アンコールを一目でも (二)
日本の戦後世代は,ケネディ大統領に悪い印象を持たなかったと言っていいだろう.
1960年安保闘争でよく言われることのひとつに「改訂された新日米安全保障条約を読んだことのある人はほとんどいなかった」がある.Wikipedia【安保闘争】には次の記述がある.
《小室直樹や西部邁などは「安保反対と言って騒いでいた中に、安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している[要出典]。西部は当時全学連中央執行委員をしていた》
[要出典]と書かれているが,昔からこれは言われていて,たぶん実際に西部邁はこう言っていたと思われる.メディアにこのように書かれても西部邁は否定しなかったと私は記憶している.
それはともかく,60年安保闘争は,条約の中身を知っているかどうかは問題ではなかったのだ.それは長らく日本国民の心底にあった反米感情が噴出したものだったからである.
(国会を取り囲んだデモ隊;Wikipedia【安保闘争】から引用,パブリックドメイン画像)
広島と長崎への原爆投下は当然のことであると米国と米国民は公言していたし,日本の敗戦直後から継続的に行われた核実験は,日本人の感情を逆撫でした.1946年のビキニ環礁核実験では戦艦長門が敗戦国の象徴として沈められた.1954年のビキニ環礁における水爆実験「キャッスル作戦」では,第五福竜丸が被爆 (この水爆実験で被爆した漁船は数百隻に上るとされ,被爆者は二万人を越えるという) した.また被爆者補償が,日米の政府間交渉 (日本政府は鳩山一郎内閣) の結果,賠償金ではなく「好意による見舞金」とされたことは,日本国民に敗戦国の惨めさとして受け止められた.
(キャッスル作戦・ロメオ実験のキノコ雲;Wikipedia【キャッスル作戦】から引用,パブリックドメイン画像)
その三年後,在日米軍相馬が原演習地 (群馬県) で,1957年 (昭和三十二年) 1月30日,換金して生活費に充てる目的で薬莢を拾いに演習地内へ立ち入った日本人主婦を,背後からウィリアム・S・ジラード三等特技兵が射殺した. (ジラード事件) (詳細資料)
これは明らかに愉快犯的な殺人であったにも関わらず,なぜか傷害致死罪で起訴され,しかも判決には執行猶予が付いた.(後に,重罪に処しないという日米政府間の密約があったことが判明した.日本政府は岸信介内閣)
この事件も日本国民の反米感情を強く刺激し,こうして反基地運動,反核運動,平和運動は反米闘争の面を見せ始めたのだった.
小中学校では教組が反安保集会を開き,私たち生徒は何ら意味を知らずに校庭で「アンポハンターイ」と声を上げてデモ遊びをした.先生たちには叱られなかった.
しかし60年安保闘争は,その根底にあるものが漠とした反米感情に過ぎないから,国会前に空前のデモ隊を現出させただけで,6月19日に条約が自然成立した後は何らの国民運動にも結実せぬままに雲散霧消した.
その年の11月,米国大統領選でケネディが勝利すると,日本の大衆は掌を返して米国の若くて強いリーダーシップを持つ大統領を歓迎した.
ケネディは,かつて自分が艇長であった魚雷艇「PT-109」と日本の駆逐艦「天霧」が衝突して死線を彷徨った戦時体験があるが,大統領選中,旧天霧の乗組員を選挙応援のために米国に招待した.米国民は,かつての敵国軍人が恩讐を越えて選挙応援に駆け付けたことをフェアプレイとして称賛し,日本の大衆はこれを喜んだ.
反米のように見えた英語教員は,ケネディの大統領就任演説をプリントして生徒に配ったし,この演説中の最も有名な箇所
“And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.”
は流行語のように巷で語られた.
確かにケネディはカッコよかった.でもケネディの演説って,日の丸の小旗を振って出征兵士を送り出した「お国の為」とどう違うの?
そんな割り切れない思いが胸の底に沈んでいったある日,ケネディは暗殺された.
何がどういうわけで暗殺されたのか,皆目わからないうちに,日本のラジオからは追悼曲“Let Us Begin Beguine”が頻繁に流れて大ヒットした.そんな立派な大統領だったの?と私たちは疑問に思ったが,ケネディが,選挙に勝つためにはマフィアと手を組み,下半身の緩いオヤジだったことを知ったのは,もっとずっとあとのことだった.
こんな本当はテンヤワンヤの状況の中で,テレビは無論のこと,新聞やラジオも国際社会で何が起きているのかを報道することは少なかった.私たちの世代は,ケネディ暗殺後の米国が何を始めたのかを知ろうともせずに受験勉強に精を出し,高校を卒業していった.
こうして大学に入り,受験勉強から解放された私たちの前に現れたのがベトナム戦争反対運動だった.
〈 アンコールを一目でも (三) へ続く 〉
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