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2019年1月16日 (水)

たんぽぽ娘 (補遺二)

 この補遺では,伊藤典夫の翻訳について一ヶ所,私見を述べるが,議論の都合上,いわゆるネタバレを書く.
 その箇所とは,前回の記事で引用した[原文B]である.そこを再掲する.
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[原文B]
“He had reached the street and was walking down it toward the corner. He was almost there when the bingo bus pulled up and stopped, and the girl in the white trench coat got out. ”(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
[伊藤訳]
彼は通りに出て、四つ角をめざした。すぐ近くまで来たとき、ビンゴ・バスがするすると角に停車した。白いトレンチコートを着た女がバスから降り立った。
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 原文の二つ目のセンテンス中の“and the girl in the white trench coat got out.”で,原作者が,バスから降りたのは“the girl”だとしているのにもかかわらず,訳者はこれを「女」とした.私は,これは訳者の越権だと思う.主人公のマークは,バスから降りた愛しい妻に,二十年も連れ添ったアンに,あの“dandelion girl”の面影を見たのである.そのことを作者は,アンを“girl”と書いて読者に示したのだ.
 この物語の時代設定は,ヤングが作品を発表したのと同じ1960年代である.今の日本では二十代にしか見えない中年女性がいて,美魔女などと呼ばれているが,二十世紀半ばはそうではなかった.人は四十にもなれば,それまでの人生の来し方が,たたずまいに表れるものだという価値観が存在した.あの時代の中年女性がどのようなものであったかは,1960年代のアイオワ州マディソン郡に住む主婦,フランチェスカを演じたメリル・ストリープを想起すれば足りる.
「たんぽぽ娘」は,夫婦の愛を夫の側から描いた小説である.長く連れ添った妻を見て「昔はかわいかったんだが…」と思う結婚は不幸な結婚である.何事もなく一緒の人生を暮らしてくれば,夫も妻も相手の容姿の変化 (衰え) を意識することはない.(昔のアルバムを見れば驚くが.w) 「たんぽぽ娘」は,夫婦の愛情にとって時の流れとはなんだろう,ということを描いたタイムマシン型SFである.夫というものは,妻と互いに恋に落ちた時の心持のままに,今もそのまま彼女を愛しているならば,すっかり中年になった妻に,いつもはもう思い出すこともなかった少女の頃の面影を見出すこともできる.それこそが時というものの不思議だとヤングは語ったのである.
 
 しかるに翻訳者の伊藤典夫は,“girl”すなわち“dandelion girl”を,原文にない「女」と訳した.しかしそれでは作者ヤングの意図が台無しであると私は思う.

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