アンコールを一目でも (一)
高校生の時,教科書か世界史の参考書にアンコール・ワットの写真が載っていた.1960年代の東南アジアの戦乱が激しくなる前に撮影されたものではなかったかと思う.美しい寺院だと思った.以来,その写真の印象は私の脳裏から消えることはなかった.
第二次世界大戦が始まる前から,東南アジアは戦乱の地であった.
東南アジア戦乱の当事者の一つは日本であったが,太平洋戦争に日本が敗北するや,この地に君臨していたフランスが植民地の復活を画策した.連合国の中心であった米国のルーズベルト大統領はフランス植民地の復活に反対していたが,1945年3月24日にルーズベルトが死去すると情勢は変わった.Wikipedia【ベトナム戦争】の「連合軍・自由フランス軍の再進駐」から下に引用する.
《ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する。
1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。》 (引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
上の引用箇所の一部《9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言》を補足すると,7月26日のポツダム会議では第二次世界大戦前のインドシナにおけるフランス植民地を復活させると決定されたが,戦時中から活動していたベトナム独立同盟 (ホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップが指導していた) は,8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した旨を「玉音放送」すると,8月17日にハノイを占拠し,9月2日にベトナム民主共和国の樹立を宣言,ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任したのであった.
さてベトナムに進駐した連合軍は,ベトナム民主共和国の独立宣言などお構いなしに旧日本軍の捕虜収容所に入れられていたフランス軍将兵を開放し,再武装を援助した.フランス軍はサイゴン侵攻を開始し,公共機関を占拠してフランス国旗を掲げ,サイゴン全域を制圧した.翌月にはフランス軍増援部隊が到着し,ベトナム南部の独立を目指す勢力を一掃し,さらに北上を開始した.
この動きに続いて1946年3月5日,連合軍東南アジア軍司令部は南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したと発表し,フランス軍は北緯16度線以南を接収した.フランス軍は3月18日にはハノイに侵攻し,同年5月までにラオスも制圧してインドシナ一帯を占領した.
これより先に,ホー・チ・ミンらが率いるインドシナ共産党 (1930年に結成された) は,ベトナム北部に進駐した中華民国軍との軋轢を避けるために,1945年11月に一旦非公然化し,党員は公然組織ベトナム独立同盟会 (ベトミン) に加わった.
1946年3月にフランスは,制圧したコーチシナ (ベトナム南部の,フランス植民地時代の名称) で傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させた.こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは抵抗し,1946年11月20日,ハイフォン港 (ベトナム北部の主要港) で密輸船取締りの際の銃撃事件を契機にしてフランスとベトミンとの全面戦争が開始され,インドシナ戦争 (第一次インドシナ戦争) が勃発した.
開戦当初はフランス軍が全土を平定したかに見えたが,農村地帯に退避してゲリラ戦に移行したベトミンは次第に優勢となった.1947年10月,フランスは機械化部隊15,000人を投入して北部山岳地帯のベトミン軍拠点を攻撃したが敗北した.これ以後,ベトミン軍は守勢を脱し,ゲリラ戦から正規軍による積極的反攻にでた.
これ以後の詳細は,Wikipedia【第一次インドシナ戦争】,【ベトナム戦争】,【ベトナム】などの記述に譲るが,それぞれの記述中のリンクを丹念にたどれば,Wikipedia だけでも相当詳しくインドシナ半島の近代史を知ることができる.上に私が述べたことも,Wikipedia の記述を要約したものである.
結局,ディエンビエンフーの戦いにフランスは大敗し,ベトナムから撤退することになる.第一次インドシナ戦争におけるフランスの敗北については,士気の低さが指摘されることが多い.これについて Wikioedia【第一次インドシナ戦争】は次のように述べている.
《手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。》
この引用中の《身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士》は,フランスからベトナムの戦乱を継承した米国が引き受けた運命に重なる.やがて米国がフランスの轍を踏むことになろうとは,米国民は想像もしていなかったであろう.
さて,私たちの世代は,上に述べたフランスの植民地が消滅するまでのことは,後に学校教育において歴史的事実として学ぶことになったのであるが,1961年1月20日,米民主党のジョン・F・ケネディが合衆国大統領に就任して以後の東南アジアの戦火は,私あるいは私と同世代の人々にとって,歴史ではなく,自分の人生とリアルタイムに同時進行するできごとであった.
ケネディ大統領という人は,不幸にも若くして暗殺されたが,逆にそれはある意味でラッキーだったかも知れない.ベトナム戦争は実質的にケネディが始めた戦争なのに,米国のみじめな敗北をその目で見ずに済んだからである.
〈 アンコールを一目でも (二) へ続く 〉
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