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2019年2月 3日 (日)

近江の旅 (補遺一)/工事中

 向源寺の飛地境内に在る観音堂には (1) 「渡岸寺観音堂由来」(高月町国宝維持保存協賛会の記名) と題した由来書の立て札が建てられている.ここに書かれている観音堂の由来と,同じく飛地境内に建てられている (2) 「埋伏地由来」(渡岸寺観音堂の記名) と題した由来書の立て札の記述,(3) 拝観者に配られる拝観券「国寶十一面観世音渡岸寺観音堂 (向源寺) 」(高月町国宝維持保存協賛会と渡岸寺観音堂が共に記名) に記された内容,および (4) Wikipedia【向源寺】の記述,(5) ブリタニカ国際大百科事典【向源寺】の記述,更には十九世紀に成立した (6) 江州伊香 (註;滋賀県伊香郡) 三十三所観音霊場札所の御詠歌 (伝堅光禅師編) の六資料の記述が,すべてまちまちで,資料間に大きな食い違いがあることが判明した.国宝十一面観音が現在置かれている状態 (文化財としての所属は宗教法人の向源寺であるが,それと,この観音を信仰してきた人々は異なるようだ) には,おそらく宗派の教義に関する問題や,複雑な歴史的政治的事情があるものと推察される.

 以下の記事は,上記の六資料に加えて,小川光三『魅惑の仏像7 十一面観音 滋賀・向源寺』(毎日新聞社) および『日本の国宝079 滋賀/彦根城 彦根城博物館 神勝寺 向源寺 都久夫須麻神社 宝厳寺』(週刊朝日百科) を参照して正誤を判断できるまで執筆をペンディングとする.
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 白洲正子は『十一面観音巡礼』(新潮社,1975年;講談社文芸文庫,1992年) に収められた随筆「湖北の旅」の中で,向源寺の十一面観音について次のように書いた.

土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することもできなかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本尊を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を防げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。

 上の引用文中,着色した箇所は甚だしい事実誤認,または虚偽であるので,これについて以下に述べる.
 
土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。
 
 上記箇所を解説するために,Wikipedia【向源寺】の「歴史」の記述を下に引用する.この部分の記述は,小川光三『魅惑の仏像7 十一面観音 滋賀・向源寺』(毎日新聞社,1986年) が出典である.同書は古書の流通が少ないが,いくつかの公共図書館に所蔵されているので,内容確認に支障はない.
 
歴史
『近江伊香郡志』所収の寺伝によれば、天平8年 (736年)、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。延暦9年 (790年)、比叡山延暦寺の開祖である最澄が、勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。
元亀元年 (1570年)、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した
明治21年 (1888年)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが当寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像と賞賛した。古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定は明治30年 (1897年)12月28日付けで行われたが、このとき、この十一面観音像も国宝に指定された (当時の「国宝」は、文化財保護法における「重要文化財」に相当する)。国宝指定時の内務省告示における十一面観音像の所有者名は「観音堂」となっている。向源寺が属する真宗では、阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないが、この十一面観音像については、向源寺飛地境内観音堂に祀るということで、本山から許可された。大正14年 (1925年) には平安時代建築の様式を取り入れた観音堂が再建された。昭和17年 (1942年) には宗教団体法の規定に基づき、向源寺飛地境内観音堂は正式に向源寺の所属となった。十一面観音像が文化財保護法に基づく国宝 (いわゆる新国宝) に指定されたのは昭和28年 (1953年) のことである。同年より、十一面観音像と胎蔵大日如来坐像は、高月町国宝維持保存協賛会の理事が毎日交替で維持管理に当たっている。

 
 上の引用箇所中,議論に必要な箇所は,見やすくするために緑色に着色した.
 また,白洲正子の生没年は明治四十三年 (1910年) 一月七日 ― 平成十年 (1998年) 十二月二十六日である.白洲正子は学習院女子部初等科を卒業したあと,米国の女子高に留学し,帰国したのは昭和三年であった.
 問題の「湖北の旅」が発表されたのは雑誌『芸術新潮』昭和五十年三月号であった.この時,正子は六十五歳.
 さて,白洲正子の連載随筆『十一面観音巡礼』第一回「聖林寺から観音寺へ」の冒頭に次のようにある.
 
はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。
 
 この箇所の少しあとに《私は既に結婚しており》とあることと合わせると,白洲正子が仏像巡りを始めたのは,学習院初等部の生徒時代ではなく,ましてや米国留学中ではなく,帰国して白洲次郎と結婚したあとの昭和初め頃だったと考えられる.
 
無住の寺で

  
本尊

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