アンコールを一目でも (七)
前回の記事の末尾に,次のように書いた.
《1970年のロン・ノルのクーデターと北ベトナムのカンボジア侵攻は,日本でベトナム戦争反対のデモに時々行ったりしていた学生たちにショックを与えた.ベトナム民族の自決のために戦っていたはずの北ベトナムが,カンボジア民族の自決に干渉したからである.》
あの頃の私たちは,本当に観念的でお人よしだったと思う.
米国の若者たちは,徴兵されてベトナム送りにされれば,殺さなければ殺されるという極限状況に置かれる.米国のベトナム反戦運動は,自分が生きるか死ぬかのリアリティに直面した運動だった.
ところが私たちはどうだったか.太平洋戦争が終わってから生まれたから,戦争が,戦場がどんなものか見たことがないし,戦後の日本には徴兵制もない.しかも,東京で行われた何千人ものベトナム戦争反対デモだって,その中にベトナムがどんなところか旅行して,自分の目で見たことのある者はほとんどいなかったはずだ.これでは観念的でないほうがおかしい.
また,ベトナム労働党の目的は社会主義革命だった.そのためにはまず革命の第一段階として,南ベトナムから米国を追い出して南北ベトナムを統一し,民族自決を達成する.そしてその後にベトナム全土を社会主義化する.これが二段階革命論で,ベトナム労働党はこれを忠実に実践していたのだった.
だから南ベトナム解放民族戦線は,ベトナム労働党が目指す革命の第一段階に必要な組織であり,実際にはベトナム労働党の非公然党員が指揮していた.そして私たちはお人よしだったから,それを知らなかった.
ベトナムから米国が去ったあと,解放民族戦線兵士はベトナム人民軍 (北ベトナム軍) に吸収され,解放民族戦線に参加した政党は,ベトナム人民革命党 (=ベトナム労働党) を残して,知識人政党やプチブルジョアジー政党は,ベトナム史の舞台から消えた.
日本の昭和四十年代は,一般国民も経済人も政治家も,経済成長だけが関心事だった.(別稿《「エコノミック・アニマル」考 》)
ベトナム戦争の実相が日本でも報道されるようになると,私たち青年層はベトナム戦争に対する関心を失っていった.
私が昨年近江に旅した時,湖北のあるお寺の住職は私に「戦を争ったものは勝った者でも負けた者でも修羅道に堕ちます」と語った.その通りなのだ.
実は無差別殺戮,残虐行為は,米軍や韓国軍の専売特許ではなかった.北ベトナム軍の非人道的行為も,次第に明るみにでるようになったし,ベトナム戦争中に米軍に協力したベトナム山岳の少数民族は,戦後,北ベトナム側に立つ同じ民族によって殺戮された.
そしてカンボジアの地では,自国民を虐殺したクメール・ルージュのポル・ポト派と,革命を達成したベトナムの血で血を洗う戦争が勃発し,ベトナムはカンボジアに傀儡政権を樹立した.革命ベトナムは,かつて米国がベトナムでやったことと同じことをカンボジアでしたのである.
クメール・ルージュとベトナムとの戦争は,中国とソ連の代理戦争であり,もはや西側先進諸国における反戦運動の対象ではなかった.
今から三十年近く前,仕事でベトナムに行ったことがある.訪問予定の食品工場があるホーチミン市郊外は,田畑で人々が農作業するのどかな風景が広がり,街道沿いのカフェでは,のんびりとお茶を飲む人たちがいた.ホーチミン市の街中は,高層ビルこそないものの,通りには乗用車,バイク,自転車が溢れて活気があった.ただ,裏道のそこここに,傷痍軍人と思しき両足を失った物乞いがいたことを,私は強く記憶した.
(ホーチミン市,1992年)
あれから二十七年.仕事からリタイアした私は,しきりにアンコール・ワット遺跡を見てみたいと思うようになった.カンボジアに行ってみようと思った.戦火に焼かれ,銃弾の雨に打たれ,逃げ惑った人々の祖国は今どうなっているのか.
それで,クラブツーリズムの「はじめてのアンコールワット満喫 4日間」に参加を申し込んだ.期間は十二月七日~十日で,プノンペン市街の様子を見られるのは最初と最終日の少しの時間だけで,あとは遺跡の観光をするツアーであった.
〈 アンコールを一目でも (八) へ続く 〉
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