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2019年1月23日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 22)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 21) 》の末尾を再掲する.

次回は,「横須賀海軍カレーの嘘」について記す.
 
 横須賀市当局と市内のカレー屋たちは,横須賀市の町おこしサイト《カレーの街 よこすか 》のコンテンツ《よこすか海軍カレーとは 》の中で《海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです 》と宣伝しているが,現在,日本の食文化史研究家で,これを正しいと考えている人は一人もいないだろう.このコンテンツに書かれていることのうち,最も悪質な嘘,すなわち海軍軍医高木兼寛が海軍兵食にカレーライスを取り入れたと述べている箇所については,この連載の中で資料を用いて嘘であることを説明した.
 また同コンテンツの冒頭に,
 
明治41年に発行された「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており、カレーライスの作り方についても記載があります。
…中略…
海軍割烹術参考書のレシピをもとに、現代に復元したカレーが「よこすか海軍カレー」なのです。
 
とあるが,《「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており 》は真っ赤な嘘である.『海軍割烹術参考書』には帝国海軍当局は関与していない.この書籍は舞鶴海兵団で編纂された内部資料なのである.『海軍割烹術参考書』には佐世保海兵団の料理参考書を参照したことは書かれているが,横須賀海兵団には言及がない.また横須賀海兵団に同種の教本があったかどうかについては,これまでに書籍の現物が一冊も見つかっていないことからすると,おそらく横須賀海兵団では料理教本は作成されなかったと考えられる.
 しかし「横須賀海兵団にカレーライスはなかった」のでは,横須賀市と市内のカレー屋たちは,海上自衛隊横須賀地方隊の入れ知恵で 海軍カレーで町おこしを企んでいたのに大変困ることになる.そこで『海軍割烹術参考書』が舞鶴海兵団の教本であることを隠し,あたかも横須賀海兵団に関係があるかのように でっち上げ 宣伝することにしたのだろう.海軍当局が編纂した教本だということにすれば,横須賀市が町おこしに使用してもよいことになるからだ.
 ここで不思議なのは,本来は舞鶴市の町おこしのネタである「海軍割烹術参考書」を持っていかれた舞鶴市が,なぜ横須賀市に抗議しないのかである.ところが実は,舞鶴市は肉ジャガは舞鶴海兵団が発祥だとする虚偽に基づく町おこしをやっており,横須賀と舞鶴は同じ穴の貉なのである.嘘つき同士の助け合いみたいな形である.
 横須賀市の公式サイトのコンテンツ《カレーライス誕生秘話 》は,さすがに地方自治体の公式サイトであるから,同市の町おこしサイトよりは遠慮がちに嘘を書いている.高木兼寛や『海軍割烹術参考書』などを持ち出すと,市民から問い合わせがあった時に困るので,具体的なことは書かないようにしたと思われる.
 しかし,横須賀の町おこしに絶対必要な嘘はつかざるを得ない.それが次のセンテンスである.
 
こうして、日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷に帰った兵士が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていきました。
 
 同じことが横須賀の町おこしサイトにも書かれている.
 
その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。
 
 彼らが主張するように本当に横須賀海兵団でカレーライスが食べられていたのか.そしてそれが全国に広まって,カレーライスが国民食と言われるまでになったのか.
 これについて,私の父親の話をする.
 私の父は新潟県中蒲原郡の生まれで,農家の三男坊であったので,口減らしのために海軍を志願した.
 昭和十四年に戦艦長門の乗員となり,昭和十九年に肺結核を発病したため長門を降り,故郷の新潟県長岡市にあった海軍病院で療養生活に入った.最終の階級は兵曹長であった.
 戦後は,海軍病院で看護婦をしていた私の母親と群馬県前橋市に移住し,最下級の公務員に就職して所帯を持った.昭和二十年代の中頃は,栄養失調寸前の貧しい生活であったと後に母は語った.
 しかし朝鮮戦争特需を契機として,昭和三十年代には経済成長が始まり,ようやく庶民は日々の飯を満足に食えるかどうかの不安から解放された.貧乏人でも,たまには豚肉を食べられるくらいには日本は復興したのであった.
 そんなある日のこと.近所に住んでいた父親の同僚で,北支戦線から復員してきた元陸軍兵士がいた.その人は奥さんに「辛味入り汁掛け飯」を作ってみせたという.戦地に送られる前に,内地の兵営で覚えたという話だった.
 その奥さんが,近所で親しくしている私の母親他の婦人連に「辛味入り汁掛け飯」すなわちカレーライスの作り方を教えて広めた.私の母は早速その陸軍式のカレーを作り,いつも煮物と漬物しかない家族の夕食に出した.父はそのカレーライスを食べながら,長門じゃあこんなものは食べたことがなかったと言った.
 
 戦艦長門は大正六年八月に広島県の呉海軍工廠にて起工,大正九年十一月に竣工した.長門型戦艦の一号艦であり,同型の姉妹艦は陸奥である.陸奥は佐世保鎮守府所属,長門は横須賀鎮守府所属となり,横須賀が東京の海軍省や軍令部と往来が容易なため,完成時は長門が連合艦隊旗艦に選ばれた.以後,長門と陸奥は交代で連合艦隊旗艦を務め,両艦は日本海軍の象徴として国民から親しまれた.
 太平洋戦争開戦時,長門は連合艦隊旗艦として姉妹艦の陸奥と共に第一戦隊を形成していた.南雲機動部隊が真珠湾攻撃を実施して成功をおさめるや,長門や陸奥など瀬戸内海在泊の戦艦六隻を中核とする主力部隊は,南雲機動部隊の退却支援を目的に出撃した.この時点では,のちに連合艦隊主力艦となる戦艦大和は,まだ試験航海途上にあった.
 これ以降の長門の戦歴は Wikipedia【長門 (戦艦)】の解説に譲るが,昭和十九年 (1944年) 十一月十六日,戦艦三隻 (大和,長門,金剛) と駆逐艦隊はボルネオ島北部のブルネイから日本への帰路に付き,敗戦までの期間,これが長門の最後の外洋航海となった.同年十一月二十五日,駆逐艦隊に護衛されて長門は横須賀港に到着し,損傷箇所の修理や整備を実施するも,燃料と物資の不足により,これ以後外洋に出撃することはなかった.大正時代に建造された旧式戦艦は既にその使命を終えていたのであった.私の父はこれで長門を降りて郷里に帰った.
 第一線を退いた長門は,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲で米空母四隻の搭載機による集中攻撃を受け,艦橋が破壊されて艦長以下ほとんどの艦橋要員が戦死した.その後の長門は中破したまま修復されることなく終戦を迎えた.ちなみに横須賀空襲の時,長門に隣接して係留されていた特務艦宗谷と病院船氷川丸は無傷であった.両船のその後については機会があればこのブログで触れてみたい.
 敗戦後の長門については Wikipedia【長門 (戦艦)】から引用する.
 
終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。長門は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。9月15日附で除籍。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ長門は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。
1946年(昭和21年)7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門は殆ど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が長門のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。ただ一説には、長門の浸水を食い止めるなど、保存などの為に緊急修理をする予定が立てられていたが、最終的には行われず沈没したという逸話も有る。

 
 この連載の第一回《記念艦三笠でカレーを (猿島編) 》で私は下のように書いた.
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 この「猿島公園専門ガイド協会」の現地ガイドさんだが,年齢は私とさして変わらないと思われた.帰りの船が出るまでのトイレ休憩の時に,ガイドさんは若い (大学生くらいの軍事オタクっぽい青年) たちに,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲のことを分厚い資料ファイルを開いて解説した.その資料の中に,その日横須賀軍港に停泊していた戦艦長門を遠くから撮影した写真があったので,私は「死んだ私の父親は長門に乗っていたんですよ」と言った.
 
20181103nagato
戦艦長門 (パブリックドメイン画像)
 
 すると彼は手帳を取り出し,もう少し話を聞かせてください,と言った.何か個人的に思い入れがあるのかも知れないと思った私は,父親の軍歴について簡単に話した.
 それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った.

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 この一節の結びの一行《それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った》とは,ビキニ環礁において原爆標的艦として沈められた
ことであった.(ようやくここで伏線を回収することができた w)
 さて,横道に逸れたが,横須賀鎮守府所属の艦隊や海兵団で,カレーライスが食べられていたかどうか,という話に戻る.

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