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2019年1月

2019年1月31日 (木)

近江の旅 (四)

[石馬寺]
 今回の私の旅の,一番の動機であった向源寺の十一面観音像を拝観したあと,ツアーのバスは石馬寺へと向かった.
 仏像巡りツアーというと,「札所を廻って御朱印集め」という年寄り向けスタンプラリー遊びの印象が強い.実際に今回のツアーでも,コンダクタが参加者たちの御朱印帳を予め集めて預かり,まとめて御朱印を頂くという「作業代行サービス」をしてくれた.w
 仏像巡りツアーに初めて参加した私は,他のツアーメンバー (数人の中年男性を除いてあとは御婦人たちばかり) がみんな御朱印帳を持参でツアーに参加しているのを知って大層驚いた.
 それもこの種のツアーの一つの側面だろうが,一般人の観光ガイドが案内に付くのではなくて,お寺の御住職あるいは僧侶がガイドをしてくれるツアー (旅行代理店がお礼の御布施をしてくれるはず) の場合は,高い金 (実際のところ,個人旅行するよりもかなり割高だ) を払う価値はあると思う.仏教信仰について質問したくても,一般人のガイドさんではどうにもならぬからだ.とはいうものの,ノーアポで寺に行き,住職に面会して案内を乞うというのは,非常に敷居の高い行為だ.w
 さて石馬寺は聖徳太子所縁の寺である.私のような年寄りは,つい聖徳太子と言ってしまうが,テレビの情報番組で「昔は聖徳太子といいましたが,現在はなんと言うでしょうか?」てなクイズがよく出される.耳タコな雑学だが,義務教育や高校の歴史教科書では厩戸皇子と書かれているそうだ.Wikipedia の項目が【聖徳太子】で立てられているのは,その名が広く知られてきた歴史的経緯のためだろう.
 で,このお寺は参道が大変厳しい.傾斜や距離が大変なのではなく,石段と呼ぶにはあまりにも大雑把な石がゴロゴロと転がっているのである.この参道は軽登山の趣があって,足腰の弱った年寄りはお詣りしてくれなくてもいいと言わんばかりであり,バリアフリーの世の中に逆行しているのだ.w
 
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 石馬寺の山号は御都繖山 (ぎょとさんざん),本尊は十一面千手観世音菩薩であるが,これは秘仏で,拝観はできない.その代わりといってはナンだが,全十一体という重文の像を間近に観ることができる.
 重文の像のうち,役行者菩薩腰掛像は珍しい彫刻題材であるらしい.仏教美術方面の研究者が見学に来ることがあるという.
 案内をしてくれた御住職によると,西日本を襲った昨年の豪雨で,かなりの被害があったそうだ.ブルーシートで屋根壁の応急処置をしてあったが,修復にはかなりの費用がかかるのだろうなあ,とお気の毒に思った.
 
 さてツアー一日目は,これで行程を終わって,バスは宿泊予定のアーバンホテル南草津に到着した.この日の夕食は自由食である.ツアコンダクタさんから南草津駅周辺の飲食店が示されている略図が配られたのだが,駅前に繁華街はなく,八剣伝とか魚民など全国網の居酒屋チーエンが点在しているだけ.南草津駅は,会社員たちが電車を降りて家路に着くためだけの駅なのだろう.飲み屋はあるがきちんと食事のできる店はないようだった.ここに住んでいる人たちは,家に帰ってから飯を食べればいいわけだ.
 カレー屋のココイチとラーメン屋はあったので,後で考えればそれで簡単に済ませてしまえばよかったのだが,旅先でココイチというのも侘しかったので,店の灯も絶えるあたりまで歩いたら焼鳥屋があった.その店のことは忘れぬうちに書かねばと思って,ツアーから戻ってすぐ《一見さんお断りの焼鳥屋 》を書いた.なにしろ私のこれまでの外食経験の中でサイテーの店だったのだ.今思い出しても腹が立つので,再掲して「冥途の旅の一里塚」カテゴリーにも入れることにする.
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一見さんお断りの焼鳥屋

 土曜日と日曜日をかけた湖国の仏を訪ねる旅の,一日目の宿は,JR西日本琵琶湖線の南草津駅西口に隣接するアーバンホテル南草津であった..
 チェックインのあと,食事しようと外に出たのだが,駅西口は真っ暗である.駅構内を通って東口に回ったが,ここも居酒屋が二店入ったビルと西友があるだけで,食事ができるような繁華街はない.やむなく少し歩いたら,「花ひこ」(←「食べログ」のリンクを示す) と看板を掲げた店があった.店構えは小奇麗に新しそうで,店内に煙がもうもうと漂う昔風の焼鳥屋ではない.私みたいな年寄りではなく若い人向けの店なんだろうが,そのあたり一帯は繁華街がない田舎の駅前で他に飲食店もなさそうなので,焼鳥を食って寝ることにした.
 店のドアを開けて中に入ると,左側に四人腰かけられるカウンター席があり,あとはグループ客用の席で,既に店内には数人ずつの先客グループが二組いた.
 
 さて店員が注文を取りに寄ってきたので,私は品書きを見て,角ハイボールと「牛串」を二本と「手羽先」を二本注文した.
 すると店員の兄ちゃんが言う.
店員「あのー,食べ物は少しお時間をいただきます」
私「少しくらい構わないよ.どれくらいかかるの? 三十分?」
店員「あー…」
私「一時間?」
店員「いえー,…」
私「二時間?」
店員「はあ,手羽先はもう少し…」
私「おいおい驚いたなー.どういう特別な焼鳥か知らんけどさ,焼鳥食うのに三時間も待てないよ.それじゃさ,割と早めにできるものは何かあるの?」
店員「じゃ牛串と手羽先はキャンセルですね.あっさり系の,冷奴と枝豆なんかは早いです」
 そういう遣り取り (上の会話は,ほぼ実際のまま) があって私は,食事をしたかったのに,突き出しの生キャベツとモヤシ,冷奴と枝豆でハイボールを飲むという侘しい状況に置かれた.
 そういう状況では長居をしても仕方ないので,早々に引き揚げようと思い,枝豆をパクパク食べていたら,カウンターの横の席にカップルが来た.
 その二人は店員の兄ちゃんに焼鳥を注文したのだが,兄ちゃんはなにも言わずにオーダーを受けて,そしてしばらくすると彼らの前に,三時間は待たねば食べられないはずの焼鳥が届けられたのである.
 どういうことだと私が考察するに,そのカップルは常連客である.そしてこの店は一見客お断りなのだ.しかも,私はお一人様だ.そこで店員の兄ちゃんは,店の方針を知らぬ私が,歓迎されていないことを察して早く出ていくように,たった数本の手羽先と牛串を焼くのに三時間かかると言ったのである.
 それにしても,一見の一人客が嫌いなら,私が店に入ってきたときに「うちは初めてのお客さんはお断りしてます」とか「お一人様はご遠慮いただいてます」などと言えばいいではないか.そう言ってくれれば,私は「そうですか」と言って引き揚げたはずである.そしてカウンター席に腰かけて食いたくもない冷奴なんぞ食わなくても済んだのである.
 滋賀の片田舎の飲食店「花ひこ」は,馴染み客以外は排斥する方針の店なんだろう.しかしそのような経営方針であることは一向に構わぬ.店の側が客を選んではならぬという法はない.それならそれで,明るく一見客の入店を断ればいいのだ.しかるに「花ひこ」のやり方は陰湿である.不愉快な接客である.それ故,旅行とか商用で南草津駅に宿泊することになった人は,駅東口の焼鳥屋「花ひこ」には決して入らぬことをお勧めする.極めて不愉快な思いをすること確実だからである.

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上は「花ひこ」の箸袋の表.下はその裏.上に書いた話がノンフィクションであることを示すために,箸袋の意匠をスキャンして引用する.

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ウチの「たかがやきとり」は三時間待ちの「されどやきとり」だぞ,一見の一人客に食わせてやるものか! 帰れ帰れ!というわけだ.w

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2019年1月30日 (水)

近江の旅 (三)

 ツアー一日目は,石道寺のあと,向源寺石馬寺へ行く.

[向源寺]
 旅行代理店の公式サイトやリーフレットには,いくつも「近江の仏像巡り」ツアーが掲載されているが,まず間違いなくコースに組み入れられているのが向源寺である.
 向源寺は,正しくは慈雲山向源寺といい,所在地は滋賀県長浜市高月町渡岸寺.向源寺には,向源寺本体とは別に,飛地に建立されている本堂と収蔵庫 (慈雲閣) などが所属している.慈雲閣に国宝の十一面観音像が祀られている.この飛地の本堂,収蔵庫などの通称を渡岸寺観音堂という.渡岸寺は寺の名ではなく,この辺りの地域集落のことである.

 
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 渡岸寺観音堂の由来は上の由緒書の通りだが,Wikipedia にも同様の記述がある.
 この観音堂におわす十一面観音像は,全国各地にあまた祀られている観音菩薩像の中でも屈指の彫刻である.私には仏像巡りの趣味はないのだが,この観音像は以前から目にしてみたいと思っていた.

 一口に仏像彫刻といっても様々なものがあるが,私は如来像に感銘を受けたことがない.仏像彫刻の参考書には,手に結んだ印の種類や衣文の形がどうとかの様式美が解説されているが,私には大同小異としか思われない.地蔵像についてはそもそもよく知らない.墓地や路傍の風化した石像くらいしか思い浮かばない.また古代インド神話に由来する明王や天部の神々の像は,密教体系の一要素としての意義しか私にはわからない.ただ一つの例外は興福寺の阿修羅像だが,これは光瀬龍『百億の昼と千億の夜』と萩尾望都『百億の昼と千億の夜』のメディアミックスがあるので仏像彫刻とは別格だ.
 それらに比較すると,観音菩薩 (の像) は,庶民の信仰がこれに集中していたことに特徴がある.貴族や武士階級が憂き世だとか無常観だとかお気楽なことで悩んでいる時に,底辺庶民は今日食う飯のことや,生んでも生んでも幼いままに死んでいく子供たちのこと,そして朝に病を得て夕には死んでいくかも知れない自分たちの日々の暮らしに打ちひしがれていた.
 そのような人々の悲しみや痛み苦しみに対する「救い」を具象化したものが観音像である.下の画像は Wikipedia【向源寺】から引用した十一面観音像であるが,これを観る者をして驚かすのは,その異様な腕の長さである.だがこれは,向源寺の十一面観音像に限ったことではなく,観音の腕が長いのは,人々がどれほど遠くに居ようとも手を差し伸べるのが観音であるという意匠なのだ.その下にやはり国宝である法華寺 (奈良) の十一面観音像の画像を掲げるが,一目瞭然,同じ姿である.

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(向源寺,国宝十一面観音像;パブリックドメイン画像)
 
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(法華寺,国宝十一面観音像;パブリックドメイン画像)
 
 上に掲げた両菩薩像の小さな画像からも見て取れるのは,微かな頭部と上半身の前傾と,揃えられていない両足である.これもまた,観音菩薩が衆生の救済のためにまさに動き出さんとする姿の表現であるという.繰り返すが,観音菩薩以外の菩薩や,如来像や明王,天部像にあるのは,仏教体系中の要素を示す様式であるが,観音菩薩像にあるのは救済という主題であると私は思う.形ではなく意味である.仏像の形式を知りたいのであれば,写真を見れば足りる.あるいは,例えば「初歩の仏像」などという本を読めばいい.だがしかし意味を知りたいなら,その仏像を観て感じ取るしかないだろう.それが,「母子草」という物語において,哀れな娘を手を差し伸べる救済者が,観音菩薩なのか弁財天なのかの答えに繋がると私は思ったのである.

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2019年1月29日 (火)

近江の旅 (二)

 目的地について書く前に,ツアー名「櫟野寺33年に一度の大開帳と白洲正子が愛した近江の仏像 2日間」にある白洲正子について少し.
 白洲正子は著書の数だけは多い随筆家である.その作品の特徴を Wikipedia【白洲正子】は次のように書いている.
 
白洲の作風は用語の定義など微妙な問題は曖昧にぼかす、論理的な根拠は示さずに直感で自己流の解釈を示す、厳密な解釈は避け結論は出さずに有耶無耶に終わるなど、あくまで評論家の作風であり学者の筆法とは異なる。
 
 この評言は的を射ている.言い換えると,白洲正子という女は知識に欠ける上に,「用語の定義」などを調べて書くという誠実さがない.直感で自己流の解釈=ただの思い付き,厳密な解釈は避ける=論理性欠如,結論は出さずに有耶無耶に終わる=自分が何を書いているか途中でわからなくなってしまう,のである.思いつきでものを書く人は他にもいるが,白洲正子の場合は嘘を平気で書くので困る.近江の仏像について白洲正子は色々と虚言を弄していて,これを信じている人がいる.その嘘の悪質さに関しては,彼女の随筆集『近江山河抄』を例にして,別稿で後述する.
 Wikipedia には《小林秀雄の薫陶を受け 》たと書いてあるが,直感で自己流の解釈をする点で小林秀雄に似ている.いわば劣化版の小林秀雄である.しかるに一部に熱心なファンのいることが情けない.
 
[観音寺]
 ツアー一行が最初に訪れたのは観音寺である.山号は伊富貴山で本尊は十一面千手観音である.観音寺は通称で,正式名は観音護国寺という. 
 この寺の本尊はさして有名というわけでもないが,脇に鎮座している伝教大師座像のほうが知られているかも。そしてその像よりも,石田三成の逸話 (↓) で有名だ.

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 三成水汲みの井戸は寺の惣門を入って境内の左側の隅っこにあるので,うっかりすると見落とすかも知れない.井戸を後ろにして石段を進むと重文の本堂と鐘楼がある.創建は古いが,現在の本堂などは江戸時代に再建されたものだという.
 
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 上の写真は本堂.屋根が傾いているように見えるが,写真の写り具合でそのように見えるのではなく,実際に傾いている.木造本堂はかなり傷みが進んでおり,後世に残ることは難しいかも知れない.三成の「三碗の才」はフィクションだという説があり,たぶんそうだろうなあと私は思うが,しかし観音寺が三成所縁の寺であることは確かだろうから,残念ではある.
 
[石道寺]
 私たちのバスは米原市から北上して長浜市に入り,石道寺の近くの駐車場に着いた.寺には駐車場はない.バスを降りて人家もない里の小径を歩いて行く.木々の葉が色づくにはまだ少し早いようだったが,それでも道端には秋の花が微かな風に揺れていた.
 
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 低い山の麓,小高くなったところに己高山石道寺と彫った石柱が立ち,その向こうに無住の石道寺はあった.寺とはいうものの大き目のお堂との印象だ.ここから紅葉の名所の鶏足寺に回るのが,近江の寺院巡り一つのコースとの話であったが,今回のツアーでは時間がとれなくてそれは省略.
 
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 石道寺を有名にしているのは,本尊の木造十一面観音立像である.一般の参詣客は撮影禁止なので私は写真を持っていないが,その画像があるリンク先を御覧頂きたい.小さな画像からでも,この観音さまの優しさがこちらに伝わってくるようだ.
 今の若い人は読まないだろうが,私が中学から高校くらいの頃,井上靖は読者層が全世代にわたる人気作家だった.大学入試の現代文にもよく出題されたから,いわゆる「敦煌」「楼蘭」などの西域小説や長編「あすなろ物語」,自伝的作品「しろばんば」あたりは高校生の必読書だった.その井上靖の「星と祭」は昭和四十六年の新聞連載小説であったが,その中でこのお寺の観音様は《観音さまと言うより、美人が一人立っている 》と描かれた.
 
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「星と祭」 は長らく絶版になっているため,昨年末に長浜市の有志の人々が復刊プロジェクトを立ち上げたと報道された.まあしかし,古書は豊富に流通しているし,Kindle版もあるので,この作品を読むのには復刊を待つ必要はなかろう.

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2019年1月28日 (月)

近江の旅 (一)

 よく知られているように記憶の仕組みには凡そ二種類 (短期記憶,長期記憶) があって,私のような高齢者は,今朝の朝飯に何を食ったかは思い出せなくても,子供の頃の思い出は割と覚えているものだ.
 ところがそれも段々と怪しくなってきて,短期だろうが長期だろうが,どんどん忘れてしまう.朝飯の献立はもちろんのこと,去年のことも,何だかんだと色々なことをブログに書き殴っているうちに,記憶がおぼろげになってきた.それで,遅ればせながら去年の旅のことを書く.
 
 私がクラブツーリズムの企画「櫟野寺33年に一度の大開帳と白洲正子が愛した近江の仏像 2日間」に参加したのは,去年の十月二十日~二十一日だった.このツアーに出かけてみようと思ったのは,滋賀県の民話「母子草」について興味があったからである.
「母子草」についての論考は,現在は連載を中断しているが,書くのを継続するためには,どうしても琵琶湖周辺に赴き,近江の観音信仰と弁才天信仰について調べる必要があると思われた.
 少し詳しく述べると,物語「母子草」には二つのバージョンがある.戦後の童話作家たちが繰り返して題材にした話であるが,その最初の作家である藤澤衞彦は,自分の作品を民話と言わずに「伝承童話」と呼び,物語「母子草」などを童話集『母子草』に収めた.
 藤澤衞彦は作家が本業ではなく,近世から近代にかけての風俗の研究者であり,大学の教授の地位にあった人であるが,学者としては書斎派だったようで,昔から日本の各地に伝えられてきた話を,自ら語り部から採話することはなかったようだ.日本近世以降に書かれた御伽草紙類や説話集などから「伝承童話」の題材を得ていたらしい.
 だとすると,藤澤教授が死後に遺した蔵書の中に「母子草」の原話があるはずだが,蔵書の行方を追跡してみたところ,その蔵書の数たるや生半可なものではなく,寄贈を受けた機関では整理もされていないようだ.「母子草」原話の探索はおそらく藁山の中から針を探すような作業になると思われたので無念だが諦めた.
 しかし私には,藤澤教授の「母子草」が原話に近いものだとは思われなかった.滋賀県の民話研究者が,氏名が明らかな二人の民話伝承者から採話した別バージョンの「母子草」が存在するからである.
 藤澤教授バージョンは,ハッピーエンドであり,主人公の少女に力を貸す役割で弁財天が登場するのだが,別バージョンは悲しい物語で,登場するのは観音菩薩である.
「母子草」原話に登場するのは弁財天か観音菩薩か.「母子草」のストーリーからすると,どちらも琵琶湖の竹生島に祀られている.それを実際に,お姿をこの目で見て確かめたいと私は思った.それがこの旅の目的だった.
 
 さて,ツアーの出発当日の朝七時に,東京駅日本橋口 (ここは旅行代理店各社の新幹線利用東京発ツアー集合地点で,朝っぱらから混雑している)  に到着.ツアコンダクタから軽く説明を受ける.事前にこの日の昼食 (車中で弁当) を申し込んでいない人は,東京駅のそこらへんで調達してくださいとのこと.私は申し込んでおいたのだが,その方が荷物にならなくてよいと考えた.このツアーのスケジュールでは米原駅で降りてバスで移動する途中で昼飯時になるのだが,新幹線を降りる米原駅では弁当を買えないおそれがあるが,事前に申し込んでおくと,米原駅の駅弁業者がツアーのバスに届けてくれるので,飯時になるとツアコンダクタがお茶と一緒にツアーメンバーに配ってくれるからだ.
 ちなみに米原駅には井筒屋という弁当業者が入っていて,このツアーの弁当は「湖北のおはなし」という弁当だった.これは東京駅のコンビニや駅弁売店の「祭」で売っている弁当よりも駅弁らしい趣があって,おいしいと私は思った.あとでリピートしようと思ったのだが,残念ながら東京駅の「祭」では買えない.「祭」で買えるなら他の地方への旅の際にまた買いたいが.
 行動予定,というかお詣りする仏閣は以下の通り.
 
[一日目]
東京駅発→…→米原駅着…バスに乗り換えて移動…観音寺→石道寺→向源寺→石馬寺→草津着 (アーバンホテル南草津泊)
[二日目]
南草津…バスにて盛安寺へ→金勝寺→櫟野寺→米原駅→…→東京駅

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2019年1月27日 (日)

記念艦三笠でカレーを (補遺)

 昭和三年の五月,戦艦長門の昼食にカレーが出されたという嘘がまかり通っている.

 私は《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24) 》の中で,藤田昌雄『写真で見る 海軍糧食史』のp.113に掲載されている表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》は,捏造された資料に基づくものであると断定した.理由は,その表では同年五月二十七日の海軍記念日の戦艦長門における祝宴で,祝賀献立ではなく通常の食事が供されたことになっているからである.そのようなことは断じてあり得ない.
 そしてこの表では,五月二十四日の昼食として次のように記されている.

カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉

 この引用箇所において,「カレー」は料理名で,生牛肉以下は食材名である.
 表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》自体が嘘であるから,その表中に書かれている「五月二十四日の昼食がカレーであった」というのも嘘である.しかし,このわずか一行の記述から,真っ赤な嘘の大風呂敷を広げた男がいる.青山智樹という男である.アマゾンに載っているプロフィル (抜粋) は以下の通り.
 
東京都武蔵野市生まれ。学生の頃より同人誌「宇宙塵」に参加。東海大学理学部物理学科卒業後、高等学校に理科教師として勤務。一九九二年長編SF「赤き戦火の惑星」で商業デビュー。
 
 青山は,『自分で作る うまい! 海軍めし』(株式会社経済界,2010年) という著書の中で,表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》中の《カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉 》を基にしてビーフカレーライスのレシピを創作し,その創作料理を「戦艦長門の昭和3年5月24日のめしを再現した」としている.
 そして,この「再現メニュー」をブロガーたちが出典を隠して無断転用し,その結果,長門でカレーが食べられていたことになってしまっている.
 この『自分で作る うまい! 海軍めし』が流通している限り,「戦艦長門のカレー」という嘘は拡散し続けるだろう.青山智樹が作家であるなら,フィクションは小説だけにして欲しいものだ.
 
 高森直史という元自衛官のデマゴーグがいる.この男は,東郷平八郎が舞鶴鎮守府で肉ジャガを考案したという嘘話をデッチ上げ,舞鶴の町おこしを立ち上げた者たちの一人である.
 その高森が昨年,『海軍カレー伝説』(潮書房光人新社,2018年) を出した.「肉ジャガは海軍が発祥」の嘘はよく知られているところであるが,自分のついた嘘がばれていることを知らないらしく,図々しくもまたその虚説を本書中で繰り返し,逆に「カレーは海軍が発祥」は根拠がないと否定している.嘘吐きである上に裏切者だという呆れた男である.この男の『海軍カレー伝説』は,またまた「肉ジャガは海軍が発祥」というデマを拡散するだろう.困ったことである.
 
(連載終了)

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2019年1月26日 (土)

記念艦三笠でカレーを (軍港クルーズ編)

 記念艦三笠での「海軍カレー」昼食を済ませたあとは,横須賀軍港クルーズだ.船の発着場は「汐入ターミナル」というようだが, そこまではみんなで歩いて行く.途中に通称「どぶ板通り」商店街があるので,そこを観光したり,気に入ったものがあればショッピングしましょうとの意図である.しかし想像していたほどにはミリタリな服の店はなくて,結局素通りした.
「どぶ板通り」からまた少し歩くと,汐入ターミナルがあった.(下の画像)

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 クルーズ船の発着場で列を作って待っていると,やがて出航時間となった.船が接岸しているミニ桟橋のところで,長身スレンダー美女がお出迎えしてくれた.コスパよし
 実はこの美女が軍港クルーズのナビゲーターなのであった.出航ののち,彼女はマイクを持っていささかも途切れることなく,港内の艦船についての解説を続けた.FM放送局のDJのようで,実に恰好よかった.軍オタ諸君,喜べ! このクルーズはおすすめだ! 生きている艦コレだ!

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イージスシステム搭載ミサイル護衛艦あしがら

 イージスシステム搭載艦がイージス艦だ.改めて調べてみたら,Wikipedia【イージス艦】に《イージス(Aegis)とは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという、あらゆる邪悪を払う盾(胸当)アイギス(Aigis)のこと 》とある.軍オタ諸君,喜べ! イージスはアテナの盾かと思ったら 胸当のことみたいだぞ! 君らは払われちゃう邪悪のほうかも知れないけどな! 私も払われちゃうかもな!
 上の「あしがら」は舷側方向から撮影したものだが,前方から見るとイージス艦は特徴的な姿をしている.下の画像は米軍のイージス艦 (アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦) だが,赤い矢印の六角形のところにイージスシステムが搭載されているのだそうだ.
 
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(米国艦 DDG-65;パブリックドメイン画像)

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(左) 海洋観測船しょうなん;(右) 艦載兵器実験艦あすか
 
 海上自衛隊の艦船は船首に識別番号が書かれている.識別番号が三桁の艦は護衛艦であり,四桁の艦はそれ以外の特殊な機能を有する艦だそうだ.クルーズナビゲーターの美女は,完全に各艦の番号が頭に入っているようだった.
 自衛隊の艦はグレーに塗装されているが,横須賀軍港に入港する友好国艦船の中には,特有の色の艦があるという.たまたまその日に停泊していた外国艦について「あ,あの色のは○○○の艦ですね!」などと説明してくれた.
 私は,その種のムダ知識 (軍オタではない者にとっての) をたっぷり頭に入れ,着岸したクルーズ船から降りて帰路の人となった.

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記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 25)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24)》の末尾を再掲する.
 
戦後,カレーライスが国民食となったのは,昭和十二年版『軍隊調理法』と,大陸の戦地から生還した陸軍兵士たちの手による.高齢者世代は,その過程を遠い目で思い出すのである.
 
 戦争中はカレー粉の製造に必要なスパイスは軍が独占していたが,戦後はこれが解放されて,市中にカレー粉が不自由なく出回るようになった.全国の家庭で同時多発的にカレーライスが食膳にのぼるようになった.だから,ある日突然に,カレーライスは横須賀が本家なんですと言われても,何言ってんのあんた,という感じであった.子供の頃,母親が作ってくれたカレーに「それって実は,お母さんの味ではなくて,横須賀の味なんですよね」とケチをつけられた気がして,おそらく今の高齢者たち全員から横須賀は嫌われたと思う.
 年金暮らしになった私は暇だから,「そこまで言うなら本家本場のカレーとやらを食ってやろうじゃないか!」と思って,クラブツーリズムの日帰りツアー「日本遺産認定記念 横須賀軍港クルーズと猿島 特別に記念艦三笠の中で海軍カレーの昼食」に参加したのであった.
 
 というわけで猿島観光から,記念艦三笠が固定されている横須賀新港へ戻ってきた私たちツアー一行は,ここで猿島を案内してくれた現地ガイドさんたちと別れた.
 
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 (↑) 船着き場から公園に入るとすぐに三笠が見える.(アクセス)
 
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 (↑) この階段から上甲板に上ると,すぐ中甲板へ降りる階段がある.中甲板の端に,きれいに復元された士官室があり,私たちはそこで昼食のカレーを食べることになった.
 
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 (↑) これがそのカレーライスだ.横須賀市内にあるセントラルホテルのティーラウンジ「ボンジュール」からの出前だという.これはツアーの企画で,三笠の中でレストランが通常営業しているわけではない.
「ボンジュール」では,グランドメニューではなく,要予約の団体専用カレーである.ホテルで食べる時はグリルした野菜を載せたライスと,カレーが別になっている.名称こそ「海軍カレー」だが,見ての通りの歴とした欧風カレーである.でも,牛乳とサラダを添えれば「海軍カレー」を名乗ってもいいのだ.w
 横須賀市内の他の店では,「海軍カレー」は千円少しの価格だから,「ボンジュール」のカレーライスは別格のいわゆるホテルのカレーだ.なるほどおいしい.ツアー参加者に地元の人がいて,これが目当てで参加したと言った.市内のカレー屋の「海軍カレー」は人気がないのだという.「あの値段で,あの程度の味のカレーならコスパ的にナシです.自分ちで作ったほうがよほどおいしいです」と言っていた.町おこし「海軍カレー」轟沈す.ww
(市内の店の「海軍カレー」がどんなものかという画像)
 
 食後,艦内を一通り観て回った.
 
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 (↑) 主砲の復元模型.その奥は艦橋.主砲模型は近くで見るとちょっとチャチ.昭和の特撮映画的な質感.
 
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 (↑) 上甲板にある日本海海戦の図.
 
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 (↑) 中甲板に展示されている三笠の艦首飾りと艦隊旗.いずれも本物.
 
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 (↑) 将官用の洗面台とトイレ,バスタブ.戦後,盗掘されたピラミッドの如く,家具調度品が盗まれて三笠は荒廃したが,復元に際しては海外からの寄贈を受けたという.
 
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 三笠を降りると,公園の端に売店があった.記念艦三笠観光の御土産が売られている.私はレトルトの「海軍カレー」を二つ買った.左側は横須賀市内の店「ウッドアイランド」の委託製造品.製造者は大阪市鶴見区にあるベル食品工業.店の献立を基にしてレトルトカレーなどを製造してくれる会社だ.右側は同じく横須賀市内の横須賀海軍カレー本舗のもので,同様にベル食品工業が製造している.
 ウッドアイランドのレトルトカレーを試食してみた.白飯は大塚食品の「マンナンごはん 百四十グラム」で,カレーは二百グラム.酸味を抑えた甘口のレトルトカレーで,レトルトカレーとしてはおいしい部類だが,なにしろハウスやエスビーなどの製品が二袋買える値段だから当然だし,じゃ二倍おいしいかというと,そういうことはない.リピートなしということで決定!
 横須賀海軍カレー本舗の……(中略)……じゃ二倍おいしいかというと (以下同文)

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2019年1月25日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 23) 》の末尾を再掲する.

次はさらに重要なことだが,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されている《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》はかなり信憑性が低いと考えられるのだ.
 
『写真で見る 海軍糧食史』のp.85~p.91には,海軍の記念日 (年五回) において特別な祝賀献立が将兵に供されたことが詳しく述べられている.写真も数葉が掲載されている.この写真を見ると,陸上部隊でも艦船においても,式典と共に祝賀会が催されたことがわかる.この祝賀会の献立例 (昼食) を同書p.89の表《海軍記念日前後の軍艦用兵食献立 昭和5年 》から,海軍記念日当日の祝賀献立部分を下に引用する.ただし表罫線は用いず,見やすい形に整理した.

[ 区分 5月27日 昼食 ]
料理              食材
--------------------------------------------------------
飯                白米
 
盛合せ ボイルドハム   燻製肉・(鶏卵)・(蒲鉾)・(明礬少々)・甘藷
      卵の巻焼
      二色蒲鉾
      金糸澱粉
ココア羹            (ココア)・(寒天)・(三本行)
小皿ぬた          生鰮・葱・白赤味噌・(辛子)
うしお             生鯛・晒葱
菓子折            三十銭位のもの
漬物              奈良漬
--------------------------------------------------------
 

 少し註釈をすると,上表中の ( ) の用法は意味不明である.「金糸澱粉」の正体が不明だが,祝い膳であることから推察するに,澱粉は田麩のミスタイプで正しくは「金糸田麩」,つまり金糸玉子の上に桜田麩(さくらでんぶ) をトッピングしたものかも知れない.次の「三本行」もわからない.ネット上の質問サイトには,「三本行」は三本コーヒーではないかという説があるが,三本コーヒー株式会社の創業は昭和三十二年であるから,これは嘘である.また海軍の食糧リストで,コーヒーは珈琲と書かれている.

 さて,上記の祝賀会昼食献立で,主菜が祝い膳的な内容であること,汁物が豪華に鯛の潮汁であること,デザートが付いていることの他に,特記すべきは,いつもの主食は麦飯であるが,祝賀会の献立ではハレの食事に相応しい銀シャリであることと,菓子折が付いたことである.菓子折は,羊羹や饅頭だったようである.
 
 これに対して,《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》から海軍記念日の昼食を引用すると下の通りである.
 
[ 区分 5月27日 昼食 ]
料理              食材
--------------------------------------------------------
混飯              白米・割麦・椎茸・干瓢・生牛肉・甘藷・白隠元・三本行
亀甲煮キントン澄汁     豆腐・葉付玉葱・削節・味の素
漬物              奈良漬
--------------------------------------------------------
 
 これを見ると,麦飯の混ぜご飯と豆腐の味噌汁という一汁一菜である.デザートも菓子折もない.すなわちこれが帝国海軍連合艦隊主力戦艦長門の,海軍記念日祝賀会の食事であるわけがない.
 推察するに,著者の藤田氏は,トンデモないインチキ資料 (後世の創作物か?) を掴まされて,それを基に《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》を書いたのではないか.
 こうしてみると,戦艦長門の昭和3年5月24日の昼食がカレーだったという話は,とたんに嘘くさくなってくる.献立を再掲しよう.
 
日時      区分 料理  食材
 5月24日木曜日 昼食 カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉
 
 前回の記事に登場してもらったブロガーは,戦艦長門のカレーを作ろうとして大失敗をしたわけだが,ここに書かれた食材がそもそもカレーらしくない.小麦粉とラードが使われていないのが大いに疑いを深める.ニンジンはなくても構わないが,大根とサツマイモはいかがなものか.もしかするとこれは,件のブロガーも《「カレーという名のカレー味の煮物だったかもしれない」と悩んだんですが 》と書いているように,まさにカレー風味の具だくさん汁だったのではないかと思われる.(煮物だとすると,汁物がなくなって恰好がつかないから)
 以上,《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》は,
事実でないと結論される.
 ある料理が軍の調理教本に掲載されているということと,それが実際の兵食として給食されていたかどうかは別の話であり,実際がどうであったかは確かな資料で実証されねばならない.
 実はこの表こそは,横須賀鎮守府と「海軍カレー」を結びつけるたった一つのデータであった.それが信用できないのであるから,嘘を広めて横須賀市民と国民を騙し,「海軍カレー」を宣伝してきた横須賀市当局の罪は重い.
 
 私の母親は,夫が陸軍復員兵だった奥さんにカレーの作り方を教えてもらった.ある日の夕食,私の家族は母が拵えたカレーの鍋を卓袱台の上に置いて,各自が皿に麦飯を盛り,スプーンでカレーライスを食べた.思い出は最上の調味料と言うが,あれはうまかった.そして父は,長門じゃあこんなものは食べたことがなかった (*) と言った.(昭和十四年から十九年までのこと)
 戦後,カレーライスが国民食となったのは,昭和十二年版『軍隊調理法』と,大陸の戦地から生還した陸軍兵士たちの手による.高齢者世代は,その過程を遠い目で思い出すのである.

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2019年1月24日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 23)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 22) 》の末尾を再掲する.

さて,横道に逸れたが,横須賀鎮守府所属の艦隊や海兵団で,カレーライスが食べられていたかどうか,という話に戻る.
 
 日本海軍における食糧と食事に関するネット記事で,頻繁に登場する書籍がある.藤田昌雄『写真で見る 海軍糧食史』(光人社,2007年;私の蔵書は旧装版であるが現在は新装版が出ている) である.著者の藤田氏がどのような人物であるかはよく知られていない.昭和四十七年生まれの軍事史研究家と一部の著書に書かれているだけである.この本は労作であることはわかるのだが,著者はたぶん歴史書や専門書を書くためのきちんとした勉強をしていない (ただし本書の文章そのものは,著者が高等教育を受けていることを示唆している) と思われる.というのは,収録されている写真,図版や表等のデータに関して,僅かな例外を除いて出典が示されていないのである.それ故,もちろん,それらのデータの著作権関係がどうなっているかの言及は一切ない.従ってこれは趣味本の域を出ておらず,それどころか違法出版物である可能性があり,この書籍の文献資料的価値はゼロである.(ちなみに旧装版を出していた光人社は買収されて産經新聞社の子会社となり,現在の社名は潮書房光人新社という.軍事オタク御用達の出版社である.データに出典を示さない著者を許容しているのは,おそらく意図的なものだろう.三流出版社がやりそうなことである)
 だが世の中には「ミリメシ」(「ミリタリー」+「飯」) 愛好家という頭の悪い連中がいて,彼らは,この本に書かれていることがおもしろければ,その真偽なんかどうでもいいらしいのである.彼らの頭の中身を示す例を一つ下に挙げる.

戦艦長門のカレーをつくってみよう!
 
には《相変わらずの適当再現だけど、今回の参考文献は『写真で見る海軍糧食史』(藤田昌雄 著)です 》と書かれているので,『写真で見る 海軍糧食史』のベージを繰ってみると,p.113に《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例》と題した表が載っている.その表に「5月24日の昼食」について次のように書かれている.出典は示されていない.
 
日時      区分 料理  食材
 5月24日木曜日 昼食 カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉
 
 これを読んだ件のブロガーは
 
作り方や分量どころか使用する調味料の種類すらわからない!
カレーの材料に小麦粉が含まれてないので「カレーという名のカレー味の煮物だったかもしれない」と悩んだんですが、海軍割烹術参考書(明治41年のだけど)に倣って小麦粉でとろみをつけたふつうのカレーを作りました。
作り方もこれに倣ったので、明治の海軍カレーと昭和の海軍カレーのキメラみたいなものになってますね。
まあ美味しかったからいいや。

 
 長門のカレーを作ると言っておきながら,『写真で見る 海軍糧食史』に書かれていない材料 (小麦粉,グレープシードオイル) を使い,しかも肉やジャガイモの使用量の記載はない.その上,長門が所属していた横須賀鎮守府とは関係ない『海軍割烹術参考書』を見ながら作っている.昭和3年の献立であれば,舞鶴海兵団の内部資料『海軍割烹術参考書』ではなく,海軍当局が編纂した正式教本である『海軍五等主厨厨業教科書』を参考にしなければならないはずだ.それくらいの知識もないのに戦艦長門のカレーなどと誇大なことを書くものでない.愚か者めが.w
 ちなみに『海軍五等主厨厨業教科書』は大正七年に海軍教育本部が編纂し,帝国海軍社出版部が出版した書籍である.現在は著作権保護期間満了のため,国会図書館デジタルコレクションが一般に公開している.なおアマゾンがこの本の「復刻版」と称するKindle版を公開しているが,これは 改竄  二次加工されたものであり原本の形をとどめていない.また商品紹介ページに「海軍省教育本部」とあるが,これは「海軍教育本部」の誤りである.書誌事項を間違ってどうするのだと言いたい.で,下に「ライスカレー」の箇所を国会図書館のサイトから画像で転載する.舞鶴海兵団の『海軍割烹術参考書』では「カレイライス」であったが,海軍の教本『海軍五等主厨厨業教科書』では「ライスカレー」となっている.

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(『海軍五等主厨厨業教科書』から抜粋した画像;著作権保護期間満了の書籍)
  
 実は同じブロガーが《戦艦長門のカレー(改) 》を書いている.前作の味がまずかったと見えて,今度は戦艦長門のカレーを再現せんとして,陸軍の『軍隊調理法』を見ながら作っておる.本人も《海軍めしを作るのに陸軍の本を参考にするのもアレですが、長門のカレーは分量の記載がないので。》と言い訳しているが,情けないことこの上ない.w
 情けない,とは言うものの,このブロガーには同情すべき点もある.
 まず第一に,現在,調理というものは,調理科学という学問分野があるように歴とした科学であるからして,再現性の概念が根底にある.調理の再現性を支えるのは計量であるが,調理における計量の重要性が軍隊で認識されるのは,言い換えれば日本海軍における給食調理が「体で覚えろ」式から科学となったのは,もう少し後の時代なのである.しかも,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されているのは単なる献立表であってレシピではない.従って件のブロガーが「戦艦長門のカレー」を再現するなんてことは,土台無理な話だったのである.
 ちなみに,日本海軍では,大正七年 (1918年) の『海軍五等主厨厨業教科書』に続いて昭和十三年 (1938年) に『海軍四等主計兵厨業教科書』,昭和十八年 (1943年) に『海軍主計兵調理技術教科書』が刊行されている.厨業の正式教本であるこの二冊は,残念ながら国会図書館に所蔵されていない.
 しかしこれとは別に,海軍の教科書ではないが,「海軍経理学校研究部」が昭和七年に『海軍研究調理献立集』を刊行し,艦船や海兵団に配付された.この『海軍研究調理献立集』に採用された料理の一部が『写真で見る 海軍糧食史』に引用されており,それを見ると,材料の量が記載されており,ほぼ実用レシピと言っていい.つまり昭和七年以前には,まともな調理教本が作成されるようになっていたと推察される.陸軍は昭和十二年にほぼ完成形の『軍隊調理法』を刊行していたから,海軍の『海軍四等主計兵厨業教科書』も同水準のものであった可能性が高い.
 次はさらに重要なことだが,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されている《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》はかなり信憑性が低いと考えられるのだ.

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2019年1月23日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 22)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 21) 》の末尾を再掲する.

次回は,「横須賀海軍カレーの嘘」について記す.
 
 横須賀市当局と市内のカレー屋たちは,横須賀市の町おこしサイト《カレーの街 よこすか 》のコンテンツ《よこすか海軍カレーとは 》の中で《海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです 》と宣伝しているが,現在,日本の食文化史研究家で,これを正しいと考えている人は一人もいないだろう.このコンテンツに書かれていることのうち,最も悪質な嘘,すなわち海軍軍医高木兼寛が海軍兵食にカレーライスを取り入れたと述べている箇所については,この連載の中で資料を用いて嘘であることを説明した.
 また同コンテンツの冒頭に,
 
明治41年に発行された「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており、カレーライスの作り方についても記載があります。
…中略…
海軍割烹術参考書のレシピをもとに、現代に復元したカレーが「よこすか海軍カレー」なのです。
 
とあるが,《「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており 》は真っ赤な嘘である.『海軍割烹術参考書』には帝国海軍当局は関与していない.この書籍は舞鶴海兵団で編纂された内部資料なのである.『海軍割烹術参考書』には佐世保海兵団の料理参考書を参照したことは書かれているが,横須賀海兵団には言及がない.また横須賀海兵団に同種の教本があったかどうかについては,これまでに書籍の現物が一冊も見つかっていないことからすると,おそらく横須賀海兵団では料理教本は作成されなかったと考えられる.
 しかし「横須賀海兵団にカレーライスはなかった」のでは,横須賀市と市内のカレー屋たちは,海上自衛隊横須賀地方隊の入れ知恵で 海軍カレーで町おこしを企んでいたのに大変困ることになる.そこで『海軍割烹術参考書』が舞鶴海兵団の教本であることを隠し,あたかも横須賀海兵団に関係があるかのように でっち上げ 宣伝することにしたのだろう.海軍当局が編纂した教本だということにすれば,横須賀市が町おこしに使用してもよいことになるからだ.
 ここで不思議なのは,本来は舞鶴市の町おこしのネタである「海軍割烹術参考書」を持っていかれた舞鶴市が,なぜ横須賀市に抗議しないのかである.ところが実は,舞鶴市は肉ジャガは舞鶴海兵団が発祥だとする虚偽に基づく町おこしをやっており,横須賀と舞鶴は同じ穴の貉なのである.嘘つき同士の助け合いみたいな形である.
 横須賀市の公式サイトのコンテンツ《カレーライス誕生秘話 》は,さすがに地方自治体の公式サイトであるから,同市の町おこしサイトよりは遠慮がちに嘘を書いている.高木兼寛や『海軍割烹術参考書』などを持ち出すと,市民から問い合わせがあった時に困るので,具体的なことは書かないようにしたと思われる.
 しかし,横須賀の町おこしに絶対必要な嘘はつかざるを得ない.それが次のセンテンスである.
 
こうして、日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷に帰った兵士が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていきました。
 
 同じことが横須賀の町おこしサイトにも書かれている.
 
その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。
 
 彼らが主張するように本当に横須賀海兵団でカレーライスが食べられていたのか.そしてそれが全国に広まって,カレーライスが国民食と言われるまでになったのか.
 これについて,私の父親の話をする.
 私の父は新潟県中蒲原郡の生まれで,農家の三男坊であったので,口減らしのために海軍を志願した.
 昭和十四年に戦艦長門の乗員となり,昭和十九年に肺結核を発病したため長門を降り,故郷の新潟県長岡市にあった海軍病院で療養生活に入った.最終の階級は兵曹長であった.
 戦後は,海軍病院で看護婦をしていた私の母親と群馬県前橋市に移住し,最下級の公務員に就職して所帯を持った.昭和二十年代の中頃は,栄養失調寸前の貧しい生活であったと後に母は語った.
 しかし朝鮮戦争特需を契機として,昭和三十年代には経済成長が始まり,ようやく庶民は日々の飯を満足に食えるかどうかの不安から解放された.貧乏人でも,たまには豚肉を食べられるくらいには日本は復興したのであった.
 そんなある日のこと.近所に住んでいた父親の同僚で,北支戦線から復員してきた元陸軍兵士がいた.その人は奥さんに「辛味入り汁掛け飯」を作ってみせたという.戦地に送られる前に,内地の兵営で覚えたという話だった.
 その奥さんが,近所で親しくしている私の母親他の婦人連に「辛味入り汁掛け飯」すなわちカレーライスの作り方を教えて広めた.私の母は早速その陸軍式のカレーを作り,いつも煮物と漬物しかない家族の夕食に出した.父はそのカレーライスを食べながら,長門じゃあこんなものは食べたことがなかったと言った.
 
 戦艦長門は大正六年八月に広島県の呉海軍工廠にて起工,大正九年十一月に竣工した.長門型戦艦の一号艦であり,同型の姉妹艦は陸奥である.陸奥は佐世保鎮守府所属,長門は横須賀鎮守府所属となり,横須賀が東京の海軍省や軍令部と往来が容易なため,完成時は長門が連合艦隊旗艦に選ばれた.以後,長門と陸奥は交代で連合艦隊旗艦を務め,両艦は日本海軍の象徴として国民から親しまれた.
 太平洋戦争開戦時,長門は連合艦隊旗艦として姉妹艦の陸奥と共に第一戦隊を形成していた.南雲機動部隊が真珠湾攻撃を実施して成功をおさめるや,長門や陸奥など瀬戸内海在泊の戦艦六隻を中核とする主力部隊は,南雲機動部隊の退却支援を目的に出撃した.この時点では,のちに連合艦隊主力艦となる戦艦大和は,まだ試験航海途上にあった.
 これ以降の長門の戦歴は Wikipedia【長門 (戦艦)】の解説に譲るが,昭和十九年 (1944年) 十一月十六日,戦艦三隻 (大和,長門,金剛) と駆逐艦隊はボルネオ島北部のブルネイから日本への帰路に付き,敗戦までの期間,これが長門の最後の外洋航海となった.同年十一月二十五日,駆逐艦隊に護衛されて長門は横須賀港に到着し,損傷箇所の修理や整備を実施するも,燃料と物資の不足により,これ以後外洋に出撃することはなかった.大正時代に建造された旧式戦艦は既にその使命を終えていたのであった.私の父はこれで長門を降りて郷里に帰った.
 第一線を退いた長門は,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲で米空母四隻の搭載機による集中攻撃を受け,艦橋が破壊されて艦長以下ほとんどの艦橋要員が戦死した.その後の長門は中破したまま修復されることなく終戦を迎えた.ちなみに横須賀空襲の時,長門に隣接して係留されていた特務艦宗谷と病院船氷川丸は無傷であった.両船のその後については機会があればこのブログで触れてみたい.
 敗戦後の長門については Wikipedia【長門 (戦艦)】から引用する.
 
終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。長門は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。9月15日附で除籍。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ長門は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。
1946年(昭和21年)7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門は殆ど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が長門のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。ただ一説には、長門の浸水を食い止めるなど、保存などの為に緊急修理をする予定が立てられていたが、最終的には行われず沈没したという逸話も有る。

 
 この連載の第一回《記念艦三笠でカレーを (猿島編) 》で私は下のように書いた.
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 この「猿島公園専門ガイド協会」の現地ガイドさんだが,年齢は私とさして変わらないと思われた.帰りの船が出るまでのトイレ休憩の時に,ガイドさんは若い (大学生くらいの軍事オタクっぽい青年) たちに,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲のことを分厚い資料ファイルを開いて解説した.その資料の中に,その日横須賀軍港に停泊していた戦艦長門を遠くから撮影した写真があったので,私は「死んだ私の父親は長門に乗っていたんですよ」と言った.
 
20181103nagato
戦艦長門 (パブリックドメイン画像)
 
 すると彼は手帳を取り出し,もう少し話を聞かせてください,と言った.何か個人的に思い入れがあるのかも知れないと思った私は,父親の軍歴について簡単に話した.
 それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った.

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 この一節の結びの一行《それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った》とは,ビキニ環礁において原爆標的艦として沈められた
ことであった.(ようやくここで伏線を回収することができた w)
 さて,横道に逸れたが,横須賀鎮守府所属の艦隊や海兵団で,カレーライスが食べられていたかどうか,という話に戻る.

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2019年1月22日 (火)

続・明治のクチャラー

 昨日放送された大河ドラマ『いだてん』の冒頭の一シーンのこと.
 志ん生 (ビートたけし) が自宅の居間でテレビを見ていると,弟子の今松 (荒川良々) がやってきて座敷に上がり込む.下は,そのシーンを撮影した画像.

20190121b 

 今松は,こともあろうに師匠の前で,立ったままで飯を食っている.いくら何でも時代は明治だぞ.どういう弟子だ.分をわきまえろ,このばかが,と言いたくなるくらいに,このシーンは非現実的だ.
 (下向きの矢印 (↓) は箸を手にしていることを示している)

 右向きの矢印 (→) は,このシーンで今松が口を開けたままクチャクチャと咀嚼していることを示している.そして今松はこのあと,口にものが入ったままでしゃべった.
 こんなクチャラーが,噺家になれるはずがない.物を食う所作のある落語は多いが,クチャラーではそれらの噺を演じられないのである.
 前回の記事に書いた森山未來は,物を食いながら落語を聞いて,口の中の咀嚼物を全国の視聴者に見せつけながら馬鹿笑いをした.
 この荒川良々は立ったままで咀嚼しながらしゃべった.無礼極まりない.仮にそれがクドカンの台本に書いてあり,あるいは演出だとしても,「時代考証がおかしいです」と,なぜ拒否しないのだ.言われれば何でもするのか,お前は.
「いだてん」に次々にクチャラーが登場するのはなぜか.もしかするとクドカン本人がクチャラーなのか.たぶんそうかもな.

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記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 21)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 20) 》の末尾を再掲する.
 
ところで,上に述べたような西洋料理系のカレーとは全く違うカレーが明治の末に普及した.それは野菜と少しの肉を煮込んだカレーで,今の家庭料理のカレーに繋がるものだった.
 
 この引用文中の野菜とは,ジャガイモタマネギニンジンのことである.
 ニンジンは日本への渡来は古いが,生産量が増加したのは栽培しやすく風味にクセのない西洋系ニンジンが伝わった江戸時代末期である.産地は,気候的に北海道が最大である.
 タマネギは,明治十年代に北海道で栽培が始まった.明治二十年代には,料理本にタマネギを使った料理が掲載され始めた.全国で栽培できるが,これも北海道が生産量最大で,全国生産量の五割以上を占めている.
 ジャガイモはそもそも北海道開拓の主要作物であった.明治三十年には生産量が二十万トンを超え,同四十年には五十万トンを超えた.大正初めに七十万トン超え,同五年に百万トン超え,同八年には百八十万トンにも達した.
 これで保存のきく野菜であるジャガイモ,タマネギ,ニンジンを北海道から全国に食糧供給できる態勢が整い,家庭料理のカレーライスが生まれる基礎ができたのである.
 このような食糧情勢を背景にして,それまで上流階級の食べ物であった肉料理としてのカレーライスから,野菜を主たる材料とし,軍隊の下級の兵も口にし得るカレーライスが派生した.そのことを示す明治時代末の史料が三つ存在する.『海軍割烹術参考書』『陸軍料理法』『洋食の調理』である.
 ここで注意が必要なのは,軍隊では下級の兵といえども食事は一般庶民よりもはるかに恵まれていたということである.これらの史料にある料理の作り方が掲載されていたからといって,それは庶民的な料理であることとは別なのである.また掲載されている料理が実際に作られ食べられていたかというと,それはまた別に検証を必要とする.
 さて上記の史料のうち二つは Wikipedia【カレーライス】の《年譜 》に記述がある.
 
1908年(明治41年)、大日本帝国海軍が配布した『海軍割烹術参考書』に、「カレイライス」のレシピが載る。海軍カレーの起こり。
1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る。
 
 先ずは海軍から.上の引用中に《大日本帝国海軍が配布した 》とあるのは嘘である.この本を編纂発行したのは舞鶴海兵団であり,帝国海軍当局ではない.つまりローカルな出版物であった.この虚偽情報は,横須賀市当局と市中のカレー屋たちが町おこしのために流布したものであり,Wikipedia【カレーライス】は,その真偽を確かめもせずに書かれている.
 現在この『海軍割烹術参考書』あるいはその復刻版と称する書籍が二つ存在する.両方共,現代語に直してあるため,原文の形をとどめていない.従ってそれらを復刻版と呼ぶのは嘘である.ただしそれを承知の上で掲載内容の概要を知るには,「復刻版」は役に立つ.
『海軍割烹術参考書』は印刷された冊数が少なかったらしく,現物は海上自衛隊第4術科学校 (舞鶴市) が保存しているもののみで,公共図書館には所蔵されていない.そのため『海軍割烹術参考書』の原文は現在,参照することができない.原文であると称するサイトが現在も複数存在するが,勝手な句読点の挿入や誤記,脱落などで文語文の正書法から外れた状態になっている.そこで,ここでは原本を保管している当事者である海上自衛隊第4術科学校の公式サイトに掲載されているレシピを基に,僅かな修正を施したレシピを掲げる.
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『海軍割烹術参考書に記載されたレシピ

 三二 カレイライス
材料 牛肉 (鶏肉) 人参 玉葱 馬鈴薯 「カレイ粉」 麥粉 米
初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉 (鶏肉) 玉葱人参馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ別ニ「フライパン」ニ「ヘット」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロヽノ如ク溶シ之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ (馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ト煮エタルトキ入ル可シ) 弱火ニ掛ケ煮込ミ置キ先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ之レヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ鹽ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス
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 これを見てわかることは,材料の量が指示されていないことである.調理の時の要点が書かれているに過ぎないので,正しい意味でのレシピではない.そのため,このレシピを実行することは不可能なのである.
 しかし横須賀市当局と市内のカレー屋たちは強引にも,このレシピを「再現した」と称して,統一ブランド「横須賀海軍カレー」を でっち上げた 売り出した.その結果,各店の「横須賀海軍カレー」は外観からしてそれぞれ異なるものになってしまった.各店に共通しているのは,カレーライスにコップ一杯の牛乳とサラダが添えられることだけである.彼らはこの牛乳と生野菜こそが「横須賀海軍カレーの特徴である」と主張しているが,それならば,「『海軍割烹術参考書』のレシピを再現したのが横須賀海軍カレーである」という謳い文句はどこに行ったのか,ということになる.
 しかも元々がそのレシピは舞鶴海兵団で作成されたローカルなものである.横須賀海兵団の兵食にカレーライスがあったという史料は見つかっていないのだ.むしろ横須賀海兵団にはカレーライスはなかった可能性が濃厚で,これについては後述する.
 次は陸軍のカレーライスについて.
 Wikipedia【カレーライス】にある記述《1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る 》は正しい.『軍隊料理法』は,軍令「陸普3134号」 (明治四十三年発令) によって制定された帝国陸軍の公式レシピ集である.この本は近衛師団を筆頭とする各師団の隷下部隊のみならず,軍学校,陸軍病院,陸軍衛戍監獄,外地に駐留する台湾軍・韓国駐箚軍・関東軍・樺太守備隊に到る全陸軍組織と部隊に配賦された.舞鶴海兵団のローカル出版に過ぎない『海軍割烹術参考書』とは異なる重要な史料なのである.この本は国会図書館デジタルコレクションで直接閲覧することができる.そこからカレーライスの項目を抜粋すると以下の通りである.
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『軍隊料理法』に記載されたレシピ
 
 
其九 カレー、ライス (カレー汁掛飯)
鍋ニ少量ノヘット又ハラードヲ入レ其中ニ出來ル丈細カニ刻ミタル玉葱トカレー粉トヲ適宜ニ入レテ好ク炙キ
(註;読みは「ヤキ」,意味は現代語なら「炒め」か) 之ニ米利堅粉ト采ノ目形ニ切リタル肉トヲ混セ湯ヲ注キ (註;原文にはルビあり;読みは「ツギ」) 鹽ヲ加ヘ又僅カノ酢ヲ入レ一時間程煮ルナリ之ヲ飯ニ注ケテ用ヰルナリ飯ハ可成硬目ニ炊クヲ可トス
 (注意) カレーノ中ニ金物ヲ長ク漬ケ置ク時ハ毒アリ又此料理ハ毎日用ヰルハ宜シカラス一週間ニ一、ニ度ヲ適度トス

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 ところがこの『軍隊料理法』も材料の量が指定されておらず,実際には実行できない画餅のレシピ集であった.従って明治の末期の陸軍で,兵食としてカレーライスの兵士に提供されていたかは大いに疑問である.
 しかし陸軍当局は『軍隊料理法』の実用化研究を続け,昭和三年の軍令「陸普第3548号」で『軍隊調理法』を制定し,「陸普第3759号」(昭和六年) の改訂を経て「陸普第3678号」(昭和十二年) により大部の実用料理教科書を完成した.
 帝国海軍では,兵食調理を調理専門に育成された少数の兵が行っていたのに対し,陸軍は当番兵制であったから,多くの陸軍兵士が内地での教育訓練の際に『軍隊調理法』によってカレーライスの作り方を覚えた.その兵士たちのほとんどは大陸の土となったが,生き延びた者たちは復員し,彼らが戦後,一般家庭にカレーライスが普及する原動力となったと,カレー料理研究家たちが揃って指摘しているが,その通りであろう.復員船の多くが『海軍割烹術参考書』ゆかりの舞鶴港に戻ってきたことは,偶然ながら日本食文化史の一エピソードとしてよいだろう.
 現在,横須賀市当局と市内のカレー屋たちは「横須賀海兵団のカレーが国民食カレーライスのルーツである」などと町おこしの宣伝をしているが,そんな嘘を信じているのは勉強嫌いのブロガーたちだけである.
 さて軍令は機密事項であったから『軍隊調理法』の内容は,民間人の知るところではなかった.しかし,ジャガイモ,タマネギ,ニンジンを材料とする野菜料理であるカレーライスの作り方を記した料理本が現存する.Wikipedia【カレーライス】には記載がないが,亀井まき子『洋食の調理』(博文館,明治四十四年) である.この本は材料の量的目安を記載しており,実用レシピ集である.陸軍のカレーライスのレシピ完成が,遅れること昭和であったことに鑑みれば,新資料が現れなければ,この『洋食の調理』が我が国の家庭料理カレーライスについて書かれたレシピの初出である.これも国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる. 
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亀井まき子『洋食の調理』に掲載されたレシピ
 
「ビーフカレーライス」
牛肉 (並肉) バタ カレー粉 スープ (鶏肉) 馬鈴薯 人参 塩 玉葱 メリケン粉 牛乳
牛肉 (並肉) を二分位の賽の目にきりましてバタをフライ鍋に入れ火にかけとかしましたら此牛肉を入れてよくいため狐色になりましたらカレー粉を入れスープ (鶏肉) でのばしましてスチウ鍋にうつし馬鈴薯と人参を二分位の賽の目にきりまして水に少しはなしまして笊にあけ水気をきっておいたのを入れ塩と玉葱の皮をむきまして薄く輪切にしたのを入れまして文火
(註;読みは「トロ火」) にかけ一時間も煮込みましたらメリケン粉を水でとかしたのを入れて三十分間も亦煮ましたら牛乳を少々いれて鍋をおろすので御座います此の分量は牛肉が百匁ならば之をいためますバタが食匙一杯カレー粉が珈琲匙に一杯人参と馬鈴薯は一所にして二合位玉葱は中位の大きさのを一個メリケン粉食匙に一杯半位を水にとかして入れるのです又スープは二合牛乳は食匙に三杯位でよかろうと存じます
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 余談ながら,文語文の正書法も時代と共に変遷があり,明治の頃は句読点が用いられていなかった.それだけでも読みにくいのに,著者亀井まき子の,切れ目のない文体が相俟ってセンテンス二つのわけがわからないレシピではある.なーにが「御座います」であるか.w
 ちなみに,『洋食の調理』など明治末年における料理本は,上流階級婦女子の啓蒙書であったという.(小菅桂子『カレーライスの誕生』による
)
 従って彼女らが実際にそれらの料理本で調理したということはなかろうが,お雇い料理人たちが調理したものと思われ,ジャガイモ,タマネギ,ニンジンの入ったカレーライスが軍以外の民間でも食べられ始めたことを示す資料である.
 次回は,「横須賀海軍カレーの嘘」について記す.

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記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 20)

 このあとの話の展開に,私の父親の軍歴を確認する必要があり,そのため更新が滞ったが,ここで前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19) 》の末尾を再掲する.
 
つまり凮月堂がカレーライスを売り始めたのは明治十年どころか,その九年後,鹿鳴館開設よりも三年もあとのことだとしている.吉田よし子『カレーなる物語』は出典も参考図書も全く挙げていないので,この説がどこから出てきたものかは不明であり,さすがにこのデタラメは,井上宏生の著書では採用されていない.
 さて凮月堂のカレーライスには後日談がある.

 
 Wikipedia【凮月堂】に,以下の記述がある.
 
米津松造は銀座並木通りに西洋料理を出す店として「米津分店南鍋町凮月堂」を出店し、次男の恒次郎を店主としたが
 
 しかし,これはいくら何でも話を端折りすぎである.
 小菅桂子『カレーライスの誕生』(講談社学術文庫,2013年) は良書であるが,残念ながら米津松造に関する記述に誤りがある.それを東京凮月堂の《沿革 》と突き合わせて訂正すると,以下のようである.
 米津松造は銀座に西洋料理店を出す前に,次男の恒次郎を米国と欧州に,語学と洋菓子の修行に出した.恒次郎が十六歳の時で,帰国は明治二十四年 (1981年),恒次郎二十三歳の時であったという.恒次郎が銀座の店をまかせられたのは修行が明けてからに違いない.
 帰国の二年後の明治二十六年 (1893年),『婦女雑誌』(第三巻第十号) に恒次郎は「即席ライスカレイ」と題した記事を寄せている.

煎茶茶碗に一杯のバターと葱三、四本を細かに切りたるを深き鍋に入れ、強き火に懸け、葱の柔かになりたる時、煎茶茶碗に八分目程の粉を入れ、絶えず攪き廻しながら鳶色になるまで煎りつけて、煎茶茶碗に半杯のカレイ粉 (西洋食糧店にあり) を入れ、かくて鰹節の煮汁 (これは鰹節半本にご飯茶碗六杯の水にて前に拵へ置くべし) を少しづつ注ぎ入れながら攪き廻し、醬油を適宜に加へ十分間程弱き火に懸け、味噌漉しにて漉し、其汁へ湯煮したる車鰕或は鳥肉を入れ、炊きたての御飯へかけて食すべし
 
 このレシピを読むと,米津恒次郎の「即席ライスカレイ」は,バターに葱の香りを移してから小麦粉を加えて炒めてカレールーを作り,それを鰹出汁でのばしてから醤油で調味している.これは明らかに,今のいわゆる蕎麦屋のカレー (カレー南蛮やカレーうどん) の濫觴である.カレー南蛮は,今はもう閉店した東京早稲田の三朝庵がよく知られていたが,その他にも幾つもの店が「うちがカレー南蛮発祥の店」 を自称している.しかしカレー南蛮にしてもカレーうどんにしても,明治の末から大正にかけて同時多発的にあちこちの店で品書きに載ったものだろう.
 それらに対して米津恒次郎のライスカレイは,大衆食堂系統の食い物よりも二十年ほども早い時期に,鰹出汁がカレー風味と相性がよいということを文献資料の記述に残しているという点で食文化史的な価値がある.あとの店の「うちが最初」は,大した意味のない雑学知識に過ぎない.
 以上が,凮月堂のカレーライスに関する後日談である.
 
 さて小菅桂子『カレーライスの誕生』は,凮月堂の銀座店よりも早い時期に,草野丈吉という人物が長崎で開業した西洋料理店「自由亭」について記している.『カレーライスの誕生』は,自由亭は後に長崎から大阪に移って店を出したとし,同書にはそのカレーのレシピが記載されているが,出典は書かれていないので真偽は不明である.ただし,『カレーライスの誕生』によると,自由亭のカレーは,仮名垣魯文が明治五年に出版したレシピ集『西洋料理通』の流れの料理であるという.(『西洋料理通』は Wikipedia【ライスカレー】の《年譜 》に紹介されている.)
 料理現物ではなく本に書かれたレシピだった『西洋料理通』のカレーライスは,その後,西洋料理店やホテルのレストランにおいて,庶民の食生活とは無縁の高級料理として定着したと考えられる.特徴は,日本家庭料理のカレーライスとは全く異なり,牛肉・鶏肉や蝦等をカレーソースで食べるというコンセプトの料理である.
 ただ,ホテル業界は競争熾烈であるらしく,現存しているホテル (Wikipedia【クラシックホテル】参照) は少ない.しかし日光金谷ホテルの軽食レストラン「クラフトラウンジ」の「百年ライスカレー」(一人前二千百円~) は,明治以来の高級カレーライスを今に伝えるものと考えられる.横浜のホテルニューグランドでは軽食レストラン「ザ・カフェ」のカレー (一人前二千百六十円~) も戦前からの料理だという.
 
 ところで,上に述べたような西洋料理系のカレーとは全く違うカレーが明治の末に普及した.それは野菜と少しの肉を煮込んだカレーで,今の家庭料理のカレーに繋がるものだった.

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2019年1月21日 (月)

明治のクチャラー

 芸能情報記事《「いだてん」低迷は想定内 NHK大河脚本にクドカン起用の狙い 》(日刊ゲンダイDIGITAL,2019年01月17日 09時26分) に,自称コラムニストの桧山珠美の発言が取り上げられていた.

ストーリーのテンポの速さや情報量の多さに、高齢者がついていけず嫌気を差し、視聴率はひと桁にまで下がる可能性もあります。もっとも、低視聴率の方がいろいろと新しい試みができるので好都合かもしれません。紅白の目玉のように、少しずつサプライズを発表し、若い人向けに話題を広げていくと思います

 これは大河ドラマ「いだてん」の視聴率が第二回放送で既に,歴代ワーストに迫る状態であることを指しての発言である.
ストーリーのテンポの速さや情報量の多さに、高齢者がついていけず嫌気を差し、視聴率はひと桁にまで下がる可能性もあります 》とは,また随分とふざけた書きぶりである.年寄りをバカにするなと言いたい.
 そもそも《嫌気を差し 》は中学生レベルの誤用で,「嫌気がさす」が正しい.こんな日本語も知らぬ三流ライターが何を偉そうに言っておるか.この愚か者めが.
 高齢者が「いだてん」に興味を失ったとすれば (桧山がそう言う根拠は知らないが),クドカンの脚本に異議があるからだろう.第二回放送まで観たところでは,ストーリーはモタモタしているし,画面から読み取れる情報量が少なすぎるからである.例えば,綾瀬はるかさんが女学生役で出演したのだが,その学校の制服のデザインがとてもかわっていた.この制服のことだけで五分や十分の時代考証的な説明が必要だと思われたが,何の説明もなかった.もっと情報密度を高くしてくれ.
 
 さてクドカンの脚本の最大の問題点は,明治の中頃から東京オリンピックに到るドラマの狂言回しに古今亭志ん生 (ビートたけし) を持ってきたことだ.
 ビートたけしは志ん生の噺を寄席で聴いたことがあるだろうが,今の高齢者のほとんどは志ん生の肉声の噺は知らない.なぜかというと,地方生まれ地方育ちの私たち高齢者が子供の頃には,志ん生の芸は既に衰えていて,ラジオの音量を上げても志ん生が何を言ってんのか,皆目聞き取れなかったからである.w
 その点で八代目文楽や六代目圓生,三代目金馬,八代目可楽らはすごかった.私たちの世代が落語のおもしろさを知ったのは彼ら昭和の名人たちのおかげである.
 それに志ん生は東京オリンピック開催の三年前に脳出血で倒れ,半身不随となっていた.だから「いだてん」の終わり頃には,たけしはドラマ中の語り部であるにもかかわらず半身不随で登場してナレーションをすることになる.どんなドラマだよ.

 それはさておき,第二回の放送で,生理的な不快感を覚えた視聴者が多かったのではないか.
 志ん生の若い頃を演じる森山未來という俳優が,寄席の中で食い物を頬張ってクチャクチャと咀嚼するシーンがあったのである.どう見てもあれは演出ではなく,森山未來自身がいわゆるクチャラーなのだろう.これを見て,親から飯の食い方を躾けられた高齢世代は「嫌気がさした」はずである.w

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2019年1月20日 (日)

公園のベンチ (三)

 厚労省や東京都の調査報告は「ホームレス自立支援法」ができて以来,「ホームレス」の数が激減したと書いている.
 既に書いたように,「失われた二十年」の日本の経済状況を鑑みれば,「ホームレス」が減少する要因は考え難い.
 では「ホームレス」はどこに行ったのか.あれこれ情報を検索すると,社会福祉士で社会運動家の藤田孝典氏の著書『貧困クライシス 国民総「最底辺」社会』(毎日新聞出版) に行き当たった.以下,同書からの引用である.

〈23 区内のホームレス数は、平成11(1999)年度の5800人をピークに以後漸減傾向にあります。平成27(2015)年1月調査では対前年比177人減の778人となりました。これは、都区共同事業である自立支援システムが効果的に機能していることに加え、生活保護の適用等によるものと考えられます〉
 東京都のホームページは誇らしげに発表する。カウント方法に問題があるのは、支援者の間では有名な話だ。夜に公園を閉め、野宿されないようにし、簡易宿泊所に送り込んで巧妙に隠してしまった「成果」とも言える。自転車でぶつかったあの「おっちゃん」との出会いから15年、今はゴミ捨て場で拾ったスーツを上手く着ている人もいるし、個室トイレで充電したスマホを手に、日雇い派遣に出かけている人もいる。宿泊先として、カプセルホテルやネットカフェ、マンガ喫茶などが全国に普及した。シャワーも浴びられるし、ヒゲを剃る設備もある。もはや誰もホームレスであることに気づかないし、見分けもつかない。また、ホームレスと後ろ指をさされないよう、彼らなりに非常に身なりに気をつかう。
 20年前と変わらないのは福祉事務所のほうである。「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」と、ホームレス自立支援法における定義を律儀に守って、勤務時間内である昼間に目視でカウントしに行く。
 髪もヒゲも伸び放題、何日も入浴しておらず、段ボールを敷いて寝て、昼間はぼろぼろの服で歩いているなど、「わかりやすい」ホームレスはもう少数派なのだ。
住宅街をスーツ姿で歩いている人が、ネットカフェを泊まり歩いて体をぼろぼろにしているかもしれないのだ。
》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

ホームレス自立支援法」の施行以後,ホームレス」は,私たちの目に見えないところに行った (隠された) とする,藤田氏の見解は,おそらく当たっているのだろう.
 バブル崩壊後,ホームレス自立支援法」が施行されてから暫くのあいだは,公園等のベンチは,既設の仕切りの無いタイプに,角材や金属パイプを後から取り付けたもの (ベンチの仕切り写真館 No.1~8など写真のほとんど;以下,No.だけを示す) が主だったと思う.それはもう「ホームレスの排除」だけに特化したベンチだった.それから少しすると,仕切りは,一見すると手摺りに見えるものに変化して行った.たぶん,「ホームレス排除型」の仕切りは,見た目が余りにも露骨だったからだろう.
 それでも,手摺り付きベンチから伝わってくる不寛容な心は隠し難い.このブログの筆者のように行政に異議ありと申し入れる人はいただろうが,役所の担当者は「御意見は承っておきます」としか思わなかっただろう.区民から「ホームレスのせいで治安が悪化した」というクレームが来れば区役所はただちに動いても,「ベンチというものの理念」では無視されたものと思われる.
 私もかなり以前は,行政のサイトに設置されている「御意見」のフォームを使用して区長や市長などに提言を送信したものだが,これまで一度も返事がきたことはなかった.担当者は上司に報告すらしていないのではなかろうか.
 
 さて今もあちこちでよく見かける形のベンチは,セパレートベンチという名称だ.このメーカーのサイトに載っている商品説明には

 《座りやすさと立ち上がりをスムーズにする手すりを取り付けています。さらに寝転び防止効果もありますので保安上においても有効です。
 
と書かれている.保安上の有効性=「ホームレス排除」がうたわれているわけだ.
 その後もベンチのデザイン的な進化はさらに進行した.四角い石材のストゥール型 (No.51),箱状のデザイン (No.56) などもよく見かける.それに,「ホームレス排除」の機能を持たせればいいのであれば,横長のベンチではなく,横になって寝られないように,花壇や樹木の周りに,ドーナッツ型や曲率半径の短い曲線を使ったデザインのベンチを設置すればいい.
 
 それやこれやで,首都圏の公園や駅前広場はどんどんおしゃれな空間になり,「ホームレス」たちはどこかに追いやられた.そうしておいて行政職員は,彼らがいなくなった場所へ「実態調査」に出かける.藤田氏が述べるように,これが「ホームレス」激減の実態なのかも知れない.『貧困クライシス 国民総「最底辺」社会』には次のようにも書かれている.
 
日本のホームレス概数調査は、もはや意味を失ってしまったと言わざるを得ない。調査によって、支援対象者を捉えることに失敗しているからだ。河川敷に出かけて一人ひとり数えている労力があるならば、現在のホームレスおよび生活困窮者がどこに居住しているのか、実態に迫る調査こそ必要ではないか。

 公園等の公共施設にあるベンチを見ると,行政が先頭に立って「ホームレス」を無慈悲に排除してきたかのように見えるが,弱者に冷たいのは行政ではなく,私たちがバブル崩壊後に作ってきた格差社会,不寛容社会なのだと思う.行政は私たちの社会の姿を映す鏡に過ぎない.
 例えば行政が都市整備のために市民のヒアリングを行ったとする.その会場で「この地域にはホームレスがいる.もっと治安をよくするべきだ.何かあってからでは遅い」と意見を述べれば,これは無敵だ.市長だろうが区長だろうが,誰も反対できない.その意見の本音が「地価が上がるようにしてほしい」だったとしても,さらに一層,誰ものんびりすることのできない公園を目指して街の整備をするだろう.その方向の究極のベンチは (ベンチの仕切り写真館 2 No.82) かも知れない.こういう形のベンチは東京にもあるが,私はこれを最初に見た時,ベンチだとは思わなかった.
 
 ところで,街中のベンチについて書かれたネット上の資料を丹念に拾って読んでいた私は,この十年ほどのあいだに,仕切りのないベンチが復活しているような印象を持ちつつあった.
 そんな時に,《ベンチの仕切り 》を読んだので,やっぱりそうなのかもな,と思った.この記事では,仕切りのあるベンチと仕切りのないベンチが混在しているという.もしかしたら,ここの仕切りなしベンチは,もうこの辺りには「ホームレス」はいません,という行政の宣言なのかも知れないと思ったことである.

[追記] 本記事中で紹介できなかったウェブコンテンツ

日本では、ホームレスが凍死しても、公的機関がその数を集計したり、ましてや発表することはありません 2017年01月10日 16時36分07秒

平成最後の年末年始「突然、路上生活を強いられる人々」の厳しい現実 この20年でホームレスは減ったのに…2018年12月31日 12時0分

屋内でもご用心! 凍死が年に1000人超えで熱中症を上回る 2018年2月18日 20時0分
 
 私がまだ若かった頃,「池袋駅周辺では一冬に何人もの凍死者がでる」という新聞記事を読んだ.東京全体では二桁の路上凍死者があったのではないか.そしてバブル崩壊後はさらに一桁上の数に達したかも知れない.彼らの死を知っているのは東京都監察医務医院のはずだが,この機関が公表している生データをどう差し引きしても「ホームレス」の死者数は計算できそうもなかった.生データが集計整理されて公式サイトに公表されるときに「ホームレスは含まない」と註記されることもある.どうやら「ホームレス」の死は,監察医務医院が扱った総死者数の中に埋もれているようだった.また,生活拠点を持っていた人々の中から常に「ホームレス」になる人々が発生するのだが,死者として都の調査結果数字から消えていく人々もいる.いわば「ホームレス」は動的平衡状態にある.かつて日弁連は,「ホームレス」は状態を指す言葉であって,生きている人間を呼ぶ言葉として相応しくない,と喝破したことがある.私もそう思う一人であるが,書籍やブログ等ではホームレスと呼ぶことが一般的であることから,止むを得ずこの記事では,カッコをつけて「ホームレス」と記した.

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2019年1月19日 (土)

たんぽぽ娘 (補遺三)

たんぽぽ娘》の記事中に次のように書いた.[なお,この記事の補遺 (一) と (二) はカテゴリー『続・晴耕雨読』にあります)

 

短編「たんぽぽ娘」はSFだけれどミステリーのテイストがあり,ここに描かれている一種のトリックは,ライトノベルしか読まないような若い人には理解不能だと思われる.

 

 ライトノベル出身の作家には大変に優れた才能の持ち主がいて,例えば有川浩さんや三上延がそれだ.ライトノベルはおもしろいが,しかしライトノベルしか読まない読者の頭の中身はお話にならない.例えば《タイムトラベルの本棚 》と題したブログの《『たんぽぽ娘』ロバート・F・ヤング 伊藤典夫@訳 》という記事の筆者がその典型で,読解力ゼロだ.(更新停止しているブログであり,リンク切れの可能性が高いので,画像で引用する)


20190118c

 前に書いたように「たんぽぽ娘」はミステリー風味のSFであるが,この記事の筆者は中学生か高校生か,いずれにせよミステリーを全く読んだことがないようだ.
 ミステリーの基本ルールの一つに,「作者は読者が推理するのに必要なすべての情報を開示しなければならない」というのがある.言い換えれば,読者は作者が開示した情報だけで推理しなければならぬのである.
 ところが《タイムトラベルの本棚 》の筆者は,読んでもストーリーが理解できないので,自分が理解できるように伊藤典夫の翻訳文を歪曲して,勝手な妄想をしている.
 妻アンの若い時の髪の色は「たんぽぽ色」であった.この ばか者 記事の筆者はどんな英和辞典を持っているのか知らぬが,「たんぽぽ色」を勝手に「亜麻色」にしてしまった.これからわかることは,この記事の筆者は「亜麻色」がどんな色か知らないということである.
 余談だが,色の表現は難しくて,普通はかなりの幅がある.極端なのは「カーキ色」で,これは黄土色からくすんだ緑色まである.通販の服に「カーキ色」と書いてあったら要注意だ.品物が届いて開梱したら,想像と全く違う色だったんなんてことがある.で,亜麻色については的確な資料 (《亜麻色の髪とは、淡い栗色ではなかった 》) がある.
 閑話休題.翻訳者が「たんぽぽ色」と書いているのだから,自分も「たんぽぽ色」と書けばいいのである.まさか,たんぽぽの色を知らぬのではあるまいな.w

 次の妄想はこれ↓だ.
 
髪の色も顔も変わってしまったがアンはジュリーが顔を変えた姿だった。
時間警察に見つからないように顔を変え
1961年の1人だけの休暇の時にマークとジュリーの出会いが上手くいかずにタイムパラドックスが起きないか不安に思っていた。
 
 伊藤典夫の訳文のと゜こを探しても,整形手術のことは出てこない.w
 タイムパラドックスなんてことも出てこない.
 何となればこの小説は,長く連れ添った夫婦が互いの愛情を再発見する物語であり,タイムトラベルは,単なる舞台装置に過ぎないからである.まあ,中学生には難しい小説だろう.二十年経ったら,また読んでみなさい.w

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朝日新聞社は反社会的勢力の友軍である

 朝日新聞社が運営している情報サイト「AERA dot.」に,以下に示す反社会的な記事が掲載された.(掲載日付 2019/1/17 19:08.)

郵便局でバイトした山口組組員を逮捕 生活苦からファストフードで働く組員は笑顔で新人指導も…
 
 上の記事の冒頭を,下に引用する.
 
暴力団組員が生活苦から素性を隠してアルバイトをし、逮捕されるという切ない事件があった。
 愛知県警は1月、六代目山口組の暴力団組員の男(60)が組員であることを隠し、郵便局でアルバイトし、報酬を得たとして詐欺容疑で逮捕した。
 組員の男は郵便局でアルバイトする際に、『反社会的勢力ではない』と誓約書にサイン。2017年11月29日、1日だけアルバイトをし、7850円の報酬を得たという。
 その後、自ら暴力団の組員だと申し出て退職したという。
 男は生活苦から広告を見て、応募してアルバイトをしたという。

 
 朝日の記事は,郵便局を欺いて就労し,作業報酬を得た暴力団組員に対して《切ない 》と同情してみせている.元々が全国紙という媒体は拡張団という組織を持っており,これが暴力団の資金源であったことはよく知られている.読売新聞なんぞは,新聞社自体が反社会的勢力と関係があった.だから私たちは,朝日の記事が暴力団組員が逮捕されたことに同情しても驚かないのだが,その同情が不当であることを以下に示す.
 朝日の記事は,当該組員が逮捕された理由がなぜ詐欺罪容疑なのかを,たぶん知っている (←警察がメディアを集めた会見で発表するから) くせに敢えて書かずに隠している.その方が記事としておもしろいからであろう.
 さて逮捕されるからには,その法的根拠が存在するのであるが,今回の組員の場合は愛知県の条例である.
 
愛知県暴力団排除条例
第十五条 事業者は、その行う事業に関し、契約を締結するときは、次に掲げる措置を講ずるよう努めなければならない。
 第一項 (略)
 第二項 (略)
 第三項 当該契約の相手方に対して、当該契約の履行が暴力団の活動を助長し、又は暴力団の運営に資することとなるものでない旨を書面その他の方法により誓約させること。

 この件で当該組員が詐欺罪容疑とされたのは,上に掲げた愛知県暴力団排除条例第十五条第三項違反に該当するからである.
 民間企業で管理職のポストにある者にとって必須の知識であるが,正社員だろうが,パートあるいはアルバイトであろうが,自分の部下を採用する際には必ず会社と雇用契約を結ばせねばならない.(←労働法の知識)
 そしてその雇用契約を結ぶ時に,採用応募者が暴力団関係者ではないことを「書面その他の方法により」 (その他の方法とは,メールなど電子的方法のことと思われる) 誓約させる義務が雇用する側にある.
 これを怠るとどうなるか.暴力団は組員を会社に潜り込ませ,そのあとで別の組員がその会社の経営者を「お前んとこの会社は暴力団系の会社やと世間に言い触らしたるぞ」(←例えばの口調) と恐喝して金品を得ることができるのである.(資料《契約書に「暴力団排除条項」や「反社会的勢力の排除」が必要な理由とは? 》)
 その反対に,「暴力団員ではない」旨を書いた虚偽記載の誓約書をとってあれば,暴力団が会社を強請っても,警察に訴えれば詐欺罪で逮捕してもらえる.
 
 以前から法務省は,会社や個人事業主を暴力団から守る対策を講じているが,各地の暴力団排除条例はその一つである.朝日の記者であれば,そんなことは百も承知のはずであるが,暴力団排除条例が如何に大切かを読者に知らせるどころか,逆に当該組員が不当な仕打ちを受けたかのように《切ない 》と書いて反「暴力団排除条例」の論陣を張ったわけである.
 
 次に,この記事には,他に山口組の現役組員も登場する.この組員は,ある被災地で復旧作業のアルバイトをしているのだが,これについて朝日の記事は次のように書いている.
 
1年以上、ある被災地で土木作業員として仕事をしているBさんもこう打ち明ける。
 
「昔はヤクザのシノギとして、作業員を出す仕事をやっていた。それまで、ヤクザだろうが、一般人だろうが、人がいれば誰でもいいという業界だった。しかし、ヤクザが関わっているなら仕事は回せないと断られるようになり、廃業に追い込まれた。そこで、2人いた子分とも話して、自分たちで働くことにした」
 
 被災地の復旧作業なので、事前面接で暴力団など反社会的勢力ではないことを、面接で確認される。Bさんの場合は、それまでのツテもあり、何も聞かれずに仕事をしているという。
 もともとは、関西が本拠地の組に属していたBさん。被災地に入って以降は、定例会に出席することもなく、ヤクザとしての活動はほぼゼロ。苦境をこう訴える。
 
「遠いので定例会のために関西に戻ることもできないし、現場作業の仕事も忙しい。ヤクザをやめればいいのですが、どこの組も人数が減っており『名前だけでいいから、残ってくれ』と親分から言われたのでそのままになっている。やめようとすると面倒なこともあるし、このままでいいかなと思っていた。それが、郵便局でバイトして詐欺で逮捕だなんて聞かされると、ビックリですよ。被災地の復旧にかかわる作業ですから当然、税金が入っている。今は、祈りの境地です。この仕事がなくなれば、もう食い扶持があらへん」

 
 まず押えておかねばならないことは,この組員は逮捕はされないということだ.そうではなくて,この組員から「暴力団組員ではないこと」の誓約書を取らずに,この組員を災害復旧現場で働かせていた土木建設業者が県条例違反で行政処分を受けるのである.仮にこの男が組員であることを知りながら雇い,災害復旧現場で働かせたとすれば,当該業者は県の事業への入札資格を剥奪されるだろう.
 この組員が《この仕事がなくなれば、もう食い扶持があらへん 》と言っているのは「苦境」でも何でもない.暴力団から抜ければよいのである.そしてそれこそが県条例の目的なのである.飢えて死ぬか,組員をやめて正業に就くかを行政は迫っているのだ.
 それを朝日は,いかにもこの組員が不当な仕打ちを受けているかのように書いている.
 しかも,この組員は,実情として足抜けをしたわけではなく,被災地で《ヤクザとしての活動はほぼゼロ 》なのである.ヤクザとしての活動を少しやっているのである.朝日新聞社は,そのような現役暴力団組員を「まっとうに仕事をしている」と高く評価する.下の画像は,リンク切れあるいは記事削除に備えて,問題箇所を画像で保存したものであるが,この箇所に書かれている内容は,朝日新聞社の反社会的勢力に対する姿勢,つまりシンパシーを如実に示すものだ.呆れてものが言えない.
 
20190118d

 上半分は山口組現役組長の発言であるが,組長たる者が暴力団排除条例を知らぬはずはないから,この発言は一般市民を騙す意図のものであることが見え見えである.
まっとうに仕事して稼いでどうして悪いのか。なぜ、逮捕となるねん 》とかなんとかもっともらしいことを言っているが,勤務態度が良好だったかどうかなんてことは,逮捕とは無関係だ.アルバイトで労働する以前のこととして,郵便局を騙したことが「まっとうでない」から逮捕されたのである.
 次の発言者である山之内幸夫という男は,「最初で最後の暴力団顧問弁護士」として世間によく知られた男である.事件を起こして有罪となり,弁護士資格を剥奪された暴力団関係者である.それを《元顧問弁護士 》と書くのは読者をミスリードする意図である.こう書くと「現在は山口組の顧問を辞めている弁護士」と受け取れるが,実は犯罪者として「弁護士を辞めさせられた」男なのである.そういう男のデタラメな言い分を,何の批判もなく掲載した朝日新聞社の罪は重い.
仕事をきちんとして…なぜ詐欺ですか? 》は山口組の組長と同じ言い分で,山之内がヤクサ側の人間であることを示している.
ましてや郵便局は今…働く人が集まらない業種 》は爆笑ものだ.仕事がきつい上に職場に暴力団員がいるというのでは,ますます働く人が集まらなくなるではないか.
 
 大体において,新聞社の取材というものは,一方の側だけではいけない.この場合は,山之内ら暴力団関係者の発言だけを掲載して,まっとうな弁護士の健全な常識に基づく見解を載せなかった.これは朝日新聞社が反社会的勢力の友軍であることを示している.

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2019年1月18日 (金)

公園のベンチ (二)

 昨日の記事の末尾を再掲する.

ともあれこれ以後の東京都は,都民の目に見える形では,職員と機動隊による「ホームレス」排撃を実行しつつ,目に見えない形では,公園等の公共施設におけるベンチを「仕切り付きベンチ」にしていった.そしてこのベンチは他の自治体にも拡大伝播していった.

 公共施設に設置されるベンチが,次第に仕切り付きの形式に変化していくことに着目し,ネットに記事を書き,写真で記録した人たちがいた.一例として《ベンチの仕切り写真館 1 》《ベンチの仕切り写真館 2 》と《公園のベンチが人を排除する? 不便に進化するホームレス排除の仕掛け 》を紹介する.この三つのサイトは2007年頃までを扱っているが,私の記憶 (データはない) でもこの頃までに,公共的な場所にあるベンチは,仕切り付きタイプが席捲したと思う.
 
 前回に書いたように,「ホームレス自立支援法」の施行は平成十四年 (2002年) であるが,翌年に厚労省は「ホームレス実態調査」を実施した.それによると全国の総数は 25,296 人であった.人数が一番多かった大阪市は 6,603 人,これに次ぐ東京都23区は 6,174 人であった.
 東京都は翌十六年から毎年,調査を行い,結果 (路上生活者概数調査) を公開している.結果の一部を転記すれば以下の通りである.
-------------------------------------------------- 
【東京都23区における「ホームレス」総数
-------------------------------------------------- 
平成16年2月    5,365 (人)
  17 2     4,619
  18 2     3,773
  19 2     3,402
  20 1     2,611
  21 1     2,341
  22 1     2,055
  23 1     1,677
  24 1     1,437
  25 1     1,117
  26 1      955
  27 1      778
  28 1      744
  29 1      721
  30 1      620
--------------------------------------------------
【東京都23区の地区別「ホームレス」数 (平成三十年) 】
20190118a

【東京都23区の施設別「ホームレス」数 (平成三十年) 】
20190118b
 
 総数は年度別に集計した.このデータを見て誰でも驚くであろうことは,一貫して右肩下がりに都内の「ホームレス」(国は「ホームレス」としているが,都では路上生活者と呼んでいる) の数が減少を続けてきたことである.我が国の経済状況が「失われた二十年」に低迷したままだったのにもかかわらず,「ホームレス」は激減した.彼らは本当に減ったのか.彼らはどこに行ったのか.都の調査については,その信憑性を疑う声がある.(後述)
 
 地区別の結果,施設別の結果は
最新のものだけを上に示した.これを年度別に眺めても各地区,各施設毎に指摘すべき特別な傾向は見られないからである.

 ちなみに,厚生労働省は地方自治体の調査結果を集計して毎年公表している.例えば平成三十年の結果は《ホームレスの実態に関する全国調査(概数調査)結果について 》である.
 結果をまとめて簡単に言うと,この十年程で驚くべき数の「ホームレス」が減少したというものである.

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2019年1月17日 (木)

公園のベンチ (一)

 公園等のベンチで寝るということは,大抵の人にとっては非日常的な体験だろうと思う.私も今までに二度しかない.あるのかよ.
 一度目は今でも覚えているが,昭和四十八年の五月の連休の時だった.突発的に思い立って学生時代の友人である西山栄一君と徳島の金毘羅さんへ旅行したのだが,前夜は二人して新宿で徹夜で酒を飲んでいたため,昼頃には眠くてたまらず,二人とも長い階段の途中にあったベンチで横になり,かなり長いこと寝込んだことがあった.目が覚めたら,観光客たちが私たちの寝ているベンチを遠巻きにし,指差しながらヒソヒソと「若いのに…」とか言っていた.懐かしい思い出である.ヾ(--;)
 二度目は,泥酔して東海道線に乗ったはいいが乗り過ごしてしまい,気が付いたら終点の沼津駅だった.駅員に改札口の外にでなさいと言われ,仕方なく駅前にあったベンチで夜を明かそうと思ったが,かなり寒い.すると近くにいた野宿の人が新聞紙をたくさんくれた.それにくるまって朝を待ち,何食わぬ顔で出社した.懐かしい思い出である.ヾ(--;)
 
 さて,野宿が日常的体験になると,なかなかややこしい事態が生じる.「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(平成十四年法律第百五号;以下「ホームレス自立支援法」と略す) によると,ホームレスは《第二条 この法律において「ホームレス」とは、都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう 》と定義されている.
 そしてこの法の目的は《第一条 この法律は、自立の意思がありながらホームレスとなることを余儀なくされた者が多数存在し、健康で文化的な生活を送ることができないでいるとともに、地域社会とのあつれきが生じつつある現状にかんがみ、ホームレスの自立の支援、ホームレスとなることを防止するための生活上の支援等に関し、国等の果たすべき責務を明らかにするとともに、ホームレスの人権に配慮し、かつ、地域社会の理解と協力を得つつ、必要な施策を講ずることにより、ホームレスに関する問題の解決に資することを目的とする 》とされ,《地域社会とのあつれきが生じつつある現状 》を基本的な認識としている.
 普通の法律は,第一条でその法律の目的を述べ,必要な場合は第二条で用語の定義をする.まず先に第二条についてだが,《故なく 》の意味が不明確だ.これはニュアンスとしては「公園等で生活してもよいという根拠 (権利) もないのに」であり,「お金がないから」などのその人の事情のことではない.公園等で生活する権利なんてものはないから,この文言は,単に個人的事情の配慮はしないということを強調しているわけだ.これに関して,平成二十四年 (2012年) 五月,日本弁護士連合会が作成した「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法の改正に関する意見書」に次のように 書かれている.
 
しかし,まず,「故なく」との文言は不適切である。野宿生活を強いられるようになる背景には自分の力だけではどうすることもできない社会問題や個々の事情があるのであり,「故なく」という文言は,ホームレス問題が社会問題であることを覆い隠し,当事者自身に問題があるかのような印象を与えるものであって,差別を助長するおそれがある。
 
 日弁連が「故なく」について上のように述べたのは,「ホームレス自立支援法」第十一条と関係がある.
 本法第十一条は次の通りである.
 
第十一条 都市公園その他の公共の用に供する施設を管理する者は、当該施設をホームレスが起居の場所とすることによりその適正な利用が妨げられているときは、ホームレスの自立の支援等に関する施策との連携を図りつつ、法令の規定に基づき、当該施設の適正な利用を確保するために必要な措置をとるものとする。》 (引用文中の文字の着色は当ブログの筆者による)
 
 上の引用文中の《必要な措置をとるものとする 》は,公園等で野宿する者は強制排除する,いう意味である.これについて日弁連は下記の意見を述べた.
 
「都市公園その他の公共の用に供する施設を管理する者は、当該施設をホ ームレスが起居の場とすることによりその適正な利用が妨げられているときは、ホームレスの自立の支援等に関する施策との連携を図りつつ、法令の規定に基づき、当該施設の適正な利用を確保するために必要な措置をとるものとする。」と規定する本法11条については,本法制定当初から,公共施設からの強制立ち退きを促進するのではないかという懸念が寄せられていた。 実際,本法制定後,大阪や名古屋などの都市部を中心に,各地で行政代執行手続に基づき,あるいは法的手続さえ踏まずに,ホームレス状態にある者の強制立ち退きが行われてきた。こうした強制立ち退きは,しばしば1年で最も寒い冬の時期に行われる。十分な支援や代替住居の提供を行うことなく,テントや小屋掛けを破壊し撤去することは,野宿生活者を寒空の中に放逐し,より過酷な状況に追いやる,社会的排除の最たるものである。行政機関がこのような排除を行うことは,野宿生活者が迷惑な存在であるとの認識を市民に対して示すことにほかならず,子どもを含む市民による野宿生活者への襲 撃事件にも影響を及ぼしていることは否定できない。住宅困窮者の生存権保障の責任を負うべき行政機関が,強制立ち退きという非人道的な方法で住宅困窮者の生命や生活の安全を脅かすようなことがあってはならない。
 
 もちろん政府が,上のような人権的見地からの意見に耳を傾ける筈もなく,いわゆる「ホームレス」の排撃条項はそのまま温存された.
 さて,この法律が施行されたのは平成十四年 (2002年) であるが,これより少し遡って歴史的なことを見てみる.
 いわゆるバブル崩壊は,狭義には《バブル崩壊期間(平成不況(第1次平成不況)や複合不況とも呼ばれる)は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指す 》 (Wikipedia【バブル崩壊】) が,社会的影響はその後も長く続いた.例えば,日債銀は1998年12月の金融調査で債務超過と認定されて国有化された.また山一證券は銀行からの支援を失って1997年11月に廃業,解散した.2000年代初頭には記録的な就職氷河期となり,高学歴者でも就職困難となり,学歴難民と呼ばれた.中途採用は,企業の採用抑制がピークに達した1999年には有効求人倍率が0.5倍を割り込んだのである.このような景気低迷期に企業は,業務の「アウトソーシング」,不採算事業からの撤退,部署の縮小による「リストラ=従業員の削減と非正規雇用化」を推進した.そしてこれらの経営施策により流動化した労働力の一部は,困窮のために生活拠点を失い,いわゆる「ホームレス」となったのである.
 元々,東京や大阪など大都市には「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことのできない最底辺の人々がいたのであるが,これが1990年代の後半に他の都市にも拡大していったのである.すると,都市部住民のあいだに,「ホームレス排撃論」が高まった.いわく不潔だ,治安が悪くなる,地価が下がる etc.
 実は,ホームレスを排撃せよという風潮は,バブル崩壊前から存在した.田中角栄以後の私たち日本人が何よりも大切にしたのは「お金」であった.その拝金主義思想が作り出した幻影がバブル景気であったのだが,バブルの競争からこぼれ落ちて将来に夢のない子供たちが始めたのが「ホームレス狩」だった.その子供たちの親である拝金主義世代が,経済力ヒエラルヒーの最底辺にいる「ホームレス」を蔑視していたのだから,判断力の幼稚な子供たちが「ホームレスを殺して何がわるい」と思うようになったは無理もないことだった.「ホームレス襲撃」が最初に明るみに出たのは昭和五十八年 (1983年) のことだった.「横浜浮浪者襲撃殺人事件」である.(この種の襲撃事件は今も後を絶たない;資料記事《都内の野宿者に向けられる差別と暴力の実態 2014.8.14》)
 バブル崩壊後の平成七年 (1995年),その当時の「ホームレス排撃」風潮を背景として都知事になったのが,日本人の思想的軽薄さを体現していた青島幸男であった.青島は都知事に就任するや「ホームレス」の排撃に着手 (1996年1月) した.青島は警視庁機動隊を動員し,新宿西口の道路にいた「ホームレス」を襲撃させ,駆けつけた支援援護団体も強制排除したのである.
 この青島の政治姿勢を週刊文春のコラムで批判した野坂昭如を「てめえなんかホームレス以下だ」と罵ったのは,都政の黒歴史として忘れがたい.
 
 ともあれこれ以後の東京都は,都民の目に見える形では,職員と機動隊による「ホームレス」排撃を実行しつつ,目に見えない形では,公園等の公共施設におけるベンチを「仕切り付きベンチ」にしていった.そしてこのベンチは他の自治体にも拡大伝播していった.

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エゾナキウサギ裁判

 ココログには,閲覧された記事名をリアルタイムに表示する機能があり,先程それを見たら,五年余前に書いた《滅ぶ 》が閲覧されていた.この記事は,私が書いた文章の中でも忘れがたいものの一つなので,嬉しかった.
 古い記事なので,今後,検索にひっかかるチャンスを増やすために,この記事を再掲する.
 
*************************************************
 毎日新聞(10月14日)によれば,北海道新得町の佐幌岳の国有林でスキー場の新コース造成が進められている.
 林野庁は2012年5月,開発業者に国有林の使用を認め,道も同6月に道自然環境等保全条例に基づき開発を許可し,昨年10月に着工した.
 問題は,このスキー場開発により準絶滅危惧種のエゾナキウサギの生息地が破壊されるおそれがあることである.
 エゾナキウサギは氷河期前に地続きだったユーラシア大陸から渡り,氷河期後に道内の山岳地帯に生き残ったとされ「生きた化石」といわれる.昨年,環境省のレッドリストで準絶滅危惧種とされた.
 十勝自然保護協会,自然保護団体「ナキウサギふぁんくらぶ」などが開発許可の無効を求めて提訴するという.
 小川洋子さんの『いつも彼らはどこかに』に,ハーモニカを吹くような仕草をするハモニカ兎という名の,乱獲されて絶滅した架空の小動物がでてくる.乱獲された理由は,この兎の胃の中に二つ小石が入っていて,それが人間の薬になると言われていたからだった.(本当はその小石に薬効はなかったのだが)
《最後の一羽が死んだ時、どんなふうだったのだろう。カレンダーをめくりながら時折男は考えた。賢い動物だからきっと、この世界で自分がたった一人取り残されたことを悟っていたに違いない。それでもわずかな望みを持ち、野山を駆けるのだ。茂みの奥に気配を感じれば振り向き、雪に残る足跡を見つければ匂いをかぐ。けれど望みは叶えられない。そこにいるのはいつでも種類の違う兎で、ハモニカ兎に気づくと皆逃げてゆく。彼の周りは再び静けさに覆われる。
・・・
 ある日、その時がやって来る。ハンターは目の前にいるのが最後の一羽だと気づきもしないまま、たった二つの小石のために彼を撃ち殺す。銃声に消し去られたハーモニカの音はもう二度と戻ってこない。》
 この世に生きるものすべて,いずれは種の絶滅を免れない.ではあるけれど,エゾナキウサギのような生き物が,氷河期をも生き延びてきた種が,ヒトがこの星の上で生存するためには無意味としか思えぬスキー場やゴルフ場のために滅ぶこと,それを生存競争と呼べるのか.
 いかなる動物にも,種として存続するのに必要な最低限度の個体数がある.いったんそれ以下になったら,それからどうしようと,どう懸命に保護しようと滅ぶしかない.
 林野庁も開発業者も道庁も,いずれそのゲレンデで遊ぶであろうスキーヤーも,ハモニカ兎の最後の一羽を撃ち殺すハンターが自分であることを,なぜ想像しないのか.
 小川洋子さんは読売新聞紙上のインタビューでこう語っている.
《最後の1匹の究極の孤独を、考えてしまうんです。純真さ、警戒心のなさといった、自らの美点によって死に追いやられた存在を、書き留めておきたかった》

*************************************************
 
十勝自然保護協会,自然保護団体「ナキウサギふぁんくらぶ」などが開発許可の無効を求めて提訴するという.
 
と書いたその提訴の経過はどうであったか,二つの新聞記事を示す.
 
2017.5.22 14:55 保護団体の原告適格認めず 希少ウサギ巡る訴え却下 》 (産經新聞だが,いずれはリンク切れになると思われる)
 
自然保護団体、二審も敗訴 北海道・希少ウサギめぐる訴訟》 (京都新聞;記事本文は1/16にリンク切れになったので現在は読めない)
 
 つまり一審も二審も原告に門前払いを食わせたのであった.そしてメディアは,全国紙は二審に興味を示さなかった.
 我が国の司法は,サステナブルな国土の維持に鈍感すぎる.もしも将来,エゾナキウサギが絶滅危惧種に指定されても,この訴訟を門前払いにした裁判官たちは,そんなこと屁とも思わないのであろう.

* 愛らしいエゾナキウサギの姿

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2019年1月16日 (水)

明治の自転車

 大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』を見ることにした.予告の番宣を見ていたら,テレビでも映画でも絶滅したかと思われた喫煙シーンがやたらと出ているのに興味を引かれたのである.私は非喫煙者だが (禁煙したと言うべきだが),かつての日本人 (の男) は成人したら喫煙するものだという暗黙の了解があり,会社の会議室なんぞは煙でもうもうとしていたものなのである.

 しかし今は,テレビドラマや映画で喫煙シーンを映そうものならたちまちクレームが来るらしい.
 それでリアリティのない映像がまかり通るようになったという話を聞いたことがある.しかし今度の大河ドラマは,敢えて後半の主人公を喫煙者という設定にしているようなので,もしかしたら時代考証をきちんとするのかも知れないと期待したからである.
 
20190116a
 
 上の画像は,後に金栗四三の妻となる春野スヤ (綾瀬はるか) が颯爽と登場する場面である.時代は明治四十二年.
 彼女の自転車はロッド式リムブレーキ (左側の↓) を装備し,前輪に泥除け (右側の↓) が付いている.ハンドルは,いわゆるママチャリが登場する前に,昭和三十年代以前の普及型自転車によくあったタイプである.
 テレビ画像を見る限り,このハンドルバーとハンドルステムはクロムメッキの光沢を示している.しかしクロムメッキ技術は1920年 (大正九年) に米国で発明され,我が国では大正十五年に初めて行われたのである.おそらくドラマの中で使われた自転車は昭和の製品だろう.明治の自転車を持ってこいというのは酷であるが,それならばハンドルバー周りの部品やフレームを塗装してしまうべきであった.
 
20190116b
(国立国会図書館デジタルコレクション『新版引札見本帖第一』;著作権保護期間満了の資料)
 
 上の資料画像は明治時代の女学生を描いたもの (明治三十六年の作) であるが,この自転車は,どういうわけかブレーキを装備していない.前輪泥除けがない自転車の写真はネット上にも掲載されているが…
 フレームなどのパーツがメッキでなく塗装であるのは無理がない.
 自転車が発明された初期は,こういうブレーキなしの自転車が実在したようだが,明治後半にも存在したのであろうか.あるいは絵師の手抜きなのだろうか.

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たんぽぽ娘 (補遺二)

 この補遺では,伊藤典夫の翻訳について一ヶ所,私見を述べるが,議論の都合上,いわゆるネタバレを書く.
 その箇所とは,前回の記事で引用した[原文B]である.そこを再掲する.
 
-----------------------------------------------------------
[原文B]
“He had reached the street and was walking down it toward the corner. He was almost there when the bingo bus pulled up and stopped, and the girl in the white trench coat got out. ”(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
[伊藤訳]
彼は通りに出て、四つ角をめざした。すぐ近くまで来たとき、ビンゴ・バスがするすると角に停車した。白いトレンチコートを着た女がバスから降り立った。
-----------------------------------------------------------
 
 原文の二つ目のセンテンス中の“and the girl in the white trench coat got out.”で,原作者が,バスから降りたのは“the girl”だとしているのにもかかわらず,訳者はこれを「女」とした.私は,これは訳者の越権だと思う.主人公のマークは,バスから降りた愛しい妻に,二十年も連れ添ったアンに,あの“dandelion girl”の面影を見たのである.そのことを作者は,アンを“girl”と書いて読者に示したのだ.
 この物語の時代設定は,ヤングが作品を発表したのと同じ1960年代である.今の日本では二十代にしか見えない中年女性がいて,美魔女などと呼ばれているが,二十世紀半ばはそうではなかった.人は四十にもなれば,それまでの人生の来し方が,たたずまいに表れるものだという価値観が存在した.あの時代の中年女性がどのようなものであったかは,1960年代のアイオワ州マディソン郡に住む主婦,フランチェスカを演じたメリル・ストリープを想起すれば足りる.
「たんぽぽ娘」は,夫婦の愛を夫の側から描いた小説である.長く連れ添った妻を見て「昔はかわいかったんだが…」と思う結婚は不幸な結婚である.何事もなく一緒の人生を暮らしてくれば,夫も妻も相手の容姿の変化 (衰え) を意識することはない.(昔のアルバムを見れば驚くが.w) 「たんぽぽ娘」は,夫婦の愛情にとって時の流れとはなんだろう,ということを描いたタイムマシン型SFである.夫というものは,妻と互いに恋に落ちた時の心持のままに,今もそのまま彼女を愛しているならば,すっかり中年になった妻に,いつもはもう思い出すこともなかった少女の頃の面影を見出すこともできる.それこそが時というものの不思議だとヤングは語ったのである.
 しかるに翻訳者の伊藤典夫は,“girl”すなわち“dandelion girl”を,原文にない「女」と訳した.しかしそれでは作者ヤングの意図が台無しであると私は思う.

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「名ばかり第三者委員会」方式の危機管理

 娯楽番組を垂れ流すしか能のない民放テレビについて,娯楽番組を見るしか能のない私が思うに,テレビ界のタブーはジャニーズ事務所だけでなく,秋元康も同じなんだなと思った.NGT48の山口真帆さんというメンバーが複数の男に襲われた事件についての報道のことである.
 山口さん自身の証言によれば,NGT48の運営サイドが,内部処分をするからと彼女を宥め,警察に届けを出して事件化するなと指示した.ところが運営サイドが一ヶ月経ってもその口約束を守らないので,業を煮やした山口さんが覚悟の告発をしたわけである.
 しかし状況は山口さんに不利に推移し,被害者である彼女がファンに「謝罪」するという理不尽なことになった.
 この時点では,並み居る情報バラエティ番組MCたちの中で,彼女に「謝罪」させたのは理不尽だと異議を唱えたのは加藤浩次だけだった.その他の番組はその日,事件に触れたくないのが見え見えの姿勢だった.
 なんで私がこんな下世話な芸能界のことに関心を持っているかというと,山口真帆ちゃんがカワイイからです 秋元康のビジネスがタブー化していると思ったからである.
 アイドル少女たちの青少年ファンだって薄々感じているだろうが,事件勃発後に山口さんの告発を全否定したのも,その後すぐに告発の一部を事実認定したのも,一転して昨日になってNGT48の今村支配人を更迭したのも,アイドルビジネスの総帥である秋元康の意思である.それ以外にない.実務責任者のクビを切り,対処を「第三者委員会」(納期不明) に丸投げすることで,秋元は事態を乗り切れると見込んだのだ.
 私は隠居老人であるが,現役のビジネスマン諸兄は「あーあ,また対策を小出しにしちゃって バカじゃないか 」と思ったであろう.
 少し前まで危機管理のプロは「不祥事の火消しには先ずトップが矢面に立つことが大切で,最終責任を持っていない者をスケープゴートにしてはいけない」と教えたからである.
 だが近年,企業トップが国民の前に出ることなく,会社の意向を忖度する「第三者委員会」を設置して,これに不祥事の始末をやらせる方式 (偽装改善と時間稼ぎ) でも一定の成果 (企業の受けるダメージの最小化) が上がるようになり,実業界はこぞってこれに倣いすることになった.
 NHKはこのインチキな「第三者委員会」方式を「名ばかり第三者委員会」と名付けてと批判した.(《"不合格"続出 第三者委員会って名ばかり? 》)   
 とはいうものの,秋元康は「第三者委員会」を設置してこの事態を乗り切るだろうという気がする.芸能界なんてのはそんなもんだ.

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2019年1月15日 (火)

たんぽぽ娘 (補遺一)

 ヤングの短編小説「たんぽぽ娘」を読み終えてから,ネット上にある「たんぽぽ娘」関連記事を検索して読んでみた.
 すると,伊藤典夫の旧訳をコピペした違法サイト,ブログが見つかったが,これは論外として,「たんぽぽ娘」が収められた単行本や文庫版が入手難 (古書は流通していたが高価だった) だったために,自分で原著を読んで翻訳を試みた人のいたことがわかった.たぶん十年近く前の記事であるが,その人が自分の翻訳に自信がないと書いている箇所があるので,そこを引用する.(ただしその訳文自体は,その個人サイト筆者の手で現在は既に削除されていて読めない)
 

 

この後、主人公はビンゴ大会に参加していて家を空けている奥さん(これ何て訳そうかすごく迷った。ビンゴ大会…なんだよね?)がちゃんと家に帰ってくるか心配になって家を飛び出し、奥さんがバスを降りるであろう最寄のバス停まで走ります。》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 

 
 伊藤典夫の改訳中で「ビンゴ」が出てくるのは,下に挙げる二ヶ所である.
 
[原文A]
“Then, on a rainy night in mid-November, he found the suitcase. It was Anne's, and he found it quite by accident. She had gone into town to play bingo, and he had the house to himself; and after spending two hours watching four jaded TV programs, he remembered the jigsaw puzzles he had stored away the previous winter.”(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
[伊藤訳]
そして十一月もなかばにはいったある雨の夜、彼はスーツケースを見つけたのである。それはアンのもので、見つけたのはまったくの偶然だった。彼女は街にビンゴ・ゲームをしに出かけ、家にいるのは彼ひとりだった。くだらないテレビ番組を四つ見て、二時間つぶれたところで、去年の冬しまいこんだジグソーパズルをやろうと思いたった。
 
[原文B]
“He had reached the street and was walking down it toward the corner. He was almost there when the bingo bus pulled up and stopped, and the girl in the white trench coat got out. ”(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
[伊藤訳]
彼は通りに出て、四つ角をめざした。すぐ近くまで来たとき、ビンゴ・バスがするすると角に停車した。白いトレンチコートを着た女がバスから降り立った。
 

 

 上に引用した原文は,十数年前に閉鎖された“SCIFI.COM”に掲載されていた“The Dandelion Girl”から引用した.“SCIFI.COM”の後継サイトは存在するが,サイトの性格が全く変わってしまっている.
 ロバート・F・ヤングの没年は1986年なので,“The Dandelion Girl”の米国の著作権はまだ保護されているが,上に示したウェブコンテンツの末尾に“Reprinted by permission of the author's estate.”とあることからすると,このコンテンツは違法転載ではない.従って,このコンテンツからの正当な範囲での引用は合法であると考える.
 さて上記の個人サイトに《ビンゴ大会…なんだよね? 》とあるが,実は「ビンゴ大会」ではなく「ビンゴ・ホール」(ビンゴ・クラブとも) と呼ばれる常設の遊技場が正しい.
 ビンゴ・ホールとは,大雑把に分類すると二種類あって,一つは教会などの慈善団体が運営資金を確保するために営業する施設であり,非営利である.もう一つは全くのギャンブル産業であり,賭博に類する.
 実は,元日に放送された関西テレビ系列局『なるほど!ザ・ワールド 新春ナゾだらけの国SP』で,グリーンランドのビンゴ・ホールの様子が泉ピン子のレポートで放送された. 私は,ビンゴ・ホールの客層は余り若くない女性たちだという知識はあったが,実際のビンゴ・ホールの中の様子は,この放送で初めて見た.そして中にいた客は余り若くない女性たちばかりだったので,なるほどーと感心した.
 次のビンゴ・バスとは何か.普通の意味は,ビンゴ・ホールへ往復するバスで,これは車体デザインが日本のバスより派手.映画『ローラーガールズ・ダイアリー』(2010年) にちょっと出てくる.この映画でビンゴ・ホールとかビンゴ・バスを知った人は多いだろう.
 もう一つは観光バスで,移動中に中でビンゴをするバスらしい.日本の団体旅行みたいであるが,私はこれについて知識がない.
 
 以上,伊藤典夫訳の『たんぽぽ娘』の中で,ちょっとわかりにくい単語について説明をした.“to play bingo”は非営利のビンゴ・ホールへ Anne がビンゴをしに出かけたということ,“the bingo bus”は,そのビンゴ・ホールからの帰りのバスのことであった.

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2019年1月14日 (月)

たんぽぽ娘

 アマゾンが突然,ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』(伊藤典夫編集・翻訳,河出文庫,2015年) を薦めてきた.これは同題の作品他が収められているSF短編集である.
 昔々河出ではないどこかの文庫に入っていたのを読んだ記憶があるが,細部は忘れた.しかし今でも名作と評価されている作品のはずであり,河出文庫に入っているのは改訳版だというので,読み直してみることにした.

 

 短編「たんぽぽ娘」はSFだけれどミステリーのテイストがあり,ここに描かれている一種のトリックは,ライトノベルしか読まないような若い人には理解不能だと思われる.
 二十代の男女が愛し合って結婚したとする.その二十年後,二人の容貌には,それなりの人生が刻まれて,若い時とはかなり異なっているだろう.
 けれども,いつも一緒に過ごしている相手の容貌の変化は,なかなか気づかないものなのである.男も女も,昔から相手がそのような容貌であったと思うものなのだ.
 このことは,実際に年をとってみないと実感できない.さっき,若い人たちが書いた「たんぽぽ娘」の書評を検索して読んでみたのだが,このトリックを正しく指摘しているものは一つもなかった.

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花魁とその父 (ToT)

 今朝,何気なくテレビを点けたら,夏目三久さんがMCをしている番組で,北九州市の成人式に花魁スタイルで出席した馬鹿娘を好意的に紹介していた.その大馬鹿娘の父親まで登場し,下品に育った我が娘の情けない恰好を見て,嬉しそうに涙ぐんでいた.
 各地で毎年恒例になった成人式の花魁スタイルについては,ネットの口コミでは「親の顔が見てみたい」などと書かれているのだが,実際に父親の顔を見てみたら,この親にしてこの娘ありという顔だった.
 放送では,コメンテーターの長嶋一茂が「成人ていうのは自分で働いてる人のことで,セットされた式に出ることじゃない」と正論を語ったが,夏目三久さんは,手で一茂の発言を押しとどめるようにして,色んな考えがありますから…と述べた.つまりは花魁成人式に夏目さんは好意的なのだ.美人なのに,頭の中身が (以下略)

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2019年1月13日 (日)

御苑を飲んでみた

 昨年七月,皇居の一般参観に行った.宮内庁の生協で黒糖焼酎「御苑」を買うためである.
 その時の記事 (《黒糖焼酎を買いに 》) に,次のように書いた.

黒糖焼酎「御苑」は宮内庁生活協同組合が発売元で製造元は町田酒造 (鹿児島県大島郡龍郷町) である.価格は二千六百円 (720ml) で,私が日頃飲んでいる焼酎 (1800ml の紙パック) や泡盛が千五百円前後だから,私にしてはかなりの高級酒である.もったいないから正月に開封することにした.

 その言の通りに,この正月に「御苑」を開封して飲んだ.
 これまで私は自宅でも外でも,「黒霧島」などのグビグビ飲める安い焼酎を愛飲してきたので,「御苑」のような高級焼酎 (需給のアンバランスで高価になっている二,三のブランド焼酎は除く;その手の異常に高価な焼酎は飲んだことがない) の評価にバイアスがかかっている可能性はあるが,水で割らずにグラスの氷に注ぎ,カラコロと少し揺らしただけで口に放り込むと,かなり強い芳香がある.(ような気がする)
 旨いのでたちまちボトル三分の一を飲んでしまったのだが,一本空けてしまうのが惜しくなって,そこでやめた.

 これは一本常備しておくかと思ったが,再度入手するためにまた皇居に行くのは面倒くさいから,製造元である鹿児島の町田酒造のサイトを覗いてみた.たぶん「御苑」は,宮内庁生協が品質にあれこれ注文をつけて単独で蒸留している特注品ではなく,町田酒造のブランドで製造販売している焼酎を「御苑」のボトルと箱に詰めていると思われたからである.
 すると,同蔵の「里の曙 原酒」のアルコール分を調整 (四十三度→三十七度) したものか,あるいは「里の曙 白角」が「御苑」相当品と思われた.ただし「御苑」のボトルは「里の曙 原酒」と同じものである.また,アマゾンでの販売価格は「里の曙 白角」が prime価格すなわち送料込みで二千四百七十円,「里の曙 原酒」が三千二百四十円である.

 この二つを購入し,これをハレの酒として三月の私の六十九歳の誕生日と,平成最後の日に空けることにしようと思う.

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干物爺

 一年余り前から,急速に体の乾燥を自覚するようになった.最初はドライ・アイ症状である. 朝起きたときが酷くて,瞼が眼球に貼りついたようになるのである.
 ドライ・アイ用の目薬が売られているので,これを使ってみたが,保湿剤が配合されているため眼球の表面がネバつくような不快な違和感があり,これは私には向いていないと判断した.
 普通の目薬はどうかと思ったら,第二類医薬品の目薬は,ドライ・アイには向いていないことがわかった.充血の除去に効果がある血管収縮剤が含まれているので,頻繁に点眼することができないのである.「使用上の注意」に,例えば「用法・用量 1日3~6回、1回1~3滴を点眼してください」などと書かれている.私が必要なのは,涙の代わりになる目薬で,これには第三類医薬品の目薬のうちで保湿剤を含まないものが適しているが,これはほとんど市販されていない.結局,下の写真に写っている「サンテ40ゴールド」が連用できるので,これが涙の代わりに適していると結論した.
 
20190112a
 
 次は唇が乾いてガサガサしてきた.「唇の渇き」と書くとセクシーだが,「唇の乾き」は寂しい.命短し恋せよ爺い 熱き唇 さめぬ間に.何を言ってんだかわからぬが,これは対処が簡単で,上の写真で目薬の右の「ニベア リップクリーム」に著効があった.
 そうこうしているうちに,手の親指の角質化 (指先と爪の脇あたり) が気になりだした.衣服の表面に触れると,ひっかかりを感じるのである.角質が割れて小さな突起ができているのだろが,肉眼ではよくわからない.ネットで調べると,これはもう尿素配合クリームが第一選択らしいので,藤沢の大きなドラッグストアに出かけた.
 店内のどこにあるのか探したが見つからずウロウロしていたら,きれいな店員さんに「何かお探しですか?」と声をかけられた.そこで指先の角質化のことを相談したら「どれでも似たようなものですけど,これが評判いいですね」と言って勧めてくれたのが,上の写真の「SHISEIDO やわらかスベスベクリームN」(指定医薬部外品,100g) である.美人店員さんが勧める製品に間違いがあろうはずがない.私はにっこりと微笑んでレジに向かった.
 このクリームの使いかただが,私は風呂上りに親指と人差し指の角質化しているところに少量を塗布し,目が非常に細かい爪やすり (ダイヤモンド) で軽くこすっているが,これでツルツルになる.踵用の目の粗いやすりでは,角質を削り過ぎてしまう (角質化が促進されるように思われる) ので注意が必要.
 で,このクリームはなかなかよろしいのであるが,問題は一瓶に百グラムも入っているので,なかなか使いきれないことだ.資生堂は,足の踵が象のような人が使うことを想定しているのかも知れない.
 さて,上の写真の左端「新ウナコーワ クール」だが,これは脚の脛が乾燥して著しく痒いので探した薬である.
 高齢者の脚の痒みには皮膚科を受診すべきややこしい疾患があるようだが,私の場合はこの「新ウナコーワ クール」を塗布すると治まるので,これでいいと思われる.虫刺され用に著効あるステロイド配合薬の必要はなさそうだ.
 で,風呂に入ると脛の広範囲が痒くなることがあるので,風呂上りにこれを塗って痒みの治まるのを待つ.そののちに下の写真の「ニベア スキンミルク」を少量塗布する.非常に展伸性が高い乳液剤なので,少し塗れば充分だが,これまた使い切るのに数年かかりそうだ.
 実はこの乳液は,四年前,心臓外科に手術入院したときに,きれいな看護師さんに指示されて購入されたものである.入院中,どういう場合に使うのか忘れてしまったが,美人看護師さんが指示することに間違いがあろうはずがない.それで,よくわからぬが,現在は脚の乾燥肌症状に使用している.「新ウナコーワ クール」との併用で,脚の痒みはピタリと治まっている.
 
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 以上が一年前の冬の,ドライ・アイ,手指の角質化,脚の乾燥による痒みの対策であった.
 ところが今年の冬は,新たな問題が発生した.カンボジア旅行から帰ったあと風邪を引き,風邪が治ったあと,「ドライ・ノーズ」症状が固定してしまったのである.
 この症状になったのは初めてだが,極めて不快で,鼻腔内部にカサブタができる.このカサブタを物理的に除去しようとする (いわゆる「鼻をほじる」) と,かなり痛いし鼻血が出る.
 対策としては,鼻洗浄と保湿しかないらしい.鼻の洗浄には色々なツールが市販されているが,私が試してみたのは以下の通り.いずれもアマゾンで検索,入手できる.
 
ハナノアシャワー 痛くない鼻うがい 使い方簡単タイプ
アルガード 鼻すっきり洗浄液 100mL
ハナぴゅあ(鼻の洗浄ミスト)
 
 どれも一長一短だが,現在は,症状が酷い時には洗面台で「ハナノアシャワー」を使用して鼻腔を洗浄し,そのあとの保湿には,鼻腔が乾燥したなーと思った時に「ハナぴゅあ」で生理食塩水を噴霧している.この噴霧は,三回プッシュを,一日に四~五回である.鼻腔を生理食塩水で濡らし,少ししてから強めに鼻をかむと,例のカサブタが柔らかくなってとれるのである.「ハナぴゅあ」を使うことで,ドライ・ノーズのストレスはかなり低下した.
 さて今年は新たにドライ・ノーズになったわけだが,そこかしこが干物状態になった爺としては,早く春になって,空気がしっとりしてくれぬものかと切に思う.

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2019年1月12日 (土)

料理は上手にできなくてもよろしいんです

 ネット上で「人気のある料理研究家ランキング」なんてことを検索すると,第一位が平野レミさんで,第二位が土井善晴先生だったりする.
 平野レミさんを見習っても料理が上手になるわけではないから,彼女の人気の理由はタレント性ということだろう.従って平野レミさんはランキングの別枠として,実質的に土井先生の人気が第一位なのは大いに納得できる.

名言連発! 土井善晴が「きょうの料理」の歴史を語る 》と題した記事を読んでみたら,↓こんなことが書いてあった.

――作った料理で失敗だったり改善の余地があったりしたことはありますか?
 料理に失敗はないので、お母さんたちが失敗したと言うことが私には不思議ですね

 土井先生は講演や著書で「肩に力を入れず気楽に調理をすればいい,上手にできなくてもいいんです」旨のことを繰り返し述べておられる.盛り付けでも「地球の引力に任せたらいい」(鍋やフライパンから器に流し移せばいいとの意) と述べている.これも土井先生の名言だろう.

 さて今日 (1/11) のNHK『きょうの料理』は「小豆がゆ」だった.作り方を簡単に言うと,小豆を茹でて,その茹で汁で粥を炊く.(詳しい作り方はここ )
 この小豆粥は,粥を炊いているあいだに餅を焼くのであるが,その際に事故 w が起きた.
 土井先生は「魚を焼く時は一度しか引っくり返しませんけど,餅は何度も裏返して焼きます」と言いながら餅を最初に裏返したときには,既に真っ黒焦げになっていた.火力が異常に強かったのである.餅の一つは,両面とも黒焦げになってしまった.

20190111k

 そこで土井先生はどうしたかというと,焦げた面を箸で強く押しつぶして「こうすれば白いところが出てきます」と言った.
 片面だけ黒焦げの餅は「こういうのは,きれいな顔の方を上に向けとけばよろしねんから,ほんまですって」と言った.w
 これに対して司会の後藤アナは「いろんな知恵を授けていただきました」と礼を述べた.ww
 先生は出来上がった小豆粥を大ぶりの椀に盛りつけたのだが,まず椀の半分だけ粥を入れ,そこに餅を「きれいな顔の方を上に向け」て載せ,(下の画像)

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さらにその上から粥を盛りつけた.(出来上がりの画像)

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 上の出来上がり画像で明らかなように,焦げた餅はうまく粥で隠されて,全く見た目でわからなくなっている.www
 
 土井先生が《料理に失敗はないので、お母さんたちが失敗したと言うことが私には不思議ですね 》と言い,常々「上手にできなくてもよろしいんです」と仰っていることの実践を私は見た.w
 こういう軽妙なところが土井善晴先生の人気の秘密であろう.

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2019年1月11日 (金)

何はなくとも餅なのだ (三)

『昼めし旅』で奈良の雑煮の作り方を披露した地元のかたは「黄な粉の雑煮は御馳走だった」と語ったが,そういえば私が小学生の頃,私の生家でも雑煮は御馳走扱いだった.その雑煮は,大根と人参と角餅を煮ただけ (東京風は鶏肉を入れる) の質素なものだったが.
 どうしてそれが御馳走だったかというと,当時は麦飯が主食だったからである.私の記憶の最初の頃は,米が六で麦が四の割合だった.いわゆる銀シャリは,ハレの食事であり,特別な日に炊くものであった.
 それが昭和三十年代の経済成長の中で,次第に米の割合が増えていき,東京オリンピックの前にはどこの庶民の家でも白米 (低品質の「配給米」ではあったが;Wikipedia【米穀配給通帳】参照のこと) を炊いて食べるようになったのだが,その間,当たり前だけれど,餅はずっと餅米百パーセントだった.だから正月の雑煮は,年に一度の大御馳走だったのである.
 私たちの「食」の好みは保守的だといわれる.《おせちもいいけどカレーもね!》は昭和五十一年 (1976年) のCМだったが,しかし団塊世代をしんがりとする高齢者たちは,元日にカレーを食べたりはしなかった.育ち盛りの子供時代,紅白なますと田作りと煮しめだけの質素な御節をおかずで,餅を五つも六つも食べた.高齢者たちは,あの時代の,餅が大御馳走だった記憶を死ぬまで忘れないだろう.
 
 前回の記事に《従って餅窒息事故を減らすには「なぜ爺婆たちは正月になると餅を食うのだろうか」という問題が考察される必要がある 》と書いたが,爺婆たちはこれから益々,子供時代の記憶を頼りに,正月に餅を食う習慣を後生大事にして生きていくだろう.岩村暢子さんの調査研究によれば,最近の子供たちは元旦に菓子パンを食べたりしている.そういう世代が大人になれば御節のみならず雑煮も日本の正月から姿を消すかも知れない.そうなるまで餅による窒息事故は減らないに違いない.
 さてここでようやく本題に入る.相済まぬことであるが,今までの事はすべて話のマクラであった.w
 嚥下機能が衰えた要介護者に関しては,雑煮や汁粉に入れる餅の代替品が求められている.私のような世代の者は餅に特別な思いを持っているからである.
 そこで一つのアイデアとして,粥を固めて餅のように見せかけることが考えられる.例えばつい先日 (1/3) ネットにアップされた記事《おどろきのお汁粉 》には次の記述がある.
 
お正月といえばお餅……。けれど、窒息や誤嚥のリスクの面から、かむ、のみ込む機能が低下した高齢の方へのお餅の提供は、なかなかおすすめできません。しかし、せっかくのお正月なのに大好きなお餅を食べさせてあげられない、というのも介護する側としては複雑な気持ちです。
 そんな場面において、市販の介護食材を使用することも選択肢の一つです。
 今回は、介護食材の一つでフリーズドライの「お粥ゼリーのもと」を使用したお餅のレシピです。
 ゼリーといえば、冷たくて甘いものを想像するのではないでしょうか。しかし、近年は介護食材の技術も進化し、温かくても溶けないゼリーや、ゼリーを作る素材が、多く販売されるようになっています。
》 (引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 そこで調べてみると,粥のゲル化剤がいくつか市販されており,アマゾンでも入手できることがわかった.しかし,例えば《粥ゼリーの素 宮源のお粥 》ではゲル化剤の成分が明らかにされておらず,安全性に不安がある.
 実際に同商品についてアマゾンのユーザーレビューを閲覧すると,昨年末に,次の投稿が掲載されていた.
 
非常にリスキーです。
2018年12月14日
配合成分を変更してから、非常に危険です。こんにゃくゼリー状態です。医療介護施設にしている療法士です。今年の8月以降、増粘剤が変更。中身が新商品になってから、粘りが半端なく、現場で介護職員が必死にかき混ぜるなどして、対応していましたが、重大な事故が起きました。私が直接食事介助に携わっている職種ではない事もあり、リスクを把握しきれてなかった面はあります。しかしながら、介護食を提供しているメーカーとしてリスク管理に非常に疑問があります。コスト削減が優先になってしまったのではないか?これを高齢者にしっかり飲み込めなんて無理な話です。中傷ではありませんよ、宮源さん。謙虚に受け止める部分はあるのではないでしょうか?

 
 この投稿が事実を書いているかどうかはわからない (ネット上に,同商品による嚥下事故の口コミが見当たらない) が,《中傷ではありませんよ、宮源さん。謙虚に受け止める部分はあるのではないでしょうか? 》という書きぶりからすると,粘度に関してメーカーにクレームをつけたが,はかばかしい応答が得られなかったとの印象を受ける.
 ゲル化剤で餅の代替品を作るという記事は,管理栄養士による文章がネット上に散見される.専門家が使用するのであれば危険性はないだろうが,介護専門職ではない一般消費者が,自宅で介護している高齢者に与えることは危険ではないかと思われる.

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2019年1月 9日 (水)

何はなくとも餅なのだ (二)

 昨日の記事《何はなくとも餅なのだ (一) 》の末尾を再掲する.

冒頭の《なぜ爺婆たちは命を賭してまで餅を食うのだろうか 》の答えは「餅を食って自分が喉を詰まらせるなんてことは考えてもいないから」なのであった.

 「なぜ命を賭してまで」という疑問に対する答えとしては「実は命を賭しているつもりはない」でいいのだが,この疑問の元々の趣旨が「餅による窒息死を減らすにはどうしたらいいのか」という観点だとすれば,全く答えになっていない.

 前回の記事でも引用した東京消防庁のサイトに,下の図が掲載されている.

20190109a
 
 この図からすぐわかるように,暮れと正月に餅を食わなければ,餅による窒息事故は半分に激減する.従って餅窒息事故を減らすには「なぜ爺婆たちは正月になると餅を食うのだろうか」という問題が考察される必要がある.
 これについては,婦人画報社の通販サイトに《おせちは作る?それとも買う?調査結果発表 》(2015年9月17日掲載) と題したおもしろい記事がある.
 先ず,御節料理を購入するか否かという質問に対する回答の要点は,
 
Q おせちを購入しますか?(N=894)
   購入する(重箱入り、単品含む) 60% 
   購入しない38%  
   その他 2% (未定、いただく等)
 と、6割が「おせちを買う」という結果となりました。
 購入しない理由として「自分で作る」方は16%でした。

 
であった.次に,御節料理を購入する人たちが購入理由として挙げたのは以下の通りである.
Q おせちを購入する理由は? (N=540、複数回答)
   1 自宅では作れないような品目が味わえるから    44%
   2 有名店の味を味わえるから    30%
   3 年末は忙しく準備する時間がないから    25%
   4 華やかで高級感があるから    24%
   5 自宅まで届けてもらえて便利だから    22%

 
であった.私の場合はというと,もう長いこと御節はデパートで購入している.価格帯は一万~一万五千円で,二段か三段の重箱風の折箱に詰めたものである.購入理由は,私は一年中暇で準備する時間は余っているのだが,作るのは面倒くさいし,娘夫婦などがやってきても,これさえ出しておけば一応の供応っぽくなるからである.御節を作っている暇があるなら,本を読みながら酒を飲んでいたい.
 さて,Wikipedia【御節料理】には次のように書かれている.
 
御節料理の基本というのは、祝い肴三種(三つ肴、口取り)、煮しめ、酢の物、焼き物である。地方により構成は異なる。三つ肴の内容は関東では黒豆、数の子、ごまめ(田作り)の3種、関西では黒豆、数の子、たたきごぼうの3種である。
 
 昨年末にデパートで買った御節料理を仔細に点検してみると,これのどこがめでたいのかと首を傾げたくなるようなチマチマとした創作料理っぽいものが詰め込んであった.黒豆には小さな金箔が貼りついて
いたりしたが,そんな小細工に何の意味があるのか,私にはわからぬ.笹の葉にくるんだ親指の爪ほどの大きさの麩饅頭が入っていて,品書きには「甘味」と書いてあったが,小さすぎて食った気がしなかった.改めてこの御節を眺めていると,これはかつてのバブル景気の残光なんではないかと思えてきた.
 そんなことを考えながら,先日 (1/4) に放送されたテレビ東京《昼めし旅 新春開運SP~全国の豪華雑煮グランプリを決定!~ 》を観たら,奈良県奈良市大柳生町 (奈良市東部の農村地域) の旧家をレポーターの宍戸開が訪問し,その地域の伝統的な雑煮 (*脚註) の作り方を見せてもらっていた.
 その時に,旧家の主である御婦人 (私よりはお若い) が,雑煮と一緒に食べる御節について語ったのが下の画像である.(録画データの加工ではなく,テレビ画面をカメラ撮影してトリミングしたもの)
 
20190110a
 
 このかたのお話では,紅白なますに刻んだ干し柿を加えたなます,黒豆,田作り,祝いごぼうが正月の料理であるという.これを聞いて私は感じ入った.奈良市という歴史ある土地の旧家というものは,さすがである.御節の本来をきちんと押さえて緩むところがない.私のようにデパートで買ってきた御節の黒豆に金箔の切れっ端が貼りついていたのが軽薄だなどと文句を垂れている輩は恐れ入るばかりである.
 この家の主は昭和三十年代初めの生まれであり,現在は母上と二人暮らしのようであるが「昔は正月の料理は,女が立ったり座ったりしなくてもいいように,男がしたものです」と語った.それでも御節の作り方は,女性であるこのかたにも伝えられた.
 そして,どこの家でも正月の料理は自分の家で拵えた昭和をとうに過ぎ,御節がスーパーやデパートで出来合いを買うものとなった平成の終わりに,彼女のように自分で御節を作る人 (世帯) は遂にわずか十六パーセントの少数派となったのである.
 おそらく次の元号のうちに,御節そのものが日本の正月から姿を消すだろう.岩村暢子さんの『普通の家族がいちばん怖い ― 崩壊するお正月、暴走するクリスマス』(新潮文庫,2010年) を読むと,そんな気がしてくる.
 テレビの娯楽番組とはいえ馬鹿にはできない.奈良では私よりも若い御婦人が今でも御節を手づから拵えていると知り,来年の正月は,もし生きていればの話だが,デパートのバブリー御節を買うのは止めにしようと思ったことである.
 
[*脚註]
 この時の『昼めし旅』は各地の雑煮を紹介するのが目的だった.奈良の雑煮は,かつては土地の人は単に雑煮と呼んでいたが,2005年の文化庁「お雑煮100選」で「きな粉雑煮」と名付けられ,この名で全国に知られている.
 作り方は,まず最初に味噌仕立ての雑煮を作る.具は頭芋 (里芋の親芋のこと;京都で頭芋と呼ぶのは里芋とは別種の海老芋の親芋だと資料にある),大根,人参,豆腐.頭芋は関西の慣わしで「人の頭にたつように」との縁起担ぎ,豆腐は蔵の白壁に見立て (=繁盛) たものだという.大根と人参は丸い形に切るが,これも縁起担ぎ.
 頭芋は切らずにそのまま下茹でする.それから他の具を入れ,煮えたら合わせ味噌 (味噌の種類は地域により異なる) を溶き入れ,味噌仕立ての雑煮のでき上がり.
 これとは別に丸餅を焼いておき,雑煮椀に盛った芋などとは別に食卓に載せ,砂糖を混ぜ合わせた黄な粉を添える.(下画像)
 
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 用意ができた雑煮を見て,宍戸開が「餅は別なんですね」とか確認↓.
 
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 先ずは頭芋に箸をつける.そののち,餅を食べる↓.
 
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 しかし各自の椀に焼いた餅を入れてはいけない↓.
 
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 給仕係はそれぞれの前に置かれた餅を台所に運ぶ↓.
 
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 そして鍋の雑煮の中に,平らに潰した餅を投入し,煮て味噌味をつける.煮えたら各自の椀に盛りつける↓.
 
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 椀を再び食卓に運ぶ.各自は椀の餅にたっぷりと黄な粉をまぶして食べる.
 
20190110h
 
 宍戸開は「味噌味がついていることで,ただの黄な粉餅ではない特別感がある」と感想を述べ,「きなこ雑煮」の作り方を披露した婦人は「私たちは御馳走と思って食べていました」と語った.
 以上が『昼めし旅』で放送された奈良の雑煮についての内容であるが,実はこの雑煮は同日 (1/4) に放送されたNHK『チコちゃんに叱られる!』でも紹介された.しかしこちらの放送では,最初から餅を煮てしまう点で,『昼めし旅』の内容と大きく異なっていた.
 私見だが,これはやはり地元の人の言うことが正しいのではなかろか.
 
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2019年1月 8日 (火)

何はなくとも餅なのだ (一)

 毎年のことながら正月三ヶ日に餅を喉に詰まらせて救急車で搬送された人たちのことがニュースになる.
 今年も東京都内だけで,元日から二日にかけて,十七人が搬送され,うち二人が死亡した. (産經新聞,1/2 16:44 配信 )   
 上の産經の記事には《17人のうち、60代以上が12人だった 》とあるが,これはあまり良い書き方ではない.
 東京消防庁のまとめ《餅による窒息事故に注意 》によると,餅による窒息事故で搬送された人の年齢層 (五歳単位で区分) をみると,六十~六十四歳の事故は少なく,四十五歳以上の各年齢層と同等なのである.餅の窒息事故は六十五歳から急に増えるのだ.
 
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 各種人口統計や「高齢者の医療の確保に関する法律」およびそれに付随する各種法令では六十五~七十四歳までを前期高齢者,七十五歳以上を後期高齢者と規定していることからすると,産經の記事は「餅を喉に詰まらせて救急車搬送された人のうち六十五歳以上は何人だったか」との見方で書けばベターだったのである.
 さて,正月に年寄りが餅で窒息事故を起こすことは,昔から飽きるほどに報道されてきた常識なのに,なぜ爺婆たちは命を賭してまで餅を食うのだろうか.
 餅による窒息事故が高齢者に多い理由を調べていたら,大分県立看護科学大学の公式サイトに掲載されている秦さと子氏の小論文《加齢性の嚥下機能低下予防に関する研究 ~嚥下機能低下予防介入時期の検討~ 》を見つけた.
 私たちが食物を口に入れてから飲み込むまでのプロセスは三段階に分けられる.(1) 口腔期,(2) 咽頭期,(3) 食道期である.(参考記事《高齢者の嚥下障害 》)
 上記の参考記事《高齢者の嚥下障害 》に図解されているように,咀嚼された食物が口腔から咽頭に移動する時に,反射的に喉頭蓋が下がり,気管の入り口が閉鎖される.この反射運動を「咽頭反射機能」というらしい.秦氏は加齢による咽頭反射機能の変化を調べた.その結果が下に引用した図1である.
 
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 私には上図の《水のみテスト 》を解説する知識がないのだが,ともかくその得点が
咽頭反射機能と相関しているらしい.で,このデータによれば,咽頭反射機能は六十歳までは低下していないが,七十歳では有意に低下が観察される.六十一歳から六十九歳までは,機能低下への移行段階と考えられる.
 この嚥下機能低下の医学的解釈と共に,大変興味あることを秦氏は指摘している.それを下に引用する.
 
今回の咽頭反射機能をみるテストの結果は、明らかな異常を示す値ではありませんでしたが、潜在的に加齢性に嚥下機能低下が進行している可能性が示唆されました。特に80歳代では、咽頭反射機能の低下が著明でした。しかし、自覚症状では、80歳代を含む60歳代以降の人が咽頭期の異常を自覚していませんでした。このことは反射運動の低下とともに反射運動を開始する感覚機能の問題もおこり、自覚症状を認識しにくい状況にある可能性が考えられます。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 つまり,六十歳以下の人は,嚥下機能に異常があるときは自覚症状があるので,注意して咀嚼嚥下するから窒息事故を起こすことは少ない.これに対して高齢者層は,嚥下機能低下が進行しているにもかかわらずそれを自覚していない.前期高齢者では,嚥下機能低下と,その自覚の有無のギャップが,実際の事故に結びつくレベルに達してしまうことを,東京消防庁のデータは示していると考えられる.
 冒頭の《なぜ爺婆たちは命を賭してまで餅を食うのだろうか 》の答えは「餅を食って自分が喉を詰まらせるなんてことは考えてもいないから」なのであった.

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2019年1月 7日 (月)

正月三箇日

 昔から私は,元日から翌々日までを「正月三ヶ日」と書いているのだが,近年は一般にこれを「正月三が日」と書くことが多い.「ヶ」は「箇」の略字であり,きちんと漢字で書けば「正月三箇日」だが,私は義務教育で覚えた略字を用いて「正月三ヶ日」と書くわけだ.
 ここで注意が必要なのは,「ヶ」は符号であり,片仮名の「ケ」とは同形だが由来の異なる別の字だということ.従って「三ケ日」は誤記なのだが,敢えて無理に読めば「サンケニチ」であり,「サンガニチ」とは読めない.
 言うまでもなく「ヶ」は「箇」のタケカンムリの半分で,平安時代からこの書き方はある.これに対して「正月三が日」は発音をそのまま仮名に移しただけで,割と新しい表記である.
 私が義務教育を受けた頃は,発音をそのまま文字に移すときは片仮名を用いるのが原則だった.典型は外来語である.ところが正月三箇日の「箇」については,今は「が」と書くのが普通だ.
 なぜそうなったかというと,これは戦後に始まった国語政策の混乱と関係がある.
 昭和二十一年 (1946年) に「当用漢字表」が内閣告示された.この当用漢字表に掲載された千八百五十の漢字を「当用漢字」と呼ぶ.
「箇」は当用漢字に採用されたので「箇所」と書くことに特に問題はなかったのだが,昭和二十九年 (1954年) に,当時の国語審議会が作成した「当用漢字補正資料」では,「箇」を削除して「個」で代用するとされた.
 国民生活に深刻な打撃を与えた先の戦争中,督戦の旗を振り続けた新聞各紙と日本放送協会NHKは,戦後もなお,政府の言うことには率先して従う姿勢であった.
 そのためNHKと新聞協会は,率先どころか先走って,当用漢字補正資料に基づいた報道を始めたのだが,驚いたことに政府は当用漢字補正資料を単なる案として実際には御蔵入りにし,当用漢字の変更を行わなかった.その結果,「箇」は生き残ったのである.
 この国語政策の右往左往のせいで梯子を外された恰好のNHKと新聞協会は,さすがに付和雷同して醜態を晒すわけにもいかず,当用漢字とは異なる独自の漢字表記を運用することにした.その結果,「箇」は当用漢字であるにもかかわらず,これを使わずに「個」で代用することとされた.
 この混乱は平成二十二年 (2010年) まで続いたが,平成二十二年 (2010年) の「常用漢字表」の改定時に,NHKと新聞は「箇」の代わりに「個」を使用する独自表記を止めた.
 ところが「箇」という漢字は,ややこしいことに「故障の箇所」と「三箇所」では文法的に異なるのだという.それをいいことに それがためにか,政府は公用文の書き方において「故障の箇所」という場合の「箇所」は残したが,「三箇所」の場合は,敢えて識者から強い批判のある混ぜ書きを採用して「三か所」と書くことにした.(典拠『公用文の書き表し方の基準 資料集』第一法規出版)
 そして例によってNHKと新聞はこれに追随した.
 これだけならまだよかったのであるが,例を挙げると,「三ヶ所」の誤記である「三ケ所」や,「三か所」の誤記である「三カ所」という書き方が広まり,国語辞書がこれを追認し,もはや何が何やら分からぬ状態になってしまった.
 その混乱状況は,レファレンス協同データベース (国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築しているデータベース) の一事例《「ケ月」の使用は間違っているか 》にまとめられている.
 おそらく上述の歴史的経緯を知らない無責任なウェブサイトでは,新聞紙とNHKが根拠なく使用した「個所」という言葉 (これは有体にいえば意図的な誤記だ) を「箇所」と同等に扱っていたりする.(例えばここ)   
 ともあれ,私は死ぬまで「正月三ヶ日」と書くが,一般には「正月三が日」と書くのだと,ほぼ大勢は決したと思う.
 ただ,《情報機器の発達とこれからの国語施策の在り方 》を読むと,何が何でも混ぜ書きを推進しようという政府の姿勢は後退しているように見える.「正月三箇日」または「正月三ヶ日」が容認される可能性はゼロではないかも知れない.

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2019年1月 6日 (日)

神経逆撫でCМ

 昨年放送された『チコちゃんに叱られる!』で,大竹まことが出演した回だったが,「歳を取るとなぜ涙もろくなるのか?」という出題があった.
 正解は,高齢になると他者に対する共感力が高まることと,これに加えて,感情の高ぶりを抑制する脳の機能が衰えるから,というのが定説のようであった.
 番組ではその実験として,色々な場面のVTRを各年齢層の人たちに見せて,その反応を見るということを行った.
 その結果,同じ映像を見ても,高齢者は感動したり悲しくなって涙ぐんだりするのに,若い人は全く逆の感情,楽しいとかおもしろいなどと思うことがあるようだった.

 暮れから正月のテレビを,録画して観るのではなく,だらだらと流し見ていたら,頻繁にZ空調とやらのCМを見る破目になった.  
 このCМは,自分を訪ねてきてくれた雪だるまのユッキーが溶けてしまったことを悲しむのではなく,Z空調の強力さを知らずに玄関を入ってきたユッキーの愚かさをを笑いものにしているわけだ.
 このCМ,ネット上に悪評はない.つまりこういうのを若い人はおもしろく思うのだろう.いやな世の中だ.

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2019年1月 2日 (水)

テレビに出た鎌倉のパン屋

 元日に放送されたNHK『パン旅』を観て「あーあ」と呆れた.
 この番組はレポーター役の女性二人が,鎌倉で人気のパン屋を訪ねるという企画で,BSと地上波で過去に放送されたものの再放送である.
 レポーターたちが最初に訪ねたのは,鎌倉市農協連即売所の中にある「PARADISE ALLEY」というパン屋 (画像↓).
 店長は,下の画像のような服装で,今まさにパンを作っている最中である.街着でパンを作るパン屋を私は初めて見た.伸び放題のモミアゲとヒゲ.毎日洗濯しているとは思えぬ帽子とブルゾン.この男の溢れる不潔感は,パン屋としての基本ができていないことを示している.最低限の心掛けとして,マスクの着用をせよ.金を払ってパンを買ってくれる客をなめるな.食品衛生に関する知識の点数をつければ,この男は零点だ.
 
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 二軒目は雪ノ下にあるドイツパン専門店だという「Bergfeld」(画像↓).店主はきちんと洗濯可能な帽子と作業服を着用し,モミアゲを短く手入れしているのはいいが,やはりヒゲ面.ヒゲは雑菌の住処である.食品衛生の点数は八十点.

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 三軒目は常盤 (鎌倉にある地名) の住宅街にある「kamakura 24sekki」である.店主の身なりについては,頭部の支度はこれでまあまあだが,髪の毛を短くすればさらによい.一つ気になるのはエプロン.エプロンは自分が汚れないように着るものであって,異物混入防止の役には立たない.ただしパンを焼く作業を終えたあと,接客をするだけならこの服装でもよい.

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 さて,このパン屋の棚に置かれているポップに「麹酵母のパン生地の旨味」と書かれている.
 
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 なんだその「麹酵母」というのは.
 
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 その摩訶不思議な「麹酵母」は,まず福井県の老舗味噌蔵に住み着いている麹菌を玄米に撒いて麹を作るのだという.
 
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 店主は「この麹に水を加えて酵母にしています」と語った.
 そもそも麹とは何か.Wikipedia【麹】 には下のように記載されている.
 
米、麦、大豆などの穀物にコウジカビなどの食品発酵に有効なカビを中心にした微生物を繁殖させたものである。
 
 日本以外のアジア諸国における発酵食品においては,アスペルギルス属 (コウジカビ;Aspergillus oryzae) の他にもサッカロミコプシス属 (Saccharomycopsis fibuligeraなど) や乳酸菌 (Pdiococcus pentosaceus) など複数の菌類により細菌叢が形成されている麹が使われる.しかし日本の発酵食品の麹では,コウジカビ以外の微生物の繁殖を抑制して製麹する.品質の安定と衛生上の点から,雑菌は可及的に繁殖せぬようにしないと,腐敗したり安全性が保証されないからである.
 
 では酵母とは何か.Wikipedia【酵母】には微生物学的な詳しいことが書かれているが,食品製造においては普通は Saccharomyces cerevisiae を指す.酵母はかつてはイーストとも呼ばれたが,一部の悪質なパン屋が,あたかもイーストには毒性があるかのような宣伝をした (今もしている) せいで,最近はあまりイーストという名称は使われなくなっている.(正しい知識はここ)
 その手のパン屋がウリにしている「自家製天然酵母」は,単に野生の酵母に過ぎない.そこら辺りでテキトーに拾ってきた「自家製天然酵母」は品質不安定で,それよりも重大なことに安全性の保証がない.これが優れたパンの作り方であるかのように褒めそやすのは,一種の都市伝説である.
「kamakura 24sekki」 の店主は意味不明な「麹酵母」という造語を使っているが,これは彼女が無学で,麹と酵母の意味を知らないことを示している.
 彼女が使っている「麹酵母」は,味噌蔵に由来する麹に混入している酵母に過ぎない.完全な野生酵母ではないから安全性の問題はないと考えていいが,そんなものを「ほかの酵母にはない衝撃を感じた」とする店主の思想的立場は,「自家製天然酵母」を標榜する非科学的な連中に近いところにあるのではないか.それ故,私ならこの店のパンは買わない.食品安全について不勉強な人間が趣味の延長で開業したパン屋を,賢い消費者は敬遠すべきである.

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2019年1月 1日 (火)

師走詣

 新年最初の記事が,年末のことである.
 暮れも押し詰まった三十日,師走詣なるものを初めてしてみた.お詣りするのは,これまで長年にわたって初詣をしてきた長谷寺である.
 私の住処の最寄り駅は東海道線藤沢駅であるが,鎌倉に行くには駅の南口から出ているバスに乗るか,江ノ電で行くことになる.この二つの経路がとても便利なので,隣の大船駅から鎌倉へ行く人は横須賀線で北鎌倉を訪ねようとする人に限られる.
 大船駅から鎌倉へのバスはあるのだが,一時間に一本か二本という状態である.しかし昨日は,あえて大船から鎌倉に行くことにした.
 それは,大船で昼飯を食いたかったからである.
 藤沢駅の周辺には,北口にも南口にも商店街がない.「商店街」と名のついた通りはあるが店の数は少なく,日常の買い物は,薬局以外は「さいか屋」「小田急デパート」か,スーパーマーケットが頼りである.
 昭和四十年代の終わりまでは藤沢駅の北口に雑多な商店や飲食店が密集していたのだが,「再開発」の名のもとに音を立てて駆逐され,現在はバスセンターになってしまった.今では駅周辺には,ろくな飯屋がない.「再開発」後も残った何軒かのビストロも今は姿を消した.
 それに対して大船は,商店街が健在だ.飯屋もある.飲み屋もある.
 ある日,大船に住んでいる私の娘が,大船にはカレー屋さんが多いんだよと教えてくれた.それで食べログなどを調べてみたら,カレー屋もインド料理屋もあることがわかった.
 その中でも人気の店は,ビストロの“カレー・クラブ キュイエール”だという.店の公式サイトを見たところではフレンチっぽい料理屋さんだが,アラ・カルトでカレーがある.そのカレーがウリになっていて,店名にもカレーをつけているのだ.
 
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 ビストロなのになぜカレー?との疑問には,店のサイトに店主が答えを書いているので,それを御覧頂きたい.
 ともあれ,藤沢から電車で大船に来た私が店の入り口に到着したのは,開店前の十時五十分だったが,この時既に十人の先客が列に並んでいた.私が十一人目の客で,そして私の後ろに,たちまち五人の列ができた.知らなかったのだが,このキュイエールは行列のできる店だったのだ.
 やがて開店の五分前に従業員の若い娘さんがドアを開けて外に出てきて,メモ帳を片手に,並んでいる客たちに予約の有無を訊ねた.私を含めて十六人の客の中で,予約なしはたったの三人であった.そして「お一人様」は私だけで,あとは全部若いカップルだった.彼らはこの昼御飯が今年最後のデートで,次に会うのは翌々日元旦の初詣ですということか.うらやましいと思ったが,顔には出さず,爺さんは静かに列に並んだ.
 開店時間になって,従業員さんが予約客を二人ずつ店の中に招き入れたのだが,次は予約なしの二人連れという順番になったところで,カウンターに椅子を一つ残して満席になった.もちろん二人連れの一人だけを席に案内するわけにはいかないから,その二人を飛び越して私が入れることになった.ラッキー.
 私は予約なしの二人連れに「お先に失礼します」と一言申し述べて,店のドアを開けた.
 中はかなり狭いが,若い恋人たちの食事にふさわしいおしゃれな造りであった.爺さんの一人客では場違い感があるかも知れない.
 
 すぐに例の女性従業員さんが満席の客の注文を順に訊いてまわったのだが,カレーを注文したのは,私のほかにもう一人がいただけで,あとの皆さんはワインをグラスやボトルで注文し,前菜はこれ,メインはあれ,と本格的に食事する構えなのであった.
 そういう内容で料理を注文すると,たぶん客単価はワイン込みで一人五千円くらいになるかも.私が二十代の頃は安月給の会社員だったから,とてもとてもそんな立派な昼御飯を摂ることはできなかった.若い人たちにも貧富は色々あるだろうが,その時にキュイエールにいた身なりの良いカップルたちは幸せそうで,私は実にしみじみとうらやましく思った.
 
 さて,暫くして私の前に届けられたビーフカレーは,カレーソースで煮込んだ牛肉とシメジのカレーに,あとから人参とグリルしたジャガイモを少し加えたものであった.そして皿に盛った御飯には,揚げたガーリックがトッピングされていた.その味はというと,ホテルのレストランのカレーとは異なって,スパイシーで素朴なカレーだった.お値段が千円で,これは高くもなく安くもなく,まあリーズナブルと言っていいだろう.
 食後のコーヒー四百円をさっさと飲み終えた私は勘定を済ませて店のドアを出た.店の外には三人も順番待ちをしていたからである.この店は,平日のランチはどうか知らないが,土曜日曜はランチでも,予約なしでは一時間待ち (客一組の食事時間が長いと思われる) を覚悟する必要がありそうだ.
 この店のカレーは,コストパフォーマンスはいいけれど,列に並んでまで食べてみる価値があるかというと,微妙なところだという気がする.待ち時間が長いのなら,私は他の店に行く.
 
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 さて店を出た私は,歩いてすぐの大船駅に戻り,バスで江の島に行き,そこから江ノ電 (ややこしいが現在の地名は「江の島」であり,固有名詞に使われる書き方は「江ノ島」である) で長谷駅まで行った.

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 江ノ電の車両の中では,大きなレンズを装着したニコンのカメラを首から下げた青年とそのお相手が中国語で会話していた.
 
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 境内に入ると,欧米人の姿がほとんどない.私の傍らを通り過ぎていく人々の言葉は中国語だった.
 
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 鎌倉の海を望む展望台でも周囲で聞こえる会話は中国語だった.
 
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 人込みの展望台を離れ,いつものように私は,境内で業者が委託運営している軽食を出す店「海光庵」に入った.ここで酒を飲むのが長年の習慣なのだ.
 
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 注文する品は,これまた習慣で冷酒二合と おでん.この店の おでん は,燗酒でもないのに,ぬるい人肌である.湯気の立っている おでん が出てきたことはない.たぶんポリ袋に一人前の おでん が入って,スーパーの食品売り場で販売されているものだ.それを注文を受けてから袋ごと鍋に入れ,湯に一くぐりさせてから出すのだろう.だから人肌である.値段は酒が一合七百円,おでん が六百五十円で,ぼったくりではないが,その寸止め価格である.だが長谷の観音様に免じて許す.海光庵を許すのも長年の習慣なのである.
 ほろ酔いで海光庵を出て,本堂の近くで御神籤を引いた.吉だった.心掛けがよければ結果もよいという卦である.ありがとう観音様.
 
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