ザゼンソウ (四)
前稿に少し補足しておく.
昭和四十六年七月,第三次佐藤内閣改造内閣において環境庁長官として初入閣した大石武一は,仙台市に生まれ,東北帝国大学医学部出身の医師であった.この改造内閣で通産大臣だったのが,田中角栄である.近年,なぜか石原慎太郎を始めとする者たちが田中角栄を天才的政治家として称賛し,今や角栄は復権を成し遂げたかに見えるが,田中角栄こそは経済成長を旗印にして拝金主義を日本に蔓延させ,日本人の品性を地に堕としめた男である.
尾瀬の開発計画は,日光,尾瀬,奥鬼怒の三地域が日光国立公園指定されたのち,昭和十五年に始まった.日本の自然公園法は,近年ようやく生物の多様性確保が法の目的として明示されたが,そもそもは自然の快適で適正な利用を推進すること,すなわち観光地開発が法の目的であった.日光国立公園では,それまでの沼田・会津街道を県道沼田・田島線 (JR上越線沼田駅と会津線会津田島駅を結ぶ道路) として車道化することが計画されたのである.この道路計画は昭和二十四年に主要地方道に格上げされた.そして片品村から尾瀬方面への路線バスの終点である大清水から県道改修工事が始まったのが昭和四十一年であった.東京電力による尾瀬のダム化計画と,尾瀬の観光地化道路計画の二方面から,尾瀬の自然は脅威に晒されていたのである.
続いて翌年,道路計画は変更された.それまでは尾瀬沼を避けて東側を通る道路計画であったが,これが西側に寄り,さらに観光地化推進のために,大清水の北にある三平峠まで車道とする決定がなされた.そして古くからの山道の森は伐採されていった.
既にこの頃,鳩待峠には車道が通じ,観光客が容易に尾瀬に入れるようになっていた.彼らに踏み荒らされたアヤメ平は見る影もなく荒廃した.残された三平峠の自然破壊に危機感を抱いた平野長靖さんは,環境庁長官に就任したばかりの大石武一を自宅に訪ねた.大石長官は長靖さんの直訴を聴いて,道路計画の変更に動き,閣議で田中角栄らの率いる各大臣から孤立するも頑として譲らず,尾瀬の観光地化を目的とする開発計画を阻止した.
これに怒ったのが,尾瀬の表玄関たる群馬県片品村の村民たちであった.尾瀬が一大観光地と化すれば,片品村に及ぼす経済効果は計り知れない.驚くなかれ実に片品村村民有権者の九割以上が道路工事の促進陳情書に署名し,群馬県議会に提出したのである.
悲しいかな人間は,自然保護の理想と目の前にぶら下がった現金のどちらを選ぶかと言われれば,九割がカネを選ぶのである.人間は,という言い方が大袈裟だと言われれば,少なくとも群馬県片品村の村民は,子々孫々に遺すべき掛け替えのない自然よりも,自分の財布を温めるカネを選ぶ人々であったと答えるしかない.
こうして片品村村民は平野長靖さんを,村の利益を損ねたとして敵視した.孤立した長靖さんは,広く国民に訴えるために各地で開かれる自然保護集会に出席するようになった.しかし片品村村民との衝突を回避するために,明るい時間帯を避けて,夜になってから三平峠を越えるという危険を冒して行動した.
長靖さんが遭難したこの年の冬の日のことを,後藤允『尾瀬をまもる人びと 長蔵小屋の三代』(大日本図書,1995年) から以下に引用する.(著者は長靖さんの高校時代の友人である)
《この年、尾瀬は雪が深かった。
十二月一日朝、小屋の冬支度をすませて、またとんぼ返りのように東京で予定されていた集会に出るために従業員と二人で出発した。積もっていく雪はやまなかった。夏道なら一時間ほどの行程の三平峠の上に立ったときは、もう夕方の五時近くになっていた。峠で下山中の二人のパーティーと合流して、あの「尾瀬を守れ」という運動のきっかけとなった岩清水にたどり着いたのが午後七時、かすかに雪の白さが見えるだけの濃い闇が広がっていた。
雪はやんだが、気温は急激に下がっていった。長靖は疲労と寒さで動けなくなった。ついに一之瀬の休憩所の手前で力尽きた。かわいい三人の子どものこと、家族との楽しかったことを語り、「生涯に悔いはなかった」というのが最期の言葉だった。
…(中略)…
この日は、生まれたばかりの長靖が三十六年前、吹雪の中、母に負われて初めて尾瀬にはいった日であった。》
以上の補足は,ウェブ上の資料と『尾瀬をまもる人びと 長蔵小屋の三代』をまとめたものである.
さて補足が長くなった.次回はザゼンソウのことに戻る.
[ザゼンソウ (五) へ続く]
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