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2019年2月26日 (火)

アンコールを一目でも (十二)

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(中央祠堂)

 

 1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退すると,カンボジアではロン・ノル政権が崩壊必至の状況となり,1975年4月にロン・ノルは国外へ亡命した.ベトナムではサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したが,その13日前にクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させた.翌1976年1月に国名を民主カンプチアに改称した.1976年7月,南北ベトナムが統一されたベトナム社会主義共和国が建国された.
 こうしてインドシナ半島から,共通の敵であった米軍が撤退すれば,次は国際共産主義運動の正統たるベトナムと,異端のポル・ポト派カンボジアの覇権争い,戦争は必須であった.「国際共産主義の正統」とは,革命を一つの国の中に留めないことである.それをしないのは「修正主義」なのである.これまでベトナムはラオスやカンボジアに共産党を設立し,教育訓練を行ってきたが,それはインドシナ半島全体に社会主義革命を展開するためであった.一方のポル・ポト派にしてみれば,ベトナムは歴史的にカンボジアを領有支配してきた国家であったから,ベトナムは憎むべき敵であったのである.1976年には早くも衝突が始まったが,1977年から両国は本格的に交戦を開始した.この時期,空想的,観念的にして,為政者としても軍人としても無能だったポル・ポトは両面作戦を取った.すなわち対ベトナムの戦争と,カンボジア国家の解体である.
 米軍が撤退した頃既にカンボジア東部の農業は危機に瀕していたが,たぶん額に汗して労働をしたことのないポル・ポトは,増産の号令をかければ地面から米が湧いてくると思っていたのかも知れない.Wikipedia【民主カンプチアから下に引用する.
 
さらに、内戦による都市から農村への人口の流入も相まって、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)が「カンボジアの食糧危機回避には17.5万 - 25万トンの米が必要である」と報告し、アメリカ国務省は「民主カンプチアは今後外国からの食糧援助を拒否するため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。
そのため、ポル・ポトは米の生産量を3倍に引き上げることを目標に掲げ、この目標の下、農村に移住させられた都市住民は、農作業や灌漑施設の建設などのために、劣悪な環境の中で朝5時から午後10時まで働かされた。近代的な機械は資本主義の罪悪の象徴とされたため使用を許されず、全ては人間の手作業によって行われた。このような過酷な労働環境の結果、過労により死亡する者が相次いだ。
また、生産された米の多くは外国からの武器調達資金を得るために輸出されたため、1日2杯のおかゆだけしか許されない食生活と劣悪な労働環境は、多くの人民を、飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやっていった。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺の大きな要因の一つとなっていった。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 中国がポル・ポト派をタダで支援するはずはなく,中国製の武器弾薬は,カンボジア人の命を持って贖われていたのである.お人よしの米国は,莫大な戦費と自国の兵士の生命を南ベトナムに注ぎ込んで戦ったが,中国にとってカンボジアは金儲けの相手であった.
 
 ポル・ポトの思想における「農業生産」の観念性は,数千万人の餓死者を出して惨憺たる大失敗に終わった毛沢東の大躍進政策を想起させる.ポル・ポトは毛沢東主義者だったとする定説を疑う声があるが,ポル・ポトが,科学的近代農法はもちろん伝統農法も無視したことに関しては,紛れもなく毛沢東の影響である.
 ポル・ポトの両面作戦の一つ,カンボジアという国家の解体すなわち原始共産主義化はうまくいくはずもなく,内政の破綻は自国民の大量虐殺という人類史に未曾有の地獄を現出させた.
 もう一方のベトナムとの戦争はどうなったか.ポル・ポトはカンボジア東部の自国軍を,反乱の疑いありとして,攻撃した.攻撃された側 (東部軍管区) の十数万人の将兵たちはベトナムに逃亡した.再び Wikipedia【民主カンプチア】
から下に引用する.
 
1978年1月、民主カンプチアはカンボジア東部からベトナム領内へ越境攻撃し、現地住民を虐殺した上ベトナムと国交を断交した。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(そこはベトナム系カンボジア人の住民が多く、実際にベトナム政府が民主カンプチアへの反乱を提案したこともあった)を攻撃し、東部地区の大量のカンプチア将兵を処刑した。このため、ベトナム領内には、軍民を問わず、10数万人にのぼる東部地区の避難民が流入した。その中にはヘン・サムリンなどの指導者も多数含まれていた。ベトナム政府は、ベトナム領内への侵攻と、カンボジア内のベトナム人虐殺をやめるよう民主カンプチア政府に働きかけようとしたが、その対話は成功しなかった。同年4月から5月には、カンボジア軍がベトナムに侵入し、アンザン省バチュク村(英語版)の2地区のほとんどの住民、3,157名を虐殺した(バチュク村の虐殺)。これに対し、翌6月にはベトナムも反撃を開始し、空軍が国境付近に空爆を開始した。またベトナム政府は、クメール・ルージュのカンボジアからの排除の意思を固めた。ベトナムはソ連にカンプチア侵攻に対する援助を要請し、1978年11月3日、ソ越友好協力条約が結ばれた。この動きに対し、民主カンプチアと友好関係にあった中国は、ベトナムに軍事作戦を示唆する警告を発したが、ベトナムはこれを無視した。
1978年12月25日、準備が整ったと判断したベトナムは、ベトナム国内に避難していたカンボジア人の中から人員を選び、カンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織させた。カンプチア救国民族統一戦線の議長にはヘン・サムリンが選ばれた。そして、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込み、カンボジア・ベトナム戦争が勃発した。ベトナム戦争からまだ数年しか経っておらず、アメリカがベトナムに残した武器装備を保持し、ソ連から援助を受け、戦い慣れした将兵に事欠かなかったベトナム軍、および彼らに訓練を受けたカンプチア救国民族統一戦線にとって、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していた民主カンプチア革命軍の排除は、全く手間取るような作戦ではなかった。カンプチア革命軍は中国の支援を受けて装備は充実していたが、正面からベトナム軍を食い止めようとしても敵わず、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減した。
1979年1月7日、ベトナム軍はプノンペンに入り、ポル・ポトの軍勢を敗走させた。そしてベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)が成立した。クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。タイはカンボジア領内でポル・ポト派によって採掘されるルビー売買の利権を得、さらに反ベトナムの意図から、自国領を拠点にポル・ポト派がベトナム軍およびヘン・サムリン政権軍に反攻することを容認した。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 忘れられがちであるが,カンボジアの隣国タイはカンボジアの惨状を知りつつ,中国と並んでポル・ポト派を保護,支援したのである.それも恥ずべきことに,金儲けのために
 中国は金蔓の敗勢を見て,対ベトナム報復攻撃を開始した.しかしカンボジア侵略の大義を持たぬ中国人民軍は,士気高いベトナム軍の敵ではなかった.Wikipedia【カンボジア内戦】から下に引用する.
 
しかし、戦争に慣れ、士気・錬度が高く、ソ連から軍事援助を供与され、さらにアメリカ軍が南ベトナムに残した大量の兵器を有するベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。その後、クメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続いた。プノンペンを支配するヘン・サムリンはベトナムの傀儡と化しており、長期にわたるベトナム軍の駐留は国内外から非難された。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム三派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム三派の連合政府・民主カンボジアが成立、カンボジアは完全に二分された。一方、1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。
1984年7月の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム三派の民主カンボジアの拠点であるマライ山を攻略、3月にはシハヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンボジア政府の軍事力はほぼ壊滅した。

 

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(第二回廊のデバター像)

 現在でこそポル・ポト派を支持する者はいないが,当時は違った.
 
国境を接する国家間の侵略とそれに対する防衛戦争との線引きは難しいが,国際社会の反応はベトナムに厳しかった.イギリスなど数ヶ国を除いて,民主カンプチアを承認した.ポル・ポト政権 (民主カンプチア) の直接支援国である中国とタイは別として,西側諸国やASEANがポル・ポト政権支持に動いたのは,自国の民よりも我が身の保身のために生きたシハヌークの働きが大きかった.Wikipedia【カンボジア・ベトナム戦争】に以下のようにある.
 
第34回国際連合総会で、カンプチア人民共和国と民主カンボジアの双方が代表権を主張した。前者はカンボジアとカンボジア人民の唯一の正統な代表でもあると、国連安保理の参加国に伝えた。対して国連資格委員会は、政権時代の恐怖政治にもかかわらず、6対3で民主カンボジアを承認することに決した。従って民主カンボジア代表団は中国の強い支援を受けて総会に代表を送ることができた。1980年1月、29か国がカンボジア人民共和国と外交関係を樹立したが、依然として80か国近くが民主カンボジアを正当な政権として承認していた。同時に西側列強と東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟国は、ベトナムが武力でクメール・ルージュ政権を排除することを激しく非難した。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 要するに国際社会は,よってたかってポル・ポトを支持したのである.だがベトナムは,国際的包囲網に屈せず,ポル・ポト派の打倒まで戦い続けた.ベトナムの意図は別として結果的には,カンボジア民族が絶滅に瀕せずに済んだのは,ベトナムによるカンボジア侵略のおかげだと言える.外国の侵略がその国の民の命を救った.なんという歴史の皮肉か.
 
 ポル・ポト派はベトナムに打倒される前,アンコール・ワットに立て籠もって戦ったが,ベトナムとその傀儡政権 (ヘン・サムリン率いるカンプチア人民共和国政府) の軍は, アンコール・ワット内への侵攻をためらった.戦争とはいえ,さすがにこの文化遺産を破壊するに忍びなかったのであろう.Wikipedia【アンコール・ワット】の記述を引用する.
 
1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。
だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。
内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。
今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。

 
 現地のガイドさんたちは観光客に,遺跡に残っている弾痕を示す.それを見る私たちは,かつて国際社会がポル・ポト派を支持していたことを思い起こさねばならない.とりわけ,アンコール・ワットを見物しながらワイワイと陽気に騒いでいる中国人観光客を見て,私は強くそう思った.カンボジアの人々は,かつてポル・ポトと組んでカンボジアを絶滅の危機に追い込んだ連中が観光に来て落とす金を,生活のために必要としているのだ.心中察するに余りある.
アンコールを一目でも (十三) へ続く 〉

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