墨と硯
私の父親は尋常小学校しか出ておらず,生家の口減らしのために海軍に志願した.学歴 (兵学校) がないので,終戦の時には兵曹長だった.それでも,農家の生まれで水兵になり,叩き上げて兵曹長になったのは,小学校で村一番かどうかは聞き損ねたが,かなり優秀な男だったのではないかと思う.
父は学問はなかったけれど,達筆であった.太い筆でも細筆でもよく遣い,仕事がない日曜日には文机を出して書道に励んでいた.
姉は私と違って父親の血を引いたらしく,父が教えるとそのまま素直に上達したが,私は全くダメで,中学生の時に父親に匙を投げられた.
以来,私は毛筆恐怖症で,結婚披露宴の受付でも迷わずサインペンで署名してきた.
そういう状態だから,中国に行った時,土産に硯とか墨などは思いもつかなかった.無論,毛筆文房具の知識は皆無である.
先月,毎日新聞に次の記事が掲載された.(掲載日,2019年2月19日)
《北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性
弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。
硯の遺物が見つかったのは、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡(福岡県糸島市)=前2世紀末▽中原遺跡(佐賀県唐津市=同▽東小田峯遺跡(福岡県筑前町)=前1世紀=の3遺跡。既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査したところ、末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという硯の特徴を示しながら、仕上げがされずに破損したものがあり、未完成品だった。墨をつぶす研ぎ石の未完成品や、石材を擦って切断する道具・石鋸(いしのこ)も確認され、現地で硯が製作されたと判断した。
中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認され、文字の開始を早める資料として注目されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
《墨をつぶす研ぎ石 》とはなんだ.これは,文房四宝に詳しい人には常識なんだろうか.私にはわからないので,調べてみた.
周 (前1122~770年) の時代には,同様の木炭汁で木片に字を書いた.春秋戦国 (前770~221年) になると,筆で竹簡に文字を記すようになった.
次の秦 (前221~206年) になると始皇帝は各地バラバラに使われていた文字を小篆といわれる篆書に統一したため文字は広く普及し,墨と筆の需要が大きくなった.この頃の墨は木炭の粉ではなく,石墨 (鉱物のグラファイト) が使われるようになり,石墨を平らな石板で磨りおろし,これを水と漆で溶いて墨とした.この石板が硯の始まりというわけだ.石墨は延安などで産したという.
始皇帝の死後,漢 (前206~後220年) の時代に文字は篆書からさらに書きやすい隷書に進化し,飛躍的に普及した.墨は,文字の普及とともに,水さえあれば字が書けるように進化した.石墨の粉末に漆を加え,小粒に丸めて乾燥させた墨が作られた.これを石板の上に載せ,水を垂らして石製の磨墨具 (磨墨石) で磨りつぶして墨液を作った.この磨墨石が引用文中の《墨をつぶす研ぎ石 》だろう.
ちなみに,このあと後漢 (後25~220年) の蔡倫が紙を発明 (後105年) し,ここに至って筆と硯と紙が揃った.また石墨に代わって,樹脂の多い松の木を燃やして煤を採り,これと漆で墨が作られるようになった.
墨が現在のようなものになるのは更に後のことで,まず三国時代 (220~280年) に魏の墨造りの記録に膠が登場しており,今の墨までもう一歩のところにきた.ところがここから先が長く,やっと宋 (960年~1279年) 代になって油を燃やして煤を作る製法が発明され,これと膠で墨が作られた.文房四宝の完成である.
なるほど,齢七十になりなんとする頃になってようやく墨の歴史を知った. 人生死ぬまで勉強であるなあ.
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