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2019年4月

2019年4月29日 (月)

ザゼンソウ (六)

 前稿の末尾を再掲する.
 
思考実験をしてみよう.まず一つ.例えば私が非常に高品質の冬季用寝袋にくるまったまま雪の中に埋めてもらう.私は凍えずに,体温は平熱に保たれるとしても,寝袋の外の雪は融けない.これと同じで,ザゼンソウの発熱する花序は,苞によって氷雪と直接的に接触していない.だからこそ,花序の細胞は凍結せずに生きているのである.もう一つ考えてみよう.掌を雪の中に埋める.掌には体の筋肉や内臓で産生した熱が血流を介して掌に送り込まれる.しかし長時間後,掌は雪を融かすどころか体温を維持できなくなる.これは思考実験ではなく実際にやってみればすぐわかる.ましてや,ザゼンソウの小さな肉穂花序は,私たちの大きな体が産生する熱量よりもずっと小さな,それ自体を25℃に維持できる程度のわずかな熱しか産生しないのであるから,これが積雪を融かせるものかどうか,考えてみるまでもない.
 
 ところが,この「ザゼンソウは雪を融かす」という非科学的妄説が,そこら辺のブログではなくパブリックなサイトにもはびこっている.0℃の氷 (雪) を融かして0℃の水にするのに必要な熱量 (融解熱) は極めて大きい.焼け火箸を雪に挿せば,わずかに雪は融けるが,たちまち火箸は冷えてしまうであろう.積雪を融解できるほどの熱を産生する,アメコミヒーローのような植物があるもんか.そんな植物が存在した瞬間,その植物の細胞自体が焼けて破壊されてしまうだろう.このような直観的理解のできない人は,誰かの書いた嘘を検証することができない.例えば Wikipedia【竹森のザゼンソウ群】を見てみよう.そこにこうある.
 
竹森のザゼンソウ群生地は東方の柳沢峠方面から伸びた尾根北側斜面の植林された杉の茂る日当たりの悪い沢の底部にあり、直射日光がほとんど当たらない場所であることから、甲府盆地の他の場所では溶けてしまう雪がここでは根雪となり、自ら発する熱で周囲の雪を溶かし開花するザゼンソウの生育条件に適した状態を維持し続けているものと考えられている。
 
 そして次の写真がその根拠として添えられている.写真画像のソースではなく,Wikipedia【竹森のザゼンソウ群】の記述であることを示すために,ブラウザに表示された当該箇所のハードコピーを掲げる.
20190508
 上の左端の画像に写っている説明文を以下に引用する.
 
竹森のザゼンソウ
ザゼンソウはサトイモ科 (ザゼンソウ属)の多年草で山中の湿地帯に自生します。竹森の群生は本州の南限地とされており、山梨県の自然記念物に指定されています。
 名の由来は、仏炎苞という覆いの中に小さい花が密集して咲 姿 (原文のママ) が僧が座禅をしているように見えることからです。また、幸福をよぶ縁起のよい花といわれています。
 開花するときに発熱し、自ら周囲の積雪を解かすため、早春にいち早く見ることができます。
 甲州市》(下線は当ブログの筆者が付した)
 この「現地説明板」の右に並んでいる画像のキャプションは《積雪が残る群生地》《雪を溶かし開花する》《小さなせせらぎとなる》となっている.この説明の流れでは,積雪が根雪となって残るザゼンソウ群生地のそこかしこにザゼンソウの苞が顔を出し,そのザゼンソウが雪を融かし,遂に根雪は融けて小さなせせらぎとなった,と読める.あたかも竹森の雪解けはザゼンソウの発熱によって行われると言いたいようだ.
 愚かなことを書くものである.上の画像の如き十センチメートルにも満たないわずかな積雪の下ならば,春の植物が芽吹いた周辺では雪が融けるのは普通のことだ.例えば,早春のフキノトウの画像検索結果を見るがいい.竹森のザゼンソウと同じ理屈を用いれば,フキノトウも発熱していることになる.野原の,その他の越冬植物の場合も,少しくらいの雪が降ってもその周辺の雪から先に融けていく.これは,それらの植物が発熱しているからではない.植物が太陽光を吸収して温められ,その結果,周囲の雪が融けていくのである.すなわち,ザゼンソウの花序に発熱細胞が存在するのが事実であるとしても,その発熱で雪解けするとは牽強付会もいいところである.
[ザゼンソウ (七) へ続く]

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2019年4月27日 (土)

善管注意義務みたいな責任

 先日,外出から戻ったときに門扉のところにキイロスズメバチと思しきハチが飛行していた.三年前にはアシナガバチの巣を軒先に作られ,業者に頼んで駆除してもらったことがある.まずいなーと思った.
 そして昨日,ブロック塀に備え付けの郵便受の扉を開けたら,ハチが一匹ブーンと出てきた.慌てて逃げたのでよく観察してはいないが,キイロスズメバチだ.郵便受の中に営巣を始めたと思われる.
 アシナガバチを駆除してもらった時,業者が「常備したほうがいいですよ」と推薦したハチ駆除用の薬剤があり,これを買ってあった.

 へっぴり腰でそのスプレー式殺ハチ剤を,郵便受の投入口の隙間から,これでもかというほど噴射した.数分後,今度は反対側の扉を開けたら,一匹がひっくり返ってジタバタしていた.そこでさらに,そいつに目掛けて,郵便受の中がビショビショになるくらい噴射した.
 暫くしてから,郵便受の扉を開けた.ハチの死骸をよく観察しようと思ったのである.
 ところが,死んだはずのハチがいないではないか.驚いて殺ハチ剤スプレーの使用説明を読んだら「スズメバチ用ではありません」と書いてある.あやつは薬剤に濡れた状態でも,逃げきったのだ.おいおい.
 そこで Amazon で検索してみると,たしかにアースやキンチョーなど各社が,スズメバチ用の殺ハチ剤を,その他のハチ用とは別の製品として販売している.知らなかった.
 このスズメバチ用の薬剤の効果に持続性があるのか,わからないので,暫く定期的に噴射してみようと思う.
 
 ところで,ふと考えたのは,例の「ポスティング」という迷惑行為だ.ひとのうちの郵便受に紙ゴミを放り込んでいく怪しからぬ業者である.実際には,礼儀というものを知らぬ主婦あたりが,はした金でポスティング業者に雇われてアルバイトしているのだろうが.
 で,このポスティング主婦が,私の家の郵便受に広告チラシを差し込んだとき,攻撃されたと思ったズメバチが飛び出してきて,そいつを刺したとする.
 この場合,私に法的責任は生じるのであろうか.住宅の持ち主は,郵便受の中にハチが営巣せぬよう,管理しなければいけないのだろうか.よくわからない.困った.

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2019年4月25日 (木)

ザゼンソウ (五)

 ザゼンソウは,サトイモ科ザゼンソウ属の多年草である.同じサトイモ科のミズバショウが尾瀬沼から尾瀬ヶ原に到る一帯に大群落を成し,その白く可憐な印象もあって尾瀬を代表する植物とされているのに対し,ザゼンソウの暗赤色の苞は湿原の中では地味で目立たないため,見つけにくいという.
 ここでこのブログ読者には不必要かも知れない註を以下に.苞 (ほう) とは蕾を包むように葉が変形した部分をいう.この苞の中に包まれているのが花の部分で,難読だが,肉穂花序 (にくすいかじょ) という.で,肉穂花序とは,
 
花序の一種。中軸が肥厚して多肉質となり、その周囲に柄のない多数の花が密生しているもの。穂状花序の特殊化したもの。テンナンショウ、ミズバショウ、パイナップル、トウモロコシなどがその例 》(引用元;精選版日本国語大辞典)
 
 さらに穂状花序 (すいじょうかじょ) とは何か.
 
無限花序の一つ。長い花軸に柄のない花が穂状につくもの。オオバコ・ヒトリシズカなどにみられる。》(引用元;精選版日本国語大辞典)
 
 では無限花序とは何か.
 
花序を形態上の相違などにより各種の型に分類する場合、開花の順序によって二大別するうちの一つ。有限花序に対していう。花がまず花軸の下から咲きはじめて順次上の方へと咲いていくか、外側から順次内側のものへと咲いていくかするもの。花の付き方などによって総状花序、穂状花序、頭状花序、尾状花序などにさらに分けられる。》(引用元;精選版日本国語大辞典)
 
 そもそもこの記述では,花序とは何かがわからぬと何もわからない.
 いかに日国 (日本国語大辞典) といえども,つまりは国語の辞書であるから,隔靴掻痒で埒が明かない.百科事典で調べなければ,というわけで Wikipedia【花序】の項目を開くと,こうある.
 
花序(かじょ)とは枝上における花の配列状態のことである。チューリップのように茎の先端(茎頂)に単独で花をつけるもの(こうしたものを単頂花序という)もあるが、ヒマワリやアジサイのように花が集団で咲くものもある。このような花の集団を花序という。花の配置、軸の長短、花柄の有無、比率等により、いくつかの基本形態がある。
大きく分けて、有限花序と無限花序に分類することができる。
無限花序 (英語: indefinite inflorescence) は、花茎の主軸の先端が成長しながら、側面に花芽を作って行くような形のものである。多数の花が並んでいる場合、基本的には先端から遠いものから順に花が咲く。
有限花序(英語: definite inflorescence) は、花茎の主軸の先端にまず花が作られ、次の花はその下方の側面の芽が伸びて作られるものである。当然、先端の花が最初に咲く。
 
 明快である.しかも Wikipedia【花序】は図解までしてあってわかりやすい.これなら最初から Wikipedia を読めばよかった.ヾ(--;)
 というか,こういうことは高校の科目「生物」で覚えた知識であった.しかし高校の「生物」はひたすらこの種の用語を暗記しなければならず,他の理系科目とは異なり,論理を理解していれば済むというものではなかった (今でもそうだろうと思う) から,暗記が不得意な私は,大学入試は物理と化学で受験した.そのため今でも,植物学,とりわけ草本の分野は大の苦手だ.
 しかし今は Wikipedia がある.私はウェブ上の情報を調べるとき,常に Wikipedia を開いたままにしてあり,「?」と思ったことはすぐ調べるようにしている.ありがたい世の中になったものだ.
 しかしこの百科事典の日本版が発足した当時,項目のほとんどが芸能界のことだったことを覚えている人は多いであろう.先進国の Wikipedia の中で,日本版は著しく特殊であると批評された.しかも芸能情報以外の項目はといえば,専門家ではない人がテキトーに書いたものが多く,書かれていることのほとんどがゴミだとまで酷評された.それが今ではどうだろう.昔はもう最初っからこれはダメだと相手にもされなかった百科辞典なのに,今では,書いてあることが事実かどうかを,さらに調べなければいけないという程度にホントらしくなった.裏を取る手間を惜しまなければ,かなり使える辞典だ.そこら辺の学生は,他の資料で確認することをせずに Wikipedia をコピペするだけでレポートを書くから不可をもらってしまうわけだが.w
 
Yun_2595
[ザゼンソウ;ゆんフリー写真素材集から借用した.file name "yun_2595.jpg" in ゆんフリー写真素材集,Photo by (c)Tomo.Yun ]
 
 さてそんなことは横に置いて,既に述べたように私は,中学から高校にかけて何度も尾瀬に足を運んだが,遂にこのザゼンソウを見ることが叶わなかった.
 そしてそのままザゼンソウのことは忘れてしまっていたのだが,先日,waiwai さんのブログ《ネコな日々》で《ザゼンソウと…》を読んで,少年時代の忘れ物を思い出した.なんで私はザゼンソウを目にすることができなかったんだろう…と.
 それで,ザゼンソウのことを調べてみた.まずその「特徴」小項目から見てみよう.
 
仏像の光背に似た形の花弁の重なりが僧侶が座禅を組む姿に見えることが、名称の由来とされる。また、花を達磨大師の座禅する姿に見立てて、ダルマソウ(達磨草)とも呼ぶ。
冷帯、および温帯山岳地の湿地に生育し、開花時期は1月下旬から3月中旬。開花する際に肉穂花序(にくすいかじょ)で発熱が起こり約25℃まで上昇する。そのため周囲の氷雪を溶かし、いち早く顔を出すことで、この時期には数の少ない昆虫を独占し、受粉の確率を上げている。開花後に大型の葉を成長させる。
ザゼンソウの発熱細胞には豊富にミトコンドリアが含まれていることが明らかになっている。しかしながら、発熱の詳細な分子メカニズムは、現在のところ分かっていない。動物における発熱には、「脱共役タンパク質」(だつきょうやくたんぱくしつ)が関わっていることが突き止められているが、このタンパク質は、発熱しない植物にも幅広く存在しており、ザゼンソウの発熱に関与しているかは不明である。
発熱時の悪臭と熱によって花粉を媒介する昆虫(訪花昆虫)であるハエ類をおびき寄せると考えられている。全草に悪臭があることから英語では Skunk Cabbage(スカンクキャベツ)の呼び名がある。》(文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 初っ端から誤りがある.w
 これを書いた人は,ミトコンドリアのことを書いているところをみると,植物生化学ジャンルの人かも知れない.しかし私と同じように実際の植物には疎いようだ.というのは,既に述べたように,ザゼンソウの「仏像の光背に似」ているのは,「花弁」ではなく苞なのだ.
 それはともかく,この箇所の編集者は「ザゼンソウの肉穂花序で発熱が起こ」ることを確かめた研究者がいたということを知っているのだから,ぜひともその原著論文の書誌事項を示して欲しかった.理由不明だが「脚注」に文献名の記載がない.示されているのは岩手日報という新聞の記事だけだ.つまり Wikipedia【ザゼンソウ】を編集した バカ 人は新聞記事を記載内容の出典にしているのである.裏の取りようがない.
 Wikipedia【ザゼンソウ】は,雪中に埋もれたザゼンソウの花序が発熱するので《周囲の氷雪を溶かし、いち早く顔を出す》というが,本当か.どうやって確かめたのか.
 私は,植物生化学文献の大海の中からザゼンソウの発熱に関するその論文を探す力はないけれど,書誌事項がわかれば手に入れて読んでみたい.
 なぜなら,苞に包まれ,空気層の存在によって保温されている状態のザゼンソウの肉穂花序の温度が「約25℃まで上昇する」ことと,苞が周囲の雪を融かすこととは無関係だからである.苞が周囲の雪を融かすには,なにがしかの熱エメルギーを外部に放出しなければならない.肉穂花序の発熱細胞が,雪を融かすほどの熱エネルギーを発生するものだろうか.私には信じられない.
 思考実験をしてみよう.まず一つ.例えば私が非常に高品質の冬季用寝袋にくるまったまま雪の中に埋めてもらう.私は凍えずに,体温は平熱に保たれるとしても,寝袋の外の雪は融けない.これと同じで,ザゼンソウの発熱する花序は,苞によって氷雪と直接的に接触していない.だからこそ,花序の細胞は凍結せずに生きているのである.もう一つ考えてみよう.掌を雪の中に埋める.掌には体の筋肉や内臓で産生した熱が血流を介して掌に送り込まれる.しかし長時間後,掌は雪を融かすどころか体温を維持できなくなる.これは思考実験ではなく実際にやってみればすぐわかる.ましてや,ザゼンソウの小さな肉穂花序は,私たちの大きな体が産生する熱量よりもずっと小さな,それ自体を25℃に維持できる程度のわずかな熱しか産生しないのであるから,これが積雪を融かせるものかどうか,考えてみるまでもない.
[ザゼンソウ (六) へ続く]

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2019年4月24日 (水)

ザゼンソウ (四)

 前稿に少し補足しておく.
 昭和四十六年七月,第三次佐藤内閣改造内閣において環境庁長官として初入閣した大石武一は,仙台市に生まれ,東北帝国大学医学部出身の医師であった.この改造内閣で通産大臣だったのが,田中角栄である.近年,なぜか石原慎太郎を始めとする者たちが田中角栄を天才的政治家として称賛し,今や角栄は復権を成し遂げたかに見えるが,田中角栄こそは経済成長を旗印にして拝金主義を日本に蔓延させ,日本人の品性を地に堕としめた男である.
 尾瀬の開発計画は,日光,尾瀬,奥鬼怒の三地域が日光国立公園指定されたのち,昭和十五年に始まった.日本の自然公園法は,近年ようやく生物の多様性確保が法の目的として明示されたが,そもそもは自然の快適で適正な利用を推進すること,すなわち観光地開発が法の目的であった.日光国立公園では,それまでの沼田・会津街道を県道沼田・田島線 (JR上越線沼田駅と会津線会津田島駅を結ぶ道路) として車道化することが計画されたのである.この道路計画は昭和二十四年に主要地方道に格上げされた.そして片品村から尾瀬方面への路線バスの終点である大清水から県道改修工事が始まったのが昭和四十一年であった.東京電力による尾瀬のダム化計画と,尾瀬の観光地化道路計画の二方面から,尾瀬の自然は脅威に晒されていたのである.
 続いて翌年,道路計画は変更された.それまでは尾瀬沼を避けて東側を通る道路計画であったが,これが西側に寄り,さらに観光地化推進のために,大清水の北にある三平峠まで車道とする決定がなされた.そして古くからの山道の森は伐採されていった.
 既にこの頃,鳩待峠には車道が通じ,観光客が容易に尾瀬に入れるようになっていた.彼らに踏み荒らされたアヤメ平は見る影もなく荒廃した.残された三平峠の自然破壊に危機感を抱いた平野長靖さんは,環境庁長官に就任したばかりの大石武一を自宅に訪ねた.大石長官は長靖さんの直訴を聴いて,道路計画の変更に動き,閣議で田中角栄らの率いる各大臣から孤立するも頑として譲らず,尾瀬の観光地化を目的とする開発計画を阻止した.
 これに怒ったのが,尾瀬の表玄関たる群馬県片品村の村民たちであった.尾瀬が一大観光地と化すれば,片品村に及ぼす経済効果は計り知れない.驚くなかれ実に片品村村民有権者の九割以上が道路工事の促進陳情書に署名し,群馬県議会に提出したのである.
 悲しいかな人間は,自然保護の理想と目の前にぶら下がった現金のどちらを選ぶかと言われれば,九割がカネを選ぶのである.人間は,という言い方が大袈裟だと言われれば,少なくとも群馬県片品村の村民は,子々孫々に遺すべき掛け替えのない自然よりも,自分の財布を温めるカネを選ぶ人々であったと答えるしかない.
 こうして片品村村民は平野長靖さんを,村の利益を損ねたとして敵視した.孤立した長靖さんは,広く国民に訴えるために各地で開かれる自然保護集会に出席するようになった.しかし片品村村民との衝突を回避するために,明るい時間帯を避けて,夜になってから三平峠を越えるという危険を冒して行動した.
 長靖さんが遭難したこの年の冬の日のことを,後藤允『尾瀬をまもる人びと 長蔵小屋の三代』(大日本図書,1995年) から以下に引用する.(著者は長靖さんの高校時代の友人である)
 
この年、尾瀬は雪が深かった。
 十二月一日朝、小屋の冬支度をすませて、またとんぼ返りのように東京で予定されていた集会に出るために従業員と二人で出発した。積もっていく雪はやまなかった。夏道なら一時間ほどの行程の三平峠の上に立ったときは、もう夕方の五時近くになっていた。峠で下山中の二人のパーティーと合流して、あの「尾瀬を守れ」という運動のきっかけとなった岩清水にたどり着いたのが午後七時、かすかに雪の白さが見えるだけの濃い闇が広がっていた。
 雪はやんだが、気温は急激に下がっていった。長靖は疲労と寒さで動けなくなった。ついに一之瀬の休憩所の手前で力尽きた。かわいい三人の子どものこと、家族との楽しかったことを語り、「生涯に悔いはなかった」というのが最期の言葉だった。
…(中略)…
 この日は、生まれたばかりの長靖が三十六年前、吹雪の中、母に負われて初めて尾瀬にはいった日であった。
 
 以上の補足は,ウェブ上の資料と『尾瀬をまもる人びと 長蔵小屋の三代』をまとめたものである.
 さて補足が長くなった.次回はザゼンソウのことに戻る.
[ザゼンソウ (五) へ続く]

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2019年4月23日 (火)

ザゼンソウ (三)

 地球温暖化の影響は高山地帯にも及ぶものかどうか私は知らないが,今から五十年前,日本で年間平均気温が最も低いのは尾瀬だと資料 (既述の「山と渓谷社」の尾瀬ガイトブック) に書かれていた.最低気温でいえば北海道が最も寒いのだろうが,尾瀬は夏の平均気温が低いせいで年間平均気温が低いらしい.(月別気温の資料)
 そんな尾瀬の早春は五月下旬である.早春は,まだ冬ではあるが春の気配が感じられる時季だとすると,尾瀬は関東平野北部よりも三ヶ月は春の訪れが遅い.
 尾瀬を訪れるのに,人間の都合では五月初旬のゴールデン・ウイークがハイ・シーズンだが,残念ながら,というか尾瀬の自然にとって幸運なことに,この時期は,スニーカーならまだしも,足首を出したタウンユースの革靴を履いた女性が入るには雪が深すぎる.だが,ほとんど入山者を見かけない五月初旬こそ,尾瀬が最も神秘的な姿を見せるときだと私は思う.雪解けが本格的に始まる前,湿原が顔を見せるが,あちこちに残雪がある.そんな環境で,もうミズバショウは開花する.握りこぶし程の小さく可憐な姿である.
 だが,暫くすると雪解け水が湿原を水浸しにする.そうすると,湿原は平ではないから,くぼんだところに咲いたミズバショウは,水の底に沈んでしまう.陽光の下,キラキラ光る水面のその下に目を凝らすと,この世のものとは思われぬ花が咲いている.巧まざる天然の水中花である.下は,2002年5月3日に私の個人サイトに掲載した,水底のミズバショウの花を描いたものである.
 
Oze_mizubashou1
 
 この拙い絵と共に掲載した文章を下に再掲する.
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(前略) その日は尾瀬沼周辺を歩き回って過ごしたのだが,僕達の他にはほとんど人影はなかった.当時の尾瀬入山者は年間数万人だったと思うが,今はどのくらいなのだろう.おそらくその十倍はあるかも知れない.
 そんな,いっそさみしいくらいの天地の彼方に燧ヶ岳が見えた.燧ヶ岳は 2,356メートルの山だけれど,沼尻までいくと,その頂がすぐそこのように見えた.
 尾瀬沼の周辺にめぐらされた木道の外側は水浸しの湿原である.季節が少し早いからミズバショウの花はまだ握り拳ほどの大きさで,それが見渡す限り咲いていた.信じられないほど美しい光景だった.
 湿原のところどころが,小川というか浅い水路のようになっていて,雪解けの水が流れている.僕達は,その小川の水底にも花が咲いているのを見た.いったん顔をのぞかせたミズバショウが,水かさが増したので水の底に沈んだのだろう.陳腐な言い方だが,さわれば切れるような冷たい水が陽光にきらきらと輝いて,その流れの底に咲く可憐な白い花.わけもなく感動するということはあるもので,僕達は声もなく飽かずそれを見ていた.
 それからあと昭和四十年から四十二年にかけて,高校生時代にも僕達は何度も尾瀬に出かけた.「夏がくれば思い出す遥かな尾瀬」というくらいで,ニッコウキスゲの黄色い群落に埋めつくされた夏の尾瀬も忘れがたいけれど,人の心を撃つような美しさということでは,やはり早春のミズバショウの季節だろうと思う.
 長蔵小屋の三代目である平野長靖さんには,僕達はその時は会えなかったのだが,その後,新聞で尾瀬に関する記事を拾うと,長靖さんの名を時々みつけた.尾瀬の自然保護運動に活躍しておられるようだった.
 尾瀬はその後,どんどん道が造られ,山に行くというより観光に行くという風になっていったようだった.昭和四十六年七月,私が大学四年生の時だが,環境庁が発足して大石武一氏が初代の長官になった.その月,長靖さんが大石長官に尾瀬の道路建設中止を直訴し,ただちに大石長官が尾瀬を視察したという新聞の記事を見た.
 環境庁は発足したばかりだったから理想主義の意気高く,それから尾瀬は保護の方向に大きく舵を切り,十一月には自然公園審議会が尾瀬の車道計画の廃止を決定した.そしてその年の暮れ十二月一日,三十六歳の長靖さんは吹雪の三平峠で倒れ,再び還らなかった.
 水は透明だから,眼には見えない.ただそのきらめきによって,それと知られるだけだ.冒頭の画像は水の底のミズバショウを表現したかったのだが巧くいかない.水はどう描いたらよいのだろう.
 そもそもミズバショウに見えないですか.すみません.
【追記】
 上の文章を書いたのは四月の中旬であったが,書いた動機はそれに先立つ2月6日の一部新聞が報じた事件が基になっている.これについては『2002年5月18日 長蔵小屋のこと』で触れた.(5/18)
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2002年5月18日

長蔵小屋のこと
 私が『雑事雑感』五月の表紙ページに,尾瀬の長蔵小屋と三代目主人であった故平野長靖氏のことを書いたのは,毎日新聞2002年2月6日の報道がきっかけだった.
 
《Mainichi Interactive 2/6 15:01 要旨》

 日光国立公園・尾瀬の,尾瀬沼東岸に建つ山小屋「長蔵小屋」(福島県桧枝岐村,平野太郎社長)が,老朽化した別館を1999年に建て替えた際,旧建物の建築廃材の一部を公園外に搬出せず現地に埋めていたことが6日分かった.
 環境省北関東地区自然保護事務所は自然公園法に基づき,薪等に使う木材以外の建築廃材は同国立公園の区域外へ搬出し処分することを条件に,同年6月に建て替え申請を許可した.
 しかし同小屋では,別館の旧建物を解体した後の同年9月下旬,旧建物があった場所に穴を掘って廃材を埋めたという.
 同事務所が昨年の11月3日に行った調査で,断熱材に使ったとみられる発泡スチロールや配水管,配線のコードなど60キロ用米袋で28袋分が回収された.
 昨年5月から社長を務めている平野太郎氏(33歳)は「従業員の現場責任者が個人的判断でやってしまった.このぐらいいいだろうという甘さがあった」と話している.
 同小屋は尾瀬で最も伝統のある山小屋.尾瀬を開山した故平野長蔵氏が1890年に尾瀬沼北部に小屋を建設(1914年に現在地に移転)して以来,4代続く.2代目・長英氏,3代目・長靖氏(いずれも故人)と,歴代主人が尾瀬ケ原のダム化や縦貫道路建設反対運動など尾瀬の自然保護に関わってきた.太郎社長は長靖氏の長男.
 
 その後,福島県警はこの5月14日から16日まで,長蔵小屋とその周辺を廃棄物処理法違反の疑いで現場検証したが,その結果が16日の毎日,朝日新聞等で報道された.
 
《Mainichi Interactive 5/16 19:58 ,Asahi Com 5/16 21:41 の要旨》
 福島県警の発表によると埋められた廃棄物の量は,別館の解体時に出た建築廃材が約7トン,プレスした空き缶の塊や空き瓶を粉砕したガラス片など小屋の営業に伴う廃棄物が約3トンの計約10トンに上る.空き缶やガラス粉は,別館の建て替え時に取り壊したくみ取り式便所の便槽跡から発見された.県警は,この便所が使用されなくなった十数年前からごみ捨て場として使っていた可能性があるとみている.同県警は16日までに廃棄物処理法違反容疑で長蔵小屋本館等4ヶ所を家宅捜索し,宿直日誌などを押収した.産業廃棄物処理法違反の疑いで関係者を書類送検する方針だ.
 平野社長はこれまで,別館建て替え時の廃材が従業員の判断で埋められたと説明していたが,それ以外のごみも発見されたことから,長蔵小屋が長期にわたり組織的に不法投棄を行っていた疑いも出てきた.
 環境省は「一般論だが,組織ぐるみのごみ投棄といった悪質性が明らかになれば営業認可取り消しもありうる」(国立公園課) としている.
 
 そもそも昨年11月に環境省が調査に入ったのは,入山者の告発があったからだという.その入山者がどんなに悲しい思いで告発したか,想像に難くない.現在,長蔵小屋のウェブ・ページには,新聞報道に関する平野太郎社長の「お詫び」が掲載されているが,そこでは建築廃材の事だけで,営業に伴うごみの件は触れられていない.また同ページには「長蔵小屋の歴史」という文章が載せられている.書いているのは平野紀子さん.太郎社長の母上であり,私の文中に故長靖氏の伴侶として書かれている女性である.その文章の末尾は「さわやかな笑顔の登山者と一緒に山小屋はこれからも歩みつづけます。自然保護の原点、尾瀬と共に‥‥‥」と結ばれている.そう書いた人がなぜこんなことを.
 最悪の場合,尾瀬のシンボルともいうべき長蔵小屋はその歴史を閉じることになるかも知れないが,願わくば,原点に戻って再出発できるような措置がとられれば良いがと切に思う.
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 平野長蔵,長英,長靖の三代にわたる尾瀬の自然保護活動は,長靖さんの遺志を踏みにじった愚かな妻と不肖の児によって名声を失った.そしてこの不祥事が明らかになって以来,私は尾瀬に足を踏み入れていない.長蔵小屋を堕落させたのは,私たち尾瀬入山者に他ならないからである.そして世論には「尾瀬の自然破壊の先頭に立つ山小屋」との批判が台頭したのであった.
 ミズバショウの水中花のことから,少し先を急ぎ過ぎた.ともあれ,私は中学以来の何年間にわたり,尾瀬の植物に親しんだ.実際に目で観ることのできたのは,尾瀬の植物の数パーセントに過ぎないだろうが,残念だったのは,遂に開花したザゼンソウの姿を見なかったことである.
[ザゼンソウ (四) に続く]

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2019年4月22日 (月)

エアコンにも誤動作はあるようだ

 四月の下旬ともなると,さすがにもうエアコンを暖房運転することはなくなったが,今度は体感温度が気温変化に追いついていかないようで,暑く感じたので冷房にしてみた.
 すると驚いたことに,室温がどんどん上昇したではないか.
 エアコンの送風口に手をかざしてみたら,温風がでている.うわー夏を前にして故障か.どれくらい修理代がかかるのかなと思って,ウェブを調べたら,《エアコントラブル相談室 》というコンテンツを発見した.
 これによると,そのものズバリの《暖房は動作するが冷房は温風が出てきます 》とのQ&Aがある.
 回答を読むと,この現象は直ちにエアコンの故障とは結論せずに,以下に引用するトラブル・シューティングしてから判断するものだという.
 
確認する内容は
1. コンセントを抜き差しして同じか
2. リモコンの電池を抜き、リモコンのリセットボタンを押すリセットボタンが無ければ 運転ボタンを数回押してください。1分以上経過してから電池を入れ動作を確認して下さい。
3. 本体グリルのふた開け、応急運転ボタン、又は試運転ボタンを押して動作を確認して下さい。
 
 この三点を確認して,それでもダメなら,室外機にある暖房と冷房を切り替える「四方弁」という部品自体か,そのコントロールをするパーツの故障だとのことである.
 つまり,リモコンから室内機に冷房運転するように信号を出すと,室内機から室外機に,四方弁 (これは冷媒の流路を切り替える弁だ) を回転させる信号が送られる.その次のステップで,この信号を受け取るパーツあるいは弁自体が故障していると冷房運転が始まらないが,室内機は冷房信号を送っているから,暖房運転状態なのに「冷房運転を開始します」という音声を出すのである.
 で,私のエアコンは《1. コンセントを抜き差しし 》たら回復した.
 これで合点がいったのだが,エアコンはテレビと同じで,運転していない時でも,リモコンからの信号を受け取れるように待機状態にあるのだ.
 この待機状態で室内機内部の基板に誤動作が発生すると,コンセントを抜いて完全に電源オフにしないと,エラーがそのまま続いてしまうのだ.ここでコンセントを抜いてまた挿すと,基板はPCの再起動のようにリブートして,エラーから回復する.とまあ,そんなことらしい.
 私だけでなく誰でも普段はエアコンについて何も考えていないだろう.しかし「故障か」と思っても,すぐ電器店に電話するものではないことがわかった.勉強になったが,ウェブにはこんな情報も掲載されているのだと驚いた.至れり尽くせりである.

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2019年4月20日 (土)

B6カード

 私が大学生の時にベストセラーになった書籍に,梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書,1969年) がある.といっても,実は私はこの本を読んでいない.というか,梅棹忠夫の書いたものを一冊も読んでいない.大学生の私は,若気の至りで,ベストセラーというものが大嫌いだったのである.
 そもそもこの本はタイトルが悪い.「知的生産」とは何事か.「知的生産」があるとすると,「非知的生産」も存在することになる.「非知的生産」とは.梅棹の,いや梅棹先生の頭のなかでは,私たち庶民が作業服を着て工場の生産現場で毎日毎日同じ作業に従事することを意味しているに違いない.「知的生産」には学者のエリート臭がふんぷんとする.『知的生産の技術』が出版される前年は,日大と東大の学生運動が激しかった年で,「象牙の塔」の中で作られた権力構造への批判が噴出した年であった.当時のその雰囲気に影響された私は,我が身の非才を省みることなく,学者というものを心中で馬鹿にしていた.梅棹?,だーれがそんな本を読むかバーロー,と思っていたのである.(バーローは「馬鹿野郎」を短縮した古い江戸言葉で,落語中の人物が使うものと私は認識していたが,先程念のために調べてみたら,名探偵コナン君の口癖として有名だそうだ)
 これは私だけのことではないだろうと思う.そういう時代だったのだ.そして,学者には,本当に尊敬に値する人と,そうでない馬鹿野郎がいると知ったのは,もう少しあとのことだった.
 
 そういうわけで,私は『知的生産の技術』に何が書かれているかよく知らない.しかし他の人が『知的生産の技術』について書いた書評を読んでみたところ,B6のカードが「知的生産」のためのツールであるらしい.
 四十年程前の日本では,紙のサイズにおけるA系列とB系列が,まだ共存していた.いや,共存していたというのは少し事実と異なる.民間企業では,ファイリングする必要のある書類に使用する紙は完全にA4で統一されていた.A4に印刷できないくらい大きい図や表にはB4を用いたが,中途半端なので,A3を横にして使うほうが好まれた.A3を横にすればA4バインダーにファイリングできるからだ.
 ところが,役所に提出する申請書など,行政分野で指定されている書式にはB5がよくあった.記載事項の少ない書類はB5が手頃な大きさで見栄えがよいからだろう.しかしこれも次第にA4になってきている.
 A4の紙といえば,野口悠紀雄先生の考案による「超」整理手帳を会社員時代に愛用した.これはスケジュール管理用手帳の傑作だと思う.八週間の予定を何の苦も無く一覧できる利便性は素晴らしかったが,若い人に「スケジュール管理はスマホで充分です」という人が増えたせいか,この手帳の利用者は激減したらしく,いずれ遠くない時期に販売終了になるような気がする.
 さて,会社を定年になり,そのあとの再就職も終えて年金生活者となった私には,これからの予定を書き込む仕事用手帳のダイアリーはもう必要なくなった.必要なのは,過ぎたことを書き残しておく正真正銘の日記としてのダイアリーだ.後ろ向きに生きるのである.ヾ(--;)
 その後ろ向き手帳がこれ↓だ.
 
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 革製のノートカバーとして売られていたものだ.購入したばかりの頃よりも革の色合いがよくなったように思う.中に入れているダイアリーは,色んなものを使ってみたが,落ち着いたのは下の画像のものだ.これは コクヨの B6 Campus Diary (weekly) で,安価で大変に使いやすい.
 
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 左ページには予定を書き込む.そして右のページにはその日の行動や思ったことを書いておく.自動車税をコンビニから払い込んだとか,通販の代金を郵便局から送金したとか,その領収書も右ページに貼っておく.映画館の半券なんかも,映画館を出たらすぐ簡単な感想を右ページに書いてから,半券を貼る (実際には,あとでスコッチのメンディングテープで貼る).耄碌が始まっているから,すぐに書かないと,ブログの原稿にする前に忘れてしまうのである.ヾ(--;)
 で,私の場合,現役の会社員諸君のように左ページに予定がギッシリ書き込まれているわけではない.週に一回か二回のイベントしかないから,領収書などを貼るスペースはB6が大変に具合がいい.「知的生産」とは無関係の話ではあるが,私の一週間の出来事を記録しておくのに,どうやらB6サイズがピッタリみたいなのである.A6では領収書を二枚も貼れば,何か書くスペースが狭い.A5のダイアリーも市販されてはいるが,カバーやペンシースを備えたものは手帳としては携帯性に欠けるのである.
 さて,このダイアリーだが,システム手帳と比べると,ポケットがないのが欠点である.出先で,ちょっと持ち帰りたいものがあったときに,クリアファイルとかクリアポケットなどという商品名で呼ばれているものがあると便利だ.そこでこの手帳用に適した商品があるか,探してみた.すると,コレクト クリアブック(薄型) B6 S-560  という製品が私の目的に適うものだった.すごく薄い上にサイドイン・ポケットという特殊な形態だが,ポケットは10枚あって充分である.
 それでは,というわけで,次にこのポケットに,旅先で必要なデータ,例えばバスの時刻表などを印刷して入れておきたくなった.当然それはB6の紙だが,どういうわけか,B6サイズは種類が少ないのである.今や用紙の標準となったA系列の紙は大から小までの各種サイズと厚み (坪量),光沢紙かマット紙か,両面印刷対応かどうか,等々ほんとに色んな種類が販売されているが,もはやあまり使われなくなったB系列,それもB6などというニッチな製品を文具メーカーは作っていられないのかも知れない.それでも,Amazon の中を探しまくって見つけたのが,「情報カード」と呼ばれる製品ジャンルだった.
 そしてこれこそは冒頭に書いた「知的生産の技術」のツールだった.なるほど,幾星霜を経て今もB6の紙を使う情報整理技術は健在らしい.このカードには「京大式」というオリジナルから,料理のレシピを書くのに特化したものに到るまで種々のタイプがあるが,私はPCで印刷するわけだから,無地の「LIFE 情報カード J880 B6 無地」という製品をAmazonに注文した.だが届いた品を手に取って私はがっかりした.「カード」という名称から私は,官製はがきていどの厚みとコシのある紙を想像していたのだが,購入した情報カードとやらは,普通のペラペラなプリンタ用紙だったのだ.羊頭狗肉とはこのことだ.
 このB6用紙を「コレクト クリアブック(薄型)」に入れてみたが,サイドイン式ポケットが薄型でヘナヘナなところにもってきて,ペラペラの紙を入れるもんだから,スルリと紙がポケットから抜け出てしまうのだ.
 手帳に挟めるポケットファイルは,これ以外にない.となれば,紙を官製はがき程度の厚みのものにすればいいだろう.と思ったら,坪量が官製はがき位のB6用紙はどこを探してもないのである.まことにB6は使いにくいサイズである.「知的生産の技術」流行した時代には,用紙にせよファイリングのバインダーにせよ色々な製品があったのだろうが,現在は絶滅危惧状態なのかも知れない.
 そう嘆いていても仕方ないので,結局私はB5の厚手の紙「コクヨ インクジェットプリンタ用紙 両面印刷 マット紙 B5 20枚」を買って,半分に裁断して使うことにした.
 
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 上の画像の裁断機は CARL 社の製品.主な用途は,週刊誌や雑誌のいわゆる「自炊」だ.例えば美術展のガイドブックで気に入った写真頁があったら,それをまず適当にカッターで切り取ってしまい,そのあとこの裁断機できれいに寸法を整える.これをポケットファイルに入れてもいいし,あるいはスキャナで画像ファイルにする.そのために買ったものだ.上の画像でわかるように,B5を裁断してB6にカットするためのガイドの線が印刷されており,これに紙のカドを合わせると,ピタリと同じものが二枚できる.上記のコクヨのB5用紙はコシがあって,とてもよい紙である.「カード」らしい品質だ.
 とまれ,こうして私の手帳は少し便利になったのである.
 
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2019年4月19日 (金)

ザゼンソウ (二)

 私と同級の友人たち四人は,前橋市のすぐ近くにあり,ハイキングに好適な赤城山 (最高峰は黒檜山で,標高1,828 m) や榛名山 (最高峰は掃部ヶ岳の標高1,449m) には登ったことがあるが,それ以上の山の経験はなかった.そこで本屋で山関係の本を立ち読みして知識を得たが,とにかく靴は買わないといけないということがわかった.
 登山靴といっても本格的なものはとても子供の買えるものではなかった時代だったが,しかし尾瀬程度であれば布製のキャラバンシューズ (商品名) で何とかイケるらしかった.
 余談だが,当時の国産既製品の軽登山靴はキャラバンシューズの他になかったと思う.そのため軽登山靴をキャラバンシューズと呼んでいた.今なら普通名詞の「トレッキングシューズ」と呼ぶのが普通だ.
 また,長蔵小屋の建屋のほうに宿泊するのは,消灯時間が決まっているし,色々と守らねばいけないマナーがあるから,長蔵小屋の近くに設置されているバンガローを借りようと話がまとまった.そうなると自炊だから飯盒が必要で,これは各自一つを用意した.飯を炊くだけでなく汁もこれで作ろうということだ.A君のおやじさんは戦争中は陸軍で,復員した時の全財産だった飯盒を大切にとってあるというので,彼は由緒正しい旧日本陸軍の兵式飯盒を持ってきた.
 ちなみに,「兵式」飯盒と呼ぶのは,将校用飯盒と形が違うからである.兵式の方は,昭和の暮らしについて展示をしている施設,例えば江戸東京博物館で見たことがある.今もあるかどうかは知らない.現在のアウトドア用品の飯盒 (普通はアーミーグリーンに塗装されている) と異なり,無塗装のアルミだった.
 さらにちなみに,私の父親が復員の時に持っていた全財産は,海軍の「毛布」だった.これは,毛布とは名ばかりの品で,ゴワゴワと固く,今なら床の敷物にもならぬものだった.ほとんどドンゴロス (ほぼ死語) であった.しかし到底実用にならぬこの「毛布」は,かなりのちまで押し入れの奥にしまってあった.彼の青春の記念品だったのであろう.こんまり先生は「ときめく物は捨ててはいけません」と言う.陸軍兵式飯盒も海軍のドンゴロス的毛布も,兵役世代の男たちにとって,失われた自分の青春と,逝きて還らぬ戦友たちの思い出に繋がる切なく「ときめく物」であったのに違いない.
 山靴と飯炊きの道具があれば,一人前のキャンパーだ.私たちは某日朝,前橋駅に集合し,国鉄上越線で沼田へ出発した.
 沼田駅からは群馬県北端に位置する利根郡の片品村方面へ路線バスが出ている.片品村は同郡水上村 (当時) の東にあり,北で福島県会津郡桧枝岐村に接する.
 昭和三十年代の当時でも,既に尾瀬の観光地化が始まっており,東京からは大清水への夜行直通バスがあったかと思うが,よく覚えていない.
 沼田駅から一時間半ほどで終着のバス停「大清水」に着き,私たちは尾瀬沼へと歩き始めた.マップはここ
 大清水からは三平峠を目指すが途中の一ノ瀬という所に休憩所がある.それを過ぎて三平峠に到り,下って尾瀬沼に到着した.登坂道もさして険しくなく,尾瀬というところは,夏季はハイキングコースなんだなー,と山初心者の私たちは安堵した.ここで「夏季は」というのが重要な点で,冬季は様相が一変するのである.(後述)
 さて長蔵小屋に到着した私たちは,まずは二代目の長英さんと三代目の長靖さんに挨拶に伺った.長靖さんは「よく来たね」と歓待してれて,イワナだろうか,甘露煮にした魚とお茶を御馳走してくれた.私たちは甘露煮をおかずにして,家から持ってきた握り飯を食べた.
 その日の午後,たぶん山と渓谷社の書籍だったろうと思うが,尾瀬と尾瀬の植物について,カラー図版が多く掲載されている本を片手に,私たちは尾瀬沼近くの湿原を歩き回った.
 今の長蔵小屋の公式サイトを閲覧すると,バンガローのことは掲載されていない.いつ廃止になったのだろう.バンガローというとしゃれた感じだが,私たちが宿泊した当時,既に半分朽ちたようなものだった.壁は板を打ち付けただけの作りで,隙間だらけの大きな犬小屋のような見栄えだった.
 翌日は飯盒で炊いた朝飯のあと,燧ケ岳に登り,それから尾瀬ヶ原の下田代十字路にある第二長蔵小屋に泊まった.翌日は延々と続く木道を辿って,尾瀬ヶ原を縦断した.私たちはその間,ずっと無言だった.ニッコウキスゲの大群落に圧倒されて声もなかったからである.
 こうして初めての尾瀬は,ニッコウキスゲに始まってニッコウキスゲに終わった.というのは,夏季の尾瀬では,その他の植物は群落を作るものではない (かつてはアヤメ平という湿原にアヤメの群落があったとガイドブックには書かれていたが,私たちが尾瀬を訪れた時代には,見る影もなくなっていた.登山者が足を踏み入れたせいだとのことだった) からである.しかもそれらは,開花期が夏だとしても,可憐と表現すべきなほど小さな草々なのだ.木道から何メートルも離れた池塘に咲いているそれらを,肉眼で見つけるのはかなり困難である.尾瀬の植物を観察するためには,少なくとも双眼鏡か望遠レンズ付きのカメラが要る.もちろん当時の少年たちがそんな道具を持っているはずはなく,そもそもカメラすらない家庭の子供だから,運よく木道のすぐ近くに在るのを見つけたら,目を皿のようにして思い出という印画紙に焼き付けたのであった.
 さあそれから,四人組は尾瀬のファンになった.翌年はミズバショウの最盛期の六月に行った.秋の風が吹き渡る八月にも行った.さらにその翌年は,五月初旬の,ようやく雪解け水が湿原を覆う頃に三平峠を越えて尾瀬に入った.この頃には小遣いを貯めて軽く防水処理を施した登山パンツを手に入れていたからである.買ったばかりの,いかにもハイカーっぽい帽子を頭に載せて,晴天の日の三平峠に立って下を見た私たちは驚いた.眼下は雪に埋もれて道がなかったからである.
 そこからは悪戦苦闘だった.一歩歩くと,場所によっては脚は腿まで雪に埋まってしまう.長蔵小屋までどれくらい時間がかかったか,もう忘れてしまったが,雪中行軍をしたのは,これが最初で最後の経験である.
 しかし,そんな苦労は,尾瀬沼周辺のキラキラと輝く風景を見て吹き飛んだ.沼へと下る道は雪に埋もれていたが,しかし尾瀬沼には確かに春の気配があったのである.
[ザゼンソウ (三) へ続く]
 

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2019年4月18日 (木)

ザゼンソウ (一)

 私が郷里 (群馬県前橋市) で中学二年生の時,同じクラスにT君,A君,S君がいて,彼等三人と私の四人組は仲が良く,よく一緒に遊んだものだ.遊ぶといっても昔のことだから,大したことはしない.前橋は県庁所在地ではあるが田舎町で,市域の大部分は農村地帯だったから,田んぼでスルメをエサにしてザリガニを釣ったりとか,近くの赤城山や榛名山に登ったり,といった程度のことであった.
 そのT君が二年生の夏休み前に,四人で尾瀬に行こうという話を三人の仲間に持ち掛けた.詳しく聞いてみると,T君の叔父さんが尾瀬で山小屋をやっているというのだ.泊まり賃はタダだから,一緒に行こうよとの誘いだった.タダで,ミズバショウ咲くあの遥かな尾瀬に行けるというのだから,否やの在ろうはずがなく,七月に尾瀬登山をすることになった.
 その山小屋というのは,長蔵小屋である.長蔵小屋初代主人の平野長蔵は福島県南会津郡檜枝岐村の生まれで,日本の自然保護の祖と呼ばれる人物である.Wikipedia【平野長蔵】には次のようにある.
 
生涯
 1889年(明治22年)19歳の時燧ヶ岳に登頂、登山道を開く。
          その後「燧嶽神社附属愛国講社」を
          結成、拝殿を設ける。
 1902年(明治35年)「尾瀬沼区画漁業権」を獲得
 1910年(明治43年)尾瀬沼尻の尾瀬沼湖畔のすぐそばに小屋を
          立て、栃木県今市市と往復する日々を送る。
 1922年(大正11年)尾瀬に永住する覚悟で入山。
          この年、関東水電が尾瀬の水利権を獲得、
          尾瀬ヶ原をダムにし、尾瀬沼・尾瀬ヶ原間と
          至仏山にトンネルを掘り発電所を作る計画を
          発表。長蔵は単身上京して、同年7月26日付で
          当時の水野錬太郎内相に宛て、請願を提出。
 その他エピソード
 牧野富太郎が尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採るので、研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。
 
 余談だが,長蔵と同郷の野口英世は会津人として最もよく知られた人物である.しかし英世は放蕩を好み,また平然と経歴詐称するなど,人間性に問題が多々ある男であった.さらに研究論文には誤りが多く,というより捏造に近い論文もあって,私には紙幣に肖像が描かれるに値する偉人とは到底思えない.それに比べて全国的には無名に近い平野長蔵は,もっと世に知られていい人である.
 
 閑話休題.上に引用した Wikipedia に書かれている《関東水電》については説明が必要である.
 Wikipedia【尾瀬】には《やがて文字による歴史の時代になるが、尾瀬はあまりにも奥地のため、ほとんど記述が残っていない 》とあるが,明治時代以前には,尾瀬に近い霊場武尊山の修験者が,尾瀬の名峰燧ケ岳と至仏山に入山していたと信じられている.尾瀬に入った最初の修験者の名を記した印刷物を,私が中学生の時に読んだのであるが,いまネット上を検索しても見つからないのが残念だ.
 明治に入って,来日した英国人宣教師のウォルター・ウェストンが,それまでの日本文化における信仰対象としての山岳ではなく,自然と親しむ山岳愛好の在り方を我が国に紹介した.尾瀬の自然に魅せられた長蔵はその影響を受けたものと思われ,それのことを Wikipedia は《尾瀬沼尻の尾瀬沼湖畔のすぐそばに小屋を立て、栃木県今市市と往復する日々を送る》と書いている.
 ところがこの頃,尾瀬の自然を産業に利用せんとして食指を動かした企業があった.尾瀬の豊富な水量で水力発電を推進するのは当時の国策であったことから,電力会社が尾瀬の開発を考えたのである.
 尾瀬は群馬,福島,新潟の三県にまたがった土地であるが,福島と新潟方面は国有地であった.利根発電は大正五年 (1916年),私有地だった群馬県側の土地を買収して電源開発を進めることにした.これに対して,「関東水電」という別の電力会社が大正十一年 (1922年) に尾瀬の水利権を得た.明治から大正にかけて,有象無象多くの電力会社が誕生して社業を推し進めていたが,これらはやがて統合された.Wikipedia【日本の電力会社】は次のように記している.
 
日本各地では中小の電力会社の設立が相次いだ。しかし関東大震災を機に電力会社の統合が進み、五大電力会社と呼ばれた東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5社にほぼ収斂していった。
しかし1939年、戦時国家体制(国家総動員法)によりこれらの電力会社は特殊法人の日本発送電と関連する9配電会社に統合された。現在電気事業連合会加盟の電力会社のうち、沖縄電力を除く9社はこの日本発送電が元になっている。
 
 上記の利根発電と関東水電なども統合し,東京電燈を経て現在の東京電力となったわけだが,関東水電が尾瀬の水利権を握り,尾瀬ヶ原をダムの水底に沈める計画を発表した時,平野長蔵は敢然立ち上がった.
 そして尾瀬の土地と水利権を継承した電力会社,すなわち現在の東京電力が誕生したあとは,長蔵はこれに戦いを挑んだ.
 それまでの長蔵小屋は尾瀬における長蔵の拠点にすぎなかったが,この山小屋に永住し,尾瀬のたった一人の住人として,自然保護を旗印にして電力会社に挑んだのである.Wikipedia に《尾瀬に永住する覚悟で入山 》とあるのは,このことを指している.
 その長蔵が残した文章が,青空文庫に収められている.このブログ記事の読者の便宜のために,全文を引用する.(もちろん,長蔵が書いた文章そのままではなく,青空文庫のポリシーに従って現在の日本人にも読みやすく漢字と仮名遣いに修正が加えられていることを断っておく.また青空文庫文中のルビは,このブログの仕様による制限のため採用せず,止むなく ( ) に入れた)
 
平野長蔵「尾瀬沼の四季」
雑誌「山岳」第一九年第一号,大正十四年 (1925年) 5月号掲載
尾瀬沼の四季 平野長蔵

 尾瀬沼は海抜五千四百九拾尺、福島県と群馬県とにわたり、東は栃木県に峰を連ね、北西は新潟県及利根水源に接している。今日もなお三十年前と同じく少しも俗化せず、真に自然の仙境である。
 冬季は降雪甚しく、眼前咫尺 (しせき) を弁せず、日光を見ざること五日以上に至ることも珍しからず、従って寒気甚しく、寒暖計は水銀柱が萎縮して下部のガラス球の中にその姿を没してしまうという有様である。針葉樹にありては積雪二尺以上に及び、枝も幹も見えず、闊葉樹でも樹枝に一尺からの雪が積る。一度烈風が襲来すると、雪は吹き捲られて煙の如く渦を巻いて昇騰し、面を向くべき方もなく、ただその猛威に慴伏 (しょうふく) するばかりである。それが晴天の日となれば、連山の針葉樹を包む白雪は日光に輝いて、美観壮観譬たとうるに言葉もない。それこそ実に都人士に見せたいものであるが、一人として登山する者のないのは遺憾 (いかん) である。学生が冬の中にスキー登山を試みんとして問合す向きもあれど実行した様子もない。真に剛健質実の気象を養成し、自然の霊気を感得せんと欲する人は途中救助小屋の建設と防寒具の用意もあれば、準備に注意し、何日帰京などと期日は定めずして登山してもらいたい、万一天候険悪の時には数日滞在することもあるにより、家族の人に不安の念を起さしめざるように注意するを肝要とする。
 春の尾瀬沼は、朝日の光に雪は赤金光色と輝き、深山の雪もしめりがちとなり気温三拾度に昇れば雨の模様となり、白霧数里、針葉樹闊葉樹白樺に樹氷を結びし景色は、白銀の花というてよかろうか、山人らの如き自然の愛好者は、針葉樹及闊葉樹の梢の少部分が直立し、一円に霧の流れる朝の模様は、何と命名したならば適当であろうか。狂気の如く一家族を雪庭に呼集め、その偉観壮大を絶叫するの日が往々にある。雪すべり雪のかけ足等何といおうか。霞棚びきうららかに、小鳥が鳴く、ふくろも鳴く。我を忘れて駆り出す雪舟そりに乗り、何れの山に登るにも氷雪にて自由自在、さながら天国の遊戯ともいい得べく、春の一里は夏の二里より歩行にやすし。鶯の声を聞くときの如きは、深山の春の快感を誰にも味わせたきものであると思わぬことはない。三月になれば途中雪なだれの恐 (おそれ) はない。
 五月下旬より草花時季となる。大江川端、尾瀬沼の周囲、水バショウの白花満地となる、雪国は雪色の花より咲き初めるの感じがする。綿スゲ雪を突抜いて咲く。黄色花、紫花、赤花、一々草花の名称は略す。尾瀬沼より沼山峠下まで延長拾五丁、甘草の花と化し、その内セキショウ、アヤメの満開は、山人の如き拙つたなき筆にては書き尽すことはならぬ。
 尾瀬沼の落口燧岳 (ひうちがたけ) の麓は、自然の公園、山人の植物保護拝借地である。キンコウカ、モウセンゴケ、エゾセキショウ、サハラン等、他は略す。
 植物保護に付一言す。
 愛山者は自然の植物動物奇岩昆虫等一切を愛護し、枯樹一本でも取り捨ててはならぬ、枯樹の配合は自然美を調和すること大なるものがある。
 一、八百四十余町歩風致保護林 福島県分
 一、参百四十六町歩事業制限地 群馬県分
 その外に植物保護のために要所要所に借地してある。人間の弱点好奇心は植物採取すべからずと掲示でもしてあれば採りたくなるものである。山を愛する人は採取すべからずである。山より掘取った植物が温度の違う地に移植出来得べき者にあらず。移植と蕃殖の可能の種類は、苗圃を作り愛好者に分譲する考えである。自然は我らに無償にて百花を爛漫 (らんまん) たらしめ、芳香を馥郁 (ふくいく) たらしむることを思わば、枝葉を折り採る事の出来得べきはずなし、万物の霊長たる資格を標示すべきである。
 秋となれば樹類と草種の区域を限定し、沼面の水草より変色し、黄色と赤色、紫色と種々の草の秋色が劃然としている、その美観!
 白樺の紅葉は全山一方里位、燧岳の紅葉は匍松 (はいまつ) 地帯より始まり、赤色ナナカマド針葉樹内に混色し、熊笹の沼山峠の近傍より大江川尾瀬沼の附近、三平峠の下の白樺帯の如き密林の紅黄葉は、到底日光、湯本、伊香保、榛名山、塩原、十和田、碓氷峠等にて見る事は出来ぬ。尾瀬沼は他に例のない紅葉と草色の紅黄を取り交ぜて大自然の神苑であるというてよろしいと思う。
 ただ惜むらくは紅葉の期節は短くして十月上旬に限られていることである。
 尾瀬沼保護につき、山人の抱負の一端を披瀝ひれきするも敢て徒労ではあるまい。
 尾瀬沼は如何いかにして保存すべきか。学生村を創設し、享楽場として自然を有意義に利用せんとする企 (くわだて) は学生村設立趣意書に発表してある。尾瀬沼は現在の儘とし、日光箱根等の如く俗化させたくないものである。ただし登山者に交通の便を計るため林道の作成に尽力し、日光方面は大正十二年に鬼怒沼林道の開拓を見、これより西利根水源に林道の開拓を企図し、新潟県へ交渉し、群馬県沼田小林区署は利根水源林道の設計を大林区署へ提出せらる。新潟県六日町小林区署よりも同じく提出し、我福島県山口小林区署よりもまた提出せり。
 新潟県南魚沼より一線、北魚沼より一線、群馬県利根水源へ藤原より一線、この三線の林道を開拓して尾瀬原へ貫通し、尾瀬沼に至り、鬼怒沼へ達し、日光方面に至る、かくすれば日光方面、沼田方面、会津方面と皆連絡あり。その他の支線は徐々に開発すべく、先ず本幹となるべき林道の開拓に急進し、要所要所に無料宿所を設くべく、尾瀬原には現にこれが建設されありて学生らの便宜となれり。鬼怒沼間にも建設したき希望にて計画中である、尾瀬原と尾瀬沼間の道の修繕もなさなければならず、赤貧の山人苦心惨憺たるものがある。十四年には学生村の遊船は建造に着手すべし。水利権問題にては訴願中紛擾もあり、群馬県土木課の冷淡苛酷、殆 (ほとんど) 拾年間も自力にて修繕しつつある情態にて容易の業ではない。しかもまた一方には圧迫を加えんとする愚俗もある。愛山者はともにこの自然の神苑を叮重に保存し、有意義の享楽場たらしめたい。自然は人工に成ったものでないから、これを破壊するのは、自然の殺人者とも称すべく、水利権を他へ移転せば多少の価は得らるるも、さすれば山人は自然の逆殺者となる也。
 この意味を解せずして、彼是 (かれこれ) と目先の利に熱中し、山人に妨碍 (ぼうがい) を与え、脅迫がましき言を弄ろうする人もあれど、また大に厚意を寄せて援助せらる愛山者もあるに依り、心強く感じて赤裸にて微力を傾注するのである。明治廿一年より開発に着眼し、三拾六年の星霜を経過せり。その間に修得せる感想と体験とは不日 (ふじつ) 世に告白することとすべし。
 
 如何であろうか.尾瀬の保護に人生を賭けた平野長蔵の人物像が読み取れる文章である.(文中「山人」とあるのは無論長蔵のことである)
群馬県土木課の冷淡過酷 》《圧迫を加えんとする愚俗 》《山人に妨碍を与え、脅迫がましき言を弄ろうする人 》に抗して,《大に厚意を寄せて援助せらる愛山者 》のあるを心強く思った長蔵は,自然を愛する若者たちが尾瀬を知り,尾瀬の自然を楽しむために入山できるよう,自費で尾瀬入山のインフラを整えたのであった.国策に抵抗する長蔵に対して群馬県当局が冷淡であったのは無論のことであるが,長蔵の活動に《圧迫を加え 》んとし,あるいは《脅迫がましき言を弄した 》のは誰であるか.私が少年であった頃,それを群馬,新潟,福島の県民は皆知っていた.言うまでもなくそれは,尾瀬の土地と水利権を持つ巨大企業であった.その会社は,長蔵の没後のはるか後に,福島県浜通りの自然を放射能汚染し,たくさんの人々から故郷を奪った.
 その会社について書かれた次のコンテンツがある.
 
東京電力ホールディングス株式会社 約半世紀にわたって実践した自然保護活動のさらにその先を目指すためのFSC認証
 
 ここには戦後,尾瀬ヶ原を水底に沈めようとする計画を進めた東京電力の姿は一切書かれていない.むしろ逆に,東京電力が尾瀬の自然保護に取り組んできたかのように記されている.なぜこのような嘘がまかり通るのか.こうして歴史は捏造されるのだなあと,私は声もない.
 ともあれ,平野長蔵とその子の長英,そして孫の長靖は,三代にわたって尾瀬の保護のために力を尽くした.私と同級生のT君,A君,S君の四人組が尾瀬に入ったのは,まだ二十代の青年だった平野長靖さんが長蔵小屋の三代目を継いだその年のことだった.
[ザゼンソウ (二) へ続く]
 
〈この連載記事は以下の通りである〉
ザゼンソウ (一)
ザゼンソウ (二)
ザゼンソウ (三)
ザゼンソウ (四)
ザゼンソウ (五)
ザゼンソウ (六)
ザゼンソウ (七)
ザゼンソウ (八)
ザゼンソウ補遺 あるいは弱者の戦い

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2019年4月17日 (水)

ドライカレーについて

 私の高校生 (昭和四十年入学) 時代以前は,まだ日本の外食マーケットは黎明期にあった.郷里の前橋市でも,市中心部の繁華街にはデパートや洋服店,電器店などの商店は並んでいるが,家族で食事するようなレストランはあまりなく,デパートの食堂の他には大きめの中華料理店「来々軒」が人気だった.来々軒の息子が中学の同級生だったので特に店名を明記したが,他意はない.
 その他には,小さなシャレた洋食屋さんがあり,裕福な家庭の子女は,普段からここでプレーンオムレツなんぞを食っているらしかった.小学校六年のときの同級生で練炭会社社長の息子がいて,彼は上品な家庭環境が災いしてかクラスの中で浮いていたのだが,彼は私と仲良くなりたかった (私は児童会長だったのだ) ようで,昭和三十六年のある日この店に私を連れて行って,プレーンオムレツを御馳走してくれた.それは天上の美味であり,そして私が初めてナイフとフォークで食事した料理であった.
 その洋食屋さんの店先にはメニューを書いた看板が立て掛けてあり,そこに書かれていた献立を今でもそっくり覚えている.それはこうだった.
 
エビピラフ  エビの入ったチャーハンのようなもの
カニピラフ  カニの入ったチャーハンのようなもの
ドライカレー カレー味のチャーハンのようなもの
 
 この献立のピラフは,たぶん正しい意味のピラフではなく,書かれている通り「チャーハンのようなもの」だったに違いない.というのは,客が注文するたびにピラフを炊いていたのでは時間と手間がかかって仕方ない.仕込みである程度の量のピラフを拵えておき,オーダーがあった場合に,結局のところ炒めて「チャーハンのようなもの」にしたと思われるからである.今なら電子レンジがあるから,「チャーハンのようなもの」はせずに済むだろうが.
 ここで私が特に記したいのは,昭和三十年代から昭和四十年前後の昔,「ドライカレー」はチャーハンのようなものであったということである.
 それから何年かが経って昭和四十三年,大学に合格した私は上京した.田舎の学校の生徒だった時は,肉屋のコロッケとかパンの買い食いとかを除けば,飯は基本的に家で食うものだったが,一人暮らしの大学生の食生活は,自炊もしたが,かなり外食の占める比率が高くなった.朝は主に立ち食い蕎麦だが,喫茶店のモーニング・サービスのこともあった.昼はほとんど大学の生協食堂で食べたが,学友と洋食屋で食うこともあった.昭和四十年代の東京で「ドライカレー」は「ナポリタン」と並ぶ洋食屋の定番献立だったが,その東京の「ドライカレー」も,チャーハンのようなものであった.
 ここで Wikipedia【ドライカレー】を読んでみよう.以下に抜粋引用する.
 
現在、以下のスタイルのカレーライスが、ドライカレーと呼ばれている。
挽肉とみじん切りにした野菜を炒め、カレー粉で風味をつけ、スープストックで味付けをして煮詰め、平皿に盛った飯に載せた料理。一種のキーマカレー。(挽肉タイプ)
カレー風味の炒飯。家庭で簡単に作れる「ドライカレーの素」や、冷凍食品が各社から発売されている。「カレーチャーハン」とも呼ばれる。(炒飯タイプ)
生の米とカレー粉を具材と一緒に炒め、炊き上げたもの。カレーピラフ。(ピラフタイプ)
 
 この記述の後に,《1910年ごろ、日本郵船の外国航路船「三島丸」の食堂が、はじめてドライカレー(挽肉タイプ)を提供したといわれている 》とあり,「ドライカレー」は明治時代から存在したということになる.しかし,このブログで横須賀海軍カレーの大嘘を暴いたように,カレーに関する伝説は信用ならぬものが多い.Wikipedia【ドライカレー】が《といわれている 》としている根拠は,産経ニュースの記事《船上の伝統 ドライカレー 「欧風ダイニング ポールスター」》(2017.11.19 12:02) だが,記事の最初に日本郵船三島丸のカレー料理「ロブスター&ドライカリー」は,
 
12ミリ角程度の牛肉を、カレー粉やタマネギ、ニンニク、ショウガなどとともに炒め、約6時間かけてじっくり仕上げる
 
と書いておきながら,続いて
 
日本郵船の船で機関長を務めた、日本郵船博物館の堀江誠館長代理は「客船では牛肉をかたまりで買うので、固い部分をミンチにしたのが始まりのようです。コックが『ドライカレーはステーキよりもたくさんの肉を使わないといけないんだ』とぼやいていましたが、『他の料理より食べ残しがずっと少ない』とも自慢していました」と話す。
 ひき肉を使うのは、ドイツのハンバーグがヒントになったらしい。船は揺れることから、液状ではないカレーが好まれたという説もある。
 
 これは一体どうしたことだ.ロブスターが行方不明なのも問題だが,それよりも日本郵船博物館の堀江誠館長代理という人は《12ミリ角程度の牛肉》を挽肉だというのである.こんないい加減な人物の言うことを真に受けて記事にした産経新聞記者といい,それを読みもせずに出典として挙げた Wikipedia【ドライカレー】の編集者といい,全くもって大間抜けのコンコンチキとしか言いようがない.《船は揺れることから、液状ではないカレーが好まれたという説もある 》という説明は,横須賀海軍カレー関係者が主張していることと酷似している.横須賀市当局と市内のカレー屋たちは「カレーシチューは軍艦の中では器からこぼれてしまうので,小麦粉でトロミをつけたのが日本のカレーの始まりだ」と主張しているのである.
 大体において,「○○はウチが元祖」という話は,味噌煮込みうどんの山本屋本店とか木村屋總本店のアンパンなどしっかりした根拠のあるものもあるが,大抵はヨタ話だと思ったほうがよい.
 産経の記事にある「ポールスター」というレストランは,三島丸でカレー料理が供されていたことを根拠にして「ドライカレーはウチが元祖」と強引に主張しているといったところが事実であろう.ばれない嘘をつきたいなら,サイコロ切りにした牛肉のカレー風味料理がいつの間に挽肉料理になってしまっているという,いい加減な辻褄を合わせてからにせいと言いたい.

 さて,キーマカレーと「ドライカレー」の混同・誤用はいつの頃に生じたか.
「キーマカレー」という言葉が世間一般で用いられるようになったのは,私が妻を得た昭和五十年代初めのことだったと記憶している.その妻が「ドライカレーです」と言ってある日の食卓に出したのは,私には初見のキーマカレーだった.料理そのものは現在の日本で「キーマカレー」と呼ばれているものだったが,それを当時は「ドライカレー」と呼んでいたのである.もちろんインド料理で「キーマカレー」とは「挽肉のカレー」ほどの意味であり,どのようなものかは,料理するインド人によって千差万別である (と料理本にある) が,一般的には Wikipedia【キーマカレー】に掲載されている下の写真のようなものである.挽肉と少量の野菜を加熱調理して,アンコ状態にしたものだ.下に引用した画像ではトーストしたパンが皿に載っているが,白飯でもバターライスでも,あるいはナンでもいい.何でもいい.ヾ(--;)
 で,その日の夕食,これを食べた私は「全然ドライじゃないね」と言った.批判したわけではないのに,文句をつけられたと思った彼女は,その後二度とこの料理を作ることはなかった.
 そんなことはどうでもいい.要するに,昭和五十年代に,「キーマカレー」を「ドライカレー」と呼ぶ誤用が行われていたのである.
 
Paubhajiindia_1
(オリジナルソースを明記した上で,Wikimedia Commons “Paubhajiindia.jpg” から縮尺して引用;出典ウェブページ)
  
 前置きが長くなった.ここで正調「ドライカレー」を拵えてみる.
 まず,玉葱の中くらいのやつ半分をみじん切りにする.人参もほぼ同量,ピーマンは普通の大きさのを二個,いずれも細かく刻む.
 この三つを一緒くたにじっくりと中火で炒める.玉葱はよく炒めたほうがおいしいし,人参とピーマンは,加熱が足りないと挽肉と合わせた時に食感がよろしくないからである.もちろん量的なことはテキトーでいい.人参嫌いの向きは敢えて人参を食うこともない.
 彩のことでいうと,みんな同量に近いときれいに見える.下の写真A参照.
 
20190417a
(写真A)
  
 野菜をよく炒めたら,これに豚の挽肉百グラムを投入してさらに炒める.挽肉はすぐに火が通るから,硬くならぬよう,あまりだらだらと炒めないのがよろしい.下の写真Bを参照.
 挽肉はあまり割合を多くすると,なんだか「何を隠しましょう私は,実はキーマカレーです」という顔付になって,昭和四十年代のレトロ感が薄れるので,肉が食いたいなら素直にキーマカレーを作って頂きたい.
 
20190417b
(写真B)
 
 実は,一人前の量は作りにくいので,調理写真は二人前の外観である.
 具材を炒め終えたら味付けをする.カレー粉だけであると旨味に欠けるので,粉末の鶏ガラスープも使うが,チューブ入りのカレー風味調味料でもよい.私はグリコの「カレーマジック」を使った.これはマイルドとスパイシーの二種類があるので,好みで選べばよい.使用量も好みだが,上の具材量で,大さじ二杯くらいか.味付けしたら半分を冷凍にしておくか,氷温なら数日は保存できるので野菜サラダのトッピングに使える.
 次に米飯を炒める.白飯を百五十グラムから二百グラムをレンチンし,バターと和えてバターライスにし,これをフライパンで炒めた具材に投入して,カレー粉をふりかけて加熱しながらよく混ぜ合わせる.
 カレー粉はS&Bの赤い缶でもいいが,ここはひとつシャレて,評判のよいインデアン食品株式会社の INDIAN CURRY POWDER は如何だろうか.成城石井とかカルディコーヒーファームなんかで入手できる.確かめていないが紀ノ国屋にもあるかも知れない.
 ちなみにこのカレー粉の製造者はインデアン食品である.ブログ記事《カルディで買えるカレー粉「インディアン カレーパウダー」でチキンカレーを作る!》に書かれている「インディアン」ではない.インデアン嘘つかない.
 
20190418a_2
 
 上は出来上がりの写真だ.インデアン食品のカレー粉はS&B赤缶よりも色がきれいなような気がする.だがまあそこは好みで選択して頂きたい.ということで,副菜に温野菜を添えて,いただきます.

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2019年4月15日 (月)

余計なお世話だ

 昨日の記事にニウエ語の辞書を独力で編纂して自費出版をなさった遠藤澄さんを紹介した『日立 世界ふしぎ発見』を観て,世の中にはすごい人がいるものだと感心したと書いた.遠藤さんの御歳は米寿くらいであろうか.かなりの御高齢である.
 
 それはさておき,我が国が高齢社会を迎えた時,抜け目のない連中は「高齢者マーケットは大きい」と判断し,一つこれで本でも書いて稼いでやろうと思ったようだ.
 その結果,定年後の男性を対象にした駄本が書店の棚に並ぶこととなった.
 そのバカ本の著者の一人に保坂隆という,私たちよりもずっと若いらしい精神科医 (聖路加国際病院) がいる.この男が,やたらと似たような駄本を数十冊も書きまくって,自分より年上の高齢者層の人々に説教を垂れている.アホらしいからこいつの著書の数を数えてはいないが,こんなに本ばかり書いているようでは,専門分野の勉強なんぞしているはずがない.この男の頭の中は印税のことしかないに違いなく,聖路加病院も堕ちたものである.
 で,この医者に噛みついたのが,先日の記事にも書いた勢古浩爾氏である.勢古氏によると,保坂隆はかなり頭が粗末らしく,あれこれ書き殴っているうちに,甲著書と乙著書とで,言うことが食い違ってしまっているらしい.
 ま,そこ等辺の指摘は勢古氏におまかせするとして,許せぬのは,保坂隆が,東京オリンピックにかこつけて,《スワヒリ語やアラビア語の勉強を始めるのも一つの考え方でしょう 》と間抜けなことを書いていることだ.(『精神科医が教える定年から元気に「老後の暮らし方」』PHP文庫;下線はこのブログの筆者が付した)
 私たちは保坂のごとき若造から,自分の生き方を「教え」てもらう気はさらさらない.保坂が傲慢にも誰かに「教え」たいなら,自分より若い人たちを相手にせい.
 それはともかく,保坂は,言語というものをどう考えているのか.私たち高齢者がスワヒリ語を学ぶということに現実性と意義ががあるのか,少しは考えてみろと言いたい.
 もちろん保坂は,こんなことを言うからにはスワヒリ語を読み書きできるのだろうが,私は嫌だ.保坂は,スワヒリ語を何か珍しい言語ででもあるかのように書いているが,そんなことは全くない.スワヒリ語はメジャーな言語である.
 ここで冒頭に紹介した遠藤澄さんのことに戻る.遠藤さんにとってのニウエ語は,遠藤さんの人生にとってとても大切な言語であったという.だから,遠藤さんはニウエ語の習得に十年の歳月をかけた.
 そのように,私たちが残り少ない人生のうちの十年をかける意義が,スワヒリ語を勉強することにあるのか.あろうはずがない.保坂の口から出まかせには,もはや怒りを通り越して,情けないと言うしかない.

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2019年4月14日 (日)

ふざけた野郎だ

 ヤフオクの出品を見ていたら,《★真空管★真空管ラジオ・5球スーパー 6E5含む★ヒーター試験済★受信機通信機古道具類》を発見した.
 以下,商品説明を引用する.
 
真空管ラジオ、5球スーパー用ST管 5本+1本、中古。予備品に如何ですか。
最後まで目を通して御納得頂いた場合に慎重に御応札下さい。
★種別:6W-C5、UZ-6D6、6ZDH3A、UZ-42、80HK、6E5、各1本。
★ヒーター導通試験は:6本全部良好。
★○印の管は受信正常のラジオで同種を差し替え試験して機能は正常
(画像1で6ZDH3Aの○印が見えていませんが○です)。
★シールドケース 2本着き。
☆ 苦情等無い様に疑問の点は質問して下さい。
落札しても取引意識のない方は主催者より-評価が送られます、評価点も考慮します、新規の方は御一報後で無いと削除の対象とします。
 
 この出品者が商品説明に提出したシールドケースの写真を見て欲しい.これは,シャーシにネジで固定する箇所が切断されて,無くなっている.シャーシに固着していたので切断したと思われる.これでは実用にならない.
 こんなインチキ商品を出品しておきながら《落札しても取引意識のない方は主催者より-評価が送られます、評価点も考慮します、新規の方は御一報後で無いと削除の対象とします》とは何たる言いぐさか.こいつはきっと,ラジオ自作の経験がないのである.ヤフオクに出品された古いラジオを分解して部品取りし,それをわけがわからぬままに転売しているに違いない.ヤフオクには,こういう不心得者がいるので注意が必要だ.

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言葉の消滅

 ちょっとした入院でブログ更新できなかったが,再開です.
 退院したものの,録画予約したテレビを観るのが億劫で,消してしまおうかと思っている今日この頃だ.
 それも何だかなーというわけで,長寿番組『日立 世界ふしぎ発見』を観た.林先生の番組『林先生が驚く初耳学!』では,女性にとって憧れの職業として先ずはパリコレ・モデルを取り上げ,これにモデル教育の講師として出演したアンミカさんの人柄の魅力もあって,なかなか見所があった.
 しかし次の企画に「女子アナ学」をもってきたのは如何なものか.人気職業であることは確かだろうが,現役の女性アナウンサーを拝見していると,言葉を知らなさすぎて如何にも頭悪いなーという人も多く,少し情けない.
 あの有働さんだって,入局したばかりの若い頃は地名・人名のとんでもない読み間違いが多くて,大学卒業とはとても思えなかった.先輩の森田美由紀さんあたりに比較すると,彼女はお話にならない知的レベルだった.たぶん今でも.w
 それに,女子アナ教育の講師になっている吉川美代子というかたは,組織の中で出世した人間特有のエラソーな臭みがあって,彼女が若かった時から私は好きになれない.
 そこへ行くと,『日立 世界ふしぎ発見』のミステリーハンターは,いいですなあ.彼女らは知力も体力も抜群なんじゃなかろうか.最多出演の竹内海南江さんは,もはや兼高かおるさんの嫡流と呼んでよいかも知れない.
 それで,昨日の放送は,太平洋上の小さな国「ニウエ」の紹介だった.
 ニウエの人口は約千六百人.それが年々減少しているという.ネイティブの国民が減るということは,その言語が衰えることを意味する.それを案じた日本人の遠藤澄さんというかたが,『ニウエ語=英語=日本語辞典』を独力で編纂し,自費出版された.それを番組で紹介したのである.これにはほんとうに感動した.世の中にはすごい人がいるものである.
 ニウエから海外諸国に職を求めるなどして移住した人々の子孫は,おそらくニウエ語を話さなくなるだろう.そうであると,現在はニウエに住んでいる千六百人ほどが高齢化すると,やがてニウエ語は「危機に瀕する言語」と化するかも知れない.
 Wikipedia によると,世界中に存在する言語のかなりが消滅の危機にあるのだという.
 日本でいうと,アイヌ語と沖縄など諸島の方言だが,その他の各地方の方言はどうなんだろう.東京方言や関西地方の方言に引き摺られて変化,あるいは忘れられた言葉もあるのではないか.実際のところ,私はもはや正調 (w) の上州弁を忘れてしまっている.帰郷しても,姉弟と共通語で会話しているのである.息子と娘は全く上州弁を話さない.ニウエ語の将来みたいである.

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2019年4月 4日 (木)

民度 (大幅に追記改稿)

 オンラインゲーム「黒い砂漠」を遊んでいて驚いたことがあった.
 プレイヤーのキャラクター (PC) がレベル40の中頃になると,ストーリーを進める上で重要なノンプレイヤー・キャラクター (NPC) であるフィラベルト・パラーシが,次のような発言をするのである.
 
ドモる人を誰が信頼するでしょうか
 
 パラーシは悪役ではない.PCにクエストをくれる「いい人」であるが,こんなことを言うのだ.
 このオンラインゲームは韓国製である.ゲームのサービスが開始されてからもう何年も経っているのだが,この台詞には問題があるとの指摘があったという話は聞いていない.ということは,韓国には「吃音者は信頼できない」という差別文化があるということだ.
 米国のスターバックスで,店員が吃音者を嘲笑したという事件があり,スターバックスは社会的な強い批判を浴びたために,その店員を解雇した.あの人種差別社会の米国でも,建て前では吃音者を差別してはいけないということになっているのだ.
 
スタバ、吃音症の客ばかにした店員を解雇 》(2018年7月7日 12:43)
  
 日本にも吃音者差別はある.それは陰で,子供たちによる陰湿なイジメとして行われているだろう.大人の日本人は,舞台劇や映画の『裸の大将』を観て山下画伯の吃音と知的障碍を笑い者にした.しかし建て前としては,吃音者を差別したら社会的な批判を受けるに違いない.このホンネと建て前の使い分けは米国と同じだ.
 ところが韓国では公然と《ドモる人を誰が信頼するでしょうか 》と大規模なオンラインゲームの中で語られている.アッケラカンと差別意識をあからさまにしてしまうところが,さすが,露骨な身分差別で知られる国ではある.
 
 ちなみに,「黒い砂漠」の世界には,いくつもの「商団」(私設軍を所有している総合商社みたいな組織;韓流によく出てくるらしい) が登場する.その中の一つのボスは,貴族階級出身ではないのに最大の商団に成りあがった男である.これに対して,他の商団はトップが貴族である.貴族階級と庶民出身者が対立する構図だ.驚くのは,貴族階級商団のトップで聖女と呼ばれている女性が,庶民階級出身商団の若い娘 (嫌な女であるが,貴族階級から見下された過去のために「貴族に生まれたかった」と語ったりもする) を平然と毒殺未遂したのである.どこが聖女なんだと呆れるが,しかし国によって価値観が色々なのは仕方のないことであるとは思う.
 プレイヤーはこの娘の味方をするかどうか,悩むところである.私はもちろんこの娘に味方しましたとも.嫌な女だけども,心根は優しいの ではないかと思ったからである.w
 
 もう一つ余談だが,韓国製である「黒い砂漠」の世界では,いま桜が満開である.周知のように韓国では,ソメイヨシノは韓国が原産地であると信じられている.それを日本人が持ち出して,日本原産だと言っているのは歴史認識が誤っているというわけだ.
 事実は,日本が韓国を植民地化したときに,朝鮮総督府が韓国に持ち込んだのが最初である.後に1974年には,朴正熙大統領によって「桜の大植樹運動」が展開され,日本から輸入されたソメイヨシノが韓国各地に植えられた.(Wikipedia【王桜】から引用)
 これはソメイヨシノ韓国原産説があったからだろう.ところが,かなり以前から遺伝子的にソメイヨシノは王桜は異なると言われており,1995年には遺伝子的な解析によって,ソメイヨシノと王桜は別種であることが確認された.
 しかしそれでも,韓国政府と韓国の学者はソメイヨシノの韓国原産説を主張したため,日本の森林総合研究所が改めて2017年1月,総合的な解析研究を実施し,王桜とソメイヨシノは別種であることを確定させた.これは国際政治上の問題ではなく学問の話であるから,韓国の研究者も,世界的に孤立してまでソメイヨシノ韓国起源説に立つわけにはいかなくなった.そのことに関して,Wikipedia【王桜】には次のように記述している.
 
韓国国外ではソメイヨシノ起源説は既に否定されていたが、2018年9月に韓国国内でも漸くソメイヨシノはエドヒガンを母系、オオシマザクラを父系として数百年前に日本で人為的な交配を通じて作られた品種であり、王桜と全く関係性がないことが大きく報道された。韓国の研究家が王桜をゲノム分析した結果、王桜はエドヒガンを母系、ヤマザクラを父系として自然で雑種交配で誕生した第1世代自然雑種と発表された。中央日報で「やや呆気なく終止符を打たれた」と報道されるなど、ソメイヨシノ起源説は韓国国内でも終了した。
 
 それはそれとして,今度は韓国に存在するソメイヨシノを伐採してしまえ,という主張がなされている.日本帝国主義の遺物を許すな,との主張である.
 私見だが,私も伐採に賛成である.科学の世界で誤った政治的主張をゴリ押しするくらいなら,いっそ伐ってしまった方がさっぱりすると思うのである.
 韓国が,かくも頑迷固陋なのは,やはり日本の創氏制度などの韓国統治政策が間違っていたからだとしか言いようがない.日本がかつて,韓国人の民族的自尊心を踏みにじったことは歴史から消しようがないのである.従って両国の不幸な関係は未来永劫続くだろう.例えば現在の韓国大統領が,米国と日本との同盟よりも北朝鮮の金王朝の支配下に入ることを選んでも,その遠い原因は日本の朝鮮統治にあったのである.
 さて,韓国のサクラが日本原産のソメイヨシノであることが明らかになってしまった.来年の春も「黒い砂漠」の中でサクラが咲くのは見られるだろうか.

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2019年4月 3日 (水)

ヤフオクをやってみた

 私は古書を探す時は古書店のネットワークで検索しているが,検索範囲を広げると,ヤフオクに出品されて落札されていることがある.
 それで遅ればせながらヤフオクをやってみることにした.もちろん出品ではなく落札する側である.
 ヤフオクの手引きみたいな知識をネットで調べたら「まずは安いものに入札して品物を入手して出品者評価まで一通りやると,手順が理解できる」とのこと.それでアンティークラジオの部品を探してみた.
 一つは既に絶滅したはずのパーツで「中波帯域目盛り付きバーニアダイヤル」というもの.(外観写真はこれに似ていて,ただし目盛りが周波数直読になっている)
これは昭和三十年代に自作ラジオ (全くの趣味用で市販はしないもの) のパーツとして製造されたものである.製造された数が少なかったらしく,昭和四十年代から秋葉原通いを始めた私でも,これまでに一度しか実物を見たことがない.それが何と,ビギナーズラックというのか,偶然にもその中古品が出品されたのである.
 最初の価格は千八百円だった.三千円 (上限) で入札してみたら,数時間後に高値更新され (通知メールが来る) てしまった.そこで六千円で再入札してみた.私が最高値で一日続いたが,オークション終了の三時間前に高値更新された通知が来た.
 そこで千円ずつ高く何度も入札を試みたが,すぐに「入札できませんでした」と表示された.これは誰かがもっと高い上限で入札しているかららしい.
 結局,私は一万二千円まで入札を続けたが,おそらく骨董品マニアがはるかに高い入札価格 (数万円あるいは十数万円) を付けているのだろうから,断念した.最終値は一万二千五百円で,誰かの手に落ちたが,それだけ支出するのであれば,アンティークラジオを数千円で買って,それに使われている横型ダイヤルメカを取り外し,これを利用して自作の周波数直読ダイヤルに改造するのが賢明だ.見た目もそのほうがずっとよい.ヾ(--;) ソリャマケオシミダヨ
 それで思ったのだが,射幸心の強い人間だと熱くなって入札を続け,掌に乗るくらい小さな部品を十数万円,あるいは数十万円かで落札してしまい,我に返って青ざめるというオチなんだろう.もちろんそういう人のための救済手段は用意されているが.
 ところでこのバーニアダイヤルを落札した人は,どうするんだろう.私が諦めたので,その人としては安く落札できたわけである.その人の入札価格から推測すると,たぶんラジオ自作マニアではない (ラジオの自作マニアなら自作するだろう;私も普通の目盛りのバーニアダイヤルを材料に自作できる) から,実用品ではなく骨董品として転売するのだろうか.
 さて,このパーツは落札できなかったので,手順の勉強にはならなかった.そこでもっといい勉強材料はないかと探したら,出品者の言い値で即落札できる「六球スーパー用三連バリコン (アルプス社製)」があった.商品ページに掲載されている写真を見る限り錆などの経年劣化状態は良好である.値段は千八百円で,秋葉原のジャンク価格よりも安いくらだ.それでポチッと押して落札してみた.
 それが一昨日のことで,あとはヤフオクからメールが来て手順が案内された.それに従って昨日,代金を送金し,今は出品者が商品を発送した段階である.なるほど,こうやるのか,と腑に落ちた
 以上のことから思ったのだが,世の中にはヤフオクにハマって,不必要なものを買ってしまう人がいると聞く.そうならないように気を付けようと自戒.

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2019年4月 1日 (月)

ほっといてくれ

 私が会社員だった時の同期入社で,定年まで残ったのが私の他に三人いる.
 一人は定年後,ちょっと広めの農地を借りて野菜などを作っている.道の駅に出品しているそうだ.
 一人は,元々が資産家である.働く必要がないので,定年後は取っつき易い趣味を探したらしいが,数年で飽きてしまったらしく,今はもうやっていないようだ.というより,彼の「趣味」は,その道を究めたいという趣旨ではなく,それを通じて人間関係を作るということらしい.
 もう一人は取締役まで出世したので,これまた資産を蓄えた.蕎麦打ちをやったり釣りをしたりしていたと聞くが,趣味としてモノにはならなかったようである.
 さて,最初の一人はどうか知らないが,あとの二人は,会えば株式投資で資産運用することしか話さない.○○社はいくら上がっていくら儲かった,なんて話を延々と話している.それが彼らの今の趣味らしい.
 
 書店に行くと,高齢者が残された人生をどう生きるかについて,ふざけた説教を垂れている本がたくさんある.やれ残間里江子『それでいいのか蕎麦打ち男』 (新潮社) とか,内館牧子『終わった人』(講談社) などなど.
 もう充分に働いたから,あとはなーんにもしないでノンビリしたいという「終わった人」である私たちの希望を,成功者である彼女らは許してくれないのである.
 彼女らは団塊世代の女性である.内館牧子は昭和二十三年 (1948年) 生まれで,残間里江子は昭和二十五年 (1950年) の三月生まれで,私と同年同月生まれだ.ちなみに,吉永小百合様は昭和二十年三月の御誕生であります.
 内館と残間は,その拙い筆で同世代の男たちを嘲る.よっぽど男社会の中で悔しい思いをしたのだろう.その悔しさを,同世代の男たちがリタイアしたあとになって晴らしているのだろう.その気持ちはとてもよく理解できるのだが,戯画化され,嘲られた同世代の普通の男たちが,彼女らの高慢をどう思ったかは,たぶん理解できないだろう.理解できるなら,あんなことは書かない.
 彼女らの,同世代の男たちに対する嘲笑の理由は,彼女たちが若くして虚業で身を立てたことである.
 私たち団塊の世代の男たちは,ほとんどが実業社会で生きてきた.工場で汗水たらして働き,あるいは営業の外回りをして靴底をすり減らして日々を過ごしてきた.サービス業もしかり.いい時ばかりではなく,顧客の前で平身低頭もしてきた.家のローンとか,子供の教育費とか,余命を減らすような思いをしてきた.そして,だから,悔しさを堪えている男を笑うことはしなかった.自分自身が情けない思いを肚の底に沈めて生きてきたからである.内館や残間は,そのような同世代の男たちの実像を知らない.知っていたら,あんな戯画化はしない.
 
 何を根拠に彼女らは傲慢に男たちを嘲るのだろう.かねてよりそう思っていたら,私たち一般庶民の男たちの異議申し立てを代弁してくれる人がいた.勢古浩爾『定年バカ』(SB新書)だ.
 この本は,内館や残間だけでなく,高齢者に生き方指南をする若造たちも滅多切りにしてくれる.痛快この上ない.
 借りた農地で野菜を作って何が悪い.昼酒を飲みながら株の上がり下がりに一喜一憂して何が悪い.私みたいに日記ブログしかやることのない男で何が悪い.ほっといてくれ.
『定年バカ』は,「終わった人」たちへの応援歌だ.

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