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2019年2月16日 (土)

アンコールを一目でも (六)

 ベトナム戦争がようやく和平へ向けて動き始めたと日本の世論が思い始めた時,実は戦火は西方に拡大しつつあった.下に旧フランス領インドシナ (「旧仏領インドシナ」「インドシナ三国」とも) の地図と,ホーチミン・ルートの略図を示す.
 
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(ベトナムの標高図;Wikipedia【ベトナム】から引用した図<パブリックドメイン画像>に,当記事の筆者が文字を書き入れた)
  
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(ホーチミン・ルート(1967年);Wikipedia【ホーチミン・ルート】から引用,パブリックドメイン画像)
  
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(ベトナム・カンボジア国境線沿いに設置された共産側の司令部を示す地図;Wikipedia【カンボジア作戦】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 最初に示したベトナム標高図を見ると,北ベトナムから南ベトナムへの物流が,ラオスとカンボジアを通って行われた事情がよくわかる.
 次のホーチミン・ルートの図で,ラオス領内におけるピンク色の線がホーチミン・ルートである.そのうちで丸数字が付されているのは道路で,その他のピンク色の線は細い物資補給ルートだ.
 また図中の赤褐色の地帯は北ベトナム軍が侵入していたエリア.赤い太線はホーチミン・ルートの一部で「シハヌーク・トレイル」と呼ばれたが,カンボジアではなく北ベトナムが設置した兵站路である.
 三番目の図で“COSVN”とあるのは,北ベトナム軍の拠点「南部中央局」である.ただし,COSVNは実在しなかったとする説もある.
“NLF”は“National Liberation Front for South Vietnam”すなわち南ベトナム民族解放戦線の拠点を示す.“PRG”は,ベトナム解放民族戦線,民族民主平和勢力連合,人民革命党が主体となって1969年6月8日に樹立した南ベトナム共和国臨時革命政府の拠点である.
  
 さて,ジョンソンの米国が,南ベトナムの解放民族戦線をいくら殺しても殺しても,銃と弾丸と兵士が,北ベトナムからやってきた.北ベトナムは,軍事境界線 (北緯17度線;第一次インドシナ戦争の停戦ライン) を突破するのではなく,ラオス領内を通ってカンボジア領内を通過する迂回路を用いて,人と物資を南ベトナムに送り込んだ.軍事境界線は実際には,北緯17度の少し南を流れているベンハイ川だったから,非常強固な守備下にあるこの川を,米軍の攻撃を受けることなく船で渡り,物資輸送することはできなかったからである.
 そこでニクソンは現地軍司令官の具申に基づき,現在は「メニュ作戦」として知られる秘密作戦を展開し,カンボジア東部を爆撃した.1969年3月18日~1970年5月26日までの間に3,000回以上の出撃が行われたという.この米軍によるカンボジア爆撃の最中,カンボジアで政変が起きた.Wikipedia【カンボジア作戦】から一部引用する.ちなみに,Wikipedia【カンボジア作戦】は,出典の英文を翻訳したものらしく,いくつかの誤訳がある上に,尻切れトンボになっている.
 
1970年1月、シハヌークがフランスへ静養に出かけている間に政府主催の反ベトナムデモがカンボジア中で開催された。ロン・ノル国防相兼首相は共産勢力の支援に使用されていたシハヌークビルの港湾施設を閉鎖し、3月12日には北ベトナムに対して72時間以内のカンボジア領内からの撤退を求める最後通牒を送った。このロン・ノルが発表した反共的な「暫定協定」に憤慨したシハヌークは、ハノイ政府に圧力を掛けて北ベトナム軍によってロン・ノル派を鎮圧させるべく、直ちにモスクワおよび北京訪問を調整した。
3月18日、カンボジア国会はシハヌークを追放し、ロン・ノルを暫定元首に選定した。このことでシハヌークは北京に亡命政府を樹立し、彼自身は北ベトナム、ベトコン、クメール・ルージュ、そしてラオスのパテート・ラーオなどと連携することとした。これらの勢力はシハヌークの知名度と人気をカンボジア農村部の支配に利用した。

 
 カンボジアの王族として生まれたノロドム・シハヌークは,第二次大戦後に植民地復活を目指したフランスに抵抗し,カンボジアの独立を勝ち取って「独立の父」と呼ばれた.しかし1955年3月3日に王位を退き,政治家に転身した.同年,政治団体「社会主義人民共同体 (通称サンクム)」を結成し,その総裁として国会選挙に臨み,全議員から支持を得て翼賛体制を築き,1960年には国会選挙の結果,全議員の支持を得て国家元首の地位に就いた.この当時の日本の新聞報道を思い起こすと,シハヌークは,対立する左派右派両勢力を巧みに操る政治家の印象が強い.いわば危ういバランスの上にシハヌークの政権は成立していたと言える.
 そのバランスが1970年に崩れた.それが上の引用箇所に書かれているロン・ノルのクーデターであった.ロン・ノルがクーデターを起こした理由はよくわからない.Wikipedia は項目により理由の記述が異なる.Wikipedia【ロン・ノル】は,次のように述べて,王族内部の対立を指摘している.
 
そして、1970年3月18日に癌治療でモスクワと北京へ訪れているノロドム・シハヌーク国家元首の政権をクーデターで倒した。国会にシハヌークの退位を決議させた。これらは、当時、副首相だったシハヌークの従兄弟であるシリク・マタク親王の強い意志によるものとされ、ロンノルに強く迫ったためであるとされている。
 
 一方,Wikipedia【ノロドム・シハヌーク】は,下の引用箇所で,米国の謀略だったと言っている.
 
クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」と見なし、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。
 
 真相は不明だが,いずれにせよロン・ノルのクーデターは米国の歓迎するところであった.シハヌークは,ニクソンのカンボジア爆撃 (ホーチミン・ルートの破壊) を公然と非難していたからである.
 ロン・ノルのクーデター後,北ベトナムは1970年3月29日,シハヌークを支援するためにカンボジアに侵攻した.これはクメール・ルージュからの要請に基づいた行動だったとされている.ここでようやく,カンボジア内戦の主人公であるクメール・ルージュが表舞台に登場したのであった.
 北ベトナム軍は速やかにカンボジア東部を蹂躙し,プノンペンに迫ったが,クメール・ルージュは北ベトナムとは独立した軍事行動をとったとされる.
 こうして,ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と,中国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポトが率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった.この状態は1975年まで続いた.
 米軍は北ベトナムのカンボジア侵攻を受けて,1970年4月26日,カンボジアに侵攻した.米軍はカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ,同年6月中にはカンボジア領内から撤退した.しかし同年末にはカンボジア領内の北ベトナムの拠点は復旧し,米軍の侵攻は結果的に失敗した.

 1970年のロン・ノルのクーデターと北ベトナムのカンボジア侵攻は,日本でベトナム戦争反対のデモに時々行ったりしていた学生たちにショックを与えた.ベトナムの民族自決のために戦っていたはずの北ベトナムが,カンボジアの民族自決に干渉したからである.
アンコールを一目でも (七) へ続く 〉

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