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2019年3月26日 (火)

戸塚 「そば処 しら石」

 数年前に「成熟そば」の話をどこかで知った.
 その時は変な言葉だなと思った.成熟と熟成はどう違うのか.蕎麦が成熟するってのは日本語として違和感があるぞ,と思った.
 日本の国語辞典中,最も信用できる日本国語大辞典 (日国) にある「成熟」の語義によると,
 
(1) 果物や穀類が十分にみのること。よくうれること。また、人の心やからだが十分に成長すること。
(2) 上達すること。熟練していること。熟達。
(3) 情勢や機運などが最も適当な時期、あるいは充実した時期に達すること。
 
とある.次に「熟成」の意味はどうかというと,
 
(1) 十分にでき上がること。また、機会が熟すること。成熟。
(2) 化学物質、配合原料、中間的な半製品などが、特定条件のもとで内部から自然に化学反応を進め、必要とする物理的または化学的性質を獲得していくこと。食品工業、窯業、肥料工業、ビスコース工業などでいう。
(3) 動物体の蛋白質、脂肪、グリコーゲンなどが、酵素や微生物の作用により、腐敗せずに適度に分解され、特殊な香味を発すること。なれ。
 
である.
 では「成熟そば」とは何かというと,狭義には秋に収穫して脱穀してから半年近く低温で保存されたソバの子実 (「丸抜き」という) を指すが,広義にはそれを挽いた蕎麦粉,さらにはその蕎麦粉で打った蕎麦を意味しているらしい.
 草本植物全般に言えるかどうかよく知らないが,栽培作物では,それが有限伸育性であるか,無限伸育性であるかが重要である.
 有限伸育性とは,イネが代表的な作物で,開花すると茎や葉の成長が止まり,光合成した貯蔵物質を種子に集中する性質のことである.この場合は,一本の稲穂の米粒全部同時に完熟するのみならず,同時に栽培されてきた他の個体も同時に完熟する.イネにはこのような性質があるので,期が熟したら田圃の稲を一斉に稲刈りできるわけだ.
 これに対して無限伸育性の作物は,開花して結実しても,その植物個体の成長は止まらない.また新たな開花と結実が生じる.その結果,普通のトマトを見ればわかるように,一本の茎に赤く熟した実とまだ緑色で熟していない実がついている状態となる.従って無限伸育性の作物は,全部の実が熟したところで一斉に収穫するということができない.トマトのように熟したものを順に一つ一つ収穫していくことになる.実はこれは,ある種の野菜にとっては有利な性質で,収穫時期の幅が広くなる (店頭に出回る期間が長い) のである.
 余談だが,ダイズのように品種によって有限伸育性のものと無限伸育性のものが存在する作物がある.この場合のように品種に関しては有限伸育性型,無限伸育性型と呼ぶことがある.有限伸育性型のダイズは種子が大粒であり,収穫される種子の数は少ない.無限伸育性型のダイズは種子が小粒で,収穫できる種子の数が多い.言い換えると,結実した種子の数が多いから小粒になるのである.実際は用途によって,この二種類の作付けを仕分けている.日本に米国から輸入されている大豆は搾油用であり,小粒の品種である.
 さて「成熟そば」のことに戻る.栽培作物のソバは,無限伸育性なのである.これを私は,農学部出身のくせに,この歳になるまで実は知らなかった.知識がないことの言い訳にはならないが,実際のところ,収穫期のソバ畑を目で見たことはなかったからである.
 で,ソバはトマトと異なって,ああいう作物だから,熟したものを順に収穫するということができない.一斉に収穫せざるを得ないのだが,都合の悪いことに,後から結実した種子が完熟するまで待っていると,先に成った実が地面に落ちてしまうのである.すると結果的に収量が減ってしまう.そのため,秋の最大収量の時期に収穫されたソバの子実 (玄米と同様に玄蕎麦という) には,完熟した粒と未熟の粒が混在することになる.いわゆる「新蕎麦」は,このような状態の玄蕎麦を挽いて作った蕎麦粉を打った蕎麦なのである.
[註;玄蕎麦の構造は,一番外側に黒い殻 (果皮) があり,その内側に甘皮 (種皮),内部に胚乳部・子葉部 (胚芽) がある.玄蕎麦から殻を取り除いたものを「抜き」とか「丸抜き」と呼び,この状態で保蔵する.製粉業者はこの丸抜きから数種類の蕎麦粉を篩分しながら製造するが,子実のどの部分が含まれているかで蕎麦粉の色や風味が異なる]
 例えば米の場合,言葉の定義からいうと新米とは,それが収穫されてから,次年度産米が収穫されて市中に出回るまでのものをいう.次の年の米が出回ると新米から古米に呼び方が変わるのである.
 しかし私たちの習慣では,秋に収穫された米が新米と呼ばれるのはせいぜい年内である.なぜかというと昔は,米の保蔵技術が低く設備 (温度管理できる倉庫) もなかったため,年を越すとどうしても品質劣化が進み,食味が明らかに低下したからである.高齢者は記憶しているように昔は,夏場の米は品質が悪かったから,一層新米の旨さが引き立ったものである.しかし現在では保蔵条件が進歩したから,一年中おいしい米が食えるようになった.ありがたいことである.
 実は蕎麦も米と同じなのである.いわゆる新蕎麦は,ソバの子実が晩秋に収穫 (ちなみに北海道産が一番早く出回り,かつ北海道が最大産地であるため,蕎麦にはハシリがなく,一気に旬が到来する) されてからせいぜい年内の蕎麦をいう.理由は米と同じで,昔は年を越した蕎麦の実は品質が低下したからである.ところが,保蔵技術が格段に進歩した現在では,新蕎麦よりも,むしろ年を越して二月から三月あたりの蕎麦のほうが旨いじゃないかという説が,蕎麦職人の中から現れた.
 神奈川県川崎市の「幸町満留賀」と同市「石臼挽きそば 長寿庵」の二店の店主たちが上の説を提唱し,年を越してから製粉した蕎麦粉の蕎麦,すなわち「成熟そば」が美味であるとする宣伝活動を始めた.そして次第にこの説に賛同する店が増えてきたのが現状である.
 ただし,現時点では「成熟そば」は少数派である.老舗の名店は新蕎麦を善しとして,「成熟そば」には無関心ではないかと思う.
 また,「成熟そば」には食品科学的エビデンスがない.あくまでも経験的かつ感覚的な話にすぎない.私見だが,「成熟そば」は食品科学分野の恰好な研究テーマになるのではなかろうか.「成熟そば」が旨いという説が事実なら,これは「丸抜き」状態の蕎麦子実において一種の追熟現象が起きているのかも知れない.あるいは香気成分の化学的変化が生じている可能性も考えられる.とすると,「追熟そば」または「完熟そば」が日本語として正しいのであるが,オリジナリティを尊重して,本稿では「成熟そば」としておく.現役の食品科学研究者がこれに関心を持って,「丸抜き」の追熟あるいは完熟現象を科学的に解明してくれないものかと思う.
 
 というわけで,今年も「成熟そば」の時期がやってきたのだが,つい先日,横浜市戸塚区と藤沢市が接する辺りで「成熟そば」と染めた幟を見つけた.箱根駅伝第三区のランナーたちが,右手に藤沢バイパス入口を見ながら藤沢橋交差点へ向かって走る地点だ.この幟は,造酒屋が新酒の時季になると軒に杉玉を下げるのと似ていて,「成熟そば」をお出しできる時季となりました,との意味であると言う.その幟を立てていたのは,「幸町満留賀」や「石臼挽きそば 長寿庵」とは違ってほぼ無名の「そば処 しら石」という店である.川崎まで蕎麦を食いに出かけずに済むのはありがたい,と私は早速店に入った.
 普通の蕎麦屋なら客で混雑が始まる午前十一時半の少し前だったが,店内に先客は一人もいなかった.だが,掛かってくる電話に出る女将さんと思しき女性は「一時間待ちです」と答えていた.どうやらこの蕎麦屋は,店に来る客よりも出前が中心の店のようであった.
 私は天ざるを注文したのだが,できあがるのに二十分近くを要した.厨房は出前をこなすのに大忙しであるのだろう.
 やってきた蕎麦には海苔が載っていたが,これは邪魔なので,まずは海苔だけを食べてしまい,続いて蕎麦を数本,口に入れて噛んでみた.そして「おお,なーるほど」と膝を打った.確かに,新蕎麦とは異なる風味があったのである.「成熟そば」説は事実だろうと私は思う.実際に私は,蕎麦つゆなしで半分ほどを食べてしまった.残り半分にはほんの少しの蕎麦つゆを付けて食べたから,蕎麦つゆは天ぷらのために使ったようなものだった.出前中心でやっている無名店でも馬鹿にはできないなあと感じた次第である.
 ただ一つ,文句がないことはない.エビの天ぷらがいわゆる「蕎麦屋の天ぷら」で,衣がサクッではなく,バリバリに固い.もしかすると薄力粉に重曹を加えているのかも知れない.つまり温かい天ぷら蕎麦用に揚げる衣と区別がされていないのだ.しかも衣をできるだけ大きくなるように揚げている (いわゆる「花を咲かせる」だ;動画はここ) ため,前歯で噛むとバキと煎餅のような音がした.w
 蕎麦は旨かったが,天ぷらは落第点である.この店で蕎麦を賞味する場合は,蒸籠だけにするのがお勧めである.言うまでもなく,かけ蕎麦や温かい種ものは,蕎麦の旨味もへったくれもないので,富士そばでよろしい.w
 
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