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2019年4月19日 (金)

ザゼンソウ (二)

 私と同級の友人たち四人は,前橋市のすぐ近くにあり,ハイキングに好適な赤城山 (最高峰は黒檜山で,標高1,828 m) や榛名山 (最高峰は掃部ヶ岳の標高1,449m) には登ったことがあるが,それ以上の山の経験はなかった.そこで本屋で山関係の本を立ち読みして知識を得たが,とにかく靴は買わないといけないということがわかった.
 登山靴といっても本格的なものはとても子供の買えるものではなかった時代だったが,しかし尾瀬程度であれば布製のキャラバンシューズ (商品名) で何とかイケるらしかった.
 余談だが,当時の国産既製品の軽登山靴はキャラバンシューズの他になかったと思う.そのため軽登山靴をキャラバンシューズと呼んでいた.今なら普通名詞の「トレッキングシューズ」と呼ぶのが普通だ.
 また,長蔵小屋の建屋のほうに宿泊するのは,消灯時間が決まっているし,色々と守らねばいけないマナーがあるから,長蔵小屋の近くに設置されているバンガローを借りようと話がまとまった.そうなると自炊だから飯盒が必要で,これは各自一つを用意した.飯を炊くだけでなく汁もこれで作ろうということだ.A君のおやじさんは戦争中は陸軍で,復員した時の全財産だった飯盒を大切にとってあるというので,彼は由緒正しい旧日本陸軍の兵式飯盒を持ってきた.
 ちなみに,「兵式」飯盒と呼ぶのは,将校用飯盒と形が違うからである.兵式の方は,昭和の暮らしについて展示をしている施設,例えば江戸東京博物館で見たことがある.今もあるかどうかは知らない.現在のアウトドア用品の飯盒 (普通はアーミーグリーンに塗装されている) と異なり,無塗装のアルミだった.
 さらにちなみに,私の父親が復員の時に持っていた全財産は,海軍の「毛布」だった.これは,毛布とは名ばかりの品で,ゴワゴワと固く,今なら床の敷物にもならぬものだった.ほとんどドンゴロス (ほぼ死語) であった.しかし到底実用にならぬこの「毛布」は,かなりのちまで押し入れの奥にしまってあった.彼の青春の記念品だったのであろう.こんまり先生は「ときめく物は捨ててはいけません」と言う.陸軍兵式飯盒も海軍のドンゴロス的毛布も,兵役世代の男たちにとって,失われた自分の青春と,逝きて還らぬ戦友たちの思い出に繋がる切なく「ときめく物」であったのに違いない.
 山靴と飯炊きの道具があれば,一人前のキャンパーだ.私たちは某日朝,前橋駅に集合し,国鉄上越線で沼田へ出発した.
 沼田駅からは群馬県北端に位置する利根郡の片品村方面へ路線バスが出ている.片品村は同郡水上村 (当時) の東にあり,北で福島県会津郡桧枝岐村に接する.
 昭和三十年代の当時でも,既に尾瀬の観光地化が始まっており,東京からは大清水への夜行直通バスがあったかと思うが,よく覚えていない.
 沼田駅から一時間半ほどで終着のバス停「大清水」に着き,私たちは尾瀬沼へと歩き始めた.マップはここ
 大清水からは三平峠を目指すが途中の一ノ瀬という所に休憩所がある.それを過ぎて三平峠に到り,下って尾瀬沼に到着した.登坂道もさして険しくなく,尾瀬というところは,夏季はハイキングコースなんだなー,と山初心者の私たちは安堵した.ここで「夏季は」というのが重要な点で,冬季は様相が一変するのである.(後述)
 さて長蔵小屋に到着した私たちは,まずは二代目の長英さんと三代目の長靖さんに挨拶に伺った.長靖さんは「よく来たね」と歓待してれて,イワナだろうか,甘露煮にした魚とお茶を御馳走してくれた.私たちは甘露煮をおかずにして,家から持ってきた握り飯を食べた.
 その日の午後,たぶん山と渓谷社の書籍だったろうと思うが,尾瀬と尾瀬の植物について,カラー図版が多く掲載されている本を片手に,私たちは尾瀬沼近くの湿原を歩き回った.
 今の長蔵小屋の公式サイトを閲覧すると,バンガローのことは掲載されていない.いつ廃止になったのだろう.バンガローというとしゃれた感じだが,私たちが宿泊した当時,既に半分朽ちたようなものだった.壁は板を打ち付けただけの作りで,隙間だらけの大きな犬小屋のような見栄えだった.
 翌日は飯盒で炊いた朝飯のあと,燧ケ岳に登り,それから尾瀬ヶ原の下田代十字路にある第二長蔵小屋に泊まった.翌日は延々と続く木道を辿って,尾瀬ヶ原を縦断した.私たちはその間,ずっと無言だった.ニッコウキスゲの大群落に圧倒されて声もなかったからである.
 こうして初めての尾瀬は,ニッコウキスゲに始まってニッコウキスゲに終わった.というのは,夏季の尾瀬では,その他の植物は群落を作るものではない (かつてはアヤメ平という湿原にアヤメの群落があったとガイドブックには書かれていたが,私たちが尾瀬を訪れた時代には,見る影もなくなっていた.登山者が足を踏み入れたせいだとのことだった) からである.しかもそれらは,開花期が夏だとしても,可憐と表現すべきなほど小さな草々なのだ.木道から何メートルも離れた池塘に咲いているそれらを,肉眼で見つけるのはかなり困難である.尾瀬の植物を観察するためには,少なくとも双眼鏡か望遠レンズ付きのカメラが要る.もちろん当時の少年たちがそんな道具を持っているはずはなく,そもそもカメラすらない家庭の子供だから,運よく木道のすぐ近くに在るのを見つけたら,目を皿のようにして思い出という印画紙に焼き付けたのであった.
 さあそれから,四人組は尾瀬のファンになった.翌年はミズバショウの最盛期の六月に行った.秋の風が吹き渡る八月にも行った.さらにその翌年は,五月初旬の,ようやく雪解け水が湿原を覆う頃に三平峠を越えて尾瀬に入った.この頃には小遣いを貯めて軽く防水処理を施した登山パンツを手に入れていたからである.買ったばかりの,いかにもハイカーっぽい帽子を頭に載せて,晴天の日の三平峠に立って下を見た私たちは驚いた.眼下は雪に埋もれて道がなかったからである.
 そこからは悪戦苦闘だった.一歩歩くと,場所によっては脚は腿まで雪に埋まってしまう.長蔵小屋までどれくらい時間がかかったか,もう忘れてしまったが,雪中行軍をしたのは,これが最初で最後の経験である.
 しかし,そんな苦労は,尾瀬沼周辺のキラキラと輝く風景を見て吹き飛んだ.沼へと下る道は雪に埋もれていたが,しかし尾瀬沼には確かに春の気配があったのである.
[ザゼンソウ (三) へ続く]
 

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