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2019年2月19日 (火)

アンコールを一目でも (九)

 今日と明日の二日間,アンコール遺跡群を観光する.
 アンコール遺跡群のメインはもちろんアンコール・ワットだが,昇る朝日を背景にした写真が定番だとか.そこでツアコンダクタは前夜,「翌朝の四時にロビーに集合してください.まだ暗いうちにバスで出発しますので,懐中電灯を忘れないでください」とメンバーに指示した.
 次の日の朝三時半,私がロビー降りていくと,既にツアーメンバーの娘さんが一人いた.早いですねーなどと挨拶しているうちに,昨晩からお世話になっている現地ガイドさんがやってきた.ガイドさんは長身で恰好よく,日本語はほぼ完璧な人で知的な雰囲気もあり,このあとの観光では,ツアーメンバーの女性たちに大モテであった.
 
 そうこうしているうちに,ツアコンダクタの青年も女性たちも集合したのであるが,メンバーの一人 (七十歳・男;ツアー参加者十四人のうち,男はこの爺と私の二人だけ) が集合時間になってもロビーに来ない.暫く待ったが遅れますとの電話もないので,ツアコンダクタが部屋へ迎えに行き,ようやく全員揃った.爺は済みませんの一言もなく,やあどうもどうも寝ていたので,とか言いながらヘラヘラ笑っていた.
 スケジュールは遅れ気味だが,出発.
 実は,この遅刻爺とは,成田空港のセキュリティを通過したあと,少し雑談をしたことがあった.海外旅行には慣れていると自慢話を延々と聞かされて,そのうちに「トイレに行ってきたいので荷物を預かってくれ」と頼まれた.快諾して戻るのを待ったのだが,なかなか戻ってこない.再集合時間が迫ってきたので止む無くその男の荷物をツアコンダクタに預け,捜索することにした.すると,酒を売っている店で発見した.そいつが「旅行中に飲む酒を買わなきゃね,あはは,あなたも買っておいたほうがいいですよ」と阿呆なことを言う.ムッとしたが,もう再集合の時間ですよと言って,集合場所に戻った.
 こんなことがあったので薄々予感はあったのだが,この爺はトラブルメーカーだったのだ.爺が起こしたトラブルは後述する.
 
 さて,アンコール遺跡群の入場券 (アンコール・パス) は,アンコール・エンタープライズ (Angkor Enterprise) という政府系組織が販売している.場所はシェムリアップ市内中心部から5~6km離れているので,まずはそこへバスで行く.
 
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(アンコール・パス販売所の窓口;ここで顔写真を撮られる)
 
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(アンコール・パス;1日パス,これをカードホルダーに入れてくれるので,首から下げる) 
 
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(暗いうちから,定番の写真撮影スポットの周囲に屋台が出ている)
 
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(夜明け前だが,雨が降っている.乾季なのに!)
  
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(結局,朝日の昇るシーンは撮れなかった)
 
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 アンコール・ワットとシェムリアップを結ぶ道路には,テント張の屋台店がポツンポツンと続いていて,土産物や絹っぽい見かけのスカーフなんかが売られている.そういう屋台店の人たちが世話をしているのだろうが,犬をかなり見た.痩せてはいるが元気そうで,物売りの子供のあとを付いて歩く犬たちを見て,私は何となく嬉しくなった.
 
 さて朝の太陽を見損ねた私たちは,残念でしたねーなどと言いながらホテルに戻って朝食.アンコール・ワットはまた午後に観光する予定だ.
 朝食はメインダイニングで摂る.普通のブフェスタイルで,もちろん卵料理やパンは用意されているが,エスニックな料理も色々あった.下の写真の皿には炒飯 (極旨!) と野菜炒め,ハムと焼いたトマト,それからよくわからぬものを少し載せた.その他に,温かい麺 (クイティウ) をサービスしてくれるブースがあったので,それももらった.麺は,白いのと黄色 (卵麺か?) の二種類があり,指差せばそれを温めてくれる.麺のブースには各種調味料と薬味が置かれていたが,トッピングはブフェのほうにあるものを入れるらしい.でも朝飯ということもあって,具なしで薬味だけにした.で,このクイティウのスープがめちやくちゃ旨かった.できれば大きいラーメン丼で食べたいものだと思った.
 
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 朝食後,ロビーに再集合し,バスは世界遺産アンコール遺跡群の一つ,アンコール・トムへ出発した.アンコール=都市,トム=大きい,だそうである.
 Wikipedia【アンコール・トム】から下に引用する.
 
アンコール・トムの遺構にはヒンドゥー教と大乗仏教の混淆が見られるが、都市建築の基本はヒンドゥーの宇宙観を基に成り立った古代インドの建築理念の影響が見られ、中央に世界の中心である山岳メール山を象徴するバイヨン (Bayon) 寺院がある。その周囲にも象のテラスやライ王のテラス、プレア・ピトゥなどの遺跡も残っている。
アンコール・トムは約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。京城の外の東西には、大洋を象徴するバライと呼ばれる巨大な人工の池がある。
》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った.アンコール・トム遺跡を見るときのキーワードである.説明は後述)
 
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(アンコール・トムへ続く沿道でのショット.象に乗る体験ができる)
 

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(洗濯物を干しているのではない.エキゾチックな服を着て観光しませんか,という店だ)
 
 話が唐突で恐縮だが,例えば京都へ行くと舞妓さんの服装一切をレンタルする店があって,観光客の娘さんがコスプレして街の中を散歩していたりする.また明治村でも鹿鳴館衣装をレンタルしている.こういう例はコスプレのレンタルだが,上の写真の店はペラペラのワンピースなど売っている.実際に,アンコール遺跡を観光にきた欧米女性が何人も,この服を着て歩いていた.これは普段着みたいなもんだから,コスプレ感がなくて,ちょっといい感じだった.下の写真にも写っている.
 

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(アンコール・トム南大門への参道)
 
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(参道の,南大門に向かって右側は,たくさんのアスラ<阿修羅>の像が連なっている)
 
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(同じく参道の左側は神々の像;頭部の色が異なっているのは修復された部分)
 
 参道は堀を渡る橋になっている.橋の左右にあるヒンドゥーの神々やアスラ (阿修羅) の像は,欄干のようなものだ.これらの像が連結されている長い石 (一部残存) は,端部が鎌首を上げた蛇の造形になっており,ヒンドゥー教の天地創造神話「乳海攪拌」に登場するナーガ (蛇の精霊,蛇神) を表している.詳しくは Wikipedia【乳海攪拌】に譲るが,ある時,神々は呪いをかけられて,世界は荒廃した.そこで神々は世界を再建するために,乳鉢に見立てた海に,多種多様の植物や種と生き物を入れ,乳棒に見立てた大きな山で千年もの間擂り潰した.すると,ここから太陽や月,様々な神々と不死の霊薬 (アムリタ) が生じた,という神話である.
 この作業は神々だけではできなかったので,敵対していたアスラと和解して協力を頼んだ.そして下の画像に描かれているように,山にナーガラージャ (ナーガの王) であるヴァースキを巻き付け,神々とアスラが綱引きのようにして引っ張り合い,山を回転させた.Wikipedia【乳海攪拌】から下に抜粋引用する.
 
ヴィシュヌは多種多様の植物や種を乳海 (Kṣīra Sāgara) に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り、その背に大マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海に棲む生物はことごとく磨り潰され、大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラが山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ。ヴァースキが苦しんで口からハラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得たが、シヴァの喉は毒によって青く変色した。
1000年間攪拌が続き、乳海からはさまざまなものが生じた。太陽、月、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ (Pârijâta)、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた。
》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 上の引用箇所に《竜王ヴァースキ》とあるが,これは誤りである.ヴァースキは竜王ではなくナーガ (蛇) の王である.竜と蛇では全然違う.ナーガが仏教に取り入れられて竜になり,ヨーロッパに伝わってドラゴンになったのである.竜とドラゴンは飛翔するが,ナーガは飛ばない.竜とドラゴンは蛇行しないが,ナーガは蛇行する.w (ドラゴンとナーガはRPGのモンスターとしてよく登場するが,造形が全く異なる.多くは人面蛇体)
 
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(1820年頃に描かれた乳海攪拌;Wikipedia【乳海攪拌】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 Wikipedia【乳海攪拌】の間違いはともかく,神々とアスラが蛇を引っ張り合うという建築や造形のモチーフは重要なものらしく,アンコール・トムのあちこちにあるし,アンコール・ワットの壁にも有名な彫刻がある.探して歩くのも一興かと.
 さて,乳海攪拌を題材とした長い橋を渡ると,そこが南大門である.
 
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(アンコール・トム南大門)
 

 アンコール・トムは西南北に大門があり,東には死者の門と勝利の門がある.死者の門が東大門に相当する.勝利の門は死者の門の北側にある.地図はここだが,わかりにくいので,「アンコール・トムの地図」で検索すると,例えば近畿日本ツーリストのサイトにアンコール遺跡の略図が載っている.略図のほうがわかりやすい.
 ちなみに,アンコール・トムの王たちは,タイやベトナムとの戦争に勝った時は勝利の門から凱旋し,負けた時は死者の門から入城したのだと,現地ガイドさんが説明してくれた.しかし日本語のブログを読むと,戦いの勝ち負けではなく死んだ兵士の魂が死者の門を通って入って来ると書いてあるものばかり.だとすると,生き残った敗残兵はどこから入ればいいんだ?
 どっちが正しいか知らないが,ここでは現地ガイドさんの説明が正しいだろうとしておく.カンボジアの人々はそう思っているわけだから.
 
 ところで,諸説が存在しているのは,各大門の上に載っている顔 (四面像) が何かということ.定説は観音菩薩であるとする説である.各大門の上部にあるものは造形が粗雑 (風化したか?) なので判然としないが,アンコール・トムの中心部に位置するバイヨン寺院にはたくさんの四面像があり,これはヒンドゥーの神ではなく観音だといわれれば大いに納得できる表情をしている.
 とはいうものの,バイヨン寺院について Wikipedia【バイヨン】に以下の記述がある.
 
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。当初は大乗仏教の寺院であったが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が流入すると、寺院全体がヒンドゥー化した。これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどからも推測できる。
 
 バイヨン寺院がヒンドゥー化した時,建造物部分の《仏像を取り除こう》としたのに,なぜ四面の観音像が残されたのかについて合理的な説明が必要だろう.可能な説明は,バイヨンの四面観音像はヒンドゥー教の信仰に転化しうるものだったということだ.
 例えば,日本の弁財天の原型とされるヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」に関して Wikipedia【サラスヴァティー】に次の記述がある.
 
ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である。そもそもはブラフマーが自らの体からサラスヴァティーを造り出したが、そのあまりの美しさのため妻に娶ろうとした。逃れるサラスヴァティーを常に見ようとしたブラフマーは自らの前後左右の四方に顔を作りだした。さらに、その上に5つ目の顔(後にシヴァに切り落とされる)ができた時、その求婚から逃れられないと観念したサラスヴァティーは、ブラフマーと結婚し、その間に人類の始祖マヌが誕生した。また、元々はヴィシュヌの妻であり、後にブラフマーの妻になったという異説もある。 》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 だとすると,四面像という造形美術上の様式が,ヒンドゥー教にもあったのではないか.バイヨン寺院がヒンドゥー化した時に,観音菩薩像は,他のヒンドゥーの神として受容されたのではないかと思う.
 さらには,最新の科学的方法による研究の結果,そもそも四面像はヒンドゥーの神々だとの説もあるという. Wikipedia【バイヨン】にはつぎのような説明がある.
 
3次元CG化と解析によりヒンドゥー教の神々を表しているという説も出た。

 四面像がヒンドゥーの神々だとすれば,それは物理的な年代測定方法でバイヨン寺院の建設時代を明らかにすればよい.
 私が生きているうちに,研究者が決着をつけてくれると嬉しい.
 
 さて南大門を入って中に進むと,先に述べたバイヨン寺院がある.
 
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(バイヨン寺院遠景)
 
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(バイヨン寺院の中にはたくさんの壁面彫刻がある;人物の造形が愛らしい)
 
 バイヨン寺院は三つの層から成っている.上の写真は第一層第二回廊の彫刻で,チャンパとの戦争の様子やバイヨン建設当時の市場の様子や狩の様子などが彫り込まれており,クメール人たちの暮らしを知ることができる貴重な資料である.
 下の写真はベトナム中部にあったチャンパ王国との戦争を描いたもの.
 一部を拡大した下の画像にあるように,クメール人は耳たぶが長く描かれるので,チャンパ王国軍と区別できる.
 
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20190220c
 
 上の彫刻は如何にもヒンドゥーっぽくて,一つ上のレリーフとは全くタッチが異なる.何代かの王の治世に亘り,多くの匠たちの手になったものだからであろう.成立年代については,Wikipedia【バイヨン】に少し書かれている.
 
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。

 
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 バイヨン 第二層には十六の塔があり,それぞれに四面像が彫られている.それらの四面像は「クメールの微笑み」と呼ばれているが,上の写真はその中でも口角を上げまくりのもので,観光客の絶好な撮影ポイントになっている.次から次に観光客がこの前で写真を撮るので,人が写り込まないように撮るには少し待たねばならない.w
 
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(バプーオン)

 バイヨン寺院を出て時計回りに回り込んで行くと,バプーオンがある.これはアンコール・トム内にある寺院の一つで,バイヨン寺院の北西に位置する.二十世紀にはほぼ完全に崩壊していたが,フランスの考古学者チームが復元した.アンコール遺跡の修復復元にはフランスの貢献が大きいようだが,現地ガイドさんの説明では日本もかなり頑張っているらしい.
 
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(「象のテラス」を象徴する三体の象)
 
「象のテラス」は王宮の跡地にあるテラスである.往古,戦から凱旋してきた兵士たちを,クメールの王族たちがこのテラスから閲兵したとされる.「象のテラス」の石積み壁には,ガルーダなど想像上の怪獣が多数彫られている.ガルーダは,ファイナルファンタジーVIXでお馴染みの蛮神である.知りませんか.わかりました.
 
 アンコール・トムは広大で見所も多数あり,じっくり見学するのであれば一日かかると思われる.私たちのツアーは,バイヨン以外はすっ飛ばして,次は神秘的なタ・プロム寺院遺跡に向かった.
アンコールを一目でも (十) へ続く〉

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