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2019年2月13日 (水)

アンコールを一目でも (四)

 昭和四十三年の春,上京して中野区に住処を定め,駒場の教養学部に通学を始めた私が驚いたのは,駒場東大前駅の出口から大学正門まで,道の両側にズラリと並べられた立て看板であった.毎日毎日,駅前だけでなく学内に入っても立て看板の列は続いていた.
 この頃の立て看板に何が書かれていたかというと,この時既にストライキに入っていた医学部における学生処分問題が主だが,他には三里塚闘争やベトナム反戦についてのものがあった.当時のテレビ放送は,報道という点ではまことに非力なメディアであり,ベトナムの現状を知るために,立て看板とアジビラはかなり役に立った.朝日ジャーナルなどの週刊誌は,貧乏学生が購読するには高かったから,誰かが買ったものを回し読みした.
 そうこうしているうちに,六月十六日に教養学部の自治会正副委員長選挙が行われ,フロント (社会主義学生戦線;当時は構造改革路線のマイナーセクトだった.私と同年に入学した世代の著名人では阿部知子氏がこのセクトだった) の候補が当選した.続いてフロントのヘゲモニーにより全学投票が行われ,ストライキが決定した.さらに七月五日の全学投票で無期限ストライキに突入した.
 
 さて無期限ストライキに突入したはいいが,この時点ではストライキの最終的な目的が何かは分明でなく,しかも無期限ということは納期がないということで,一般学生は自分が何をすべきかわからず,ただ呆然とするだけであった.ストライキに入ったのが時期的には夏休みだったこともあり,キャンパスに出かけてもほとんど学生はいなかった.ある日たまたま,同じ語学クラスの高橋君という人と学内で遭った.私たちは,駒場寮 (当時) の前の植栽の石積みに腰掛けて「俺たちこれからどうなるんかなー」と話したことを思い出す.
 私が住処にした中野の学生寮は二人一室で,いろんな大学の学生がいたのだが,その中に王子博夫君 (東大文学卒.週刊新潮に在籍したが夭逝した) と,同室の西山栄一君 (日大文学部) がいた.この二人はアグレッシブで,ベ平連の集会やデモによく出かけていた.私は彼ら二人からべ平連のことを教えてもらった.
 ベ平連については,後にべ平連活動家の山口文憲らが内側のことを少し書いているが,山口のような中心的な人たちと,集会などに参加する一般人との距離感がかなりあるんじゃないかという印象を私は受けた.
 実際,ずっとあとになって知った (Wikipedia【共産主義労働者党】などに記述あり) が,いいだもも亀和田武らのベ平連の中心的活動家は,共産主義労働者党・プロレタリア学生同盟のメンバーであり,ベ平連はその大衆組織であった.ベ平連の非公然活動に一つに,米軍脱走兵を亡命させるということがあって,その活動に失敗した山口文憲が警察に逮捕されるという事件 (1968年11月) が報道された.一般学生にしてみたらこれは唐突なできごとで,ベ平連て,何か妙なことをやっているなあと私は思った.後に判明したことであるが,べ平連幹部は米軍脱走兵逃亡支援をするにあたって悪名高いKGBに資金援助を要請していた.これは共産主義労働者党が親ソ連派組織だったことと合わせれば,なるほどねーと納得のいくことだった.
 
 べ平連に胡散臭さをかんじた私は,ベ平連系の集会 (翌1969年に盛り上がった新宿西口のフォークゲリラなども含めて) には行かなかった.一つおもしろいのは,フォークゲリラは,高石ともや岡林信康高田渡らフォークシンガーたちから距離を置かれていたということだ.このことは中川五郎が《フォークゲリラWORD》(2015年6月28日) に書いている.ベ平連の政治性と,音楽の実作者であるフォークシンガーたちは,反りが合わなかったということだろう.
 ベ平連のことはそれとして,不思議なのは日本共産党のベトナム反戦運動だった.
 北ベトナムはソ連と中国から軍事的支援 (武器も人的にも) を受けていて,その武器で南ベトナム解放民族戦線は戦っていた.これは戦場では一目瞭然のことだから,秘密でも何でもなかった.
 日本共産党は,ベトナム戦争が泥沼化しつつあった1966年3月に,中国共産党,朝鮮労働党,ベトナム労働党を訪問した.これは当時のメディアが報道したので一般にも知られていた.そのことに関して Wikipedia【日中共産党の関係】に以下の記述がある.
 
アメリカ衆国のベトナム侵略に反対する統一戦線の形成方法をめぐって朝鮮労働党とも意見が一致しベトナム労働党とも意見が一致したが、中国共産党との会談では不首尾に終わった。だが北京においては不一致点はあったが友好的関係は今後も保持するという結論になった。》 (当ブログの筆者による註;このときの中国共産党首脳は鄧小平や劉少奇.この当時,日本共産党と朝鮮労働党が友党だったことはツっ込まないように)
 
 これで帰国しようとした日本共産党代表団 (団長は宮本顕治) が最後に上海で毛沢東と儀礼的な会談を行ったところ,文化大革命を立ち上げて権力闘争を開始しようとしていた毛沢東が,突如宮本顕治にかみついた.Wikipedia【日中共産党の関係】からまた引用する.
 
毛沢東が「北京指導部は軟弱」と突如横槍を入れる形で問題を紛糾させ、結局会談は決裂、これを期に中国共産党の中国政府をも動員した日本共産党への攻撃がはじまった。
この後「暴力革命こそが日本の来る革命の唯一の道」であると北京放送や『人民日報』が報じはじめた。中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出した。

 こうして1966年秋に,日中共産党は対立関係になった.日本共産党とソ連共産党は既に絶縁状態にあったから,その二ヶ国と深い関係にあるベトナム労働党と南ベトナム解放民族戦線をなぜ支持するのか,その理由が私たち一般国民には理解できなかった.忖度すれば,ベトナム労働党が日本共産党の内政に干渉しなければ,特に関係を絶つ必要はないということなのであろう.こんな状況だったから,ベトナム戦争に関する情報は,日本共産党の筋からも日本に伝えられてはいて,つまり民青の活動家から教えてもらうことも多々あったのである.

 このようにして,私たち学生は,ベトナム戦争について一応の知識はあると思っていたのだが,それが大きな間違いだったことを知ったのは,ベトナムから米軍が撤退し,南北ベトナムが統一されたあとのことだった.
アンコールを一目でも (五) へ続く 〉

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