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2019年2月15日 (金)

アンコールを一目でも (五)

 ベトナムの戦況に話を戻すと,「テト攻勢」の報道でベトナム戦争の現実を目の当たりにした米国民は,これを転換点にして民意がベトナム戦争反対に大きく傾いた.そして政権内部からも継戦に反対する意見が強くなって,遂にリンドン・ジョンソンは大統領職を退く決意をした.ジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い,北ベトナムへの北爆を部分的に停止 (完全停止は10月) して北ベトナムに交渉を呼びかけた.
 振り返れば戦争当初,ジョンソンは地上軍によって,南ベトナムの一般村民と解放民族戦線ゲリラを分離区別して戦闘する方針だった.ベトナムの一般人を殺そうとは思っていなかったのだろう.しかし実際にはこの作戦は,その一般人が抵抗したため実行不可能だった.そのため,次第に村民もゲリラも無差別に殺戮する作戦に移行せざるを得なくなり戦争は泥沼化し,消耗戦の様相をあらわしたのだった.
 次の大統領になったニクソンの為すべきことは,北ベトナムおよひ解放民族戦線との講和と撤退であったから,地上軍の撤退を開始しつつ,敵の本体である北ベトナムを交渉の場に引きずり出すことにした.そこでニクソンはジョンソンが停止した北爆を再開 (1972年5月8日) し,対日本戦並みの物量を投入して北ベトナムを爆撃した.
 
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(爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52;Wikipedia【ベトナム戦争】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 再開後の北爆に関する記述を,Wikipedia【ベトナム戦争】から引用する.この当時の戦況がよくまとめられていると思う.
 
アメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、1972年の3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆再開を決定した (ラインバッカーI作戦) 。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間絨毯爆撃で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイなどのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。
海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。
アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。

 
 このあと,ベトナム戦争史のメインストリームは,1973年1月27日のパリ和平協定 (「北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相および南ベトナム共和国臨時革命政府 (南ベトナム解放民族戦線とベトナム民族・民主・平和勢力連合との連合政府) のグエン・チ・ビン外相」対「米国のウィリアム・P・ロジャーズ国務長官および南ベトナムのチャン・バン・ラム外相」の四者間で交わされた) から,米軍の全面的撤退 (ニクソンは1月29日に戦争終結を宣言し,1973年3月29日に撤退を完了した),米国に継戦の意思なしと判断した北ベトナムによる戦争再開 (1975年3月10日),南北ベトナムの統一へと進んだ.
 だが,ニクソンの北爆再開の前に,第三次インドシナ戦争勃発の前触れである出来事が起きた.北ベトナムのカンボジア侵攻である.
アンコールを一目でも (六) へ続く 〉

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