中野京子『美貌のひと』 (一)
迂闊なことに中野京子先生の新刊『美貌のひと 歴史に名を刻んだ顔』(PHP 新書;以下は『美貌のひと』) が出ていたことを知らずにいた.
あわてて私が手に入れた同書は刊行日が十月五日の第一版第七刷だが,第一刷は六月二十九日だから,月に二回の増刷を続けている勘定だ.毎度のことながら中野先生の著書は飛ぶように売れる.なぜなら先生の本は,買ってハズレだったとか,読んで損したとかがないから,週刊誌や新聞の書評がどう書いているかなんか無関係に,みんなが著者買いするからだ.私もその読者の一人だが,今回は出遅れた.
この『美貌のひと』で取り上げられている絵画のいくつかは,既に他の著書でも解説されているものだが,『美貌のひと』ではこれまでの解説・評論と異なった切り口 (肖像画のモデル) から絵画が紹介されているので,いつものように「おお,そうだったのか!」が楽しめる.
『美貌のひと』は,雑誌連載 (PHP スペシャル,2016.1 - 2017.12) された初出稿に大幅な加筆・修正を加え,再編集したものである.(同書奥付の前頁の記載から)
再編集された結果の構成は,主題「歴史に名を刻んだ美貌」の下に,「第一章 古典のなかの美しいひと」「第二章 憧れの貴人たち」「第三章 才能と容姿に恵まれた芸術家」「第四章 創作意欲をかきたてたミューズ」だ.
その中で,私には第三章のミュシャ画『サラ・ベルナール』,第四章のルノワール画『ブージヴァルのダンス』,同ボルディーニ画『モンテスキュー伯』,同クラムスコイ画『忘れえぬ女 (ひと)』がおもしろかった.

中野先生は,ミュシャが世に出るきっかけとなったのは,十九世紀最大の舞台女優であるサラ・ベルナール主演の『ジスモンダ』のポスターであったというエピソードを紹介している.
その辺りの事情を,Wikipedia【サラ・ベルナール】は
《広告の重要性を認識していたサラは、舞台において自身の生活の一部分を垣間見せ、消費材の宣伝に自分の名前を躊躇せず関連づけた。彼女のスタイルとシルエットは、流行と装飾美術に刺激を与えたが、それだけでなく、アール・ヌーヴォーの美学にも影響を与えた。彼女は、画家のアルフォンス・ミュシャに自ら訴えかけて、1894年12月からポスターを描いてもらった。以降の6年間に渡るコラボラシオンは、ミュシャの作品に副次的な霊感をもたらした。》 (文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
としているが,中野先生によるとこれは事実ではない.一八九四年十二月,クリスマスの日にミュシャにポスター製作を依頼したのはサラ自身ではなく,公演が行われるルネサンス劇場の側であったという.
公演初日は一月四日だったから,ミュシャは大変なスピードでポスターを描いたわけだ.そしてできあがったポスターに満足したサラは,これ以後,六年の契約をミュシャと結んだとのことである.
中野先生と Wikipedia と,どっちが正しいか知らないが,まあ中野先生を信じておくのが無難だろう.

(ミュシャによる『ジスモンダ』のポスター,1894年;Wikipedia【サラ・ベルナール】から引用.パブリックドメイン画像)
下はサラの近影.

(Wikipedia【サラ・ベルナール】から引用;パブリックドメイン画像)
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