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2019年2月12日 (火)

アンコールを一目でも (三)

  ケネディが暗殺されたあと,リンドン・ジョンソンが大統領を継いだ.ジョンソンの業績については,Wikipedia【リンドン・ジョンソン】に,わかりやすくまとめられている.この記述にあるように,もしもケネディが戦争を始めなかったら,ジョンソンは内政に腕を揮い,歴史に名を遺す大統領になったかも知れない.しかしジョンソンにとって不運なことに,ケネディには,米国は人間の自由の守護神であるとの信念があった.そしてそれはジョンソンもほとんどすべての米国民も同じであった.ケネディの信念“ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.”が彼らをベトナム戦争の泥沼に彷徨わせたのであった.
 1960年12月に結成された南ベトナム解放民族戦線によって,偶発的にであるが1964年にトンキン湾事件が勃発した.次いで1965年2月7日にはアメリカ軍事顧問団基地が解放民族戦線に攻撃され,アメリカ軍将兵が死傷した.これにジョンソンは怒り,北ベトナムへの爆撃 (北爆) を開始した.北爆の効果を過大に評価していた米国政府は,1965年3月8日にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊3,500人が上陸し,本格的な地上戦を開始した.Wikipedia【リンドン・ジョンソン】から下に抜粋引用する.

ジョンソンはウエストモーランド司令官の要請を受けて1965年末には184,000人に増派し、サイゴンのグエン・バン・チュー政権と南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが支援しその背後には中ソがいた)との内戦であったベトナム戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。以後トンキン湾決議に基づき全軍の最高司令官としての大統領に付与された権限を行使して、現地の最高司令官ウエストモーランドの要請に応えて小刻みに増派を繰り返し1965年末に184,000人、1966年末に385,000人、1967年末に486,000人、1968年末には536,000人がベトナムの地で戦い、多くの若者が暑いジャングルの中で心身ともに傷ついていった。戦死者数が1966年4,000人、1967年7,000人、1968年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、1972年末までに第二次世界大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された。
 
 ベトナム現地からの増派要請にいくら応えても戦局は改善しなかった.むしろ次第に後退を余儀なくされるようになった.
 ベトナム戦争の歴史で忘れられがちなのが,戦争に果たした韓国の役割であった.米国でケネディが大統領になった年の5月,朴正煕第2軍副司令官がクーデターにより政権を掌握し,国家再建最高会議議長に就任した.朴正煕は国家再建最高会議議長は11月に訪米し,ベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた.目的は「ベトナム特需」であった.韓国が自ら参戦を望んだのは,アメリカを軍事支援することによって「ベトナム特需」と派兵の見返りとして経済援助を獲得するというものであった.Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国軍・SEATO連合軍の参戦]から引用する.
 
1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに、ベトナム一般市民の犠牲を尻目に官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)など韓国は無関係の第三国に軍事侵攻した事で漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。
 
 ケネディ自身は韓国の自薦を受け入れなかったが,ジョンソンは1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた.韓国は,国ぐるみで「戦争の犬」となったのであった.
 この際に米国と韓国には,韓国軍が何をしても問わないという密約があったとする説がある.その根拠を私は知らないが,韓国軍の戦い方については Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺]に次の記述がある.
 
《・1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した。
・1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した。
・さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)。
・1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件)、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる。
・1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された。
・1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
・同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される。

 
「ベトナム特需」および米国から韓国への経済援助の他に,韓国軍兵士には米国から給料が支払われた.兵士はそのほとんどを家族に送金し,これも韓国経済を潤した.現在の韓国経済の基礎は,ベトナムの人々の殺戮,強奪,女性の凌辱の上に構築されたのである.私たち団塊の世代は,上京してベトナム反戦運動の中でこれを知り,それまで日本の植民地とされた被害者としての韓国のイメージを覆された.旧日本軍の侵略戦争よりも,現在進行形であるだけに,ショックは大きかった.
 今の若い人の「嫌韓」の理由を私は知らないが,高齢者に韓国に好感を持つ人が少ないのは,この朴時代のベトナム参戦が大きく影響している.日本のように形だけでも八紘一宇とかの大義名分を掲げることなく,単に金のために他国民を殺し,奪い,犯す国という韓国のイメージを,私たちは未だに覚えているし,死ぬまで忘れないだろう.
 さて,このような韓国の戦争の犬たちの戦いぶりに,次第に米軍は精神的に荒廃していった.「サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦」である.
 
・韓国海兵隊による無差別殺戮
 韓国海兵隊 (青龍師団) が1968年2月12日にクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害 (フォンニィ・フォンニャットの虐殺) し,同2月25日に同省ハミ村で村民135人を虐殺した (ハミの虐殺).
・米陸軍による無差別殺戮
1968年3月16日,アメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が,クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において村民504人を無差別射撃で虐殺した (ソンミ村虐殺事件).
 
 もはや米国のベトナム戦争には大義も名分もなかった.“for the freedom of man”はどこかに行ってしまった.米軍の敵は解放民族戦線ではなく,ベトナムの村の人々になったのである.
 ソンミ村虐殺事件は,事件翌年の1969年12月,シーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり,『ライフ』誌も報道して,米軍史に残る大虐殺事件が明らかになった.ハーシュの記事は“My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath”と題して出版され,1970年度ピューリッツァー賞を受賞した.
 これより少し前から,米国内での反戦運動が高揚を始めていた.米国のベトナム戦争介入の理論的支柱「封じ込め」政策を提唱した本人であるジョージ・ケナンが1966年に上院の外交委員会・ベトナム公聴会で,ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だと批判した.1967年に入るとキング牧師らの公民権運動の指導者は公然と反戦の声を上げるようになった.これに呼応するかのように,学生たちの反戦運動の波が高まり,次第に全米に反戦運動が波及した,そしてその様子は,日本でも報道されるようになった.
 この年の11月,民主党政権のベトナム戦争最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した.マクナマラは,この戦争には勝てないと考えたのである.
 年が明けてベトナムの旧正月,1968年1月30日夜から北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線は南ベトナムに対する大攻勢,すなわち「テト攻勢」を開始した.Wikipedia【テト攻勢】とWikipedia【ベトナム戦争】とで僅かな齟齬があるが,この「テト攻勢」で解放民族戦線側は軍事的には失敗したが,米国の継戦意思を挫き,戦略的には成功したといえる.
 Wikipedia【テト攻勢】から一部を抜粋引用する.
 
南ベトナム事態は、メディアを通じて世界に報道された。特にテレビにより、生々しい映像がアメリカ合衆国に伝えられ、世論に大きな影響を与えた。また南ベトナムの国家警察総監グエン・ゴク・ロアン(阮玉灣)はサイゴンの路上で、解放戦線の捕虜、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)とされる人物を拳銃で即決処刑した。その残酷な場面は、カメラマンのエディ・アダムズに撮影され、世論に衝撃を与えた。アダムズはこの写真(『サイゴンでの処刑』)、で1969年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞した。
戦術的には、解放民族戦線側は損害の大きさの割に成果が少なく、攻撃は失敗に終わった。しかし、ベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよアメリカ大使館が占拠された事態は、衝撃をもって受け止められた。このような理由から、戦略的には解放戦線が成功を収めたといえる。
特に、フエやチョロンその他デルタ地帯の都市部への空爆の実態なども、改めて米国民の知るところとなり、アメリカ本土のベトナム反戦運動は非常に高まった。これにより、アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは、次期アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を自ら取り止めた。

 
 ベトナム戦争の状況がこのような大きく変化した時に,私は大学入学試験を受け,合格して上京の荷造りをした.昭和四十三年の春三月であった.
アンコールを一目でも (四) へ続く 〉

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