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2019年2月

2019年2月28日 (木)

アンコールを一目でも (十四)

 さて翌日はツアー最終日.午前中はベンメリア遺跡の見学だ.バスを参道の入り口にある駐車場というか広場に停めると,左右に御土産を売る店があった.固定店と,テント店がいくつか.
 
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 今回のカンボジア旅行では,たくさんの犬を見かけたが,猫は一匹も見なかった.どうしてだろうとあとで調べたら,猫の写真を載せた旅行記が見つかった.どうやら市街部にいるらしい.私たちは遺跡観光ツアーだからほとんど郊外にいた.それで猫の姿を見かけなかったのかも.
 
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 下の写真,参道の向こうから,地雷被害者楽団が演奏する曲が聞こえてきた.楽団はあちこちの遺跡で演奏しているのだが,観光客がカメラを向けるのはあまりにも無礼というものだろう.従って私の旅行アルバムにその写真はない.
 
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 ベンメリアには,廃墟感が漂う.敢えて修復をしていないらしい.下の写真の右端に通路が写っている.
 
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 下の写真のように瓦礫というか,石造遺跡の崩れた跡をたくさん見ることができる.遺跡の中は観光客が侵入すると身の危険があるし,遺跡周辺は地雷地帯であるせいか,レンジャーっぽい服装の女性がパトロールしていた.

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 夏草やつわものどもが夢のあと,というのが私たちの文学だが,それは人々の木材に拠った営為が木材と共に朽ち果てていく有様である.クメールの石造寺院遺跡はそうではなく,樹木が旺盛に人間の作ったものを瓦礫化していく過程を見せてくれる.日本の樹木にはこれほどの生命力はない.
 さて,私たちのバスは,ベンメリアへ行く途中で,弁当を仕入れていた.下の写真だが,お握りにウインナ,揚げ餃子などのおかずが実によくできている.日本の食材を調達するとコストがバカにならないと思われるが,日本のスーパーで「お握り弁当」と名付けて売っても全く違和感がない出来栄えだった.
 たった数日のツアーだから「日本食が恋しい」なんてことは全然ないのだが,ここまで来てお握りを食べるとは思ってもいなかったので,楽しい趣向であった.
 
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(カンボジアのお弁当;お握りの向こうに山菜,タクアンときゅうりのキューちゃんがある)

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(昼食を摂った休憩所の犬)
 
 午後は,カンボジアで三番目の世界遺産サンボープレイクック遺跡を観る.Wikipedia に項目がないくらいの,観光的にはマイナーな遺跡だ.ネット上の資料としては《カンボジアの森に眠る古代都市「イシャナプラ」(サンボー・プレイ・クック)探訪 》を推奨.
 サンボープレイクック遺跡はシェムリアップの南東かつプノンペンの真北の中間地点にある.これはアンコール遺跡に先行する都市と寺院の遺跡群で,日本の時代では飛鳥時代あたりに相当するらしい.アンコール遺跡等は石造だが,この遺跡は煉瓦造りである.寺院建築に使う砂岩がこの付近では採れないとか,あるいは運ぶ手段がないとかの理由があったのだろう.
 この遺跡がアンコール遺跡などと決定的に違うのは,遺跡が存在する一帯の森林の様相である.ネット上でそういう指摘をするのは私が最初のようであるが.
 私は,大学院は農芸化学だが,学部は農学部林産学科の森林化学講座というところを卒業した.この講座は,樹木を始めとする森林の植物を化学的な立場から研究するという学問ジャンルであったが,それは研究レベルの話であって,私たち学部学生は隣接分野である林学の講義も受講した.林学研究の方法の一つに,森林を生態系として捉えた生態学・環境学的アプローチがあり,私はそのほんの入り口をかじったのである.
 話は横に飛ぶが,少し前にNHKスペシャルの名作として知られる『明治神宮 不思議の森 ~100年の大実験~ 』が再放送された.この番組は,明治神宮創建の際に,計画的に造林された「神宮の森」を取り上げたものである.Wikipedia【明治神宮】によれば,次のようである.
 
明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学の本多静六本郷高徳・上原敬二・田村剛・川瀬善太郎・中村斧吉(林苑課長)・大溝勇・山崎林志・中島卯三郎、農学/造園の原煕、大屋霊城・狩野力・太田謙吉・森一雄・水谷駿一・田阪美徳・寺崎良策・高木一三・森一雄・井本政信・北村弘・横山信二・石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 引用文中の《およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達する 》は神宮の森における仮説検証のことと考えたほうがよいだろう.というのは,日本とカンボジアでは樹木を含む植物種全体が全く異なる上に,気候条件も違う.従って「百年後」は東南アジアの密林に適用されないとはいえる.だが,アンコール遺跡周辺の密林と,このサンボープレイクック遺跡がひっそりと存在する明るい林では受ける印象が随分と違う.いずれも百年どころか千年近い歳月を経て形成された森である.どちらがカンボジアの風土における極相林なのであろうか.
 
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 上の写真は, ガジュマルの気根が,煉瓦造りの遺跡を崩壊から守っている.
 
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 これ↑は祈りを捧げる堂だ.遺跡ではあるが,今も周辺の村人たちがお詣りしている現役の宗教建造物である.草が生えているが,これを放置するといずれ崩れてしまう.
 
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 これ↑もガジュマルが,わずかに残ったレンガを支えている.
 
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 上の写真のお堂は,草による風化を防ぐために屋根で覆われている.
 
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 現地ガイドさんによると,サンボープレイクック遺跡をぐるりと一周して,ガジュマルが守っているこの堂↑の前で記念撮影するのがよいとのこと.ガイドさんがそう言うと,十二人の女性たちが,まず自分一人で一枚撮影し,次にガイドさんと並んで一枚撮るのを繰り返した.それくらい好感度の高いモテモテなガイドさんであった.各自の記念撮影が済んだら,このツアーは予定終了でプノンペンに行く.バスで四時間以上かかる移動であった.
 このプノンペンまでの道中は,カンボジアの農村地帯であった.残念なことにバスの窓から撮った農村の写真が全部ピンボケで,ここに掲載できない.写真はないが記憶に残るのは,田を耕すために飼われている牛たちが,農家の庭先に繋がれていたり,あるいは田で草を食んでいたのだが,ことごとく痩せさらばえて,アバラ骨が浮き出ていたことである.カンボジアの農村は貧しい.そう思わざるを得ない光景であった.
 
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 プノンペンに到着して,空港近くのレストランで夕食を摂った.街中には上の写真のようにクリスマスの電飾があり,そこそこの人出はあった.
 食後,空港までの短い間に,現地ガイドさんが自分のことを話した.想像だが,彼は学校教育を受けていないのかも知れない.ポル・ポトのせいである.カンボジアは,ポル・ポトが知識人層を殺戮しつくしたために,学校の先生そのものがいなくなってしまった.およそ国というものの礎は教育である.だからカンボジアの人々は祖国を再建するにあたって,まず学校の先生を育成するところから始めなければならなかった.今でもカンボジアの小学校は二部制だとガイドさんは言った.先生が足りないからだという.しかし仮に先生がいても,貧困を克服しなければ子供たちは学校に通えない.カンボジアは困難な両面作戦を強いられている.
 農業技術,工業技術,芸能など知識層を必要とする社会のあらゆる分野で,カンボジアはポル・ポトの大虐殺から立ち直れていない.三十年前のベトナムよりも貧しいかも知れないのだ.
 誰がカンボジアをこんな国にした.軍事顧問団を派遣して対ベトナム戦を指導し,武器や地雷を売りつけて代金として米を収奪し,人々を飢餓に陥れた中国か.カンボジアに産するルビーの利権欲しさにポル・ポト派を自国領内に保護し,そこから出撃させて戦争を長引かせたタイか.国連の場で売国王シハヌークを持ち上げた西側諸国か.
 私は覚えているが,日本のメディアはシハヌーク寄りだった.日本の知識人層もシハヌーク支持が大勢だった.シハヌークの背後に中国と北朝鮮がいたからである.彼らは,細々と伝えられていたカンボジアの惨状から目を逸らし,偉大な文化大革命の中国と,「地上の楽土」北朝鮮の幻影の前に平伏した.その最悪な例は,元朝日新聞記者で週刊金曜日編集長でもあった本多勝一である.本多はポル・ポト政権を賞賛していたが,風向きが悪くなると途端に掌を返した.本多は世渡り上手な似非左翼の典型であった.本多と同じ穴の貉である佐高信や落合恵子など週刊金曜日の古参編集委員たちにポル・ポトの評価を訊いてみたいものである.
 かつての日本でポル・ポトを礼賛した者や毛沢東主義者だった者を列挙していくと血圧が上がってしまう.若い人たちは,カンボジアの悲劇はポル・ポト個人が極悪人だったからだと思っているかも知れないが,直接的にポル・ポトを支援した国だけでなく,当時の国際社会の多くがポル・ポト支持だったことを知って欲しい.そんなことを成田への帰国便の中で私は思った.(了)
 
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2019年2月27日 (水)

アンコールを一目でも (十三)

 アンコール・ワットを見学したあと,ツアー一行の予定は,オールド・マーケット (シェムリアップ市街地にある観光客向け商店街) の観光である.

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(昼寝する子犬)
 
 上の写真は,アンコール・ワットからオールド・マーケットへのバス移動中,トイレ休憩に立ち寄った茶店の片隅で昼寝する子犬である.アンコール遺跡周辺や,シェムリアップ郊外で見かけた犬たちは,飼い犬だけど首輪なしで自由気ままだ.犬は元々が楽天的な生き物で,好人物に飼われると,実に天真爛漫に育つ.この茶店で買われているカンボジアの犬たちは,リードなしで楽しそうに遊んでいた.
 昔,仕事で中国の上海以南の地方を旅行した時,ガイドさんがこう言った.「中国人は机以外の四本足はすべて食べます.中国に野良犬はいません」ヾ(--;)
 上海の食料品市場を視察した時,犬が売られていたのを見た私は,ガイドさんの説明が嘘でないことを知った.そして今や中国は犬虐待大国だ.ヾ(--;)ニホンモナ
 この休憩所で,私の他にもう一人ツアーに参加していた爺のセクハラ行為を目撃した.爺は売店でココナッツを買い求め,店の人にストロー用の穴を二つ開けてもらい,ストローを二本挿した.そしてこれをツアー参加者の女性たちに「一緒に飲もう!」と言い寄ったのである.若いとは言い難い婦人たちはきっぱりと断ったが,娘さんたちの一人が断り切れずにストローを口にした.私は昼食時にこの爺に絡まれて喧嘩になりかかったので,爺のセクハラ狼藉を見てもぐっと堪えた.
 思うに,こういう非常識行動をとる参加者を制止するのはツアコンダクタの責務である.旅行代理店は,ツアーメンバーのセクハラにどう対処するか,添乗員の教育を徹底すべきであろう.
 
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(シェムリアップの観光スポット,オールド・マーケット)
 
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(橋の手前はオールド・マーケットで,川向こうはナイト・マーケット)
 
 私たちのバスは,市街を流れるトンレサップ川沿いのオールド・マーケット (WIkipedia【シェムリアップ】) 側で一行を降ろし,買い物を済ませたツアー参加者を拾って夕食会場のレストランへ行く予定になっていた.
 上の写真に写っている橋が集合場所だったのだが,集合時間になっても誰も来ない.同じような橋が近くにもう一つあるので,私はそちらに行ってみたが誰もいない.私が焦りぎみになって二本の橋を二往復していたら,ようやく皆がやってきた.呆れたことにツアコンダクタも遅刻した.買い物をしていたらしいが,添乗員が買い物にうつつを抜かしてどうする.
 しかも参加者のうちの一人,朝は寝坊して皆の出発を遅らせ,遺跡観光では奇声を発して騒ぎ,道中でセクハラ行為をしたあのトラブル爺が行方不明になっていることが判明した.これがその夜のドタバタ劇の開演であった.
 添乗員S青年は暫く待ちましょうと皆に言ったが,いくら待っても来ない.S青年は電話連絡しようとしたが,彼のスマホはバッテリー切れ間近だった.そこで彼は会社支給のガラケーを取り出したのだが,使い慣れないと見えて,なかなか爺のケータイにかけられなかった.
 余談だが,海外旅行中の電話のかけ方を知らない人がいる.私はドコモのガラケー使用者なので,相手の携帯番号の前に「+81」を付けて発信する.これはコマンドメニューから呼び出すこともできるし,直接入力もできる.この「+81」を付けて電話帳登録することもできる.ところが,この「+」の出し方を知らない人が割と多いのである.英数記号の「+」ではないからである.S青年がそうだった.
 ようやく爺の携帯電話にかける操作がわかったS青年は,爺に電話をかけ続けると共に東京に応援と指示を仰いだ.だがこのままではツアー一行は夕食とカンボジア民族舞踊の鑑賞ができなくなる.状況を見かねた現地ガイドさんは,S青年に,マーケット周辺で爺を捜索するように指示し,現地ガイドさんの所属する会社に捜索の応援を求めた.その会社から何人かが集められて捜索隊を作って夜の大捜索が開始された.S青年と捜索隊にあとをまかせて,現地ガイドさんは私たちを夕食会場のレストランへ案内した.
 
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(アプサラダンス;Amazon Angkor Restaurant にて.中央の踊り手が主役)
 
 私たち一行が夕食を摂る予定になっていた“Amazon Angkor Restaurant”は,カンボジアの伝統民族舞踊のショーを鑑賞できるレストランである.あまり高級とは言い難い店だが,日本人観光客が多い店だとネットに書かれている.
 私たちはショータイム付きの食事時間に大幅に遅れたので,到着した時はもうショー開演の寸前だった.食事はブフェ形式であったが,他の客たちはもう食べ終わっていたから,料理の保温容器 (チェーフィングディッシュ;chafing dish) はほとんど下げられていて,私たちの食べる分はあんまり残っていなかった.私は仕方なく皿に,固形燃料が燃え尽きたので冷えてしまった飯と,カンボジア風のカレーを盛って席に着いた.
 
 クメール王朝の頃から伝わるカンボジアの伝統民族舞踊の一つに「アプサラダンス」がある (上の写真).クメール民族の伝統舞踊には大衆舞踊と宮廷舞踊があり,アプサラダンスは宮廷舞踊である.アプサラは天女のこと.
 カンボジアという国家の解体を目論んだポル・ポトは,およそ文化と呼ばれるものと,その担い手を憎み,殺した.アプサラダンスの踊り手もほとんど殺されたという.だが,わずかに生き残った人々がこの舞踊を現代に復活させた.Wikipedia【シェムリアップ】の記述を紹介する.
 
伝統舞踊
カンボジア古典舞踊は、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。カンボジアの舞踏には、古来より、宮廷の儀式で舞われた王宮古典舞踏と、庶民に受け継がれた民族舞踏の二つの流れがある。カンボジアの宮廷古典舞踏は、アンコール時代、王や神々への祈りのために舞われ、以来王宮で大切に保護されていたが、クメール・ルージュの弾圧の対象となり、9割の舞踏家や楽師の命が失われ一時滅亡の危機に陥る。しかし、1980年、王室や生き残った舞踏家たちにより、王立芸術大学が再開し、古典舞踏も蘇る。
古典舞踏の代表的な演目に「アプサラ・ダンス」があり、カンボジア舞踏を通称 アプサラ・ダンス と呼ぶこともある。アプサラの語源は、「アプサラス」という古代インド神話に登場する天女で、天の踊り子、または、クメール王からの神への最高使者を意味する。世界遺産アンコールワットの壁画の浮彫(レリーフ)にも、アプサラ(天女)の舞の様子が無数に刻まれている。

 
 正直に言うと,私はカンボジア舞踊をナメていた.カンボジア舞踊にはストーリー性がある (あとで知った) から,ちゃんと鑑賞するには下調べが必要だったのに,疎かにしたので,何が何やらわからなかったのである.
 まず押えておく必要があるのは,ベトナムのメコンデルタにはクメール人が少数民族として存在していること.そしてカンボジアの伝統舞踊は,彼等のアイデンティティを構成していることだ.
 次に資料によると,ベトナムからアプサラダンスに取り込まれた振付があるらしい.また隣国タイはクメール文化が受容された歴史があるから,クメールの宮廷舞踊と音楽は,タイの舞踊に大きな影響を与えたという.実際に動画を観てみると,似ている.
 それから,カンボジアの伝統舞踊はアプサラダンスが有名で,ショーを観た日本人のブログではこれを紹介したブログが多い.大衆舞踊を観た感想は少ない.
 
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 上の写真は,ココナッツダンスと呼ばれる.大衆舞踊の一つ.
 
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 次も大衆舞踊.舞踊の名称はフィッシングダンス.川で魚を獲るのに使う籠を持った青年たちと,農作業に使う笊を持った村娘たちの踊りと思われるが,文字情報だけで比定しているので,確信はない.ヾ(--;)
 これと全く同じモチーフの踊りが沖縄にあって,沖縄の民謡と舞踊を観ながら食事する店で鑑賞したことがある.大衆舞踊には,色々な国や民族に共通するところがあるのかも.
 
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 上の踊りはモニメカラダンス.左側は巨人リェムソー.右側は女神のモニメカラ.この踊りはストーリーを予習しておいたほうがよい.現代でも雨乞いの時に踊られるという.足を後ろに跳ね上げる振り付けはカンボジア舞踊の特徴だ.
 
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 上はたぶんテップノロムダンス.だと思う.じゃないかなー.
 
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 上の写真の踊り手は,女神たちの踊りの主役であるが,ソロでも踊った.舞踊名称不明.
 他の踊り手たちは少年少女という年齢だったが,このかたは大人の女性だった.
 とまあ,舞踊ショーは美しかったが,食い物がなかったのは残念だった.あの爺のせいだと腹を立てつつ席を立ったその時,添乗員S青年がレストランに到着した.爺を発見したという.
 ツアーメンバーがS青年を取り囲んだところでS青年は言った.「○○さん (爺の本名) はホテルに戻っていました」
 どうやら,道に迷った爺は,トゥクトゥク (タイでは三輪タクシーだが,カンボジアではバイクが人力車みたいなものを引いて走る) で勝手にホテルに帰ったようだ.私の推理では,この クソ 爺は海外での携帯電話のかけ方を知らなかったのではないか.それで添乗員S青年に連絡しようとしなかったのだ.阿保にも程がある.
 実はS青年は,海外旅行添乗の経験がほとんどないのだということがこの時に判明した.それなのに大トラブルに見舞われて,傍目に見ても,かなり落ち込んでしまった.(新人はもっとやさしい国の担当にしてあげればいいのに…)
 そこで彼に「ホテルのバーで飲もうよ」と誘った.会社員は,誰だって最初は失敗が避けられない.それをいくつも経験して一人前になる.そんなことをエラソーに話して元気づけてあげようと思ったのである.他の女性たち数人にも声をかけたら,二つ返事で参加してくれることになった.
 ところが,ところが,である.その激励会にクソ爺 (取消線なし) が現れたのである.そしてふんぞり返ってビールを飲みながら,添乗員が悪いから俺は迷子になった (意味不明) んだと文句を垂れた.私は呆れ果てて,自分の飲み物の代金をテーブルに置き,体調が悪いので,と言って自分の部屋に戻った.

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2019年2月26日 (火)

アンコールを一目でも (十二)

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(中央祠堂)

 

 1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退すると,カンボジアではロン・ノル政権が崩壊必至の状況となり,1975年4月にロン・ノルは国外へ亡命した.ベトナムではサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したが,その13日前にクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させた.翌1976年1月に国名を民主カンプチアに改称した.1976年7月,南北ベトナムが統一されたベトナム社会主義共和国が建国された.
 こうしてインドシナ半島から,共通の敵であった米軍が撤退すれば,次は国際共産主義運動の正統たるベトナムと,異端のポル・ポト派カンボジアの覇権争い,戦争は必須であった.「国際共産主義の正統」とは,革命を一つの国の中に留めないことである.それをしないのは「修正主義」なのである.これまでベトナムはラオスやカンボジアに共産党を設立し,教育訓練を行ってきたが,それはインドシナ半島全体に社会主義革命を展開するためであった.一方のポル・ポト派にしてみれば,ベトナムは歴史的にカンボジアを領有支配してきた国家であったから,ベトナムは憎むべき敵であったのである.1976年には早くも衝突が始まったが,1977年から両国は本格的に交戦を開始した.この時期,空想的,観念的にして,為政者としても軍人としても無能だったポル・ポトは両面作戦を取った.すなわち対ベトナムの戦争と,カンボジア国家の解体である.
 米軍が撤退した頃既にカンボジア東部の農業は危機に瀕していたが,たぶん額に汗して労働をしたことのないポル・ポトは,増産の号令をかければ地面から米が湧いてくると思っていたのかも知れない.Wikipedia【民主カンプチアから下に引用する.
 
さらに、内戦による都市から農村への人口の流入も相まって、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)が「カンボジアの食糧危機回避には17.5万 - 25万トンの米が必要である」と報告し、アメリカ国務省は「民主カンプチアは今後外国からの食糧援助を拒否するため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。
そのため、ポル・ポトは米の生産量を3倍に引き上げることを目標に掲げ、この目標の下、農村に移住させられた都市住民は、農作業や灌漑施設の建設などのために、劣悪な環境の中で朝5時から午後10時まで働かされた。近代的な機械は資本主義の罪悪の象徴とされたため使用を許されず、全ては人間の手作業によって行われた。このような過酷な労働環境の結果、過労により死亡する者が相次いだ。
また、生産された米の多くは外国からの武器調達資金を得るために輸出されたため、1日2杯のおかゆだけしか許されない食生活と劣悪な労働環境は、多くの人民を、飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやっていった。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺の大きな要因の一つとなっていった。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 中国がポル・ポト派をタダで支援するはずはなく,中国製の武器弾薬は,カンボジア人の命を持って贖われていたのである.お人よしの米国は,莫大な戦費と自国の兵士の生命を南ベトナムに注ぎ込んで戦ったが,中国にとってカンボジアは金儲けの相手であった.
 
 ポル・ポトの思想における「農業生産」の観念性は,数千万人の餓死者を出して惨憺たる大失敗に終わった毛沢東の大躍進政策を想起させる.ポル・ポトは毛沢東主義者だったとする定説を疑う声があるが,ポル・ポトが,科学的近代農法はもちろん伝統農法も無視したことに関しては,紛れもなく毛沢東の影響である.
 ポル・ポトの両面作戦の一つ,カンボジアという国家の解体すなわち原始共産主義化はうまくいくはずもなく,内政の破綻は自国民の大量虐殺という人類史に未曾有の地獄を現出させた.
 もう一方のベトナムとの戦争はどうなったか.ポル・ポトはカンボジア東部の自国軍を,反乱の疑いありとして,攻撃した.攻撃された側 (東部軍管区) の十数万人の将兵たちはベトナムに逃亡した.再び Wikipedia【民主カンプチア】
から下に引用する.
 
1978年1月、民主カンプチアはカンボジア東部からベトナム領内へ越境攻撃し、現地住民を虐殺した上ベトナムと国交を断交した。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(そこはベトナム系カンボジア人の住民が多く、実際にベトナム政府が民主カンプチアへの反乱を提案したこともあった)を攻撃し、東部地区の大量のカンプチア将兵を処刑した。このため、ベトナム領内には、軍民を問わず、10数万人にのぼる東部地区の避難民が流入した。その中にはヘン・サムリンなどの指導者も多数含まれていた。ベトナム政府は、ベトナム領内への侵攻と、カンボジア内のベトナム人虐殺をやめるよう民主カンプチア政府に働きかけようとしたが、その対話は成功しなかった。同年4月から5月には、カンボジア軍がベトナムに侵入し、アンザン省バチュク村(英語版)の2地区のほとんどの住民、3,157名を虐殺した(バチュク村の虐殺)。これに対し、翌6月にはベトナムも反撃を開始し、空軍が国境付近に空爆を開始した。またベトナム政府は、クメール・ルージュのカンボジアからの排除の意思を固めた。ベトナムはソ連にカンプチア侵攻に対する援助を要請し、1978年11月3日、ソ越友好協力条約が結ばれた。この動きに対し、民主カンプチアと友好関係にあった中国は、ベトナムに軍事作戦を示唆する警告を発したが、ベトナムはこれを無視した。
1978年12月25日、準備が整ったと判断したベトナムは、ベトナム国内に避難していたカンボジア人の中から人員を選び、カンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織させた。カンプチア救国民族統一戦線の議長にはヘン・サムリンが選ばれた。そして、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込み、カンボジア・ベトナム戦争が勃発した。ベトナム戦争からまだ数年しか経っておらず、アメリカがベトナムに残した武器装備を保持し、ソ連から援助を受け、戦い慣れした将兵に事欠かなかったベトナム軍、および彼らに訓練を受けたカンプチア救国民族統一戦線にとって、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していた民主カンプチア革命軍の排除は、全く手間取るような作戦ではなかった。カンプチア革命軍は中国の支援を受けて装備は充実していたが、正面からベトナム軍を食い止めようとしても敵わず、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減した。
1979年1月7日、ベトナム軍はプノンペンに入り、ポル・ポトの軍勢を敗走させた。そしてベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)が成立した。クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。タイはカンボジア領内でポル・ポト派によって採掘されるルビー売買の利権を得、さらに反ベトナムの意図から、自国領を拠点にポル・ポト派がベトナム軍およびヘン・サムリン政権軍に反攻することを容認した。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 忘れられがちであるが,カンボジアの隣国タイはカンボジアの惨状を知りつつ,中国と並んでポル・ポト派を保護,支援したのである.それも恥ずべきことに,金儲けのために
 中国は金蔓の敗勢を見て,対ベトナム報復攻撃を開始した.しかしカンボジア侵略の大義を持たぬ中国人民軍は,士気高いベトナム軍の敵ではなかった.Wikipedia【カンボジア内戦】から下に引用する.
 
しかし、戦争に慣れ、士気・錬度が高く、ソ連から軍事援助を供与され、さらにアメリカ軍が南ベトナムに残した大量の兵器を有するベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。その後、クメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続いた。プノンペンを支配するヘン・サムリンはベトナムの傀儡と化しており、長期にわたるベトナム軍の駐留は国内外から非難された。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム三派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム三派の連合政府・民主カンボジアが成立、カンボジアは完全に二分された。一方、1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。
1984年7月の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム三派の民主カンボジアの拠点であるマライ山を攻略、3月にはシハヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンボジア政府の軍事力はほぼ壊滅した。

 

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(第二回廊のデバター像)

 現在でこそポル・ポト派を支持する者はいないが,当時は違った.
 
国境を接する国家間の侵略とそれに対する防衛戦争との線引きは難しいが,国際社会の反応はベトナムに厳しかった.イギリスなど数ヶ国を除いて,民主カンプチアを承認した.ポル・ポト政権 (民主カンプチア) の直接支援国である中国とタイは別として,西側諸国やASEANがポル・ポト政権支持に動いたのは,自国の民よりも我が身の保身のために生きたシハヌークの働きが大きかった.Wikipedia【カンボジア・ベトナム戦争】に以下のようにある.
 
第34回国際連合総会で、カンプチア人民共和国と民主カンボジアの双方が代表権を主張した。前者はカンボジアとカンボジア人民の唯一の正統な代表でもあると、国連安保理の参加国に伝えた。対して国連資格委員会は、政権時代の恐怖政治にもかかわらず、6対3で民主カンボジアを承認することに決した。従って民主カンボジア代表団は中国の強い支援を受けて総会に代表を送ることができた。1980年1月、29か国がカンボジア人民共和国と外交関係を樹立したが、依然として80か国近くが民主カンボジアを正当な政権として承認していた。同時に西側列強と東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟国は、ベトナムが武力でクメール・ルージュ政権を排除することを激しく非難した。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 要するに国際社会は,よってたかってポル・ポトを支持したのである.だがベトナムは,国際的包囲網に屈せず,ポル・ポト派の打倒まで戦い続けた.ベトナムの意図は別として結果的には,カンボジア民族が絶滅に瀕せずに済んだのは,ベトナムによるカンボジア侵略のおかげだと言える.外国の侵略がその国の民の命を救った.なんという歴史の皮肉か.
 
 ポル・ポト派はベトナムに打倒される前,アンコール・ワットに立て籠もって戦ったが,ベトナムとその傀儡政権 (ヘン・サムリン率いるカンプチア人民共和国政府) の軍は, アンコール・ワット内への侵攻をためらった.戦争とはいえ,さすがにこの文化遺産を破壊するに忍びなかったのであろう.Wikipedia【アンコール・ワット】の記述を引用する.
 
1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。
だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。
内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。
今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。

 
 現地のガイドさんたちは観光客に,遺跡に残っている弾痕を示す.それを見る私たちは,かつて国際社会がポル・ポト派を支持していたことを思い起こさねばならない.とりわけ,アンコール・ワットを見物しながらワイワイと陽気に騒いでいる中国人観光客を見て,私は強くそう思った.カンボジアの人々は,かつてポル・ポトと組んでカンボジアを絶滅の危機に追い込んだ連中が観光に来て落とす金を,生活のために必要としているのだ.心中察するに余りある.

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2019年2月25日 (月)

アンコールを一目でも (十一)

 昨日の記事の訂正.昼食を摂ったレストランの名をメモし忘れたと書いたが,撮影した画像の中に店名が写っていた.w

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“PARADISE ANGKOR VILLA HOTEL”
 
 件のレストランは「パラダイス アンコール ビラ ホテル」のメインダイニングだったと思われるので,同ホテルのサイトを閲覧したところ,The Lian Hua Restaurantのようだ.清潔感のあるホテルでカンボジアでは四つ星だと口コミにあった.

 さて,私たちのバスは,タ・プローム遺跡からシェムリアップに戻り,そこからまたアンコール・ワットへ向かった.この日の朝は遠景を観ただけなので,今度は中に入る.
 
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(シェムリアップからアンコール・ワットへ移動するバスの窓から撮影)
 
 (上) 何かわからないけれど,果実を瓶に詰めて売っている.
 (中) 街角のカフェ
 (下) こうやって見ると,日本の田舎の街道沿みたいである.家の屋根がね.w
 
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(日本語で書かれた記念碑)
 
 由来がよくわからないのだが,アンコール・ワットへの道に日本語で書かれたモニュメントがあった.もしかしたら,アンコール遺跡群が世界遺産に登録されるにあたって,日本も貢献したのであろうか.
 調べてみると,1980年代の動乱の時代が終わった後,アンコール遺跡群を修復し,これを世界遺産に登録しようとする各国の協力が始まった.この事業はカンボジア復興のための国際協力が開始される契機となったという.遺跡の修復と世界遺産登録は,一体の大事業だったようである.この修復と世界遺産登録の初期段階から日本は支援を継続していると,遺跡修復事業に携わった下田一太氏 (筑波大学) の《アンコール遺跡群 》にあった.上の写真の記念碑は,世界遺産登録だけでなく遺跡修復に関係した各界が建てたものだろう.ちなみに文字の下の図にはユネスコ世界遺産と彫られている.
 
 さて,カンボジアの近現代史は比較的知られているが,古代史は日本語で書かれた資料が少ない.私が持っているのは,今川幸雄編訳『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』(株式会社めこん発行,1995年) である.今川幸雄氏は日本の外交官である.その立場を反映してか,シハヌークに関する評価にバイアスがかかっている.それを考慮すればよい参考書だろう.
 同書には,アンコール遺跡群建設に関するカンボジアの伝説が記されているので,概略を紹介しよう.ただし,同書に書かれているままの文章は辻褄の合わない部分があるので,話の筋を損なわぬ程度のわずかな修正を行った.
 
 仏歴六百年 (西暦57年) 頃,サンハイという所にルム・センという名の中国人がいた.ある日,ルム・センの家の庭に五人の天女が降りてきて遊んでいた.そのうちの一人,テップ・セダチャンという天女は勝手に庭の木の枝から花を摘んだ.これを怒った雷神インドラはテップ・セダチャンに,六年間,ルム・センの妻になるよう命じた.ルム・センの妻となったテップ・セダチャンは,絹糸を買って美しいサンポット (腰巻) を織った.ルム・センが金貸しにそのサンポットを見せたところ,これを賞賛した金貸しはルム・センに金を貸し与えた.この金で絹糸を買い,妻が織ったサンポットを売って,ルム・センは金持ちになった.
 やがて夫婦には子が生まれ,プリヤ・ヴィサカムと名付けられた.ヴィサカムには美術的な才能があった.六年の罰が終わるとテップ・セダチャンは天に帰った.
 その頃,カンボジアを統治していた王が世継ぎを残さずに死んだ.ある日,ティアという像使いが川で象を洗っていると,料理された鶏を載せたタライが流れてきた.ティアがこれを寺の和尚に見せたところ,和尚はこれが特別なものであることを知り,自分は頭を食べ,ティアに体の部分を,ティアの妻に骨の部分を食べさせた.するとティアと妻は魔法にかかり,王と王妃に変身した.そして二人の間にはプリヤ・ケットメリアという王子が生まれた.
 一方,ヴィサカムは天に帰った母を探し求めて流浪していたが,ある日,大勢の天女が踊っているところに遭遇し,その中にいた母テップ・セダチャンと再会した.テップ・セダチャンがヴィサカムを天に連れて行くと,雷神インドラはヴィサカムに多くの技術を教え,それをカンボジアの民に教えるよう命じた.
 インドラはまた,カンボジアからケットメリアを天に連れてきて,四百歳まで生きる呪術を施し,ヴィサカムに寺院を建設させよと命じた.
 ヴィサカムは,ケットメリアに命じられた寺を次々に建設したが,二人に諍いが生じ,ヴィサカムは中国に逃亡した.
 
 この伝説の前半,天女が人間の妻になるという話は,日本の羽衣伝説に似ている.
 後半のケットメリア誕生譚は,鶏を桃に置き換えると,日本の桃太郎伝説の類型である.桃太郎伝説は,Wikipedia【桃太郎】によれば,明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春話であったという.それが一説には,明治になってから教育上の配慮から「桃太郎は桃から生まれた」と改作されたらしい.
 興味深いのは,この伝説は,カンボジア王が中国人技術者を使役してアンコールの寺院群を建設させた物語だということ.古代の両国の接触が垣間見える.
 
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(西参道から西塔門を望む)

 ところで,アンコール・ワットは,カンボジア・ベトナム戦争 (カンボジア内戦と呼ぶよりも実態をよく表していると私は思う) 中,ポル・ポト派が立て籠もったことで有名である.ここを訪れた高齢者には,よくぞまあ破壊されずに残ったものだと感慨を抱く人は多かろう.
 若い人が書いたウェブページにも,ポル・ポトの大虐殺を取り上げたものがある.例えば《カンボジアの悪夢》だ.これは本当に立派なレポートで,私は筆者を尊敬する.
 ただ,この記事は残念ながら,ある種の狂人といっていいポル・ポトを一国のトップに据えたのは誰か,ポル・ポトの背後にいた者は誰なのかについての考察が不充分と言わざるを得ない.ポル・ポトが政権を奪取した当時の国際情勢や,国際共産主義運動の知識がないと,ポル・ポト個人の悪行として理解してしまうのは無理からぬことではあるのだが.
 
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(西塔門)
 
 ポル・ポトがカンボジアの地にもたらした災厄については,インドシナ半島における各民族が建てた王朝の歴史,フランスによるインドシナの植民地化,太平洋戦争,民族独立の動きと半島における共産主義運動,ベトナム戦争,そして国際共産主義運動内部の対立とカンボジア・ベトナム戦争という時系列で見ていくとわかりやすい.この歴史は,最終的に,カンボジアの共産主義者とベトナムの共産党の戦争,そして中ソ対立を背景にした代理戦争へと進んだわけだが,ポル・ポト派による自国民大虐殺は,その過程で発生した悲劇だった.スターリン以後の共産主義運動あるいは共産主義そのものの暗黒面が,あからさまになった例の一つであった.
 
 カンボジアとベトナムの対立は,アンコール王朝が成立した十三世紀に始まるというから,日本で言えば鎌倉時代の合戦を二十世紀まで続けたようなものだ.十九世紀前半にカンボジアはベトナムの属国となり,十九世紀中頃にはベトナムに併合された.
 その次にフランス植民地時代となるが,これ以後もベトナムにとってカンボジアは,ベトナムの一部であるという意識があったと思われる.そのため,フランスが去った後のベトナム戦争の際に,ベトナムは,ラオスとカンボジア東部を自国領土のように振舞った.これがホーチミン・ルートである.米国 (ニクソン大統領) は,ベトナムからの撤退を進めるために,北ベトナムを軍事的に追い詰め,交渉の場に引き込む必要があった.その時に起きたのが,米国に支援されたロン・ノルが,元首シハヌークを追放したクーデター (1970年3月) である.その時の状況を Wikipedia【ベトナム戦争】から引用する.
 
このような状況の中、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦(1970年 - 1975年)が始まった。
なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナムから強く批判された。
さて、北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、4月26日には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。
カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。
なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 ポル・ポト,毛沢東,周恩来,金日成.ここに悲劇の立役者たちが舞台に登場した.悲しいまでに愚かなシハヌークは,自分の地位を回復するためには鬼悪魔と手を結ぶことを厭わなかった.そしてポル・ポトの宣伝塔に堕したシハヌークは,国際社会を欺き,カンボジアの国土がキリング・フィールドと化すのに大きな役割を果たしたのであった.

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(西参道から中央祠堂を望む)
 
 上に Wikipedia【ベトナム戦争】から引用した1970年の戦況は,カンボジア作戦と呼ばれる.この軍事行動に続いて米軍は,1971年1月末に同様な目的でラオスにも侵攻したが,これもはかばかしい戦果をあげることができなかった.
 米国にとって戦況がなかなか好転せぬうちに,1972年の3月末,北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を突破して南ベトナムへの侵攻を開始したため,講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆再開を決定した.この大規模かつ集中的な爆撃により,北ベトナムは大損害を被り,継戦不能な状態に追い込まれた.歴史にイフはないが,この時にニクソンが北ベトナムを完膚なきまでに降伏させてから講和に持ち込んだら,インドシナは今とかなり異なったものになっていたかも知れない.だがニクソンは,北ベトナムとの交渉が可能になった段階で,米軍の撤退を優先した.それと同時にニクソンは1972年2月に訪中し,両国の関係を改善強化する方向に動いた.中ソ対立の状況下に,対ソ連外交で有力なカードを得るためであった.
 この中国の動きを,北ベトナムは裏切りとして受け止め,以後,ソ連との関係を強化することになった.逆に中国はポル・ポト派との関係を強化し,こうしてインドシナ半島に中ソの代理戦争の種が撒かれたのであった.
 以上は《アンコールを一目でも (五) 》とアンコールを一目でも (六) 》で簡単に触れたが,1972年秋頃にパリで秘密交渉が持たれたあと,和平交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に,フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印が行われた.そして4日後の1月27日に,南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官,北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされたのであった.
パリ和平協定で「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し,1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した.ベトナム戦争の最盛期の1968年に南ベトナムに派遣されていた米軍540,000人は,1969年以後の撤退計画が実行され,1973年1月の協定締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたため,2ヶ月後の3月29日には撤退が完了した.
 米軍の撤退完了を見て北ベトナム政府は,停戦協定を破り,南ベトナムを完全に制圧して南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した.
 1975年4月中旬には南ベトナム政府軍が首都サイゴンの防衛に集中するため,主な前線から撤退を開始した.
 4月30日の早朝には,サイゴンに残っていた南ベトナム政府の要人や軍の上層部,南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが,サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで南シナ海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した.
 日本政府は民間機を使ったサイゴンからの撤退作戦を行うことができず,在留邦人は混乱のサイゴンに取り残された.この時の状況については,牧久『サイゴンの火炎樹』(ウェッジ,209年) が参考になる.
 同日の午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し,ベトナム戦争は終わった.そして1976年4月に南北統一選挙が行われ,7月1日に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言された.

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2019年2月24日 (日)

古希前年の祝い

 もうすぐ私の誕生日なので,娘がランチを御馳走してくれるという.店は茅ヶ崎の駅から少し歩いたところにある“La Table de Toriumi”を予約してくれた.
 娘はこの店をよく使っているという.以前は茅ヶ崎駅から遠かったのだが,駅の近くに移転してきたと言っていた.
 
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 私が頂いた献立は以下の通り.

[ 二月のランチメニュー ]
* オードブル
 Tout Petit pois!(全部プチ・ポワ!)
  イタリアのプッリャ州産グリーンピース,その鞘のジュレ,ムースに,名古屋コーチンの温泉卵を添えて.
 
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* 冬のスペシャリテ
 百合根の温かいスープに,帆立貝のラビオリとヒマラヤトリュフを.
 
* メインディッシュ
 豪州産仔羊骨付背肉のグリル,芽キャベツと新ジャガのソテーを,フキノトウのソースで.
 
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* 今月のデザート
 焼きたて熱々の林檎のショーソン・オ・ポム (つまりアップルパイ) とカルバドス酒のアイスクリーム.
 
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というラインアップに,食後のコーヒー,お茶菓子のマドレーヌが昨日の昼食であった.
 食前酒はジン・トニック,メインの肉料理にはグラスワイン (赤) にした.
 うむ,藤沢,茅ヶ崎界隈では Toriumi が一番旨い.全く文句ありません.ごちそうさまでした.古希になったらまた来ます.

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2019年2月23日 (土)

またまた砂の器

 ネットニュースに《東山紀之で「砂の器」 殺人事件追うベテラン刑事役 フジで現代版にアレンジ 》によると,またまた松本清張『砂の器』がテレビドラマ化されるのだそうだ.
 キャスティングは,今西栄太郎役に東山紀之,和賀英良役に中島健人,本浦千代吉に柄本明が起用されるる.
 各俳優は実年齢的には問題ないが,東山紀之は若見えする美貌のせいで役作りに苦労するのではなかろうか.
 ただ,今回のドラマ『砂の器』も,これまでの放送作品と同様に,時代背景を現代に設定するというから,戸籍の偽造,およびハンセン病の設定を変更せざるを得ない.とすると,ピンと張りつめた社会性と,人物の人間性が観る者の胸を打った1974年制作の映画版『砂の器』に遠く及ばないものになると思われる.
 映画版『砂の器』自体が清張の原作とは大幅に趣の異なるものであったわけだから,ここはひとつ小細工をせずに,原作の設定に立脚した正攻法のドラマにするという手もあったのではないか.今回のテレビドラマ化も失敗が見えているような気がする.

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2019年2月22日 (金)

鶏の事情 (3/6 に訂正)

この記事に大きな誤りがあったので,訂正してお詫びする.(3/6 訂正)
訂正部分は着色文字の部分である.
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 今日 (2/22) 放送されたNHK『チコちゃんに叱られる!』で,「鶏はなぜ首を前後に振って歩くのか?」という問題が出された.
 
 私が昔見たテレビの科学番組では,鶏ではないが鳩を使って実験をやった.
 一人が鳩の胴体を手で持ち上げて固定し,もう一人が鳩の足を持ち,歩行する時のように前後に動かす.すると鳩は首を前後に振る.足を動かす動作を早く行うと,首も早く動く.足をゆっくり動かすと,首もスローモーションで動く.
 この実験結果で,番組は「歩行に必要な筋肉は,首振りに使う筋肉と連動しているのです」と結論した.物理的につながっているのではなく,神経の情報伝達的に連動しているという意味だったろうと思う.
 
 ところが「鶏はなぜ首を振って歩くのか」を解説した藤田祐樹 樋口広芳先生 (東京大学名誉教授) の説は,全くこれと異なるものだった.
 鶏は歩行する際に,首を前に伸ばし,その頭の空中での位置を固定し,それから胴体が前進する.この動作を繰り返して前進するので,一見すると首を前後に振って歩いているように見えるが,実は頭を固定し,視野を固定して対象物をはっきり見るのが目的なのだと先生は説く.ヒトなどと違って,目が頭の横にあることと,眼球を自由に動かせないために,首振り動作なしで歩行すると,見る対象物がどんどん後方に流れて行ってしまうのだと.
 先生の解説で,一旦はなるほどー,と思ったが,しかし新たな疑問が湧いた.
 長い距離を二足歩行する鳥には,鶏と鳩などと異なり,歩行する時に首を振らないものがある.ついでに言うと,鶏のヒヨコも首を振らずに歩く.ペンギンも.w
 野鳥の動画を漁ったら,トラツグミは首振りせずに歩くが,バンは首を振って歩くことがわかった.

今年もアイガモの親子が鴨川へ引っ越し・京都
高速道路をダチョウ疾走 マレーシア首都、無事捕獲
野鳥がいっぱいの季節 幸せの青い鳥を探しに
 
 だとすると,問題は次のように言い換えることができる.
「鶏はなぜ視界を固定しないと歩けないのか?」
 鶏や鳩などは,他の鳥にできることができないのだ.
 鶏や鳩など首振りする鳥は,歩行する時に,首振りしない他の鳥と異なって,首を前後に振らないと歩けない特殊な事情を抱えている.(おそらくは脳科学的な)
 逆に言うと,首振りしない鳥は,そういう動作をしなくても歩ける特殊な条件を満たしている.ある動作ができる,できない,の論理的解釈はそういうことである.
 それこそがチコちゃんが問うた「鶏はなぜ首を前後に振って歩くのか?」の真の解答であるはずだ.すなわち視野の固定云々は,二次的な,あるいは表面的な問題である.
 
 そこんところを藤田 樋口先生はどう考えていらっしゃるのか.テレビ番組では簡単に説明できないことなのかも知れない.そこで藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー) を読んでみることにした.私の積年の思い込みなのか,樋口先生の説が不完全なのか.おもしろそうである.
 
 ちなみに,ネット上を検索すると,藤田 樋口先生の説をそのまま書いているサイトがほとんどである.首振りしなくても歩行できる鳥が,なぜ首振りしなくても歩けるのか (見る対象をはっきりと見ることができるのか) という理由に触れたものは見つからなかった.

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2019年2月21日 (木)

アンコールを一目でも (十)

 私はクラブーツーリズムの街歩き企画に時々参加するのだが,ツアーコンダクタの他にガイドさんが付く.このガイドさんたちは,厚さが十センチはあろうかという分厚い資料ファイルを持ってくる.いかに彼らが勉強家であるかがわかる.私だって鎌倉の中世史跡の歴史くらいは説明できるが,近世は皆目わからぬ.その上,仏像や絵画の説明はお手上げなので,鎌倉のガイドにはなれそうもない.
 ところが,今回のアンコール遺跡ツアーの現地ガイドさん (たぶん四十代) は,資料ファイルなんぞ持たずに,流暢な日本語で痒い所に手の届く説明をしてくれた.しかも,私たちのツアーは二日間に亘ってあちこちの観光をしたわけだが,どこに行っても,屋台店のおばさんや,遺跡を管理している政府公務員,遺跡の保護にあたっているレンジャー,同業のガイドさんたち,果ては物売りの子供たちまでが,彼を見るとにっこり笑って話しかけてくるのだ.これは単なるベテランというだけの理由ではないと私には思われ,すごい人物が世の中にはいるものだと感心した.
 その現地ガイドさんは,アンコール・トムで,中国人の団体には決して接近しないように私たちを先導して進んだ.その理由を訊いたら,アンコール遺跡群では中国人の窃盗団が暗躍していて,観光客の被害が後を絶たないからだそうである.ちなみに,中国人観光客の団体は遠くからでも識別できる.声が大きいからである.
 また,窃盗団は論外だが,中国人観光客も現地ガイドさんたちに嫌われているようである.何しろ彼らは,ガイドの説明を全く聞かず,大声で私語する.勝手に順路を外れて歩き回る (これは日本人のツアーの御婦人も同じ).公衆道徳がないから道の真ん中でも平気でポイ捨てをする (日本人は植え込みの陰とか見えないところにポイ捨てする) し,人目もはばからずにそこ等へんで堂々とオ○ッコをする (日本人は物陰に隠れて立シ○ンする) 等々.いずれも私たちが日本の観光地で見かける中国人の行動だ.ヾ(--;)ニホンジンダッテ
 余談だが,最近,奈良公園で鹿に噛まれる中国人観光客が増えているらしい.奈良公園の鹿は,しかせんべいを見せると,「それをください,お願いします」とでも言うかのように,おじぎをするのだが,テレビニュースのVTRでは,中国人女性が,しかせんべいを見せびらかして「おじぎの仕方が足りない,もっとおじぎをしろ」みたいな躾けをやっていた.そして焦らされた鹿は,怒ってその中国人の服に噛みついたのだった.そりゃ噛み付かれるわなあ.躾けるなら鹿でなく,TDLの中の広場でオ○ッコをしないように自分の子供を躾けなさい.
 閑話休題.現地ガイドさんは冗談めかして次のように言った.
「中国人はお金持ちです.お金持ちになるには,どうしたらいいでしょう.他の人のことを考えなければいいのです」
 彼が暗に,ポル・ポト派に武器弾薬,地雷を供給した中国を指していることはあきらかだった.
 
 ここで Wikipedia【中華思想】を見てみよう.
 
四夷
中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた。
東夷(とうい) - 古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本・朝鮮などの東方諸国。
西戎(せいじゅう) - 所謂西域と呼ばれた諸国など。
北狄(ほくてき) - 匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古などの北方諸国。
南蛮(なんばん) - ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。
中華世界では四夷は辺鄙な場所に住んでいるために中華文明の影響と恩恵を受けていない「化外の民」であり、いずれ中華文明に教化されることによってやがて文明化されていくとされ、中華世界ではこの「化外の民」を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとされた。特に中華文明を代表する「天子」としての皇帝は自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明へと導くと考えられた。
》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 春秋戦国時代の頃に始まった中華思想に基づいて,中国は理由もなくインドシナ半島の人々を蔑んできた.Wikipedia【ベトナム戦争】に,《ホー・チ・ミンが述べた言葉として『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』がというのが有名である 》と書かれている.ここには「要出典」と書かれてしまっているが,ベトナム戦争が始まった頃,よくこの「中国人の糞…」を私は読み,かつ聞いた.ホーが本当にそう言ったかどうかは知らないが,古代中国以来,漢民族がインドシナの人々からどれほど嫌われてきたかをよく表す言葉としてこの言葉は流布したのである.
 ベトナム戦争当時,中ソ対立が激しくなるとベトナムはソ連についた.これはソ連の軍事支援が,軽火器中心だった中国の支援を圧倒していたからと言われるが,ベトナム労働党の反中華思想が底流にあったと思われる.「中国人の糞を百年喰らうよりロシア人の糞をしばらく喰らったほうがまし」だったのだろう.
 中国の「毛沢東主義の輸出=中華思想的教化」に従わないベトナム労働党に対して,中国はポル・ポトのクメール・ルージュに毛沢東主義を掲げさせ,カンボジアで中ソの代理戦争を戦わせた.それだけならまだしも,ポル・ポトは毛沢東主義に基づいて,異常な「革命」を開始した.
 
1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。民主カンプチアの国家体制は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、その実現のために、国立銀行を閉鎖し、貨幣なども廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させた。しかし、その際に方法論として資本主義に関する文明の利器を全て一掃したため、国民は農作業や灌漑施設の建設などの重労働を全て手作業で行うなどの過酷な労働環境を強いられる。更に生産された米の多くは外国からの武器調達のために輸出されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。
このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑って猜疑心を強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。このような大規模な知識階級への虐殺、あるいは成人年齢層への虐殺に加え、ポルポト側が「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で子供を重用するようになったため、国内には子供医師や少年兵までもが現れ、人材は払底を極めた。
ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。フランソア・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、アムネスティ・インターナショナルは140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。フィンランド政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。

 
 アムネスティ・インターナショナルによる推計で百四十万人の死は,毛沢東主義がカンボジアの地で結んだ血の果実なのであった.
 現地ガイドさんたちは,中国人団体客のガイドを嫌がるそうである.私たちのツアーのガイドさんは「中国人のガイドを引き受けるのは,我慢強い人だけです」と笑いながら語ったが,本当は笑いごとではないのだろうと私は思った.彼はおそらく少年の頃,ポル・ポトの時代を辛くも生き延びた人なのだろう.そしてカンボジア国民にとっても中国はポル・ポトと同一視されているはずで,これこそが中国人がカンボジアで歓迎されない理由だと思われる.
 ところが日本人の中に,デマを流布する者がいる.
 東京大学大学院准教授の阿古智子が現代ビジネス誌 (講談社) に《いま親日国カンボジアの人々が中国に共感し、米国を嫌悪する理由 》を書いているが,ここでは,カンボジアをいまだに貧しい国のままにしている原因がポル・ポト=中国であることは伏せられ,カンボジア国民が中国に《共感し 》ていると書かれている.どこをどうネジ曲げればそんな嘘が出てくるのか.こういう者が大学院で教鞭をとっていることに私は憤りを感じる.
 
 話は変わるが,日本の,例えばTDRの顧客満足度が大きく低下した原因に,中国人観光客の大声があるという.誰が言っているかというと私の知人の女性だ.彼女はディズニーの大ファンだったのであるが,いまはもう全く行かなくなった.なぜかというと,夢と魔法の王国に中国語の大声は似合わないと言うのだ.これが,まるで耳元で詩をささやくフランス語だったら,どうか.彼女はきっと,毎日でもTDRに通うに違いない.w
 アンコール遺跡群は,カンボジア人の誇りであるだろう.彼らの祖先の文化遺産であるし,ましてや宗教的遺跡である.だから私たちはこれに敬意を表して,静かに見学すべきであると思う.
 ところが我がツアーの中に,あたかも中国人であるかのように遺跡の中で大声を発する者がいたのである.この日の朝,集合時間を無視して朝寝をしていたあの爺である.こいつはバイヨン遺跡の中で「はーい皆さん,足元に気を付けてねー,落ちたら死にますよー,ぐははははー」などと阿呆なことをわめき続けたのである.私はカンボジア人のガイドさんに,まことに恥ずかしく申し訳なく思ったのである.
 
 さて,私たち一行はアンコール・トムを後にして,タ・プローム寺院遺跡に向かった.この遺跡は,観光客の目を驚かす奇観と共に,映画『トゥームレイダー』のロケが行われたことで有名になった.この映画はアンジェリーナ・ジョリー主演で彼女の出世作になった作品である.
 
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(タ・プローム寺院遺跡)
 
 ツアーのバスは,タ・プローム寺院遺跡から少し離れた駐車場で一行を降ろし,私たちは参道を歩いて遺跡に向かった.参道の途中で,地雷被害者の楽団が曲を演奏していた.カンボジア内戦の被害者である.かつては物乞いするしか生計の途はなかったというが,支援活動もあって,観光地や都市部で楽団演奏をして寄付を募っているという.
 ネット上の記事には,米国を含め内戦に加わったすべての勢力が地雷を埋めたとしているものがあるが,それは当時の日本に伝えられた報道とは異なる.
 そもそも地雷は,拠点を守備する側が埋めて,敵の接近を防ぐものだ.そう考えると,カンボジア内戦で埋められた地雷のほとんどは,掃討戦をやっていたベトナム軍ではなく,守勢のポル・ポト派が埋めたものだと考えられる.ポル・ポト派は自国民を大虐殺したが,今もカンボジアの人々は彼らの残した恐怖の下で暮らしているのだ.
 
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 上の写真では,倒壊しそうな箇所に補強がなされている.この例では樹木 (ガジュマル) が寺院の建屋の上で生長し,その重みで崩壊しそうになっている.しかし中には,ガジュマルの気根 (地上茎から出た根のこと.主に呼吸や吸廃湿を担う) で建造物が支えられているかのように見える例もあり,遺跡を修復保存する工事の際に,判断の難しい問題となっているそうだ.
 
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 上の写真の樹木は気根の様子からみてガジュマルではないが,名称はわからない.上の写真で,赤い↓が指しているところに内部への入口があり,映画『トゥームレイダー』では,ヒロインのララがそこから中に入るシーンがある.
 話が横道に逸れるが,映画『トゥームレイダー』は同名のPCゲームの映画化作品である.このゲームの第一作はMS-DOS上で動作した.といっても若い人には何のことやらわかるまいが,第一作はPCゲーム草創期の傑作であり,PCゲームというジャンルが消滅した今も,『トゥームレイダー』はただ一つシリーズ化され,製作され続けている作品なのである.
 このゲームのヒロインはララというが,映画の主演女優がアンジェリーナ・ジョリーだと発表された時,イメージが違うとするブーイングが世界中に巻き起こった.しかしその後のアンジーが大女優となったせいで,最近の『トゥームレイダー』作品のララは,アンジー寄りのキャラになっている.w

 
 ともあれ,タ・プローム遺跡は,石の建造物をも密林の中に崩壊,荒廃させてしまう樹木の生命力とせめぎ合いながら,修復が行われていくだろう.下の写真は現地に展示されていた資料である.(上が修復前,下が修復後)
 
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 タ・プローム遺跡を見学したあと,私たちは昼食を摂りに街道沿のレストランに立ち寄った.
 
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 この店のランチセットは,日本のレストランと比較して遜色ないレベルだったが,店の名をメモし忘れた.なぜかというと,例のトラブル爺が私にちょっかいを出してきたのである.
 写真のサラダのあと,スープがサーブされる前に,爺はトイレかどこかにふらふらと出歩き,戻ってきたかと思うと,私の肩にテーブルナフキンを載せた.私が驚いて「これはなんですか!」と言うと,爺は平然としてこう言った.
「床に落ちていたんだ」
「床に落ちていたものをなんで私の肩に載せる? 失礼じゃないか!」
と私が語気を強めると,ツアコンダクタが「まあまあ」と止めに入った.
 私の何が気にくわなかったか知らぬが,唐突に喧嘩を売るとは常軌を逸している.
 遺跡内での奇矯な声といい,この振る舞いといい,ちょっとアブナイ気配があったので,私はこの後,爺から距離を取って歩くことにした.
 ちなみにこのレストランの他にもメモし忘れたことがあり,この旅行記を書きながら,しまったー!と何度か臍を噛んだ.
 
 さて,昼食のあと,いよいよ長年思い描いてきたアンコール・ワットの見学である.

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2019年2月20日 (水)

帰郷

 先日,昼過ぎに姉から電話があった.留守電に入っていたので折り返すと,何やらにぎやかな声を背景にして姉が電話に出た.
 何か用があったのかと訊くと,近くに住んでいる従兄従妹の二人を家に呼んで,姉家族とみんなで家飲みをしている最中だという.
 義兄は下戸だが,姉は上戸である.上機嫌の姉に
「盛り上がってるなー」
と私が言うと,
「年に一回,みんなが集まってくれるん」(「くれるん」は上州弁だ)
と言った.楽しそうだった.
 それから従兄と甥と電話で話をして,また姉に戻して話を続けたら,姪が昨年,出産した話になった.
 私の弟の子供たちには子がいない.私の息子は未婚だし,娘には子がいない.姉の息子も未婚だ.それで姉が言う.
「○○子 (私の姪) の子がねー,あたしたちの爺さん (私の父) のたった一人の血筋なんだよー」
 そこで私は愕然とした.そういえばそうだった.私の生家の血筋を引くのは,たった一人になってしまったのだ.
 おまけに私は,うかつにも姪に出産祝いをあげてなかったのである.
 私は姉のおしゃべりを遮って言った.姉さん,ほんとにすまん,孫の誕生祝いをすぐおくるからな.

 それから暫くして,また姉から電話があった.郵送したお祝いの礼だった.
「内祝いっていうか,お返しなんだけどね,おまえは糖質制限とかいってるから何にするか迷ってるんだよー」
「んなもん要らんよ.春に久しぶりに前橋に行くから,そん時にうまいもん食わしてくれりゃいいよ」
「そっかい,それでいいんならそうするよ.待ってるからねー」

 電話を切ってから,もう五,六年は帰郷していないことに,今更ながら思い至った.最後に群馬のあちこちに住んでいる姉弟といとこたちと会ったのは私が心臓バイパス手術をする前だった
 私は来月六十九歳になるし,姉は七十を越した.姉弟やいとこたちの中でも群馬県を出たのは私だけだということもあり,終活の一つというか,元気なうちに何度も帰郷しておこうかと思った.
 
Yukiguni_eki

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2019年2月19日 (火)

アンコールを一目でも (九)

 今日と明日の二日間,アンコール遺跡群を観光する.
 アンコール遺跡群のメインはもちろんアンコール・ワットだが,昇る朝日を背景にした写真が定番だとか.そこでツアコンダクタは前夜,「翌朝の四時にロビーに集合してください.まだ暗いうちにバスで出発しますので,懐中電灯を忘れないでください」とメンバーに指示した.
 次の日の朝三時半,私がロビー降りていくと,既にツアーメンバーの娘さんが一人いた.早いですねーなどと挨拶しているうちに,昨晩からお世話になっている現地ガイドさんがやってきた.ガイドさんは長身で恰好よく,日本語はほぼ完璧な人で知的な雰囲気もあり,このあとの観光では,ツアーメンバーの女性たちに大モテであった.
 
 そうこうしているうちに,ツアコンダクタの青年も女性たちも集合したのであるが,メンバーの一人 (七十歳・男;ツアー参加者十四人のうち,男はこの爺と私の二人だけ) が集合時間になってもロビーに来ない.暫く待ったが遅れますとの電話もないので,ツアコンダクタが部屋へ迎えに行き,ようやく全員揃った.爺は済みませんの一言もなく,やあどうもどうも寝ていたので,とか言いながらヘラヘラ笑っていた.
 スケジュールは遅れ気味だが,出発.
 実は,この遅刻爺とは,成田空港のセキュリティを通過したあと,少し雑談をしたことがあった.海外旅行には慣れていると自慢話を延々と聞かされて,そのうちに「トイレに行ってきたいので荷物を預かってくれ」と頼まれた.快諾して戻るのを待ったのだが,なかなか戻ってこない.再集合時間が迫ってきたので止む無くその男の荷物をツアコンダクタに預け,捜索することにした.すると,酒を売っている店で発見した.そいつが「旅行中に飲む酒を買わなきゃね,あはは,あなたも買っておいたほうがいいですよ」と阿呆なことを言う.ムッとしたが,もう再集合の時間ですよと言って,集合場所に戻った.
 こんなことがあったので薄々予感はあったのだが,この爺はトラブルメーカーだったのだ.爺が起こしたトラブルは後述する.
 
 さて,アンコール遺跡群の入場券 (アンコール・パス) は,アンコール・エンタープライズ (Angkor Enterprise) という政府系組織が販売している.場所はシェムリアップ市内中心部から5~6km離れているので,まずはそこへバスで行く.
 
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(アンコール・パス販売所の窓口;ここで顔写真を撮られる)
 
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(アンコール・パス;1日パス,これをカードホルダーに入れてくれるので,首から下げる) 
 
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(暗いうちから,定番の写真撮影スポットの周囲に屋台が出ている)
 
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(夜明け前だが,雨が降っている.乾季なのに!)
  
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(結局,朝日の昇るシーンは撮れなかった)
 
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 アンコール・ワットとシェムリアップを結ぶ道路には,テント張の屋台店がポツンポツンと続いていて,土産物や絹っぽい見かけのスカーフなんかが売られている.そういう屋台店の人たちが世話をしているのだろうが,犬をかなり見た.痩せてはいるが元気そうで,物売りの子供のあとを付いて歩く犬たちを見て,私は何となく嬉しくなった.
 
 さて朝の太陽を見損ねた私たちは,残念でしたねーなどと言いながらホテルに戻って朝食.アンコール・ワットはまた午後に観光する予定だ.
 朝食はメインダイニングで摂る.普通のブフェスタイルで,もちろん卵料理やパンは用意されているが,エスニックな料理も色々あった.下の写真の皿には炒飯 (極旨!) と野菜炒め,ハムと焼いたトマト,それからよくわからぬものを少し載せた.その他に,温かい麺 (クイティウ) をサービスしてくれるブースがあったので,それももらった.麺は,白いのと黄色 (卵麺か?) の二種類があり,指差せばそれを温めてくれる.麺のブースには各種調味料と薬味が置かれていたが,トッピングはブフェのほうにあるものを入れるらしい.でも朝飯ということもあって,具なしで薬味だけにした.で,このクイティウのスープがめちやくちゃ旨かった.できれば大きいラーメン丼で食べたいものだと思った.

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 朝食後,ロビーに再集合し,バスは世界遺産アンコール遺跡群の一つ,アンコール・トムへ出発した.アンコール=都市,トム=大きい,だそうである.
 Wikipedia【アンコール・トム】から下に引用する.
 
アンコール・トムの遺構にはヒンドゥー教と大乗仏教の混淆が見られるが、都市建築の基本はヒンドゥーの宇宙観を基に成り立った古代インドの建築理念の影響が見られ、中央に世界の中心である山岳メール山を象徴するバイヨン (Bayon) 寺院がある。その周囲にも象のテラスやライ王のテラス、プレア・ピトゥなどの遺跡も残っている。
アンコール・トムは約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。京城の外の東西には、大洋を象徴するバライと呼ばれる巨大な人工の池がある。
》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った.アンコール・トム遺跡を見るときのキーワードである.説明は後述)
 
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(アンコール・トムへ続く沿道でのショット.象に乗る体験ができる)
 

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(洗濯物を干しているのではない.エキゾチックな服を着て観光しませんか,という店だ)
 
 話が唐突で恐縮だが,例えば京都へ行くと舞妓さんの服装一切をレンタルする店があって,観光客の娘さんがコスプレして街の中を散歩していたりする.また明治村でも鹿鳴館衣装をレンタルしている.こういう例はコスプレのレンタルだが,上の写真の店はペラペラのワンピースなど売っている.実際に,アンコール遺跡を観光にきた欧米女性が何人も,この服を着て歩いていた.これは普段着みたいなもんだから,コスプレ感がなくて,ちょっといい感じだった.下の写真にも写っている.
 

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(アンコール・トム南大門への参道)
 
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(参道の,南大門に向かって右側は,たくさんのアスラ<阿修羅>の像が連なっている)
 
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(同じく参道の左側は神々の像;頭部の色が異なっているのは修復された部分)
 
 参道は堀を渡る橋になっている.橋の左右にあるヒンドゥーの神々やアスラ (阿修羅) の像は,欄干のようなものだ.これらの像が連結されている長い石 (一部残存) は,端部が鎌首を上げた蛇の造形になっており,ヒンドゥー教の天地創造神話「乳海攪拌」に登場するナーガ (蛇の精霊,蛇神) を表している.詳しくは Wikipedia【乳海攪拌】に譲るが,ある時,神々は呪いをかけられて,世界は荒廃した.そこで神々は世界を再建するために,乳鉢に見立てた海に,多種多様の植物や種と生き物を入れ,乳棒に見立てた大きな山で千年もの間擂り潰した.すると,ここから太陽や月,様々な神々と不死の霊薬 (アムリタ) が生じた,という神話である.
 この作業は神々だけではできなかったので,敵対していたアスラと和解して協力を頼んだ.そして下の画像に描かれているように,山にナーガラージャ (ナーガの王) であるヴァースキを巻き付け,神々とアスラが綱引きのようにして引っ張り合い,山を回転させた.Wikipedia【乳海攪拌】から下に抜粋引用する.
 
ヴィシュヌは多種多様の植物や種を乳海 (Kṣīra Sāgara) に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り、その背に大マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海に棲む生物はことごとく磨り潰され、大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラが山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ。ヴァースキが苦しんで口からハラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得たが、シヴァの喉は毒によって青く変色した。
1000年間攪拌が続き、乳海からはさまざまなものが生じた。太陽、月、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ (Pârijâta)、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた。
》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 上の引用箇所に《竜王ヴァースキ》とあるが,これは誤りである.ヴァースキは竜王ではなくナーガ (蛇) の王である.竜と蛇では全然違う.ナーガが仏教に取り入れられて竜になり,ヨーロッパに伝わってドラゴンになったのである.竜とドラゴンは飛翔するが,ナーガは飛ばない.竜とドラゴンは蛇行しないが,ナーガは蛇行する.w (ドラゴンとナーガはRPGのモンスターとしてよく登場するが,造形が全く異なる.多くは人面蛇体)
 
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(1820年頃に描かれた乳海攪拌;Wikipedia【乳海攪拌】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 Wikipedia【乳海攪拌】の間違いはともかく,神々とアスラが蛇を引っ張り合うという建築や造形のモチーフは重要なものらしく,アンコール・トムのあちこちにあるし,アンコール・ワットの壁にも有名な彫刻がある.探して歩くのも一興かと.
 さて,乳海攪拌を題材とした長い橋を渡ると,そこが南大門である.
 
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(アンコール・トム南大門)
 

 アンコール・トムは西南北に大門があり,東には死者の門と勝利の門がある.死者の門が東大門に相当する.勝利の門は死者の門の北側にある.地図はここだが,わかりにくいので,「アンコール・トムの地図」で検索すると,例えば近畿日本ツーリストのサイトにアンコール遺跡の略図が載っている.略図のほうがわかりやすい.
 ちなみに,アンコール・トムの王たちは,タイやベトナムとの戦争に勝った時は勝利の門から凱旋し,負けた時は死者の門から入城したのだと,現地ガイドさんが説明してくれた.しかし日本語のブログを読むと,戦いの勝ち負けではなく死んだ兵士の魂が死者の門を通って入って来ると書いてあるものばかり.だとすると,生き残った敗残兵はどこから入ればいいんだ?
 どっちが正しいか知らないが,ここでは現地ガイドさんの説明が正しいだろうとしておく.カンボジアの人々はそう思っているわけだから.
 
 ところで,諸説が存在しているのは,各大門の上に載っている顔 (四面像) が何かということ.定説は観音菩薩であるとする説である.各大門の上部にあるものは造形が粗雑 (風化したか?) なので判然としないが,アンコール・トムの中心部に位置するバイヨン寺院にはたくさんの四面像があり,これはヒンドゥーの神ではなく観音だといわれれば大いに納得できる表情をしている.
 とはいうものの,バイヨン寺院について Wikipedia【バイヨン】に以下の記述がある.
 
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。当初は大乗仏教の寺院であったが、後にアンコール王朝にヒンドゥー教が流入すると、寺院全体がヒンドゥー化した。これは、建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡があることや、ヒンドゥーの神像があることなどからも推測できる。
 
 バイヨン寺院がヒンドゥー化した時,建造物部分の《仏像を取り除こう》としたのに,なぜ四面の観音像が残されたのかについて合理的な説明が必要だろう.可能な説明は,バイヨンの四面観音像はヒンドゥー教の信仰に転化しうるものだったということだ.
 例えば,日本の弁財天の原型とされるヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」に関して Wikipedia【サラスヴァティー】に次の記述がある.
 
ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である。そもそもはブラフマーが自らの体からサラスヴァティーを造り出したが、そのあまりの美しさのため妻に娶ろうとした。逃れるサラスヴァティーを常に見ようとしたブラフマーは自らの前後左右の四方に顔を作りだした。さらに、その上に5つ目の顔(後にシヴァに切り落とされる)ができた時、その求婚から逃れられないと観念したサラスヴァティーは、ブラフマーと結婚し、その間に人類の始祖マヌが誕生した。また、元々はヴィシュヌの妻であり、後にブラフマーの妻になったという異説もある。 》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 だとすると,四面像という造形美術上の様式が,ヒンドゥー教にもあったのではないか.バイヨン寺院がヒンドゥー化した時に,観音菩薩像は,他のヒンドゥーの神として受容されたのではないかと思う.
 さらには,最新の科学的方法による研究の結果,そもそも四面像はヒンドゥーの神々だとの説もあるという. Wikipedia【バイヨン】にはつぎのような説明がある.
 
3次元CG化と解析によりヒンドゥー教の神々を表しているという説も出た。

 四面像がヒンドゥーの神々だとすれば,それは物理的な年代測定方法でバイヨン寺院の建設時代を明らかにすればよい.
 私が生きているうちに,研究者が決着をつけてくれると嬉しい.
 
 さて南大門を入って中に進むと,先に述べたバイヨン寺院がある.
 
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(バイヨン寺院遠景)
 
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(バイヨン寺院の中にはたくさんの壁面彫刻がある;人物の造形が愛らしい)
 
 バイヨン寺院は三つの層から成っている.上の写真は第一層第二回廊の彫刻で,チャンパとの戦争の様子やバイヨン建設当時の市場の様子や狩の様子などが彫り込まれており,クメール人たちの暮らしを知ることができる貴重な資料である.
 下の写真はベトナム中部にあったチャンパ王国との戦争を描いたもの.
 一部を拡大した下の画像にあるように,クメール人は耳たぶが長く描かれるので,チャンパ王国軍と区別できる.
 
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 上の彫刻は如何にもヒンドゥーっぽくて,一つ上のレリーフとは全くタッチが異なる.何代かの王の治世に亘り,多くの匠たちの手になったものだからであろう.成立年代については,Wikipedia【バイヨン】に少し書かれている.
 
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。

 
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 バイヨン 第二層には十六の塔があり,それぞれに四面像が彫られている.それらの四面像は「クメールの微笑み」と呼ばれているが,上の写真はその中でも口角を上げまくりのもので,観光客の絶好な撮影ポイントになっている.次から次に観光客がこの前で写真を撮るので,人が写り込まないように撮るには少し待たねばならない.w
 
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(バプーオン)

 バイヨン寺院を出て時計回りに回り込んで行くと,バプーオンがある.これはアンコール・トム内にある寺院の一つで,バイヨン寺院の北西に位置する.二十世紀にはほぼ完全に崩壊していたが,フランスの考古学者チームが復元した.アンコール遺跡の修復復元にはフランスの貢献が大きいようだが,現地ガイドさんの説明では日本もかなり頑張っているらしい.
 
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(「象のテラス」を象徴する三体の象)
 
「象のテラス」は王宮の跡地にあるテラスである.往古,戦から凱旋してきた兵士たちを,クメールの王族たちがこのテラスから閲兵したとされる.「象のテラス」の石積み壁には,ガルーダなど想像上の怪獣が多数彫られている.ガルーダは,ファイナルファンタジーVIXでお馴染みの蛮神である.知りませんか.わかりました.
 
 アンコール・トムは広大で見所も多数あり,じっくり見学するのであれば一日かかると思われる.私たちのツアーは,バイヨン以外はすっ飛ばして,次は神秘的なタ・プロム寺院遺跡に向かった.

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2019年2月18日 (月)

アンコールを一目でも (八)

 このカンボジア・ツアーは成田空港集合が朝の八時二十分だった.朝一で大船駅から成田行に乗ればギリギリで間に合うのではあるが,電車のトラブルが少しあったりするとアウトになる.それで大事を取って前泊することにした.ホテルは,アパホテル京成成田駅前にした.実は,ホテルの予約をしようと思って,成田空港までのJR沿線のホテルや空港周辺のホテルを探したのだが,アパホテル以外はすべて「残室なし」だった.アパホテル京成成田駅前は空港へのアクセスがよいのに,かなり空いていた.ガラガラだった理由はわからぬが,成田発のフライトで前泊するときはアパホテルがよさそうだ.
 
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 だがこのホテル,設備が間抜けであった.上の画像に示すように,テレビなんかが置いてあるデスクのところの壁にACコンセントがあったのだが,「電気ポット・ドライヤーの同時使用は、ご遠慮ください」と書いてあった.コンセントが一つしかないのに,どうすりゃ同時使用ができるのか.電気ポットとドライヤーの同時使用はしないとして,ポットでお湯をわかしながらスマホを充電し,ノートPCで仕事をするなんてのは普通のシーンだと思う.コンセントは少なくても二つ欲しいものだ.
 それはさておき,成田のアパホテルには一階に居酒屋があった (朝は朝食会場になる) ので,夕飯はその店で摂ることにした.店に入ると,客の入りは三割くらいだった.一番奥のテーブル席に腰をすえたのだが,隣のテーブルには会社の管理職と思しき三人連れが,部下の仕事ぶりについて愚痴をこぼしていた.いわく「○○は言われなきゃやらないんだよなー,言えばやるんだけど」「そうそう,あいつは指示待ち型」などなど.あー私も昔は酒を飲みながら,あんな話をしたんだよなー,と懐かしい思いがした.
 
 京成成田駅から成田空港はすぐだ.ゆっくり朝飯を食って,ホテルをチェックアウトした.
 集合場所は第1ターミナル・南ウイング出発ロビーにある,クラブツーリズムのブース前だ.ツアコンダクターは (まだかなり若い青年) 既にブースにいたので,挨拶して少し雑談.それからANAのカウンターに行き,出発便のチェックインをした.
 
 余談だけれど,高齢者の中にはANAを「アナ」と読む人がけっこういる.英語の略称は,アルファベット二文字の場合は,例えばJKは 女子 「ジェイケー」としか読めないし,JAは「ジェイエー」と読むのが普通だ.例外はほとんどない.アルファベット三文字以上の場合は,アルファベットを続けて発音してもいいし,単語のような発音でもいいが,例えば会社名であれば,その会社が自分たちをどう呼んでいるかに従う.
そのデンでいくとANAは昔から「エーエヌエー」で,空港の英語アナウンスはそう言っていたが,「アナ」という言い方は,いったいどこから来たんだろう.それで少し調べてみたら,昭和の一時期に「アナ」という呼び方がされていたようだ.しかし語呂がよくないので,すぐに「エーエヌエー」に変更されたそうである.
 
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(出発ロビーのクリスマスツリー)
 
 さて,成田空港発 10:50,NH 0817便は七時間のフライトでプノンペン国際空港着.途中,機内食一回.割とおいしかったような記憶があるが,写真を撮らなかったので内容は忘れた.国内便 (K6 117) への乗り継ぎが四時間後なので,一旦空港を出て,近くのレストランで夕食を摂るというスケジュールだ.
 空港を出てチャーターしてあるバスまで歩いたが,乾季なのに雨が少し降っていた.バスには,この日の数時間だけの現地ガイドさんが乗っていて,通貨のこととか,カンボジアの簡単な歴史について話してくれた.
 というか,そのカンボジアの略史が,カンボジア内戦のことだったことに私は驚いた.私はツアー参加者の中では年長者であり,カンボジア内戦について少しばかりの知識はあるが,私より一世代若い人はもう,昔そんなことがあった程度のことしか知らないだろう.もっと若い人なら,そんなことには全く興味がないかも知れない.私たちの世代にとっては,忘れ難いことなんだけれど.

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 上の写真は空港からレストランへ行く途中の風景.
 今回の旅行は,アンコール遺跡訪問なので,かつて「東洋のパリ」と言われたプノンペンの風景は全く見ていない.もしも,また来ることがあったらプノンペン市内の自由行動をしてみたい.ちなみに Wikipedia【プノンペン】には以下の簡単な記述がある.映画ファンは「キリング・フィールド」を知っているだろう.
 
1953年のカンボジア独立以来1960年代までは隣国の内戦をよそに表面的な平和を保ち、プノンペンは「東洋のパリ」としてその美しさと治安のよさを称えられていた。
1970年のロン・ノルによる軍事クーデターにより、アメリカがカンボジアに軍事介入し、共産勢力を攻撃するために農村部に爆撃を開始した。そのため農業ができなくなった農民たちが、アメリカからの空輸食料を求めて首都に集結せざるを得なくなり、1975年ロン・ノル政権末期にはプノンペンの人口は200万人を超えていたといわれている。
1975年4月17日、クメール・ルージュによりプノンペンは陥落した。最初は市民に歓迎ムードで迎えられたクメール・ルージュであるが、アメリカが爆撃に来るなどと市民を偽り、あるいは暴力をもって強制的に市民を各方面へと放逐した。この過程で抵抗して射殺されたり、自殺したり病人、老人や子供、妊婦など数万人が犠牲となったといわれている。
以後1979年1月7日の、ヴェトナム軍と、ヘン・サムリン率いるカンプチア民族救国戦線とによるプノンペン陥落までの間、都市人口はわずかに5000人ほどであったといわれている。プノンペンにはS21という、元々はキエンスワイという土地で高等学校だった場所に強制収容所が設けられ、ロンノル時代の公務員、軍人、知識人はもとより、クメール・ルージュの忠実な幹部までがさまざまなスパイ容疑のもとに収容、拷問された挙句、市外近郊のチュンエクにある、いわゆるキリング・フィールドにて惨殺された。2万人以上収容されて、生存者はわずかに6名といわれている。ちなみに映画でも有名になったキリング・フィールドという言葉は固有名詞では決してなく、カンボジア各地に存在する。
またこの時代、シハヌーク元国王一族はシハモニ現国王ともどもプノンペンの王宮に幽閉されていた。しかし彼らはプノンペン陥落前にクメール・ルージュによって中国に脱出させられた。
1991年にカンボジア内戦が終結し、その後はカンボジアの経済成長と共に発展を続けている。

 
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(POCHENTONG RESTAURANT;口コミサイト )
 
 上の写真は夕食を摂ったレストラン.クチコミサイトの評判は大変よいが,普通のレストランだ.ツアーの予定表には「クメール料理」とあったが,私たちが食べたコースは,前菜,スープ,空心菜の炒め物,鶏の脚の揚げ物,炒飯等,味付けを別とすれば,タイやベトナムの料理よりも中国料理に近いものだった.
 内容的には,若い人は量的に満足できないと思われたし,「旨かった!」という記憶も残っていない.炒飯に,細かく刻んだ腸詰 (中国ハム) が入っていたが,これがものすごく甘かった.今まで生きてきた中で一番 幸せです 甘いです.鶏の脚の揚げ物は,単に皮が貼りついた骨であった.しかしこれは,このコースをチョイスしたクラブツーリズムに文句を言うべきかも.もう少しいいコースが食べたかったなあ.
 
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 夕食後,バスでプノンペン国際空港へ戻る.ここで一日目の現地ガイドさんとお別れして,プノンペン発 K6 117便 (アンコール航空) でシェムリアップへ.空路一時間ほどで到着.
 シェムリアップの空港には航空機が横付けできる空港ビルはなく,降りてから徒歩で到着ロビーへ.下の写真,いずれも手前に女性が写り込んでいるのは偶然である.ヾ(--;)
 
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 バスでホテルへ.ここから別のバスと現地ガイドさんに交代.
 今回のツアーの宿泊は EMPRESS RESIDENCE RESORT&SPA に連泊した.このホテル,部屋は広いし,東洋的な雰囲気があって,とてもよい.オススメだ.
 
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(EMPRESS RESIDENCE RESORT&SPA)
 
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 カンボジアのガイドを書いているブログに「カンボジアでは基本的にチップは必要ありません」と書かれていることがあるが,それはケース・バイ・ケースだ.私たちのツアーは各自の荷物をポーターに部屋まで運んでもらったから,当然チップが必要だ.チップを渡さないと,ポーターは部屋から出ていかないし.(^_^;)
 
 ロビーから私の部屋に行く途中に広い中庭があり,そこにバーがあった.ちょっといい雰囲気だったので,さっそくバーに出かけた.
 部屋を出たら廊下にツアーメンバーの若いお嬢さんがいて,「あのー,これからポーターさんが荷物を持ってきてくれるんですけど,チップ,どうしましょう」と訊かれたので「私は一ドル渡しましたよ」と答えた.
 一ドルでいいかどうか知らないが,この時点では,カンボジアの通貨リエルを持っていないので,一ドルにした.渡し過ぎの場合は笑顔になるが,特にニッコリとはしなかったから,一ドルが相場だろうと思う.
 彼女が「これからどこに行くんですか?」と言うから.バーへ軽く飲みに,と答えた.
 すると彼女が「わたしを連れてってください (ニコリ)」と言うので,一緒に飲むことにした.
 
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(The barstool in THE DYNASTY BAR)
 
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 このバー (THE DYNASTY BAR) は中庭側にテーブル席もあって,食事ができる.食事は確か夜九時までだが,酒を飲むだけなら十一時までOK.
 私は安いバーボンを,氷を警戒してストレートで三杯飲んだ.チェイサーをビールにしたのもそれ.しかしそれは杞憂だった.彼女はカクテルを三つ飲んだのに,なんともなかったからである.よかったよかった.こらこら.
 彼女の若い娘さんらしいおしゃべりは楽しかったし,バーの従業員さんたちもフレンドリーで,私は心地よい時間を過ごした.それで翌日もここに通うことになった.ヾ(--;)
 
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2019年2月17日 (日)

アンコールを一目でも (七)

 前回の記事の末尾に,次のように書いた.

1970年のロン・ノルのクーデターと北ベトナムのカンボジア侵攻は,日本でベトナム戦争反対のデモに時々行ったりしていた学生たちにショックを与えた.ベトナム民族の自決のために戦っていたはずの北ベトナムが,カンボジア民族の自決に干渉したからである.

 あの頃の私たちは,本当に観念的でお人よしだったと思う.
 米国の若者たちは,徴兵されてベトナム送りにされれば,殺さなければ殺されるという極限状況に置かれる.米国のベトナム反戦運動は,自分が生きるか死ぬかのリアリティに直面した運動だった.
 ところが私たちはどうだったか.太平洋戦争が終わってから生まれたから,戦争が,戦場がどんなものか見たことがないし,戦後の日本には徴兵制もない.しかも,東京で行われた何千人ものベトナム戦争反対デモだって,その中にベトナムがどんなところか旅行して,自分の目で見たことのある者はほとんどいなかったはずだ.これでは観念的でないほうがおかしい.
 また,ベトナム労働党の目的は社会主義革命だった.そのためにはまず革命の第一段階として,南ベトナムから米国を追い出して南北ベトナムを統一し,民族自決を達成する.そしてその後にベトナム全土を社会主義化する.これが二段階革命論で,ベトナム労働党はこれを忠実に実践していたのだった.
 だから南ベトナム解放民族戦線は,ベトナム労働党が目指す革命の第一段階に必要な組織であり,実際にはベトナム労働党の非公然党員が指揮していた.そして私たちはお人よしだったから,それを知らなかった.
 ベトナムから米国が去ったあと,解放民族戦線兵士はベトナム人民軍 (北ベトナム軍) に吸収され,解放民族戦線に参加した政党は,ベトナム人民革命党 (=ベトナム労働党) を残して,知識人政党やプチブルジョアジー政党は,ベトナム史の舞台から消えた.
 
 日本の昭和四十年代は,一般国民も経済人も政治家も,経済成長だけが関心事だった.(別稿《「エコノミック・アニマル」考 》)
 ベトナム戦争の実相が日本でも報道されるようになると,私たち青年層はベトナム戦争に対する関心を失っていった.
 私が昨年近江に旅した時,湖北のあるお寺の住職は私に「戦を争ったものは勝った者でも負けた者でも修羅道に堕ちます」と語った.その通りなのだ.
 実は無差別殺戮,残虐行為は,米軍や韓国軍の専売特許ではなかった.北ベトナム軍の非人道的行為も,次第に明るみにでるようになったし,ベトナム戦争中に米軍に協力したベトナム山岳の少数民族は,戦後,北ベトナム側に立つ同じ民族によって殺戮された.
 そしてカンボジアの地では,自国民を虐殺したクメール・ルージュのポル・ポト派と,革命を達成したベトナムの血で血を洗う戦争が勃発し,ベトナムはカンボジアに傀儡政権を樹立した.革命ベトナムは,かつて米国がベトナムでやったことと同じことをカンボジアでしたのである.
 クメール・ルージュとベトナムとの戦争は,中国とソ連の代理戦争であり,もはや西側先進諸国における反戦運動の対象ではなかった.
 
 今から三十年近く前,仕事でベトナムに行ったことがある.訪問予定の食品工場があるホーチミン市郊外は,田畑で人々が農作業するのどかな風景が広がり,街道沿いのカフェでは,のんびりとお茶を飲む人たちがいた.ホーチミン市の街中は,高層ビルこそないものの,通りには乗用車,バイク,自転車が溢れて活気があった.ただ,裏道のそこここに,傷痍軍人と思しき両足を失った物乞いがいたことを,私は強く記憶した.
 
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(ホーチミン市,1992年)

 あれから二十七年.仕事からリタイアした私は,しきりにアンコール・ワット遺跡を見てみたいと思うようになった.カンボジアに行ってみようと思った.戦火に焼かれ,銃弾の雨に打たれ,逃げ惑った人々の祖国は今どうなっているのか.
 それで,クラブツーリズムの「はじめてのアンコールワット満喫 4日間」に参加を申し込んだ.期間は十二月七日~十日で,プノンペン市街の様子を見られるのは最初と最終日の少しの時間だけで,あとは遺跡の観光をするツアーであった.

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2019年2月16日 (土)

アンコールを一目でも (六)

 ベトナム戦争がようやく和平へ向けて動き始めたと日本の世論が思い始めた時,実は戦火は西方に拡大しつつあった.下に旧フランス領インドシナ (「旧仏領インドシナ」「インドシナ三国」とも) の地図と,ホーチミン・ルートの略図を示す.
 
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(ベトナムの標高図;Wikipedia【ベトナム】から引用した図<パブリックドメイン画像>に,当記事の筆者が文字を書き入れた)
  
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(ホーチミン・ルート(1967年);Wikipedia【ホーチミン・ルート】から引用,パブリックドメイン画像)
  
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(ベトナム・カンボジア国境線沿いに設置された共産側の司令部を示す地図;Wikipedia【カンボジア作戦】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 最初に示したベトナム標高図を見ると,北ベトナムから南ベトナムへの物流が,ラオスとカンボジアを通って行われた事情がよくわかる.
 次のホーチミン・ルートの図で,ラオス領内におけるピンク色の線がホーチミン・ルートである.そのうちで丸数字が付されているのは道路で,その他のピンク色の線は細い物資補給ルートだ.
 また図中の赤褐色の地帯は北ベトナム軍が侵入していたエリア.赤い太線はホーチミン・ルートの一部で「シハヌーク・トレイル」と呼ばれたが,カンボジアではなく北ベトナムが設置した兵站路である.
 三番目の図で“COSVN”とあるのは,北ベトナム軍の拠点「南部中央局」である.ただし,COSVNは実在しなかったとする説もある.
“NLF”は“National Liberation Front for South Vietnam”すなわち南ベトナム民族解放戦線の拠点を示す.“PRG”は,ベトナム解放民族戦線,民族民主平和勢力連合,人民革命党が主体となって1969年6月8日に樹立した南ベトナム共和国臨時革命政府の拠点である.
 
 さて,ジョンソンの米国が,南ベトナムの解放民族戦線をいくら殺しても殺しても,銃と弾丸と兵士が,北ベトナムからやってきた.北ベトナムは,軍事境界線 (北緯17度線;第一次インドシナ戦争の停戦ライン) を突破するのではなく,ラオス領内を通ってカンボジア領内を通過する迂回路を用いて,人と物資を南ベトナムに送り込んだ.軍事境界線は実際には,北緯17度の少し南を流れているベンハイ川だったから,非常強固な守備下にあるこの川を,米軍の攻撃を受けることなく船で渡り,物資輸送することはできなかったからである.
 そこでニクソンは現地軍司令官の具申に基づき,現在は「メニュ作戦」として知られる秘密作戦を展開し,カンボジア東部を爆撃した.1969年3月18日~1970年5月26日までの間に3,000回以上の出撃が行われたという.この米軍によるカンボジア爆撃の最中,カンボジアで政変が起きた.Wikipedia【カンボジア作戦】から一部引用する.ちなみに,Wikipedia【カンボジア作戦】は,出典の英文を翻訳したものらしく,いくつかの誤訳がある上に,尻切れトンボになっている.
 
1970年1月、シハヌークがフランスへ静養に出かけている間に政府主催の反ベトナムデモがカンボジア中で開催された。ロン・ノル国防相兼首相は共産勢力の支援に使用されていたシハヌークビルの港湾施設を閉鎖し、3月12日には北ベトナムに対して72時間以内のカンボジア領内からの撤退を求める最後通牒を送った。このロン・ノルが発表した反共的な「暫定協定」に憤慨したシハヌークは、ハノイ政府に圧力を掛けて北ベトナム軍によってロン・ノル派を鎮圧させるべく、直ちにモスクワおよび北京訪問を調整した。
3月18日、カンボジア国会はシハヌークを追放し、ロン・ノルを暫定元首に選定した。このことでシハヌークは北京に亡命政府を樹立し、彼自身は北ベトナム、ベトコン、クメール・ルージュ、そしてラオスのパテート・ラーオなどと連携することとした。これらの勢力はシハヌークの知名度と人気をカンボジア農村部の支配に利用した。

 
 カンボジアの王族として生まれたノロドム・シハヌークは,第二次大戦後に植民地復活を目指したフランスに抵抗し,カンボジアの独立を勝ち取って「独立の父」と呼ばれた.しかし1955年3月3日に王位を退き,政治家に転身した.同年,政治団体「社会主義人民共同体 (通称サンクム)」を結成し,その総裁として国会選挙に臨み,全議員から支持を得て翼賛体制を築き,1960年には国会選挙の結果,全議員の支持を得て国家元首の地位に就いた.この当時の日本の新聞報道を思い起こすと,シハヌークは,対立する左派右派両勢力を巧みに操る政治家の印象が強い.いわば危ういバランスの上にシハヌークの政権は成立していたと言える.
 そのバランスが1970年に崩れた.それが上の引用箇所に書かれているロン・ノルのクーデターであった.ロン・ノルがクーデターを起こした理由はよくわからない.Wikipedia は項目により理由の記述が異なる.Wikipedia【ロン・ノル】は,次のように述べて,王族内部の対立を指摘している.
 
そして、1970年3月18日に癌治療でモスクワと北京へ訪れているノロドム・シハヌーク国家元首の政権をクーデターで倒した。国会にシハヌークの退位を決議させた。これらは、当時、副首相だったシハヌークの従兄弟であるシリク・マタク親王の強い意志によるものとされ、ロンノルに強く迫ったためであるとされている。
 
 一方,Wikipedia【ノロドム・シハヌーク】は,下の引用箇所で,米国の謀略だったと言っている.
 
クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」と見なし、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。
 
 真相は不明だが,いずれにせよロン・ノルのクーデターは米国の歓迎するところであった.シハヌークは,ニクソンのカンボジア爆撃 (ホーチミン・ルートの破壊) を公然と非難していたからである.
 ロン・ノルのクーデター後,北ベトナムは1970年3月29日,シハヌークを支援するためにカンボジアに侵攻した.これはクメール・ルージュからの要請に基づいた行動だったとされている.ここでようやく,カンボジア内戦の主人公であるクメール・ルージュが表舞台に登場したのであった.
 北ベトナム軍は速やかにカンボジア東部を蹂躙し,プノンペンに迫ったが,クメール・ルージュは北ベトナムとは独立した軍事行動をとったとされる.
 こうして,ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と,中国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポトが率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった.この状態は1975年まで続いた.
 米軍は北ベトナムのカンボジア侵攻を受けて,1970年4月26日,カンボジアに侵攻した.米軍はカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ,同年6月中にはカンボジア領内から撤退した.しかし同年末にはカンボジア領内の北ベトナムの拠点は復旧し,米軍の侵攻は結果的に失敗した.

 1970年のロン・ノルのクーデターと北ベトナムのカンボジア侵攻は,日本でベトナム戦争反対のデモに時々行ったりしていた学生たちにショックを与えた.ベトナムの民族自決のために戦っていたはずの北ベトナムが,カンボジアの民族自決に干渉したからである.

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中途半端な逆張り (二)

 ファミリーマートがこの三月から「ファミマこども食堂」を全国二千店で展開するという.
 同社のニュースリリースから以下に全文引用する.
 
2019年02月01日 社会・環境
「ファミマこども食堂」を全国で展開
 株式会社ファミリーマート(本社:東京都豊島区/代表取締役社長:澤田貴司)は、地域交流および未来を担うこどもたちを応援する取り組みの一環として、2019年3月より「ファミマこども食堂」の取り組みを開始いたします。
 「ファミマこども食堂」の取り組みにより、全国のファミリーマートの店舗を活用し、地域のこどもたちや近隣の皆さまが、共に食卓を囲みコミュニケーションできる機会を提供することで、地域の活性化につなげてまいります。
 ファミリーマートでは2018年度に東京都、神奈川県、埼玉県の5店舗で「ファミマこども食堂」をトライアル開催いたしました。このトライアルを通じて、「皆と仲良く話せて良かった」「学年を超えた交流を楽しめた」(参加者アンケートより)といった反響を頂き、開催地域を全国に拡大することを決定いたしました。
 「ファミマこども食堂」では、地域のこどもと保護者を対象に、参加者みんなで一緒に楽しく食事をするほか、ファミリーマート店舗のバックヤード探検やレジ打ちなどの体験イベントを通じて、ファミリーマートに関するご理解を深めていただく取り組みもあわせて実施します(店舗により、一部内容が異なります)。

ファミリーマートは、今後とも地域に寄り添い、地域のお客さまのニーズに応じて、全力を尽くして進化し続けてまいります。

■「ファミマこども食堂」の概要
概要:ファミリーマートの店舗スペースを活用し、近隣のこどもや保護者を対象に食事を楽しむ取り組み
対象:店舗近隣にお住まいのこども、及びその保護者
(小学生以上は保護者の同意があれば1人でも参加可能)
参加人数:約10名/回
参加料金:こども(小学生以下)100円、 保護者(中学生以上)400円
プログラム:オリエンテーション/みんなとお食事(約40分)
体験イベント(約20分)
※店舗により一部内容が異なります。

 
 これについて藤田孝典 (NPOほっとプラス代表理事,聖学院大学人間福祉学部客員准教授) 氏がすぐに噛み付いた.《ファミマ子ども食堂への3つの懸念と意見 》(掲載日;2/3 18:57) である.
 
 ファミマのニュースリリースを読めばすぐわかるように,「ファミマこども食堂」は,いわゆる「子ども食堂」ではない.コンセプトが異なるから,わざわざ「ファミマこども食堂」と称しているわけだ.多少まぎらわしいけれど,区別できないほどではない.
 ところが藤田孝典氏は,この名称が気に入らなかったらしい.ファミマをボロクソに非難するのだが,そのためには,ファミマのニュースリリースを改竄歪曲することも厭わない.
 
この発表を受けて、これは子ども食堂なのだろうか、単なる企業の商品提供、企業体験の場ではないか、という印象を持った。
 
これは子ども食堂なのだろうか 》と頓珍漢な疑問を呈しているが,その通りである.これは「子ども食堂」ではない.それなのに藤田氏は,どうしても「ファミマこども食堂」を「子ども食堂」だと言い張りたいらしく,小見出しに《ファミマ子ども食堂への懸念1 従来の子ども食堂との大きすぎる差異 》と書いた.藤田氏の雑文の読者はバカではないから,このアホのような ペテン 言い換えにすぐ気が付く.
 
それから、子ども食堂を名乗るのであれば、マニュアル化した形式的な取り組みではなく、先駆者たちの実践(温かい食事、献身的な交流、福祉的支援)に敬意をもって、せめて理念や思想を共有してほしい。
 
ファミリーマートは、従来の熱意ある子ども食堂への資金提供、食料提供などの間接支援ではいけなかったのだろうか。「子ども食堂」を名乗って、直接参入する意味は何があるのだろうか。
 
 だから「子ども食堂」とは名乗っていないってば.w
 藤田氏は,このあとも偏執的に「ファミマこども食堂」を「ファミマ子ども食堂」と言い換えている.読んでいて,この人は頭が悪いなあと思わざるを得ない.私たち読者は,そんな子供じみた w トリックには引っかからないからだ.
 そして遂に藤田氏は《ファミマ子ども食堂への懸念3 国家責任を後退させる民間支援 》と言い出す.
 国家の仕事に営利企業が口をだすことは,国の責任を免責してしまうから,やってはいけないと言うのである.
 ということは,東日本大震災の時にコンビニが被災地に一早く食料支援をしたことを,国や自治体の責任を免責した悪いことであるとするのが,氏の理屈である.
 あるいは予想される首都直下型地震に際して,都内で被災した人々が千葉,埼玉,神奈川へ徒歩で移動・帰宅する時に,東京周辺のコンビニには重要な役割が期待されているし,コンビニ各社もこの種の社会的役割を自覚していると思われる.だが藤田氏の理屈では,国と自治体の仕事である災害対策には,営利企業が口を出すなということになる.この暴論には,おいおい頭は大丈夫か,としか言いようがない.
「ファミマこども食堂」はニュースリリースにあるように福祉ではないし,全国の「子ども食堂」の活動を妨害しようという気はさらさらないと思われる.もしそんなことを企んでいるとしたら,ファミマは一巻の終わりだからである.w だから藤田氏は,ファミマの新規事業を妨害しようなんて考えずに,ほっておけばいいのだ.
 
 さてこの藤田氏の難癖の紹介を含めて,割と穏やかな意見を書いたのは,ブロガーの山本一郎氏だ.記事は文春オンラインの《ファミマ"こども食堂"で議論 ネットではすでに左翼対右翼の戦いみたいな騒動に 》である.この記事はとても穏健妥当な意見だと思うのだが,世の中には藤田孝典氏の同類がいて,みわよしこ (日本評論社のサイトからプロフィルを引用する) という人が《寄付先進国・米国から見た「ファミマこども食堂」の課題》を書いている.
 みわ氏は,他人の意見を紹介する形で
 
企業の『名ばかり社会貢献事業』にしないためには、コミュニティ・リエゾンや自治体の指導が必要です。それでこそ、意義や価値が生まれるのではないでしょうか
 
と書いているが,「ファミマこども食堂」事業が,誰も評価しない「名ばかり社会貢献事業」になってしまったら,全然広告宣伝の効率が悪過ぎるから,ファミマは撤退するだろう.そして企業価値は落ちるに違いない.これが営利企業がリスクを取って行う新規事業というものなのだ.だから,ファミマの新規事業が成功しようと失敗しようと,それが公共の福祉に背く反社会的行為でなければ,ほっておけばいいのである.自治体の指導が必要だなんてことは大きなお世話だ.
 ところで,みわ氏は藤田氏と同様にファミマに難癖をつけているのだが,藤田氏と雑文の趣旨が異なるのは,文末に次のように書いていることである.
 
ともあれファミリーマートは、「ファミマこども食堂」によって、「子ども食堂」ムーブメントに欠けているものの一部を補うことを社会に提案し、「私たちの公共」に対する重要な問題提起を行った。私はまず、歓迎し感謝したい。
 
 ファミマをネチネチと非難しておきながら,最後に唐突にファミマに感謝しているが,この一行で,みわ氏の腰砕けがあからさまになってしまった.どうせ難癖をつけるなら,藤田氏よりも激しくファミマを攻撃せんかい!と言いたい.そうでなければ書く意味がない.
 
 ともあれ,みわ氏の文章は,企業の事業活動について何の知識もなしに文章を書くと恥を世間に晒すということを教えてくれた.私はまず,氏の提起を歓迎し感謝したい.(←腰砕け w)

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2019年2月15日 (金)

アンコールを一目でも (五)

 ベトナムの戦況に話を戻すと,「テト攻勢」の報道でベトナム戦争の現実を目の当たりにした米国民は,これを転換点にして民意がベトナム戦争反対に大きく傾いた.そして政権内部からも継戦に反対する意見が強くなって,遂にリンドン・ジョンソンは大統領職を退く決意をした.ジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い,北ベトナムへの北爆を部分的に停止 (完全停止は10月) して北ベトナムに交渉を呼びかけた.
 振り返れば戦争当初,ジョンソンは地上軍によって,南ベトナムの一般村民と解放民族戦線ゲリラを分離区別して戦闘する方針だった.ベトナムの一般人を殺そうとは思っていなかったのだろう.しかし実際にはこの作戦は,その一般人が抵抗したため実行不可能だった.そのため,次第に村民もゲリラも無差別に殺戮する作戦に移行せざるを得なくなり戦争は泥沼化し,消耗戦の様相をあらわしたのだった.
 次の大統領になったニクソンの為すべきことは,北ベトナムおよひ解放民族戦線との講和と撤退であったから,地上軍の撤退を開始しつつ,敵の本体である北ベトナムを交渉の場に引きずり出すことにした.そこでニクソンはジョンソンが停止した北爆を再開 (1972年5月8日) し,対日本戦並みの物量を投入して北ベトナムを爆撃した.
 
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(爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52;Wikipedia【ベトナム戦争】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 再開後の北爆に関する記述を,Wikipedia【ベトナム戦争】から引用する.この当時の戦況がよくまとめられていると思う.
 
アメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、1972年の3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆再開を決定した (ラインバッカーI作戦) 。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間絨毯爆撃で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイなどのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。
海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。
アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。

 

 このあと,ベトナム戦争史のメインストリームは,1973年1月27日のパリ和平協定 (「北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相および南ベトナム共和国臨時革命政府 (南ベトナム解放民族戦線とベトナム民族・民主・平和勢力連合との連合政府) のグエン・チ・ビン外相」対「米国のウィリアム・P・ロジャーズ国務長官および南ベトナムのチャン・バン・ラム外相」の四者間で交わされた) から,米軍の全面的撤退 (ニクソンは1月29日に戦争終結を宣言し,1973年3月29日に撤退を完了した),米国に継戦の意思なしと判断した北ベトナムによる戦争再開 (1975年3月10日),南北ベトナムの統一へと進んだ.
 だが,ニクソンの北爆再開の前に,第三次インドシナ戦争勃発の前触れである出来事が起きた.北ベトナムのカンボジア侵攻である.

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2019年2月14日 (木)

中途半端な逆張り (一)

 いわゆるバイトテロだが,テレビの情報番組のMCが揃ってバイトテロを非難しているのは,スポンサー企業が番組提供から降りてしまわぬように,番組内容をリードする責任があるから当然だ.
 しかしコメンテーターの場合は,そこまでの責任はないから,むしろおもしろいコメントが求められる.ただ,立川志らくが「テロをやったやつに一億円の損害賠償をすりゃいい」と,常識的なコメントをしたのは,志らくには本業がきちんとあって,コメンテーターで飯を食っているわけではないからだと思う.ところが,テレビ芸人はそうはいかない.ウケないといけない.だからバイトテロ擁護論が出てくる.
 バイトテロを擁護する論者には二種類ある.
 一つは「バイトというのは昔からああいう事をやってきたのであって,騒ぎになっているのはSNSに投稿したからだ」とする意見.これに与しているのはカンニング竹山や古市憲寿だ.古市憲寿はいかにもそんな事を言いそうな顔をしているし,カンニング竹山は,昔自分もやったと言っている.w
 もう一つは,ネットに記事を書いているライターに多い意見だ.代表格は窪田順生である.
 窪田は《「バイトテロ」は訴えても抑止できない、3つの理由 》 (1~6まで分割掲載) で,「バイトテロが発生する真の理由は,バイトの時給が低いことである」としている.
 頭の悪い人は,これだから情けない.
 例えばセブンイレブンがバイトの時給を1,500円に破格の増額をしたとする.その後,ローソンやファミマでは引き続きバイトテロが発生するのに,セブンではバイトによる犯罪行為がなくなったとする.
 すると,ローソンやファミマもバイトの時給を1,500円にせざるを得ない.そうなればセブンは,バイトテロ抑止力を失い,時給1,500円でもバイトテロが起きるようになる.これが「見えざる手」による企業間競争だ.言い換えれば,バイトテロが,バイトの時給を引き揚げさせる恐喝のツール化する,ということである.
 つまり窪田は,現在は愉快犯であるバイトテロを,恐喝の道具にしなさいとけしかけているのだ.だが,窪田本人にはその自覚はないだろう.頭わるいから.w
 いや,頭がわるいからではなく,そのような逆張り的意見を書かないと,ネット上で無視されてしまうからだろう.どうせ逆張りするなら「バイトテロして何が悪い」とまで開き直ればおもしろいが,そんな度胸は窪田にはないから,「悪いのはバイトテロをやる本人だが,しかし彼らの時給があまりにも……」という,腰の引けた話の展開をする.いつものことだが,窪田は中途半端だなあ.w

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恥知らず

 朝日新聞の報道によれば,韓国の文喜相国会議長は《慰安婦問題の解決方法について「真心のこもった謝罪だ。被害者の最後の許しの言葉が出るまで謝罪しろということだ」と語った。「(1月に亡くなった元慰安婦の)金福童(キムボクトン)さんは(謝罪の)手紙1枚だけでも送って欲しいと言っていた。(日本は)被害者を優先せずに答弁している」と主張。「亡くなったとき、弔花や弔問が一度でもあれば問題が解決したということだ」とも述べた》という.(2月12日)

 浅ましくも金が欲しさにベトナムに出兵し,女性たちを凌辱して殺し,意気揚々と引き揚げた韓国軍.韓国政府は一度でも,犯された上に殺されたベトナムの女性たちに謝罪したことがあるか.恥を知るがよい,文喜相

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2019年2月13日 (水)

アンコールを一目でも (四)

 昭和四十三年の春,上京して中野区に住処を定め,駒場の教養学部に通学を始めた私が驚いたのは,駒場東大前駅の出口から大学正門まで,道の両側にズラリと並べられた立て看板であった.毎日毎日,駅前だけでなく学内に入っても立て看板の列は続いていた.
 この頃の立て看板に何が書かれていたかというと,この時既にストライキに入っていた医学部における学生処分問題が主だが,他には三里塚闘争やベトナム反戦についてのものがあった.当時のテレビ放送は,報道という点ではまことに非力なメディアであり,ベトナムの現状を知るために,立て看板とアジビラはかなり役に立った.朝日ジャーナルなどの週刊誌は,貧乏学生が購読するには高かったから,誰かが買ったものを回し読みした.
 そうこうしているうちに,六月十六日に教養学部の自治会正副委員長選挙が行われ,フロント (社会主義学生戦線;当時は構造改革路線のマイナーセクトだった.私と同年に入学した世代の著名人では阿部知子氏がこのセクトだった) の候補が当選した.続いてフロントのヘゲモニーにより全学投票が行われ,ストライキが決定した.さらに七月五日の全学投票で無期限ストライキに突入した.
 
 さて無期限ストライキに突入したはいいが,この時点ではストライキの最終的な目的が何かは分明でなく,しかも無期限ということは納期がないということで,一般学生は自分が何をすべきかわからず,ただ呆然とするだけであった.ストライキに入ったのが時期的には夏休みだったこともあり,キャンパスに出かけてもほとんど学生はいなかった.ある日たまたま,同じ語学クラスの高橋君という人と学内で遭った.私たちは,駒場寮 (当時) の前の植栽の石積みに腰掛けて「俺たちこれからどうなるんかなー」と話したことを思い出す.
 私が住処にした中野の学生寮は二人一室で,いろんな大学の学生がいたのだが,その中に王子博夫君 (東大文学卒.週刊新潮に在籍したが夭逝した) と,同室の西山栄一君 (日大文学部) がいた.この二人はアグレッシブで,ベ平連の集会やデモによく出かけていた.私は彼ら二人からべ平連のことを教えてもらった.
 ベ平連については,後にべ平連活動家の山口文憲らが内側のことを少し書いているが,山口のような中心的な人たちと,集会などに参加する一般人との距離感がかなりあるんじゃないかという印象を私は受けた.
 実際,ずっとあとになって知った (Wikipedia【共産主義労働者党】などに記述あり) が,いいだもも亀和田武らのベ平連の中心的活動家は,共産主義労働者党・プロレタリア学生同盟のメンバーであり,ベ平連はその大衆組織であった.ベ平連の非公然活動に一つに,米軍脱走兵を亡命させるということがあって,その活動に失敗した山口文憲が警察に逮捕されるという事件 (1968年11月) が報道された.一般学生にしてみたらこれは唐突なできごとで,ベ平連て,何か妙なことをやっているなあと私は思った.後に判明したことであるが,べ平連幹部は米軍脱走兵逃亡支援をするにあたって悪名高いKGBに資金援助を要請していた.これは共産主義労働者党が親ソ連派組織だったことと合わせれば,なるほどねーと納得のいくことだった.
 
 べ平連に胡散臭さをかんじた私は,ベ平連系の集会 (翌1969年に盛り上がった新宿西口のフォークゲリラなども含めて) には行かなかった.一つおもしろいのは,フォークゲリラは,高石ともや岡林信康高田渡らフォークシンガーたちから距離を置かれていたということだ.このことは中川五郎が《フォークゲリラWORD》(2015年6月28日) に書いている.ベ平連の政治性と,音楽の実作者であるフォークシンガーたちは,反りが合わなかったということだろう.
 ベ平連のことはそれとして,不思議なのは日本共産党のベトナム反戦運動だった.
 北ベトナムはソ連と中国から軍事的支援 (武器も人的にも) を受けていて,その武器で南ベトナム解放民族戦線は戦っていた.これは戦場では一目瞭然のことだから,秘密でも何でもなかった.
 日本共産党は,ベトナム戦争が泥沼化しつつあった1966年3月に,中国共産党,朝鮮労働党,ベトナム労働党を訪問した.これは当時のメディアが報道したので一般にも知られていた.そのことに関して Wikipedia【日中共産党の関係】に以下の記述がある.
 
アメリカ衆国のベトナム侵略に反対する統一戦線の形成方法をめぐって朝鮮労働党とも意見が一致しベトナム労働党とも意見が一致したが、中国共産党との会談では不首尾に終わった。だが北京においては不一致点はあったが友好的関係は今後も保持するという結論になった。》 (当ブログの筆者による註;このときの中国共産党首脳は鄧小平や劉少奇.この当時,日本共産党と朝鮮労働党が友党だったことはツっ込まないように)
 
 これで帰国しようとした日本共産党代表団 (団長は宮本顕治) が最後に上海で毛沢東と儀礼的な会談を行ったところ,文化大革命を立ち上げて権力闘争を開始しようとしていた毛沢東が,突如宮本顕治にかみついた.Wikipedia【日中共産党の関係】からまた引用する.
 
毛沢東が「北京指導部は軟弱」と突如横槍を入れる形で問題を紛糾させ、結局会談は決裂、これを期に中国共産党の中国政府をも動員した日本共産党への攻撃がはじまった。
この後「暴力革命こそが日本の来る革命の唯一の道」であると北京放送や『人民日報』が報じはじめた。中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出した。

 こうして1966年秋に,日中共産党は対立関係になった.日本共産党とソ連共産党は既に絶縁状態にあったから,その二ヶ国と深い関係にあるベトナム労働党と南ベトナム解放民族戦線をなぜ支持するのか,その理由が私たち一般国民には理解できなかった.忖度すれば,ベトナム労働党が日本共産党の内政に干渉しなければ,特に関係を絶つ必要はないということなのであろう.こんな状況だったから,ベトナム戦争に関する情報は,日本共産党の筋からも日本に伝えられてはいて,つまり民青の活動家から教えてもらうことも多々あったのである.

 このようにして,私たち学生は,ベトナム戦争について一応の知識はあると思っていたのだが,それが大きな間違いだったことを知ったのは,ベトナムから米軍が撤退し,南北ベトナムが統一されたあとのことだった.

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2019年2月12日 (火)

アンコールを一目でも (三)

  ケネディが暗殺されたあと,リンドン・ジョンソンが大統領を継いだ.ジョンソンの業績については,Wikipedia【リンドン・ジョンソン】に,わかりやすくまとめられている.この記述にあるように,もしもケネディが戦争を始めなかったら,ジョンソンは内政に腕を揮い,歴史に名を遺す大統領になったかも知れない.しかしジョンソンにとって不運なことに,ケネディには,米国は人間の自由の守護神であるとの信念があった.そしてそれはジョンソンもほとんどすべての米国民も同じであった.ケネディの信念“ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.”が彼らをベトナム戦争の泥沼に彷徨わせたのであった.
 1960年12月に結成された南ベトナム解放民族戦線によって,偶発的にであるが1964年にトンキン湾事件が勃発した.次いで1965年2月7日にはアメリカ軍事顧問団基地が解放民族戦線に攻撃され,アメリカ軍将兵が死傷した.これにジョンソンは怒り,北ベトナムへの爆撃 (北爆) を開始した.北爆の効果を過大に評価していた米国政府は,1965年3月8日にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊3,500人が上陸し,本格的な地上戦を開始した.Wikipedia【リンドン・ジョンソン】から下に抜粋引用する.

ジョンソンはウエストモーランド司令官の要請を受けて1965年末には184,000人に増派し、サイゴンのグエン・バン・チュー政権と南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが支援しその背後には中ソがいた)との内戦であったベトナム戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。以後トンキン湾決議に基づき全軍の最高司令官としての大統領に付与された権限を行使して、現地の最高司令官ウエストモーランドの要請に応えて小刻みに増派を繰り返し1965年末に184,000人、1966年末に385,000人、1967年末に486,000人、1968年末には536,000人がベトナムの地で戦い、多くの若者が暑いジャングルの中で心身ともに傷ついていった。戦死者数が1966年4,000人、1967年7,000人、1968年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、1972年末までに第二次世界大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された。
 
 ベトナム現地からの増派要請にいくら応えても戦局は改善しなかった.むしろ次第に後退を余儀なくされるようになった.
 ベトナム戦争の歴史で忘れられがちなのが,戦争に果たした韓国の役割であった.米国でケネディが大統領になった年の5月,朴正煕第2軍副司令官がクーデターにより政権を掌握し,国家再建最高会議議長に就任した.朴正煕は国家再建最高会議議長は11月に訪米し,ベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた.目的は「ベトナム特需」であった.韓国が自ら参戦を望んだのは,アメリカを軍事支援することによって「ベトナム特需」と派兵の見返りとして経済援助を獲得するというものであった.Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国軍・SEATO連合軍の参戦]から引用する.
 
1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに、ベトナム一般市民の犠牲を尻目に官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)など韓国は無関係の第三国に軍事侵攻した事で漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。
 
 ケネディ自身は韓国の自薦を受け入れなかったが,ジョンソンは1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた.韓国は,国ぐるみで「戦争の犬」となったのであった.
 この際に米国と韓国には,韓国軍が何をしても問わないという密約があったとする説がある.その根拠を私は知らないが,韓国軍の戦い方については Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺]に次の記述がある.
 
《・1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した。
・1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した。
・さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)。
・1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件)、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる。
・1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された。
・1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
・同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される。

 
「ベトナム特需」および米国から韓国への経済援助の他に,韓国軍兵士には米国から給料が支払われた.兵士はそのほとんどを家族に送金し,これも韓国経済を潤した.現在の韓国経済の基礎は,ベトナムの人々の殺戮,強奪,女性の凌辱の上に構築されたのである.私たち団塊の世代は,上京してベトナム反戦運動の中でこれを知り,それまで日本の植民地とされた被害者としての韓国のイメージを覆された.旧日本軍の侵略戦争よりも,現在進行形であるだけに,ショックは大きかった.
 今の若い人の「嫌韓」の理由を私は知らないが,高齢者に韓国に好感を持つ人が少ないのは,この朴時代のベトナム参戦が大きく影響している.日本のように形だけでも八紘一宇とかの大義名分を掲げることなく,単に金のために他国民を殺し,奪い,犯す国という韓国のイメージを,私たちは未だに覚えているし,死ぬまで忘れないだろう.
 さて,このような韓国の戦争の犬たちの戦いぶりに,次第に米軍は精神的に荒廃していった.「サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦」である.
 
・韓国海兵隊による無差別殺戮
 韓国海兵隊 (青龍師団) が1968年2月12日にクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害 (フォンニィ・フォンニャットの虐殺) し,同2月25日に同省ハミ村で村民135人を虐殺した (ハミの虐殺).
・米陸軍による無差別殺戮
1968年3月16日,アメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が,クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において村民504人を無差別射撃で虐殺した (ソンミ村虐殺事件).
 
 もはや米国のベトナム戦争には大義も名分もなかった.“for the freedom of man”はどこかに行ってしまった.米軍の敵は解放民族戦線ではなく,ベトナムの村の人々になったのである.
 ソンミ村虐殺事件は,事件翌年の1969年12月,シーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり,『ライフ』誌も報道して,米軍史に残る大虐殺事件が明らかになった.ハーシュの記事は“My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath”と題して出版され,1970年度ピューリッツァー賞を受賞した.
 これより少し前から,米国内での反戦運動が高揚を始めていた.米国のベトナム戦争介入の理論的支柱「封じ込め」政策を提唱した本人であるジョージ・ケナンが1966年に上院の外交委員会・ベトナム公聴会で,ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だと批判した.1967年に入るとキング牧師らの公民権運動の指導者は公然と反戦の声を上げるようになった.これに呼応するかのように,学生たちの反戦運動の波が高まり,次第に全米に反戦運動が波及した,そしてその様子は,日本でも報道されるようになった.
 この年の11月,民主党政権のベトナム戦争最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した.マクナマラは,この戦争には勝てないと考えたのである.
 年が明けてベトナムの旧正月,1968年1月30日夜から北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線は南ベトナムに対する大攻勢,すなわち「テト攻勢」を開始した.Wikipedia【テト攻勢】とWikipedia【ベトナム戦争】とで僅かな齟齬があるが,この「テト攻勢」で解放民族戦線側は軍事的には失敗したが,米国の継戦意思を挫き,戦略的には成功したといえる.
 Wikipedia【テト攻勢】から一部を抜粋引用する.
 
南ベトナム事態は、メディアを通じて世界に報道された。特にテレビにより、生々しい映像がアメリカ合衆国に伝えられ、世論に大きな影響を与えた。また南ベトナムの国家警察総監グエン・ゴク・ロアン(阮玉灣)はサイゴンの路上で、解放戦線の捕虜、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)とされる人物を拳銃で即決処刑した。その残酷な場面は、カメラマンのエディ・アダムズに撮影され、世論に衝撃を与えた。アダムズはこの写真(『サイゴンでの処刑』)、で1969年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞した。
戦術的には、解放民族戦線側は損害の大きさの割に成果が少なく、攻撃は失敗に終わった。しかし、ベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよアメリカ大使館が占拠された事態は、衝撃をもって受け止められた。このような理由から、戦略的には解放戦線が成功を収めたといえる。
特に、フエやチョロンその他デルタ地帯の都市部への空爆の実態なども、改めて米国民の知るところとなり、アメリカ本土のベトナム反戦運動は非常に高まった。これにより、アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは、次期アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を自ら取り止めた。

 
 ベトナム戦争の状況がこのような大きく変化した時に,私は大学入学試験を受け,合格して上京の荷造りをした.昭和四十三年の春三月であった.

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2019年2月11日 (月)

「エコノミック・アニマル」考

 連載旅行記《アンコールを一目でも》を書き始めて,今はまだイントロを書いているところだ.イントロとは,カンボジアの戦乱でアンコール遺跡が破壊されるまでのことである.
 カンボジアを舞台にした戦乱,通称カンボジア内戦は1970年 (昭和四十五年) にカンボジア王国が倒れてから二十三年の長きに亘って戦われた.
 そのカンボジア内戦が始まった昭和四十年代にはやった日本 (人) を表現するキー・ワードに「エコノミック・アニマル」という言葉がある.

 この言葉は『精選版 日本国語大辞典』で次のように解説されている.

昭和四〇年(一九六五)、アジア‐アフリカ会議でパキスタンのブット外相が日本人の経済活動を評価する意味で「日本人はエコノミックアニマルのようだ」と評したのが初めとされる。その後、主として東南アジア諸国への日本の経済進出に対する反発から日本人への蔑称となった。

 大雑把な話としてはこれでもいいのだが,正確に言うと間違いである.というのは「アジア・アフリカ会議」(略称はAA会議) は1955年 (昭和三十年) に一回開催されただけで,1965年の第二回会議は開かれなかったからである.我が国における国語辞典の根本辞典というべき日国にも誤りはあるということだ.
 それについて,昭和四十年 (1965年) 六月二十八日の日本経済新聞夕刊記事から一部を抜粋する.この日経の記事は,元外交官で宮内庁侍従も務めた多賀敏行氏の著書『エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった ― 誤解と誤訳の近現代史 ― 』(新潮新書,2004年) からの引用である.

"日本人は政治わからぬ動物"パキスタン外相が暴言
【アルジェ二十七日共同】第二回AA会議のパキスタン主席代表ブット氏は二十七日、アルジェの宿舎で記者会見し、AA会議延期のいきさつについて説明した。

 この記事は,上の引用箇所に続く部分が,内容的には共同通信の大誤報 (後述) なのであるが,共同通信が記事を配信した日付自体は正しいから,昭和四十年 (1965年) 六月末あるいは七月初めあたりに第二回AA会議が開催予定されていたが,延期されたということを意味している.そしてAA会議は,延期されたまま遂に開かれることはなかった.
 AA会議に関しては資料が新聞記事くらいしかないので断定はできないが,首脳会議である第二回AA会議の前に,おそらく外相会議が予定されていたと思われる.ところがAA会議常設準備委員会は,外相会議に諮らずにAA会議の延期を決めた.外相会議はAA会議の下部組織だったわけではないだろうから,それは特に問題ではないだろう.パキスタン主席代表ブット氏 (この時は外相,のちにパキスタン大統領,次いで首相に就任) が二十七日に記者会見したのは,これも推測だが,ブット氏が常設準備委員会の代表だったからではないかと思われる.

 ここから先は多賀敏行氏 (実は私と同年の生まれ) の推理なのだが,この時の記者会見席上で,ブット氏に「なぜAA会議を外相会議に諮らずに延期したのだ」と不当かつ執拗に絡む日本の地方紙特派員がいて,その人物とブット氏との間で一悶着あったらしい.そしてその応酬の中でブット氏が“economic animal”“not political animal ”という表現を用いたようだ.
 ところがその“animal”に共同通信が噛み付いた.なにしろ昭和四十年のことだから,共同通信社といえども皆が全員,ネイティブ・スピーカー並みに英語が堪能ではなかったようで,“animal”を“beast”と混同,誤解し,おまけに激昂して《"日本人は政治わからぬ動物"パキスタン外相が暴言 》と題して共同通信本社に打電したのであろう.それをまた日経 (この当時の日経は三流紙) が拡散した.私と多賀敏行氏の記憶は一致しているし,私の育った家では新聞は読売だったから,おそらく全国紙は皆この共同通信の配信を垂れ流したと思われる.

 日経の記事からの引用に続いて,共同通信の配信が内容的に大誤報だったと書いたのは,以上のことである.
 ブット氏は“econmic animal”に批判的意味を込めたわけではなかった,というのが多賀敏行氏の見解だが,私もそれに同意する.(多賀氏はさらに「誉め言葉だった」旨の意見だが,それには同意しない.animal は中立的な語だと思う)
 しかしこの報道以来,“econmic animal”という言葉は「エコノミック・アニマル」に日本語化して独り歩きを始めた.「日本は経済のことしか頭にない二流国家である」との意味に変質し,日本国内の知識人とメディアが自虐的に用い始めたのである.
 そして悲しいかな当時,「日本は経済のことしか頭にない二流国家」は事実であったし,エコノミック・アニマルが流行語だった時代に続いて田中角栄が登場して拝金主義が横行し,日本人はお金のことしか頭にない二流国民に成り下がったのであった.
 
 日本がどれだけ“econmic animal”ならぬ「エコノミック・アニマル」だったかは,国際外交において,如何にアジア・アフリカ諸国家が大切かを全く理解していなかったことに示されている.すなわち第一回AA会議に各国からは,中華人民共和国の周恩来,インドのネール,エジプトのナセル等の元首あるいは首相級が出席したのに,日本は外相代理級の代表 (高碕達之助経済審議庁長官) しか送らなかった.しかも日本代表が経済審議庁長官だったことは,まさに「日本は経済のことしか頭にない二流国家」だったことを示していた.
 このAA会議の第一回 (1955年) は「バンドン会議」とも呼ばれ,アジア・アフリカ諸国が平和と反植民地主義,民族自決を謳い上げた歴史的国際会議であったが,日本はこれに無関心であった.それは,その後のベトナム戦争に関して,日本が米国に無批判に追従した姿勢に繋がるものだった.

 
 以上は,連載記事《アンコールを一目でも 》の補足の意味で記した.

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2019年2月10日 (日)

アンコールを一目でも (二)

 日本の戦後世代は,ケネディ大統領に悪い印象を持たなかったと言っていいだろう.
 1960年安保闘争でよく言われることのひとつに「改訂された新日米安全保障条約を読んだことのある人はほとんどいなかった」がある.Wikipedia【安保闘争】には次の記述がある.
 
小室直樹や西部邁などは「安保反対と言って騒いでいた中に、安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している[要出典]。西部は当時全学連中央執行委員をしていた
 
[要出典]と書かれているが,昔からこれは言われていて,たぶん実際に西部邁はこう言っていたと思われる.メディアにこのように書かれても西部邁は否定しなかったと私は記憶している.
 それはともかく,60年安保闘争は,条約の中身を知っているかどうかは問題ではなかったのだ.それは長らく日本国民の心底にあった反米感情が噴出したものだったからである.
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(国会を取り囲んだデモ隊;Wikipedia【安保闘争】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 広島と長崎への原爆投下は当然のことであると米国と米国民は公言していたし,日本の敗戦直後から継続的に行われた核実験は,日本人の感情を逆撫でした.1946年のビキニ環礁核実験では戦艦長門が敗戦国の象徴として沈められた.1954年のビキニ環礁における水爆実験「キャッスル作戦」では,第五福竜丸が被爆 (この水爆実験で被爆した漁船は数百隻に上るとされ,被爆者は二万人を越えるという) した.また被爆者補償が,日米の政府間交渉 (日本政府は鳩山一郎内閣) の結果,賠償金ではなく「好意による見舞金」とされたことは,日本国民に敗戦国の惨めさとして受け止められた.
 
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(キャッスル作戦・ロメオ実験のキノコ雲;Wikipedia【キャッスル作戦】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 その三年後,在日米軍相馬が原演習地 (群馬県) で,1957年 (昭和三十二年) 1月30日,換金して生活費に充てる目的で薬莢を拾いに演習地内へ立ち入った日本人主婦を,背後からウィリアム・S・ジラード三等特技兵が射殺した. (ジラード事件) (詳細資料)
 これは明らかに愉快犯的な殺人であったにも関わらず,なぜか傷害致死罪で起訴され,しかも判決には執行猶予が付いた.(後に,重罪に処しないという日米政府間の密約があったことが判明した.日本政府は岸信介内閣)
 この事件も日本国民の反米感情を強く刺激し,こうして反基地運動,反核運動,平和運動は反米闘争の面を見せ始めたのだった.
 小中学校では教組が反安保集会を開き,私たち生徒は何ら意味を知らずに校庭で「アンポハンターイ」と声を上げてデモ遊びをした.先生たちには叱られなかった.
 しかし60年安保闘争は,その根底にあるものが漠とした反米感情に過ぎないから,国会前に空前のデモ隊を現出させただけで,6月19日に条約が自然成立した後は何らの国民運動にも結実せぬままに雲散霧消した.
 その年の11月,米国大統領選でケネディが勝利すると,日本の大衆は掌を返して米国の若くて強いリーダーシップを持つ大統領を歓迎した.
 ケネディは,かつて自分が艇長であった魚雷艇「PT-109」と日本の駆逐艦「天霧」が衝突して死線を彷徨った戦時体験があるが,大統領選中,旧天霧の乗組員を選挙応援のために米国に招待した.米国民は,かつての敵国軍人が恩讐を越えて選挙応援に駆け付けたことをフェアプレイとして称賛し,日本の大衆はこれを喜んだ.
 反米のように見えた英語教員は,ケネディの大統領就任演説をプリントして生徒に配ったし,この演説中の最も有名な箇所
And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

は流行語のように巷で語られた.
 確かにケネディはカッコよかった.でもケネディの演説って,日の丸の小旗を振って出征兵士を送り出した「お国の為」とどう違うの?
 そんな割り切れない思いが胸の底に沈んでいったある日,ケネディは暗殺された.
 何がどういうわけで暗殺されたのか,皆目わからないうちに,日本のラジオからは追悼曲“Let Us Begin Beguine”が頻繁に流れて大ヒットした.そんな立派な大統領だったの?と私たちは疑問に思ったが,ケネディが,選挙に勝つためにはマフィアと手を組み,下半身の緩いオヤジだったことを知ったのは,もっとずっとあとのことだった.
 こんな本当はテンヤワンヤの状況の中で,テレビは無論のこと,新聞やラジオも国際社会で何が起きているのかを報道することは少なかった.私たちの世代は,ケネディ暗殺後の米国が何を始めたのかを知ろうともせずに受験勉強に精を出し,高校を卒業していった.
 こうして大学に入り,受験勉強から解放された私たちの前に現れたのがベトナム戦争反対運動だった.

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2019年2月 9日 (土)

亀二題

[1]
 歯医者の予約は四時だったのだが,少し早く藤沢駅に着いたので,時間つぶしにカフェに入った.私が腰かけた席のすぐ横に,三人の婦人が既に談笑していた.
 彼女らの会話は,話題があちこちに飛んでは戻りという具合だったのであるが,少し再現してみる.しゃべっているのは専ら,小太りというよりは更に太めの体格の女性 (推定年齢五十三歳) で,カフェはパブリックな場所だという認識はないらしく,けたたましい声で話し,かつ笑った.
「このあいだシンガポールに行ったんだけど,七時間もかかるのねー.そんなんだったらハワイの方がよっぽどマシだわーって思って,その次にハワイに行ったのね.やっぱハワイよねー」
「……」(相槌は聞き取れず)
「でね,ハワイから帰ってきてカメを買ったの.こんなにちっちゃいんだけど,大きくならないんだって」
「……」(相槌は聞き取れず)
「名前はミッシーちゃん,ていうの」ヾ(--;)
 この名前で想像されるのは,ミシシッピアカミミガメである.いい歳こいて,お前の頭は小学生か.大きくなってから困って捨てにいくなよな.
「エサはね,メダカをあげてるのよー」ヾ(--;)カワイソウダヨ
 
[2]
 竹生島旅行の資料ファイルから,和菓子「金亀」の箱に入っていた紙が出てきた.

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 彦根城には,西の丸三重櫓の近くに観音台という場所がある.冒頭の行にある観音「合」と,正しい観音「台」では読みが違うから,原稿を書いたときの誤変換ではない.これを書いた人は「観音合」だと思い込んでいるのだろう.地元の菓子屋さんなのに.
 それから,「金の亀をもった観音様」も間違い.正しくは「金の亀にのった観音様」である.しかし観音様が掌に亀を載せている図は,妙に楽しい.
 
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 金亀の製法がわからぬが,普通に置いたこの状態では,小豆の層の上に寒天の層があり,全体を氷砂糖が包んでいる.見た目は割れた氷の趣であり,上に金箔がちょんと付けられている.
 テレビを見ていると,タレントが甘いものの食レポで「あんまり甘くなくておいしい」と言うのが常であるが,銘菓金亀は時流に抗して,菓子は甘いものだと断固主張している.近江彦根藩第十五代藩主井伊直弼のようである.自分でも何いってんだかわからぬが,とにかく気に入った.

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2019年2月 8日 (金)

アンコールを一目でも (一)

 高校生の時,教科書か世界史の参考書にアンコール・ワットの写真が載っていた.1960年代の東南アジアの戦乱が激しくなる前に撮影されたものではなかったかと思う.美しい寺院だと思った.以来,その写真の印象は私の脳裏から消えることはなかった.
 
 第二次世界大戦が始まる前から,東南アジアは戦乱の地であった.
 東南アジア戦乱の当事者の一つは日本であったが,太平洋戦争に日本が敗北するや,この地に君臨していたフランスが植民地の復活を画策した.連合国の中心であった米国のルーズベルト大統領はフランス植民地の復活に反対していたが,1945年3月24日にルーズベルトが死去すると情勢は変わった.Wikipedia【ベトナム戦争】の「連合軍・自由フランス軍の再進駐」から下に引用する.
 
ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する。
1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。
》 (引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)

 上の引用箇所の一部《9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言》を補足すると,7月26日のポツダム会議では第二次世界大戦前のインドシナにおけるフランス植民地を復活させると決定されたが,戦時中から活動していたベトナム独立同盟 (ホー・チ・ミンヴォー・グエン・ザップが指導していた) は,8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した旨を「玉音放送」すると,8月17日にハノイを占拠し,9月2日にベトナム民主共和国の樹立を宣言,ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任したのであった.
 さてベトナムに進駐した連合軍は,ベトナム民主共和国の独立宣言などお構いなしに旧日本軍の捕虜収容所に入れられていたフランス軍将兵を開放し,再武装を援助した.フランス軍はサイゴン侵攻を開始し,公共機関を占拠してフランス国旗を掲げ,サイゴン全域を制圧した.翌月にはフランス軍増援部隊が到着し,ベトナム南部の独立を目指す勢力を一掃し,さらに北上を開始した.
 この動きに続いて1946年3月5日,連合軍東南アジア軍司令部は南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したと発表し,フランス軍は北緯16度線以南を接収した.フランス軍は3月18日にはハノイに侵攻し,同年5月までにラオスも制圧してインドシナ一帯を占領した.
 これより先に,ホー・チ・ミンらが率いるインドシナ共産党 (1930年に結成された) は,ベトナム北部に進駐した中華民国軍との軋轢を避けるために,1945年11月に一旦非公然化し,党員は公然組織ベトナム独立同盟会 (ベトミン) に加わった.
 1946年3月にフランスは,制圧したコーチシナ (ベトナム南部の,フランス植民地時代の名称) で傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させた.こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは抵抗し,1946年11月20日,ハイフォン港 (ベトナム北部の主要港) で密輸船取締りの際の銃撃事件を契機にしてフランスとベトミンとの全面戦争が開始され,インドシナ戦争 (第一次インドシナ戦争) が勃発した.
 開戦当初はフランス軍が全土を平定したかに見えたが,農村地帯に退避してゲリラ戦に移行したベトミンは次第に優勢となった.1947年10月,フランスは機械化部隊15,000人を投入して北部山岳地帯のベトミン軍拠点を攻撃したが敗北した.これ以後,ベトミン軍は守勢を脱し,ゲリラ戦から正規軍による積極的反攻にでた.
 これ以後の詳細は,Wikipedia【第一次インドシナ戦争】【ベトナム戦争】【ベトナム】などの記述に譲るが,それぞれの記述中のリンクを丹念にたどれば,Wikipedia だけでも相当詳しくインドシナ半島の近代史を知ることができる.上に私が述べたことも,Wikipedia の記述を要約したものである.

 結局,ディエンビエンフーの戦いにフランスは大敗し,ベトナムから撤退することになる.第一次インドシナ戦争におけるフランスの敗北については,士気の低さが指摘されることが多い.これについて Wikioedia【第一次インドシナ戦争】は次のように述べている.
 
手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。
 
 この引用中の《身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士》は,フランスからベトナムの戦乱を継承した米国が引き受けた運命に重なる.やがて米国がフランスの轍を踏むことになろうとは,米国民は想像もしていなかったであろう.
 さて,私たちの世代は,上に述べたフランスの植民地が消滅するまでのことは,後に学校教育において歴史的事実として学ぶことになったのであるが,1961年1月20日,米民主党のジョン・F・ケネディが合衆国大統領に就任して以後の東南アジアの戦火は,私あるいは私と同世代の人々にとって,歴史ではなく,自分の人生とリアルタイムに同時進行するできごとであった.

 ケネディ大統領という人は,不幸にも若くして暗殺されたが,逆にそれはある意味でラッキーだったかも知れない.ベトナム戦争は実質的にケネディが始めた戦争なのに,米国のみじめな敗北をその目で見ずに済んだからである.

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2019年2月 7日 (木)

琵琶湖竹生島 (補遺)

[1]
 まず酔っ払いの記憶違いを訂正する.
 竹生島旅行記を書き終えて,醍醐寺のパンフレットとか,入ったカフェのレシート,遊覧船のチケットの半券などを整理していたら,資料の中から店の名入りの箸袋が出てきた.それを見たとたん,記憶の大間違い気が付いた.私は彦根の四番町スクエアから歩いて彦根駅前に戻り,実はそこで飯屋の暖簾をくぐったのだった.飯屋の名は八千代といい,鮒寿司の一件はその八千代での話なのである.その店で結構酔っ払ったが電車に乗り,長浜駅で下車したはいいがホテルに行く前に,煤けたような飲み屋でハシゴ酒を食らったというのが事実である.それで,その線で《琵琶湖竹生島 》の (二) と (三) を訂正した.

[2] 
 長浜港から竹生島へ渡るクルーズ船の中に大きなディスプレイがあり,観光案内のビデオや歌をかけていた.竹生島が近くなった頃,ディスプレイに「琵琶湖哀歌」と歌のタイトルが映り,男声コーラスの歌が流れたのだが,それを聴いて私は心底驚いた.メロディーが「琵琶湖周航の歌」そのまんまだったからである.帰宅してから Wikipedia で調べてみたら以下の事情であることがわかった.

琵琶湖周航の歌
この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。

琵琶湖哀歌
1941年 (昭和16年)6月にテイチクレコードから出された流行歌。
作詞を奥野椰子夫、作曲を菊池博が行い、東海林太郎と小笠原美都子が歌った。
 同年4月6日に琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆し水死 (琵琶湖遭難事故) した第四高等学校 (現・金沢大学) 漕艇部の部員11人を悼んで作られたとされている。歌詞には遭難事故には全く関係のない琵琶湖八景が詠み込まれており、またメロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である。東海林太郎と小笠原美都子のデュエットも即席で、レコードが発売されたのは、まだ遭難者の捜索が続いていた最中であった。
》 (当ブログ筆者による註;遭難者の捜索が続いている最中に,悲劇を金儲けのタネにするところが凄い.今ならネットで炎上だ)
 
 Wikipedia【琵琶湖哀歌】は《メロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である 》とか《琵琶湖周航の歌 - しばしば混同される別の学生歌 》とかなんとか書いているが,借用でも混同でもない.琵琶湖哀歌は,完全なパクリと断定していい.YouTube はこれ.当時の日本が如何に知的所有権に無関心だったかがわかる.ちなみに作詞者の奥野椰子夫は,資料によれば,日本著作権協会理事であったという.日本著作権協会の黒歴史だ.w
 しかし,さらに言うなら,そもそも琵琶湖周航の歌自体がパクリなのであった.パクラれた「ひつじぐさ」のYouTube はここ
 琵琶湖周航の歌,琵琶湖哀歌のパクリ問題については,かなり専門的な議論が既にあるようだ.私は極悪非道な「ヒット曲」琵琶湖哀歌をしらなかったのだが,先人がわかりやすく整理してくれている
 この件の道義的問題につき,京都大学関係者や,経済的利益を得た加藤登紀子はどう考えているのだろう.
 
[3]
 彦根城の中の茶店「聴鐘庵」でいただいた和菓子「金亀 (こんき) 」を土産物店や駅で探したが見つからなかった.それで,帰宅してから通販で購入した.
菓心おおすが (大菅製菓 彦根市中央町4-39)

 水分活性が非常に低い砂糖菓子なので,冷蔵すれば相当な長期間の保存が可能だろう.賞味期限が切れて一ヶ月後に食べてみたが,全く劣化 (カビの繁殖) はなかった.化学的劣化について,冷凍して数年後に食べてみようかと思っている.どういう義理があってそこまでするのか自分でもわからぬが.

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2019年2月 6日 (水)

琵琶湖竹生島 (三)

 四番町スクエアから彦根駅前に歩いて戻った.長浜はすぐだから電車に乗ろうとも思ったのだが,さすがに空腹なので彦根駅前の飯屋の暖簾をくぐった.店の名は「八千代」といった.蕎麦もうどんも丼物もあるし,酒も飲ませるという広角打法の店だった.いつもはフレンチだのイタリアンなどとほざいている私だが,旅にしあれば,なんでもありの食堂や,商運既に傾いて煤けた飲み屋なんかがよろしい.旅人の旅情をなぐさめてくれるのは,その手の店である.
 飲み物は例によって例の如くハイボール.下の写真を撮る前に,串かつを食べて,ハイボールは二杯目.
 品書きを開いて,次は何にしようかと思ったら鮒寿司 (Wikipedia【鮒寿司】 によると正しくは鮒鮓と書くものらしい) があった.(↓の写真の角皿)
 
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 鮒寿司は,最初に食べた時の体験がその後の好き嫌いを決定するといわれる.ホヤと同じだ.ホヤは東北の漁港で水揚げされたばかりのものは美味だと聞いているが,私が初めて食べたホヤは,異臭のするゴム状のものだったので,それ以来,口にしない.
 鮒寿司を初めて食べたのは静岡市内の小料理屋であった.店の主人は京都の「たん熊」で修業した料理人で,鮒寿司は滋賀の知己から取り寄せているといった.その鮒寿司が実に旨かった.それで鮒寿司には抵抗感がないのであるが,しかしその店の鮒寿司が私の最初で最上の体験で,以来,それよりおいしい鮒寿司に出会ったことがない.今にして思えば,その店の鮒寿司は,滋賀から届いたものに何らかの「仕事」を施したものだったのだろう.程よい塩味と噛み応えだった.
 さて期待はしていなかったが,長浜駅前のチープ感あふれる飲み屋の鮒寿司は,私の鮒寿司体験の中で最低に位置付けられるものであった.とにかく塩がきつい.スルメのように硬い.臭い.そして異常に安い.w
 品書きに書かれた値段を見て私は,小皿に三切れほど載せられて出てくるものと予想していたのだが,上の写真のように無造作に,まるで〆鯖一人前のように盛られて登場したのである.滋賀土産で販売されている価格の半値ほどだから,飲み屋の旦那が趣味で自作したものかも知れない.とにかく硬くて,血圧が150を突破して耳から煙がでるくらいに塩辛かったので,食うのが苦行であった.
 ついでに書くと,角皿の隣の椀は,件の鮒寿司に付いてきたものだ.椀に湯が入っていて「これに鮒寿司を少し入れて鮒寿司汁にしてください」と店のおかみさんが言った.そして「塩気がたりなかったら調節してね」と,小瓶入りの塩も置いていった.
 言われた通りにしたら,三倍に強化された発酵臭が湯気と共に立ち昇った.食い物を粗末にしてはいけない.食い残してはいけない.食い物はすべてありがたいものだから,口が裂けてもマズイと言ってはいけない.そういう昭和の価値観を引きずっている私は,泣きながら鮒寿司汁を飲んだ.父上様,母上様,鮒寿司汁おいしうございました.幸吉はもう走れません.
 あとそれから,鉄皿に盛られた料理は,ほんとは何を注文したのか今となっては思い出せないのであるが,とにかく予想とは異なるものが鮒寿司に続いて大量に出てきたのである.画像の中の 巨大イトミミズ 赤い 血管のような ものは,滋賀名産の赤コンニャクを糸コンニャクにしたもの.鮒寿司汁でHPが大幅に減っていた私は,「あ,もういかなくちゃ,お勘定してくださーい」とわざとらしく言って支払いを済ませ,私の旅情をしみじみと慰めてくれた店を後にした.
 
 駅前からタクシーに乗り,予約してあった「北ビワコホテル グラツィエ」に着いた.
 チェックインしたら,目を見張るほどの美人フロント係に旧館へどうぞと言われた.「旧館てどこ?」と訊いたら,ホテルの玄関を出て,右に歩いたところにあるという.暗い道を歩いて旧館に着き,中に入るとホテルマンがいたので「飲み物の自販機は何階ですか」と訊ねたら,自販機は本館 (フロントのある建物) にしかないと彼は答えた.そして,この棟は門限があるとも言った.私は慌ててお茶のペットボトルを買いに本館に走った.
 このホテルは琵琶湖の竹生島クルーズが出る長浜港に至近なので予約したのだが,一人客には不便な旧館の部屋が割り当てられるらしい.フロントの前にいたたくさんの客の中で,旧館を割り当てられたのは私だけだった.
 二つの宿泊棟でサービスに差のあることが公式サイトで明示されていないのはよくない.宿泊プランに「旧館は門限あり.自販機なし」と書いてあれば,他のプランにしただろうし,もっとよいサービスのホテルを探したかも知れない.

 ということがあった翌日,チェックアウトして港に行った.写真手前の船が竹生島行きで,その後ろには琵琶湖の対岸に行く大きな船が停泊していた.
 
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 下の写真は竹生島に接近中の時に撮ったもの.船着き場はもっと左にある.
 
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 ウェルカムのポールはあるし,庭園でもないのに石灯籠はあるし,色んな石柱とか琵琶湖周航の歌の石碑はあるしで,竹生島はホスピタリティ満載なのであった.
 
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 数は少ないながらも巡礼姿の人々もいた.
 
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 下の写真は,本尊の弁財天 (宝厳寺では,厳島と江ノ島の弁財天を下に見て,竹生島は「大弁財天」だと言っている w) が祀られている本堂.
 
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 下の写真の弁財天像は前立ち像だが,本尊の完全なレプリカではないかも知れない.
 秘仏の本尊は六十年に一回開帳し,次の開帳は2037年となる.
 
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 宝厳寺弁財天については別稿で議論することにして,旅行記を続ける.
 竹生島の島内を一時間と十五分かけて参拝し,長浜に戻った.長浜港から市内へはバスがない.歩いて行ける距離ではあるので,朝の散歩代わりに歩いた.すると,長浜駅の手前に昔の長浜駅駅舎を保存している歴史資料館があったので,入ってみた.

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 鉄道資料館を出て長浜駅構内をスルーして,どんどん歩いて行くと「黒壁スクエア」に通じる小路があった.
 
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 長浜の黒壁スクエアは,Wikipedia【黒壁スクエア】に次の記述がある.
 
400年の伝統に支えられた寂れた商店街と古い住宅街が、今や湖北最大の観光スポットへと変貌を遂げている。町おこしの成功例として有名で、日本各地から視察が絶えない。
 
 この町起こしを企画した人々は確かにいいセンスをしてると思う.爺さん婆さんを集客するには内容不足だろうが,中学高校の生徒とか若い女性たちを集めるにはなかなかいいセン行ってる.彦根の出来損ない観光スポットとはエライ違いだ.
 黒壁スクエアには,修学旅行の生徒たちが立ち寄りそうな海洋堂が三店舗ある.その一つ「海洋堂フィギュアミュージアム」に入ってみた.

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 展示品は二階にある.階段を上がると大きいケンシロウとユリアが出迎えてくれる.
 
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 アニメ系のフィギュアもいいが,私は下の仏像フィギュアが気に入った.
 
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 海洋堂を出て,黒壁スクエアの中心部で飯屋を探したが,結局,交差点「札の辻」を東に折れてすぐの京極寿司に入った.どこでもお好きな席に,とカウンターの中の職人さんが言うので,カウンター席に腰掛けて,松花堂弁当とグラスの赤ワインを頼んだ.弁当もワインもなかなかおいしくて,昨夜の鮒寿司汁で受けたクリティカルダメージから私は回復し,フルHPになったのであった.
(連載了)

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2019年2月 5日 (火)

琵琶湖竹生島 (二)

 彦根駅に着いたのはまだ日が落ちる前で,夕飯には少し早いのでホテルへ行った.歩いていける距離である.
 予約しておいたのは「彦根キャッスル リゾート&スパ」だが,彦根城にはこのホテルが一番近くて,翌日の観光に都合がよい.
 それはよかったのだが,着いてみたらホテル付近に飲食店がない.それで,チェックインしたあと,また駅まで戻ることにした.
 彦根駅からホテルへ歩く途中で思ったのは,随分と静かな街だなあ,ということ.駅前の大通りを歩いてみたが,コンビニひとつないのではあるまいか.
 駅前にほとんど店がなく活気もない.他に「袋町」という飲み屋街があるらしいが,画像を見ると,激しく寂れまくっているようだ.
 諸兄におかれても異論はなかろうと思うが,初めての土地で居酒屋に飛び込むのは,旅の楽しみである.しかしこれだけ寂れた街は初めてで,どうしようかと途方に暮れた.結局よさげな店を探すのは諦めて,駅のすぐ前にある「いろはにほへと」という大き目の店に入った.ところが,すぐに気が付いたのであるが,この店は宴会向けで,お一人様が入る店ではなかった.私が店員さんに「こちらへー」と通されたのは六~八人は入ろうかという個室であった.そしてそれから,広いテーブル席にポツンと一人腰掛けて,黙々とハイボールを飲んだ.
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 この伝票で明らかなように,私は最初にハイボールを三つ注文した.ちまちまと注文の品を持ってきてもらうのが面倒くさかったからである.
 お通しとハイボール三つが到着し,それから酒肴を何にしようかと吟味した.彦根は内陸だが,「鰹の藁焼き」つまり鰹のタタキ,それと平目の刺身を頼んだ.開店すぐで客が少なかったせいか,二皿とも待たずに届けられた.そして食べてみたら,わるくない.この二品はリーズナブルだった.それで,いい店じゃん,と思ってハイボール大盛と串かつを追加注文した.だが,届けられた串かつを見て私は驚きの余り,席から床に転げ落ちた.東京とか神奈川の話だが,肉屋やスーパーの総菜コーナーで販売されている串かつの,半分ほどの太さだったのである.ウインナソーセージくらいの太さと言えばわかりやすいだろうか.
 この手の大きい店舗の居酒屋によくあることだが,これはたぶん業務用冷凍総菜である.そして私が串かつに対して抱いているイメージと随分異なるので不思議に思い,翌日,長浜の飲み屋でも串かつを注文してみた.すると,出てきたのは全く同様のものだった.その店は業務用食材を使うような種類の店ではなく,従って滋賀県の串かつはスリムタイプがデフォであると断定していいようだ.とはいえ,値段がすごく安いので文句はない.それと,後で調べたら滋賀では,串かつは,関東では「串揚げ」に相当するものらしくて,いろんなネタを串にさして揚げる.「串かつ屋」というジャンルの店があるらしい.なるほどねー,覚えておこう.
 というようなことがあった翌日,ホテルをチェックアウトして外に出ると,すぐそこに彦根城へ続く道路があった.道路の右側には「滋賀縣護國神社」があり,突き当りを右折したり左折したりすると,道の左側,内堀と反対側にに重文の「馬屋」があった.しっかり見学したのだが,写真を撮り忘れた.
 馬屋を過ぎてすぐ右側に,内堀を渡って城内に入る入口 (表門橋) があった.(地図参照)
 そこに「本日のひこにゃん」と書いた立て看板があり,ひこにゃんが出没する場所と時刻が告知されていた.魔法の国のネズミは複数同時に出没するけれど,ひこにゃんはどうなんだろう.出没予定の時間以外のときはなにをしてるんだろう.

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 城内に入ると「彦根城博物館」がある.ここには往時の表御殿が復元されている.
 
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 このかつての表御殿はいくつもの建屋が通路でつながった構造だが,そこにできる中庭というか空いたスペースは,かなり質素な佇まいである.下の写真は復元された庭園であるが,地味な印象である.武将の住居であるから,実際にもこんなものだったのかなあ,という印象を持った.
 
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 彦根城博物館では特別展として特別展「長曽祢虎徹 ― 新刀随一の匠 ―」が開催されていた.私は刀剣には素人だから虎徹と聞くと近藤勇を想起するが,これは嘘だという.そりゃそうだろなーと思う.
 各地の歴史資料館みたいなところで,刀剣の常設展示を観たことはあるが,この虎徹特別展のような催し物は私は初めてである.素人の感想だが,虎徹は新刀だけれど,あるいは新刀だからか,意外に美術的に美しい (銘の書体とか) ものだと知った.
 正宗とか虎徹とか,刀剣に精神性を付与する文化的傾向は日本独特のものなのだろうか.単なる刃物ではない刀剣で最も有名なのはアーサー王のエクスカリバーだ.「指輪物語」にも“named”な刀剣,グラムドリングオルクリストが登場する.しかし欧米の伝統では,刀剣そのものが固有の名称を持つことはあっても,村正や長船など刀鍛冶の名で呼ばれることはないのではなかろうか.と思ったら,日本にも天叢雲剣や草薙剣があった.よくわからぬ.誰か文化史的見地から刀剣史を書いてくれていないだろうか.
 博物館を出て,石の土留がある坂道 (表門山道;下の写真) を登り,重文の天秤櫓を眺めながら歩いて行くと,時報鐘の近くに聴鐘庵という茶店があった.
 
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 聴鐘庵の門をくぐり,茶店の中に入ると,小紋をお召しになった若い (当社比) お嬢さんが迎えてくれた.抹茶には「金亀」という御菓子が付いてきた.かなり甘いが,おいしいので「このお菓子はどこで買えますか」と訊ねたら,市内の御土産屋さんとか,どこでも買えますよ,とのことだった.
 
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 喉を潤してから順路を進み,本丸に到達すると国宝彦根城天守とひこにゃんの雄姿が.
 彦根城は,天守が国宝指定された五城のうちの一つである.他は松本城,犬山城,姫路城,松江城の四城だ.
 折角ここまできたのだから天守の中を見学したのだが,木造梯子のような階段が非常に急な傾斜に拵えてあり,すべり落ちはしないかと,昇降がひやひやものだった.これは,天守に攻め込まれても,敵兵が簡単に昇ってこられないような造りになっているのだろう.もちろん下から火をかけられたら一巻の終わりだが,燃え上がる火の中,天守最上階で城主は落ち着いて切腹できるというわけだ.
 
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 本丸の一角に展望台があり,琵琶湖や伊吹山の方向を眺望できる.この案内板の手前側に楽々園と玄宮園と書いてあるので,そちらへ廻ってみた.まず本丸の西北に進み,西の丸三重櫓のところから山崎山道を下る.右に折れてどんどん歩いて行き,黒門橋を渡って内堀の外側に出ると,楽々園の前に出た.
 
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 楽々園は正式名は槻御殿という藩主の下屋敷だとかで,建物部分を楽々園,その庭園部分を玄宮園と呼び分けているのだそうだ.一緒にして呼ぶときは楽々玄宮園である.
 
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 さて,楽々玄宮園の中を散策しながら,ここには何となく侘び寂びに繋がるものがあるなあ,という印象を私は持った.後で調べたら,歴代彦根藩主は茶の湯を嗜んだことで知られ,十三代藩主井伊直弼は石州流の一派を創立した茶人でもあったという.
 武家茶道あるいは大名茶と呼ばれる茶道は,門外漢の私は太閤秀吉の金ぴか趣味を連想するのだが,そうではないという.むしろ秀吉が異端者らしい.
 彦根城下には武家茶道の伝統が今も受け継がれているという.なるほどー.彦根に立ち寄った甲斐がある.勉強になりました.
 
 玄宮園を出ると,屋形船の乗船場所があった.訊くと,内堀を半周して戻ってくるのだという.この日は晴れて風もなく,船に揺られて遊覧も一興と思って乗り込んだ.乗客は私一人かと思ったら,出発間際に若い (当社比ではない) お嬢さんが乗ってきた.
 
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 船頭さんと乗客二人は,和気あいあと雑談しながら短い時間を楽しんだ.その時のことは旅から帰ってすぐに書いた.
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刀剣女子

 昨夜,近江の旅から帰った.
 帰宅して,予約しておいたテレビ番組を観たのだが,その一つが『歴史ヒストリア その切れ味は鋭く、美しく 日本人と刀 千年の物語』だ.
 番組内で,いま京都国立博物館で開催されている「京のかたな」特別展の様子が紹介されていた.展覧会来場者のほとんどは女性であるという.なるほどテレビ画面を見ていても,おっさんの姿はほとんどない.
 ガラスケースに収められた国宝級の銘刀をうっとりと眺める若い娘さんたちの表情が,何とも言えないくらい素敵だ.中には,涙を流しながら刀剣を見つめるお嬢さんもいて,もしかするとそれは,彼女が「刀剣乱舞」で育て,失い,もう二度と会えないキャラなのかも知れない.
 一昨日,彦根城の中堀を遊覧する屋形船に乗り込み,出発時間を待っていたら,あとから若い女性が乗ってきた.船頭さんと三人 (客は二人だけ) で雑談していると,どうやら彼女は刀剣女子であるらしかった.きっと「京のかたな」展にいった帰りに,彦根城でやっている「長曽祢虎徹特別展」を見に来たのだろう.
「いま女性に刀剣がすごい人気なんだそうですね」と私が言うと,彼女はとてもうれしそうに笑った.私にもっと刀剣の知識があれば,お茶に誘ったのであるが,残念であった.
ヾ(--;)
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 この内堀遊覧船は,江戸時代の屋形船を模したもので,それを条件に営業が許可されているのだと船頭さんは語った.あ,つい営業と書いてしまったが,この屋形船の運営主体は「特定非営利法人 小江戸彦根」という団体である.よくわからぬが,町おこしの組織なんだろうか.
 屋形船を下船 (実際は船から船着き場にあがるんだけれど w) して,また歩く.朝に城に入った表門を通り過ぎ,さらに行くと,中堀を渡って市街地に抜ける橋 (京橋) があった.その先に観光施設「夢京橋キャッスルロード」がある.
 屋形船の船頭さんは「お昼はキャッスルロードで食べるといいよ」と言ったのだが,昼飯時を過ぎてからキャッスルロードに到着したせいか,飲食店はすべて準備中の札を下げて,営業をしていなかった.ビジネス街なら昼休みの時間は決められているから,ランチタイムが過ぎたら休憩時間にするものだが,観光客には昼休みはない.観光客は腹が減った時がランチタイムなのに,なんという心得違いをしているのだろう,このキャッスルロードとやらは.彦根駅前に活気がないと既に書いたが,ここもヤル気が見られなかった.
 致し方なく先に進んで行くと左へ曲がる露地があり,その先に「四番町スクエア」という一角があった.
 
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ところが,である.下の写真を御覧あれ.
 
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 上の写真の,どこが大正ロマンなのか.コンセプトが大正時代なら「支那そば」と書かんかい.ビールは,サクラビールは現存していないから,売るならキリンのラガーしかあり得ぬ.そんな知恵も工夫もないのか.
 この一帯の店舗は,外壁等に最近の建材が使われていて,大正ロマンはカケラも見当たらなかった.たぶん各店舗は,大正ロマンの何たるかを理解していないし,外観を古い時代の民家に見せかける資金もセンスもなかったのだろう.その結果,こんなにデキの悪いテーマパークもどきができたのだ.
 
 国宝彦根城の観光は満喫したから,この城下町はもういいや,昼飯抜きで長浜に行こうと思ったが,さすがに空腹なので,彦根駅前で飯屋に入った.

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2019年2月 4日 (月)

琵琶湖竹生島 (一)

 再び近江に旅する.前回の旅は近江の観音信仰がテーマであったが,今回は竹生島の弁財天をこの目で観てみようということである.主目的はそういうことだけれど,ついでだからテ レビ番組みたいに「途中下車の旅」をしてみる.
 移動の経路は新幹線で京都駅に行き,竹生島への船が出る長浜まで引き返すことになる.それで,途中下車の最初は伏見の醍醐寺に立ち寄り,次に彦根で降りて彦根城を見学する.それから長浜へ,という段取りである.
 さて昨年十一月五日,藤沢駅七時過ぎ発の東海道線下り電車に乗り,三十分ほどで小田原着.新幹線ひかり503号・新大阪行に乗り換えた.久しぶりの新幹線である.出張に明け暮れていた現役会社員時代が脳裏に浮かび,少し懐旧の思いに浸った.かつての同僚たちはどうなんだろう.もう昔を思い出すことはないのだろうか.明日 (2/4),友人二人と昼飯を食うことになっているのだが,訊いてみようかしら.
 京都駅で昼酒を少しやって,それから軽く腹ごしらえをした.そうして八条口を出てぶらぶら歩き,醍醐寺直通の京阪バス乗り場に行った.植栽の縁石に腰掛けてバスが来るのを待っていると,歳の頃なら還暦くらいの御婦人が駅の方からやってきた.彼女は私を見て,ここは醍醐寺行きのバスですか,と訊いてきた.そうです,と答えると,私の隣に腰掛けた.そしてにこにこと笑顔で,どちらから来られました?と訊ねてきた.
 一人旅をするフレンドリーな高齢女性ってのは,私のタイプだ.ヾ(--;)
 若い娘さんというのは,ただもう見ているだけでよろしい.世間話をするなら,オバ 御婦人に限る.それで私は彼女と暫くのあいだ他愛もない会話を楽しんだ.実は十一月は,東京のサントリー美術館で「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」展が開催されていて,醍醐寺の宝物は東京に出払っているのだが,まあそれも境内が静かでいいですよね,なんてことを話したのである.
 やがて十二時少し前に京都駅発のバスがやってきた.私たちはなんとなく少し離れた席に着き,バスは三十分ほどで醍醐寺に着いた.彼女は先にバスを降りて,醍醐寺境内の入り口に向かって歩いて行ったが,途中で私を振り返った.旅は味噌漬け世は茄子漬よ (by 四代目柳亭痴楽) という.足早に歩いて追い付こうかという気が一瞬したのだが,しかし旅は一期一会を善しとすると思い直した.

 
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 京都駅からの京阪バスは,団体観光バス駐車場の端にあるバス停に止まる.
 バスを降りると (↓) の写真の右方向に醍醐寺境内の入り口が見える.
 
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 醍醐寺の境内 (案内図) はいくつかのエリアに分かれていて,駐車場をでるとすぐに「霊宝館エリア」の入り口だ.(↓) の写真正面の建物が霊宝館だ.中に入ると,なかなか見ごたえのある美術品が展示されている.古の日本の美術の保護に関して醍醐寺が果たした役割は大きい.寺の公式サイトには次のように書かれている
 
明治維新期には、いわゆる「廃仏毀釈」により、京都・奈良を中心とする多くの寺院は、財源を求め、仏像や什物の譲渡を余儀なくされました。特に海外への流出が盛んに行われたのもこの時期です。醍醐寺も大きな試練に立たされましたが、醍醐寺は、一山に伝わる一切の宝物を一紙に至るまで流出させないことを旨として、困難な時期を乗り越えることができました。
 
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 醍醐寺の宝物を鑑賞後,順路に沿って歩いて行くと,このエリアに入る時にはスルーしたのだが,日本家屋風の建物がある.近づくと「スゥ・ル・スリジェ」というカフェだった.本当は「French Cafe le clos Sous le cerisier (フレンチカフェ ル クロ スゥ ル スリジェ) 」というらしい.長すぎ.
 混んでなかったので,しばしの休憩とアイス・オレ.
 
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 辻に立っている案内 (↓) に従って,金堂・五重塔方向に進む.
 
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 さすがは音に聞く古刹醍醐寺.境内はとんでもなく広い.観光客は思ったよりも少なく,広い道の前方を歩いていた人は下の写真くらいなもの.
 
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 ここ (↓) が西大門 (仁王門) だ.その先には広い敷地に大伽藍が展開している.更にその先は醍醐寺開創の地「上醍醐」だが,台風のために大きな被害を受け,上醍醐への道路は閉鎖されていた.伽藍エリアも,樹林に被害があり,かなり倒木があったらしく,重機が入って修復作業が行われていた.
 
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 倒れた樹々を見ながら進むと,広々としたところに国宝金堂があった.撮影した位置にある石積みに腰掛け,長いこと金堂を眺めていたが,誰も近くを通り過ぎることがなく静かな時間を過ごした.
 
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 下はやはり国宝の五重塔である.村上天皇の天暦五年 (951年) に完成した京都府下最古の建造物である.拝観者は下から見上げる他ないが,はやりのドローンで撮影すれば,さぞかし美しかろうと思った.

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 拝観順路に従って進むと,不動堂と観音堂がある.観音堂は西国十一番札所である.
 
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 観音堂の向こうに,このエリアの食事処「寿庵」(↓) があった.ここでノンアルコールビールを飲んで休憩.
 
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 寿庵を出て,来た道を引き返し,三宝院エリアへ.下の写真は唐門だが,その隣に参拝客入口がある.敷地の中は重文の建物ばかりで,このエリアの中心である表書院は国宝だ.
 
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 表書院の中を進むと庭園がある.ここでは縁側というか通路というか,呼び方がわからぬが,とにかく赤い矢印を描きいれたところに正座して,庭園を眺めていることができる.私は三十分ほどもいたろうか.ここは静かな時間が流れるよいところであった.
 
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 三宝院を拝観したあと駐車場に戻り,そこのバス停で山科行のバスに乗った.山科駅からは琵琶湖線で彦根に向かう.

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2019年2月 3日 (日)

近江の旅 (補遺一)/工事中

 向源寺の飛地境内に在る観音堂には (1) 「渡岸寺観音堂由来」(高月町国宝維持保存協賛会の記名) と題した由来書の立て札が建てられている.ここに書かれている観音堂の由来と,同じく飛地境内に建てられている (2) 「埋伏地由来」(渡岸寺観音堂の記名) と題した由来書の立て札の記述,(3) 拝観者に配られる拝観券「国寶十一面観世音渡岸寺観音堂 (向源寺) 」(高月町国宝維持保存協賛会と渡岸寺観音堂が共に記名) に記された内容,および (4) Wikipedia【向源寺】の記述,(5) ブリタニカ国際大百科事典【向源寺】の記述,更には十九世紀に成立した (6) 江州伊香 (註;滋賀県伊香郡) 三十三所観音霊場札所の御詠歌 (伝堅光禅師編) の六資料の記述が,すべてまちまちで,資料間に大きな食い違いがあることが判明した.国宝十一面観音が現在置かれている状態 (文化財としての所属は宗教法人の向源寺であるが,それと,この観音を信仰してきた人々は異なるようだ) には,おそらく宗派の教義に関する問題や,複雑な歴史的政治的事情があるものと推察される.

 以下の記事は,上記の六資料に加えて,小川光三『魅惑の仏像7 十一面観音 滋賀・向源寺』(毎日新聞社) および『日本の国宝079 滋賀/彦根城 彦根城博物館 神勝寺 向源寺 都久夫須麻神社 宝厳寺』(週刊朝日百科) を参照して正誤を判断できるまで執筆をペンディングとする.
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 白洲正子は『十一面観音巡礼』(新潮社,1975年;講談社文芸文庫,1992年) に収められた随筆「湖北の旅」の中で,向源寺の十一面観音について次のように書いた.

土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することもできなかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本尊を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を防げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。

 上の引用文中,着色した箇所は甚だしい事実誤認,または虚偽であるので,これについて以下に述べる.
 
土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。
 
 上記箇所を解説するために,Wikipedia【向源寺】の「歴史」の記述を下に引用する.この部分の記述は,小川光三『魅惑の仏像7 十一面観音 滋賀・向源寺』(毎日新聞社,1986年) が出典である.同書は古書の流通が少ないが,いくつかの公共図書館に所蔵されているので,内容確認に支障はない.
 
歴史
『近江伊香郡志』所収の寺伝によれば、天平8年 (736年)、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。延暦9年 (790年)、比叡山延暦寺の開祖である最澄が、勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。
元亀元年 (1570年)、浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立した
明治21年 (1888年)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが当寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像と賞賛した。古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定は明治30年 (1897年)12月28日付けで行われたが、このとき、この十一面観音像も国宝に指定された (当時の「国宝」は、文化財保護法における「重要文化財」に相当する)。国宝指定時の内務省告示における十一面観音像の所有者名は「観音堂」となっている。向源寺が属する真宗では、阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないが、この十一面観音像については、向源寺飛地境内観音堂に祀るということで、本山から許可された。大正14年 (1925年) には平安時代建築の様式を取り入れた観音堂が再建された。昭和17年 (1942年) には宗教団体法の規定に基づき、向源寺飛地境内観音堂は正式に向源寺の所属となった。十一面観音像が文化財保護法に基づく国宝 (いわゆる新国宝) に指定されたのは昭和28年 (1953年) のことである。同年より、十一面観音像と胎蔵大日如来坐像は、高月町国宝維持保存協賛会の理事が毎日交替で維持管理に当たっている。

 
 上の引用箇所中,議論に必要な箇所は,見やすくするために緑色に着色した.
 また,白洲正子の生没年は明治四十三年 (1910年) 一月七日 ― 平成十年 (1998年) 十二月二十六日である.白洲正子は学習院女子部初等科を卒業したあと,米国の女子高に留学し,帰国したのは昭和三年であった.
 問題の「湖北の旅」が発表されたのは雑誌『芸術新潮』昭和五十年三月号であった.この時,正子は六十五歳.
 さて,白洲正子の連載随筆『十一面観音巡礼』第一回「聖林寺から観音寺へ」の冒頭に次のようにある.
 
はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。
 
 この箇所の少しあとに《私は既に結婚しており》とあることと合わせると,白洲正子が仏像巡りを始めたのは,学習院初等部の生徒時代ではなく,ましてや米国留学中ではなく,帰国して白洲次郎と結婚したあとの昭和初め頃だったと考えられる.
 
無住の寺で

  
本尊

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2019年2月 2日 (土)

近江の旅 (六)

[金勝寺]
 私たちのバスは盛安寺を後にして,途中で観光客向けのレストランで昼食を摂り,金勝寺へ向かった.金勝寺は滋賀県栗東市にある天台宗の寺院.山号は金勝山で本尊は釈迦如来,開基は良弁と伝える古刹である.この寺は山中に在り,観光バスでは行けないので山麓で数人ずつタクシーに分乗して山道を上がった.運転手さんに訊ねたら,観光シーズン真っ盛りには,かなりの観光客がこのお寺に来るそうだ.
 
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 タクシー乗降場からすぐのところに参道入口があり,そこからゆるやかな道が山門まで続いている.境内に入ると,参詣順路をはずれたところは滑り落ちそうな急坂が多い.我がツアーメンバーの数人の婦人が,勝手に順路から逸れてコンダクタさんを困らせた.怪我でもされた日にはツアーの行動予定がぶち壊しになるので,コンダクタさんは必死に彼女らを制止するのだが,全然意に介する素振りも見せぬのがおそろしい.w
 
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 上の写真は虚空蔵堂 (虚空蔵菩薩像,毘沙門天像,地蔵菩薩像を安置;古い建築とは思われない) だが,この他に本堂 (本尊釈迦如来像を安置),二月堂 (軍荼利明王像を安置) などが建てられている.仏像はどれも平安時代の作と伝えられる.境内は樹林だが,自然林ではなく丁寧に間引きされ,その他の灌木や排水溝もよく整備されていて明るい印象を与える.これなら観光客には人気があるだろうと思われた.
 
[櫟野寺]
 金勝寺から再びバスで移動.
 櫟野寺
は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野にある天台宗の寺院.山号は福生山.
 は「いちい」と読み,元々は「一位」と書いた.樹木のなかで最高位にある,との意味で,正一位に同じ.今は榊が神棚に供えられるが,古くは一位が神事に用いられたのでその名がある.後代に到り,一位に櫟の字が充てられた来歴はわからない.
 
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 櫟野寺の縁起は,弘法大師がこの地を訪れ,生えていた櫟の生木に観音菩薩像を下彫りしたとの伝説に基づく.それが本尊十一面観音菩薩坐像であるが,例によって秘仏であり,かつては三十三年に一度しか開帳されなかった.その三十三年目の開帳が十月六日から十二月九日に行われるということで,今回の近江の仏像巡りツアーの目玉が,この観音菩薩像だったのである.
 ではあるが,向源寺の十一面観音立像の圧倒的な存在感を眼前にした私には,櫟野寺の観音座像は,ただ大きいだけの木造彫刻としか思われなかった,というのが率直なところである.
 
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 檀家の皆さんが売店を出していた.売店の前でうつらうつらしている猫は寺の飼い猫だろうか.仏道に帰依したとみえて静かな佇まいであった.
 
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 さてこれでツアーは全行程を終え,秋の陽は既に傾いた.ツアーメンバーはバスに戻り,帰路に着いたのだが,夕食はツアーに含まれていないので,私は途中の観光施設で弁当を購入した.その弁当のことは《丹後の ぼろ寿 もとい ばら寿司 》に書いた.

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2019年2月 1日 (金)

近江の旅 (五)

 ツアー一日目の石馬寺に限らず,本尊が秘仏だという寺は多い.Wikipedia【秘仏】によると,次の通り.
 
仏教寺院では、仏堂の扉を開いた際に仏像が見えるように祀るのが本来であるが、「秘仏」は開帳以外の時は厨子の扉を閉じたまま祀られている。元来、礼拝のための偶像である仏像を扉を閉じた厨子等に納め「秘仏」とすることは、東アジアの仏教圏の中でも特に日本に顕著な現象である。日本では著名な寺院の本尊で秘仏とされているものが多く、西国三十三所の札所寺院をはじめ、札所、霊場などの庶民信仰に支えられた寺院の本尊にも秘仏が多い。
 
 初期の仏教には仏像はなかったのだが,やがて仏教における偶像崇拝が始まり盛んに仏像が作られるようになった.絵画ゃ彫刻など目に見えるものがないと,信仰というものはなかなか成立しないのであろう.それはそれでいいのだが,折角,信仰対象を偶像化しておきながら,日本人はそれを厨子に閉じ込めて,善男善女が観ることかなわぬ「秘仏」にしてしまった.それも,如来や明王,天部が秘仏でも一向に構わぬが,とりわけ阿弥陀如来は私たちが死んだあとで西方からお迎えに来てくれればそれでいいのだが,観音を秘仏にしてしまうのは,いかがなものか.底辺庶民に手を差し伸べて救済することを悲願とする観音を閉じ込めてどうするのか.意味がわからぬ.
 意味がわからぬ時は,ミステリーの常道であるが,誰が得をするのか,を考える.仏や菩薩を衆生から遠ざけることが付加価値となり,それにより利益を得る者.職業としての仏教.権力の道具としての仏教すなわち天○,真○…… 色々と思考は取り留めなく浮いては沈むが,旅行記は先に進む.w
 
[盛安寺]
 さてツアー二日目はまず盛安寺を訪れる.盛安寺は滋賀県大津市坂本町にある天台真盛宗の寺院であるが,かつてこの坂本の付近に穴太 (歴史的仮名遣いで「あなふ」,現代仮名遣いで「あのう」) という名の土地があった.現在も大津市穴太町があり,京阪石山坂本線の穴太駅がある.穴太駅の近くに私たちのバスを停め,少し歩いたところに盛安寺はあった.
 下の写真は,盛安寺山門へ続く石段であるが,観光客一行の足を撮ったのではなく,整然とした石段の姿を撮ろうとしたのである.石段の両側には漆喰の塀があるのだが,これの下半分は石を積んで作られている.実は近江のこの辺りには,安土桃山時代に穴太衆と呼ばれた職人集団がいて,築城やその他の建築に腕を揮ったという.だから盛安寺だけでなくこの辺の寺は穴太衆が積んだ石積みが見られる,とはツアコンダクタさんの説明.
 穴太衆は現代にも会社組織として存続していて,文化財の修復に携わっているそうだが,詳しい話は Wikipedia【穴太衆】 に譲る.

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 下の写真は本堂で,これと別に重文の客殿があり,ツアー一行はそちらで御住職のお話を拝聴した.
 
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 この寺で感じ入ったことが二つある.一つは,盛安寺は静かな住宅街にあるのだが,塀で囲まれた寺域と道路を隔てた飛び地に収蔵庫があり,そこに重文十一面四臂の観音立像が祀られていることだ.この観音像は秘仏ではなく,日を決めて開帳されている.その際には収蔵庫の扉は開かれたままで,寺の人が監視しているわけでもなく,近所の人々が勝手にお詣りできるようにしている.重文なのに撮影可で,まるで路傍の御地蔵さんと同じだ.これはこのお寺のポリーシーなんだろうと思う.

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 感じ入ったことの二つ目.御住職は私たちに寺の来歴を説明してくださったが,特筆すべきことはない.だがしかし,「近江の大小様々なお寺に十一面観音が祀られているのはなぜなんでしょう」と質問したところ,それは近江の国の歴史と関係があります,との答えだった.
 近江は,源平以来,戦乱の土地であった.武士のみならず普段は土地を耕している農業民でも,武士たちの争いが始まれば,武器を執って戦に加わった.そんな有様が戦国時代が終わるまで続き,近江の土地には無数の人々が倒れ,骨は土と化したのである.
 御住職は,戦を争ったものは勝った者でも負けた者でも修羅道に堕ちます,と語った.その一言で私は,すとんと腑に落ちた.なぜなら,六道のそれぞれに応じた観音菩薩を六観音というが,修羅道で果てしもなく戦い続ける亡者に救いの手を差し伸べることこそ,十一面観音菩薩の悲願だからである.これが近江の観音信仰の土台にあることなのだと私は理解したのであった.

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