶かし、いち早く顔を出すことで、この時期には数の少ない昆虫を独占し、受粉の確率を上げている。開花後に大型の葉を成長させる》(文字の着色はこのブログの筆者が行った)
 
などと記述 (例によって例の如く,記述に不可欠な根拠文献を示さないのが Wikipedia の流儀であるが,いくら何でも新聞記事が根拠では恥ずかしくてできないだろう) されて事実としてまかり通ることになってしまったのだろう.あほらしくて詳しく書く気にはなれぬが,植物でも動物でも,熱を産生するのは,細胞内の酵素反応が至適条件以下になることを防ぐためである.いや「防ぐため」というのは言葉のアヤで,そういう能力を獲得した生物が繁殖に有利であったという意味である.ザゼンソウでいえば,開花期の初期 (雌性期と両性期) に体温を外気温よりも高く保たねばならぬ切実な理由があり,そのため,花序の発熱機構を獲得したザゼンソウが今日まで生き延びたのである.強調するが,ザゼンソウは雪を融かすために花序が発熱するのではない.花序の雌性期に細胞の活動を担保するために発熱細胞を発達させたのである.
 
 ちなみに私たち哺乳類など恒温動物の筋肉や内臓の細胞は常に発熱を続けて,高い体温を保っている.これに対して,爬虫類などの変温動物は太陽熱の吸収や気温の上昇に応じて体温が変化する.進化論的にいうと,変温動物から次第に恒温動物へと進化してきた.「次第に」という意味は,全くの変温動物と全くの恒温動物の間に,中間的な動物がいるからである.動物の体温調節方法は多様であるため,大雑把な話をする時以外は,現在は変温動物と恒温動物という語による分類は用いられない.詳しくは Wikipedia【恒温動物】を参照して頂きたいが,この小稿は大雑把な話なので,変温性動物と恒温性動物という語を用いる.
 さて,かつて動物界は変温性な生き物で満ちていた.その中では,強い者が弱い者を捕えて食うという力関係が支配していた.弱い者を捕食する側は,太陽光や外気によって体が温められて活動的な時に,好きなように弱い者を捕えて食っていればよかった.だがこれでは,捕食される側はたまったものではない.この捕食される側の動物の中に,細胞の有酸素呼吸能力が高く,動物個体としては有酸素運動能力 (スピードと持久力)が向上した変異が出現した.そしてこの変異に対して,自然選択は有利に作用した.捕食者から逃げることが可能となったのである.このような自然選択によって上昇した最大代謝率 (有酸素能) が基礎代謝率を引き上げ,体温維持の熱生産を発達させた.体内の熱生産によって高い体温を恒常的に維持する動物への進化に関するこの仮説は,1979年にカリフォルニア大学のベネット博士とオレゴン大学のルーベン博士によって提唱されたもので,信憑性が高いとして受け入れられた.(細胞の呼吸については Wikipedia【呼吸】を参照)
「体温維持の熱生産」とはどういうことか.私たちは外界から食物を取り込んで消化するが,高分子 (例えばデンプンやタンパク質) から成るその食物を低分子化合物 (例えば糖やアミノ酸) に分解する過程で生じるエネルギーを用いて,ATP (アデノシン三リン酸) を作る.このATPが筋収縮に必要なエネルギーを供給している.それだけでなく,ATPは生命活動の基本物質である.簡単なまとめを Wikipedia【アデノシン三リン酸】から下に引用する.
 
ATPの役割
ATPはエネルギーを要する生物体の反応素過程には必ず使用されている。ATPは哺乳類の骨格筋100 gあたり0.4 g程度存在する。反応・役割については以下のものがある。
解糖系 - グルコースのリン酸化など
筋収縮 - アクチン・ミオシンの収縮
能動輸送 - イオンポンプなど
生合成 - 糖新生、還元的クエン酸回路など
発光タンパク質 - ルシフェラーゼなど
発電 - 電気ウナギに見られる筋肉性発電装置
発熱 - 反応の余剰エネルギーなど
 
 摂り入れた食物から発生したエネルギーがすべてATPの合成に用いられたとする (これを「共役」という) と,この反応場で熱は産生しない.ところが摂取したエネルギーを無制御にATP化していると,細胞内にフリーラジカルが発生することがわかっている.そこで登場するのが脱共役タンパク質である.脱共役タンパク質は,ATP合成を必要としない時には,ATP合成の効率を落とす (脱共役) 役割を持っている.そうすることで,フリーラジカルが細胞を傷害するのを防ぐのだという説がある.これはケンブリッジ大学のブランド博士が指摘した説である.一方,ATP合成に使われなかったエネルギーは,熱として放散される.フリーラジカル発生の抑制と,運動能力の向上と,どちらが脱共役タンパク質の本質的な役割であるかは,小生には全くわからないので,動物細胞の呼吸と熱産生の話はここまでとする.

|

« クラシック・レイディオ (一) | トップページ | 本件、隠蔽せよ (二) »

新・雑事雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« クラシック・レイディオ (一) | トップページ | 本件、隠蔽せよ (二) »