アンコールを一目でも (十四)
さて翌日はツアー最終日.午前中はベンメリア遺跡の見学だ.バスを参道の入り口にある駐車場というか広場に停めると,左右に御土産を売る店があった.固定店と,テント店がいくつか.
今回のカンボジア旅行では,たくさんの犬を見かけたが,猫は一匹も見なかった.どうしてだろうとあとで調べたら,猫の写真を載せた旅行記が見つかった.どうやら市街部にいるらしい.私たちは遺跡観光ツアーだからほとんど郊外にいた.それで猫の姿を見かけなかったのかも.
下の写真,参道の向こうから,地雷被害者楽団が演奏する曲が聞こえてきた.楽団はあちこちの遺跡で演奏しているのだが,観光客がカメラを向けるのはあまりにも無礼というものだろう.従って私の旅行アルバムにその写真はない.
ベンメリアには,廃墟感が漂う.敢えて修復をしていないらしい.下の写真の右端に通路が写っている.
下の写真のように瓦礫というか,石造遺跡の崩れた跡をたくさん見ることができる.遺跡の中は観光客が侵入すると身の危険があるし,遺跡周辺は地雷地帯であるせいか,レンジャーっぽい服装の女性がパトロールしていた.
夏草やつわものどもが夢のあと,というのが私たちの文学だが,それは人々の木材に拠った営為が木材と共に朽ち果てていく有様である.クメールの石造寺院遺跡はそうではなく,樹木が旺盛に人間の作ったものを瓦礫化していく過程を見せてくれる.日本の樹木にはこれほどの生命力はない.
さて,私たちのバスは,ベンメリアへ行く途中で,弁当を仕入れていた.下の写真だが,お握りにウインナ,揚げ餃子などのおかずが実によくできている.日本の食材を調達するとコストがバカにならないと思われるが,日本のスーパーで「お握り弁当」と名付けて売っても全く違和感がない出来栄えだった.
たった数日のツアーだから「日本食が恋しい」なんてことは全然ないのだが,ここまで来てお握りを食べるとは思ってもいなかったので,楽しい趣向であった.
(カンボジアのお弁当;お握りの向こうに山菜,タクアンときゅうりのキューちゃんがある)
(昼食を摂った休憩所の犬)
午後は,カンボジアで三番目の世界遺産サンボープレイクック遺跡を観る.Wikipedia に項目がないくらいの,観光的にはマイナーな遺跡だ.ネット上の資料としては《カンボジアの森に眠る古代都市「イシャナプラ」(サンボー・プレイ・クック)探訪 》を推奨.
サンボープレイクック遺跡はシェムリアップの南東かつプノンペンの真北の中間地点にある.これはアンコール遺跡に先行する都市と寺院の遺跡群で,日本の時代では飛鳥時代あたりに相当するらしい.アンコール遺跡等は石造だが,この遺跡は煉瓦造りである.寺院建築に使う砂岩がこの付近では採れないとか,あるいは運ぶ手段がないとかの理由があったのだろう.
この遺跡がアンコール遺跡などと決定的に違うのは,遺跡が存在する一帯の森林の様相である.ネット上でそういう指摘をするのは私が最初のようであるが.
私は,大学院は農芸化学だが,学部は農学部林産学科の森林化学講座というところを卒業した.この講座は,樹木を始めとする森林の植物を化学的な立場から研究するという学問ジャンルであったが,それは研究レベルの話であって,私たち学部学生は隣接分野である林学の講義も受講した.林学研究の方法の一つに,森林を生態系として捉えた生態学・環境学的アプローチがあり,私はそのほんの入り口をかじったのである.
話は横に飛ぶが,少し前にNHKスペシャルの名作として知られる『明治神宮 不思議の森 ~100年の大実験~ 』が再放送された.この番組は,明治神宮創建の際に,計画的に造林された「神宮の森」を取り上げたものである.Wikipedia【明治神宮】によれば,次のようである.
《明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学の本多静六・本郷高徳・上原敬二・田村剛・川瀬善太郎・中村斧吉(林苑課長)・大溝勇・山崎林志・中島卯三郎、農学/造園の原煕、大屋霊城・狩野力・太田謙吉・森一雄・水谷駿一・田阪美徳・寺崎良策・高木一三・森一雄・井本政信・北村弘・横山信二・石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
引用文中の《およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達する 》は神宮の森における仮説検証のことと考えたほうがよいだろう.というのは,日本とカンボジアでは樹木を含む植物種全体が全く異なる上に,気候条件も違う.従って「百年後」は東南アジアの密林に適用されないとはいえる.だが,アンコール遺跡周辺の密林と,このサンボープレイクック遺跡がひっそりと存在する明るい林では受ける印象が随分と違う.いずれも百年どころか千年近い歳月を経て形成された森である.どちらがカンボジアの風土における極相林なのであろうか.
上の写真は, ガジュマルの気根が,煉瓦造りの遺跡を崩壊から守っている.
これ↑は祈りを捧げる堂だ.遺跡ではあるが,今も周辺の村人たちがお詣りしている現役の宗教建造物である.草が生えているが,これを放置するといずれ崩れてしまう.
これ↑もガジュマルが,わずかに残ったレンガを支えている.
上の写真のお堂は,草による風化を防ぐために屋根で覆われている.
現地ガイドさんによると,サンボープレイクック遺跡をぐるりと一周して,ガジュマルが守っているこの堂↑の前で記念撮影するのがよいとのこと.ガイドさんがそう言うと,十二人の女性たちが,まず自分一人で一枚撮影し,次にガイドさんと並んで一枚撮るのを繰り返した.それくらい好感度の高いモテモテなガイドさんであった.各自の記念撮影が済んだら,このツアーは予定終了でプノンペンに行く.バスで四時間以上かかる移動であった.
このプノンペンまでの道中は,カンボジアの農村地帯であった.残念なことにバスの窓から撮った農村の写真が全部ピンボケで,ここに掲載できない.写真はないが記憶に残るのは,田を耕すために飼われている牛たちが,農家の庭先に繋がれていたり,あるいは田で草を食んでいたのだが,ことごとく痩せさらばえて,アバラ骨が浮き出ていたことである.カンボジアの農村は貧しい.そう思わざるを得ない光景であった.
プノンペンに到着して,空港近くのレストランで夕食を摂った.街中には上の写真のようにクリスマスの電飾があり,そこそこの人出はあった.
食後,空港までの短い間に,現地ガイドさんが自分のことを話した.想像だが,彼は学校教育を受けていないのかも知れない.ポル・ポトのせいである.カンボジアは,ポル・ポトが知識人層を殺戮しつくしたために,学校の先生そのものがいなくなってしまった.およそ国というものの礎は教育である.だからカンボジアの人々は祖国を再建するにあたって,まず学校の先生を育成するところから始めなければならなかった.今でもカンボジアの小学校は二部制だとガイドさんは言った.先生が足りないからだという.しかし仮に先生がいても,貧困を克服しなければ子供たちは学校に通えない.カンボジアは困難な両面作戦を強いられている.
農業技術,工業技術,芸能など知識層を必要とする社会のあらゆる分野で,カンボジアはポル・ポトの大虐殺から立ち直れていない.三十年前のベトナムよりも貧しいかも知れないのだ.
誰がカンボジアをこんな国にした.軍事顧問団を派遣して対ベトナム戦を指導し,武器や地雷を売りつけて代金として米を収奪し,人々を飢餓に陥れた中国か.カンボジアに産するルビーの利権欲しさにポル・ポト派を自国領内に保護し,そこから出撃させて戦争を長引かせたタイか.国連の場で売国王シハヌークを持ち上げた西側諸国か.
私は覚えているが,日本のメディアはシハヌーク寄りだった.日本の知識人層もシハヌーク支持が大勢だった.シハヌークの背後に中国と北朝鮮がいたからである.彼らは,細々と伝えられていたカンボジアの惨状から目を逸らし,偉大な文化大革命の中国と,「地上の楽土」北朝鮮の幻影の前に平伏した.その最悪な例は,元朝日新聞記者で週刊金曜日編集長でもあった本多勝一である.本多はポル・ポト政権を賞賛していたが,風向きが悪くなると途端に掌を返した.本多は世渡り上手な似非左翼の典型であった.本多と同じ穴の貉である佐高信や落合恵子など週刊金曜日の古参編集委員たちにポル・ポトの評価を訊いてみたいものである.
かつての日本でポル・ポトを礼賛した者や毛沢東主義者だった者を列挙していくと血圧が上がってしまう.若い人たちは,カンボジアの悲劇はポル・ポト個人が極悪人だったからだと思っているかも知れないが,直接的にポル・ポトを支援した国だけでなく,当時の国際社会の多くがポル・ポト支持だったことを知って欲しい.そんなことを成田への帰国便の中で私は思った.(カンボジア旅行記本文,了)
〈 アンコールを一目でも (補遺1) へ続く 〉
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