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2018年12月

2018年12月31日 (月)

高齢特番

 昨日 (12/30) 放送のテレビ東京《たけしの新・世界七不思議 ピラミッド新事実に芦田愛菜&橋本環奈も仰天SP 》を観た.
 出演者はMCがビートたけし,他に荒俣宏,吉村作治,芦田愛菜,橋本環奈だった.
 たけしが少し前から,頭の中にあることをうまく言葉にできなくなっている.これだけの才人でも老いは避けられないかと思うと,少し寂しい.
 エジプト学の権威,吉村作治先生は,もう歩行がおぼつかなくなっている.壮年研究者だった頃より体重が二十キロくらいは多いのではなかろうか.自説を語る口調にも力がない.
 二年後にはクフ王の墓に関する大規模な発掘を予定しているのだというから,ぜひとも体重を落として,フィールドワークに耐えられるよう御自愛頂きたい.
 荒俣宏は私と同世代のトップランナーの一人.まだまだ御活躍ではあるが,あの体形では何かしらの生活習慣病を持っていると想像されるので心配だ.

 さて,吉村作治,ビートたけし,荒俣宏という高齢出演者の前で,芦田愛菜ちゃんと橋本環奈ちゃんでは,いかにも力不足が歴然としていて不釣り合いの人選であった.
 ここはひとつ,この高齢者三人に匹敵する芸歴と力量のゲストとして,黒柳徹子さんと美輪明宏に登場して欲しかった.そしてたけしのギャグに,黒柳徹子,美輪明宏,吉村作治,荒俣宏が,肩を落として力なく「は,は」と笑い,スタジオ内にしみじみとした沈黙が… という場面を見てみたかった.
 この特番,続きはないかも知れないなあ.

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おおつごもりに

 年末になると,翌年の美術展覧会のガイドブックが出版される.
 それらに目を通したら,秋にマネの『フォリー=ベルジェールのバー』が来るのがわかった.東京都美術館で行われる「コートールド美術館展」だ.これは見逃せない.

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(Wikipedia【フォリー=ベルジェールのバー】から引用;パブリックドメイン画像)

 他には,仏像分野の展覧会もおもしろそうだ.例えば東京国立博物館「特別展 国宝 東寺 ― 空海と仏像曼荼羅」など.
 この歳になっても,やはり感動というものはあって,未見の絵画や彫刻をこの眼で観ると,少しでも長生きしたいものだと思う.そんなことを来年も書いていきたい.
 今年一年,この拙いブログを読み続けて頂いた読者の皆さんに感謝します.来年もよろしく.

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ココログのバグ

 以前から時たまあったのだが,ここ最近,ココログのクライアントのバグが激しい.

 記事を書いて「保存する」=「記事をアップする」と,エラーになるのだ.この時,エラーの内容とは無関係のエラーメッセージが表示される.
 このエラーを回避する方法が,あるにはある.
 まずエディターでテキスト部分を全部書いて,「本文」入力窓にコピーし,それを「下書き」で「保存」する.ここまでの操作でエラーが発生することはないらしい.
 それから画像を何度かにわけて記事に貼り付け,「保存」していく.エラーの原因は,一度にアップされるデータの大きさにあるのではないかと言われている.帰納的な推定ではあるが.
 このバグはかなり前から指摘されているのだが,ココログ側は知らぬ顔で放置している.
 それから,このバグはクライアントだけの問題ではないらしい.私の最近の長文記事は,通常の送信方法では,アップするたびに何度もエラーで空中に霧散してしまっている.以前より頻繁にエラーが発生しているのだ.
 先日,「工事中」とタイトルに付けた記事で試みたのだが,長文記事を一度にアップせず,時間をおいて少しずつ記事を追加していくというのも回避方法として有効のようだ.
 
 たぶんブログサービス業者の中で,ココログの技術力が最低なんだと思う.問題を放置したままという点でも最低だ.でも,ココログに載せてきた文章資産を捨てるわけにもいかないし,我慢するしかない.

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2018年12月30日 (日)

お礼参りのはずなのに

 昨年 (平成二十九年) から,年賀状を元日に書くことにした.それまでは,年賀葉書の通信面 (私の IME は通信麺と変換するが,なんだそれは) の文末に「○○年元旦」と嘘を書いて師走に投函していたのである.
 すると,正月から暫く経った頃に会った人から「年賀状をくれなかったから,喪中なのか何か悪いことでもあったのかと心配していた」と言われた.もちろんその人には年明けに賀状を書いたのに,である.
 つまりこの人は,元日や正月二日に配達された賀状しか見ていない.その後に届いたものは,誰からの葉書か確認せずに,どこかに放り投げているに違いない.
 そこで思ったのだが,このやり方は,義理を欠かずに賀状を書く枚数を減らせるのに使える.実際に翌年は,二十人ほどの人から賀状がこなくなった.
 そうこうしているうちに私は齢七十になる.そうしたら高齢を理由に,きっぱりと年賀状の遣り取りをやめようと思う.これを「終活年賀状」と言うらしい.

 惰性でやっていた習慣を改めるのは,気分一新でいいかも知れない.
 今年 (平成三十年) の正月までは鎌倉へ初詣に出かけていたのだが,今度から師走詣にしてみようかしらん.
 正月に一年の幸を前向きに祈るより,青息吐息で師走に「やれやれどうにか生き延びました,ぜいぜい」と神仏にお礼を申し上げるほうが,人生の終末期にはふさわしいような気がするのである.
 というわけで,師走詣に出かける前に,一応どんなものか検索してみたら,やれ「最強開運」だとか「初詣よりも御利益が!」などとヒットした.意に反してどうやら師走詣は,神仏へのお礼というより,欲にまみれたものらしい.なんだか出鼻をくじかれたような…w

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お箸の国の人なのに (五)

 先日 (12/27) 放送されたテレビ東京『昼めし旅~大盛りSP“秘境バス”薩摩旅!』では,西郷輝彦と門脇佳奈子ちゃんの二人が,鹿児島駅から南にバス旅をした.
 途中下車した人気のない集落で,二人は偶然に出会った老夫婦のお宅にお邪魔することになった.
 そして玄関先の上がり框に腰かけた二人に,その家の老主婦は,お茶請けに漬物と里芋の煮たものを出して歓待した.
 ここで西郷輝彦は,自分が演じるべきキャラを承知していて,薩摩の男らしく,いささかの頓着もなしに,里芋に箸をぶっすりと刺した.w
 
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 ここでカメラマンは,すかさず西郷輝彦の箸先をアップで撮った (上の画像).
 この番組は打ち合わせなしのぶっつけ本番だから,この場面でカメラマンと被写体 (西郷) の阿吽の呼吸というか,巧まぬ演出に私は,うまいもんだなーと感心した.
 余計な説明だが,里芋の煮え具合が柔らかくなくて,箸で強く挟むとすべって転がりそうだったからという理由で,西郷輝彦は刺し箸をしたわけではない.同じものを門脇佳奈子ちゃんは難なく箸で挟んで食べているからである.ww
 
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 さて,里芋はぬめりがあるから箸でつかむとすべるという人がいる.しかしこれは先入観にすぎない.手を抜かずに上手に煮た里芋は,容易に箸でつかむことができるのである.

 しかるに自分で確かめもせずに,先入観でものを言う人がいるので,下にその例を挙げる.
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 上の記事を書いた人は《ちょっと気の張った料亭やレストラン 》では,箸でつかみ損ねるような手抜き料理の里芋煮は出てこないということを知らないのだろう.
 それに第一,そういう店では,箸が塗箸ではない.会席料理の席なら質の良い利休箸であるし,上の記事中にイカと里芋の煮付けの画像が貼られているが,そのような家庭料理を得意とする普通の小料理屋さんでも割箸だから,里芋が器の外にすべって転がる心配はないのである.w
 上に引用した記事の筆者はマナー講師のようだが,「忌み箸」など箸のマナーを語る前に,料理の基本を知っておいたほうがいい.例えば里芋は,丁寧に下茹でしてから味付けしてもいいし,あるいは直に煮ても,ふっくらと上手に煮れば箸でつかめぬことはない.
 刺し箸は,里芋にはぬめりがあるから,などの理由があってするのではない.見た目のきれいな食べ方を知らないとか,単なる習慣にすぎないのである.(演出の場合を除く w)

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2018年12月29日 (土)

帰省

 夜明け前にラジオの帯番組を聴いていると,クリスマスが過ぎたあとは時折『ホームにて』が流れる.
 
「歌姫」という,今はもう手垢の付いた言葉がある.初出は,戦犯の火野葦平が戦後,公職追放された年に書いた三文小説『歌姫』(大日本雄弁会講談社,1948年) だろうか.若い頃に読んだ記憶があるが,中身は忘れた.
 もしかすると中国大陸の古い文芸に,この熟語が現れているかも知れないのだが,それとは無関係に,中島みゆきがアルバム『寒水魚』に『歌姫』を入れたのは昭和五十七年 (1982年) のことだった.初出の用例は火野葦平だとしても,この言葉のオリジナリティは中島みゆきにあると,私は思う.
 以来,天才的ソングライターから,自分では作詞も作曲もできない売れない演歌歌手に到るまで,女性歌手ならみんな歌姫だという話になった.
 そういう有象無象を遠くに見て,やはり中島みゆきは独立峰のように思われる.だから『ホームにて』は,誰のカバーでも彼女を越えられない.
 
 とは言うものの,誰か『ホームにて』を,元々の調べとは別の歌として歌ってくれないか.そう思ってネットを探すと,BEBE高畑充希手嶌葵が見つかった.
 BEBE は抜群にうまい歌唱だけれど,残念ながら遠く過ぎ去った昭和の哀感がない.昭和という時代を知らないのだから無理はないが.それから,母音の前に不要な子音が入る癖を直せば,洋楽も歌える人だと思う.ディスクを出したことはあるようだが,売り切れだ.でも,中古を探して買ってまで聴こうとは思わない.

 高畑充希は,年末最後の仕事を終えて,同僚たちとカラオケに行く娘さんたちがお手本にするといい.日本語の発音に難があるけれど,これはこれでいい.
 
 みっつめ.手嶌葵が《ネオンライトでは燃やせない 》と歌うと,この日本ではないどこか遠くの国の,都会の雑踏の印象がある.不思議な世界観だ.
 その国で,年の暮れに帰省しようと思えば帰れるのに,最終列車を見送る.どこか遠くの国の,かつてあった「昭和」がここにあるように思われる.YouTube に,森田童子のようだと書いた人がいる.なるほどと思う.

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2018年12月28日 (金)

他山の鼻毛

 私は全く知らなかったのだが,ライザップは経営不振なんだそうだ.
 経営再建のために,今年六月までカルビーの会長兼最高経営責任者(CEO)を務めていた松本晃氏が,ライザップの代表取締役兼最高執行責任者(COO)に招かれたが,来年元日付けで更迭されるという.
 ライザップの社内事情に関心はないが,そのことを伝えた共同通信社の記事《ライザップ松本氏、代表権返上へ 影響力低下、経営再建に支障も》 (掲載日時,2018/12/27 18:51) を閲覧した.
 その記事に貼られている松本晃氏の大きな写真を見ると,右の鼻の穴から鼻毛が数本出ている.

 世に「他山の石」という.
 文化庁のサイトに《連載 「言葉のQ&A」 「他山の石」の意味 》があり,この言葉の意味は《「他山の石」は,他人の誤った言行やつまらない出来事でもそれを参考にしてよく用いれば,自分の修養の助けとなるという意味 》であるとしている.
 そこで私は洗面所に行き,鏡をみたら私の鼻からも鼻毛が出ていたので,あわてて鼻毛カッターで刈りまくった.
 現役会社員の時は,髭,爪,鼻毛の手入れはきちんとしていたものであるが,年金暮らしで人前に出なくなると,次第に身だしなみがおろそかになるようだ.
 NHK『チコちゃんに叱られる!』で,年寄りの眉毛が長いのは「眉毛が,抜けることを忘れるから~」と言っていたような気がする.高齢者は新陳代謝が不活発だから,古い眉毛が抜けて新しい眉毛に生え代わることがなくなるらしい.
 そういうわけで,ハサミで伸びた眉毛をジョキジョキと切りそろえた.手入れを忘れぬよう,カレンダーに鼻毛の日とか眉毛の日とか,書き入れておくのがいいかも知れないと思ったことである.

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2018年12月27日 (木)

中野京子『美貌のひと』 (三)

 次は同じく第四章からボルディーニの『モンテスキュー伯爵』だ.モンテスキュー伯爵,すなわちモンテスキュー=フェザンサック伯マリー・ジョゼフ・ロベール・アナトールは,フランスきっての名門貴族であった.

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(Wikipedia【ジョヴァンニ・ボルディーニ】から引用;パブリックドメイン画像)
 
『美貌のひと』が解説しているのは,ボルディーニが描いたモンテスキュー伯爵の肖像画ではなく,モンテスキュー伯爵という人物そのものと,とても十九世紀の人とは思えぬ第一級のファッション・センスである.
 確かに上の画像で伯爵が着用しているジレは,二十一世紀の現在も,オーダーメイドはもちろん,既製服でも見かけるデザインだ.また手に持っているステッキはルイ十五世ゆかりの物だというが,この型のステッキは現在もまだ,メインストリームのデザインである.
 この時代の貴族たちは,一日のあいだに頻繁に衣装を替えたという.女性はもちろん男たちも,厳密なTPOに従って衣装替えをしたと書いたあと,中野先生は次のように述べている.
 
数年前、DVDで古い白黒映画を見た。「タイタニックの最期」(ジーン・ネグレスコ監督、一九五三年公開) というアメリカ映画で、タイトルどおり一九一二年のタイタニック号沈没事件を背景にしている。ちなみにこの事件当時、モンテスキュー伯はまだ生きていた (一九二一年に六十六歳で没)。
 
 この『タイタニックの最期』の主人公はイギリス貴族であるが,中野先生は一ページ以上を割いて,映画の粗筋を紹介する.
 そして末尾に《真のダンディズム、かくあれかしと思う 》と,この映画を賞賛している.そこまで読んで,私は映画のタイトルに既視感を覚えた.
 そこでDVDを収納してある書架を探したら,古い映画を寄せ集めた『ロマンス映画 コレクション DVD10枚組』というセット物が見つかった.(今もアマゾンで販売されている)
 このセットに含まれているのは『ローマの休日』『哀愁』『終着駅』『逢びき』『恋愛手帖』『タイタニックの最期』『我等の町』『愛の調べ』『ヒズ・ガール・フライデー』『愛のアルバム』の十作品だが,私は名作『哀愁』を観るだけのために買ったので,既にディスクを持っている『ローマの休日』は別として,残りの八作品は放ったらかしにしてあった.
 だがしかし,もしかするとこの「ロマンス映画」集 w には『タイタニックの最期』以外にも,単に私が知らないだけで,実は知る人ぞ知る名作が集められているのかも知れない.正月に本腰を入れて鑑賞してみようと思う.

 そして第四章の最後,つまり『美貌のひと』の掉尾を飾る絵はイワン・クラムスコイの『見知らぬ女』である.この絵は『美貌のひと』のカバーにも印刷されている.
 
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(Wikipedia【見知らぬ女】から引用;パブリックドメイン画像)
 
 この絵に描かれた女性は誰か.作品の発表時から,モデル探しが人々の関心を呼び,やがてこの絵は『アンナ・カレーニナ』に触発されたものだということになった.つまり馬車上の女性,「北方のモナリザ」とも呼ばれる美女は,アンナ・カレーニナなのだと.
 作者が付けたこの絵のタイトルは『見知らぬ女』であるが,かつて日本で行われた展覧会で,日本人によって『忘れえぬ女』と呼ばれるようになったらしい.そしてその美貌のひとは今,東京にある.(国立トレチャコフ美術館所蔵 「ロマンティック・ロシア」展)
 これまた年が明けて落ち着いた頃に鑑賞に出かけることにする.

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2018年12月26日 (水)

中野京子『美貌のひと』 (二)

『美貌のひと』第四章で解説されているルノワール画『ブージヴァルのダンス』は,いわゆるダンス三部作のひとつ.一昨年の「ルノワールの時代 近代ヨーロッパの光と影」展でこの絵を直接観たひとは多いだろう.
 
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(Wikipedia【ブージヴァルのダンス】から引用;パブリックドメイン画像)

 下も三部作の一つ,『都会のダンス』である.これまた一昨年の「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」で,この絵と対になっている『田舎のダンス』のすぐ隣に,ほとんど間隔を置かずに展示されていた.
 一般にダンス三部作とは呼ばれているものの,『都会のダンス』と『田舎のダンス』は一対であるが,『ブージヴァルのダンスは』その二作品とは独立している.しかし『都会のダンス』と『ブージヴァルのダンス』は,モデルの女性が同一人物だという関係になっているのだ.
 
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(Wikipedia【都会のダンス】から引用;パブリックドメイン画像)
 
 さて上に画像を示した二つの作品に描かれた女性は,シュザンヌ・ヴァラドン.モンマルトルの画家にしてフランス国民美術協会初の女性会員,そしてモーリス・ユトリロの母である.
 ヴァラドンとユトリロについて,Wikipedia【シュザンヌ・ヴァラドン】には次のように書かれている.
 
ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで、息子に絵画の才能があるとは思っておらず、また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、互いに影響を受けることなく、独自の画風を確立している。
 
 しかし中野先生は,ユトリロの作品に,母ヴァラドンの強い影響を観ている.
 その影響とは,ヴァラドンの画風や技法という意味ではなく,ヴァラドンの奔放でエネルギッシュな生き方そのものからのものであったという.
 シュザンヌ・ヴァラドンは,社会の最下層の女を母として生まれた.そして生きるために様々な底辺の仕事を転々としながら,十代を過ごした.身入りのいいサーカスのブランコ乗りになろうとしたが,ブランコから落ちて怪我をしためにその道は断念した.
 次に彼女は,ルノワールなどのモデルをしつつ独学で絵を描くようになったが,彼女の才能を見抜いたのはロートレックであった.その後,ドガの指導を得て,遂にヴァラドンは画家として才能を開花させたのである.
 そこまではよかったのであるが,ある日,息子のユトリロが年下の友人を家に連れてきたところから,母と子の間に不穏な空気が漂うことになった.
 その年下の友人の名はアンドレ・ユッテル.そしてヴァラドンはユッテルと激しい恋に落ちた.ヴァラドンは夫と離婚し,ユッテルと再婚した.二人の歳の差は二十一であった.
 最近のテレビドラマで,有村架純ちゃん演じる中学教師が教え子と恋に落ちるという話が物議を醸していたようだが,そんなものはほのぼのとした児戯に等しいというべきだろう.
 いや「歳の差婚」自体は現代でも珍しいことではない.問題は彼女の恋愛と結婚の相手が,自分の息子の年下の友人だということ.ヴァラドンの頭の中には,息子がそれによってどれほどのショックを受けるか,といった配慮はなかったのだ.
 ユトリロの心中を中野先生は次のように描写する.
 
自分を顧みない母への思いは複雑だった。
 求める愛を与えられなかった子供は親に執着しがちだ。ユトリロもまた美しい母を生涯思慕してやまなかった。そんな哀れな息子にとって、母が自分の友人と恋に落ち、あまつさえ結婚までしたことはどれほどショックであった。
 しかも前夫との離婚で、これまでのような贅沢ができなくなった母と友人の新生活の糧に、自分の才能が利用される。すでに彼の作品は母親のものより高値で売買されていたからだ。ユトリロは酒を飲み続け、ひたすらパリの街角を描き続けた。
 力強く生命力あふれる肉体讃歌のヴァラドン作品と、無人の裏町の寂寥ばかりのユトリロ作品は、あまりにも彼ら母子関係の反映そのもので、見る者に複雑な感慨をもよおさせる。

 
 だがそれでは,ユトリロにとってヴァラドンは一方的に悪い母親で,ユトリロはひたすらに犠牲の子であったか.
 ここで翻って中野先生は,一点の救いを彼ら母子の中に見出す.ヴァラドンのユトリロへの愛を.
 それがどのように述べられているかは,いかにも中野先生らしい批評なので,ネタバレを避けてここでは書かない.本書の p.175, 《ブージヴァルのダンス》の末尾の一節をお読み頂きたい.
 
[追記] ヴァラドンとユトリロに関するネット上の記事,例えば西日本新聞の記事《特別展「ユトリロとヴァラドン」 母と子のドラマ描く 》 (掲載日2015年10月12日) などに貼り付けられているヴァラドン母子の写真は,写真全体だけでなくトリミングした画像がネットのあちこちに見られる.しかし,その出典と著作権関係について記された資料が発見できない.

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2018年12月25日 (火)

中野京子『美貌のひと』 (一)

 迂闊なことに中野京子先生の新刊『美貌のひと 歴史に名を刻んだ顔』(PHP 新書;以下は『美貌のひと』) が出ていたことを知らずにいた.
 あわてて私が手に入れた同書は刊行日が十月五日の第一版第七刷だが,第一刷は六月二十九日だから,月に二回の増刷を続けている勘定だ.毎度のことながら中野先生の著書は飛ぶように売れる.なぜなら先生の本は,買ってハズレだったとか,読んで損したとかがないから,週刊誌や新聞の書評がどう書いているかなんか無関係に,みんなが著者買いするからだ.私もその読者の一人だが,今回は出遅れた.
 この『美貌のひと』で取り上げられている絵画のいくつかは,既に他の著書でも解説されているものだが,『美貌のひと』ではこれまでの解説・評論と異なった切り口 (肖像画のモデル) から絵画が紹介されているので,いつものように「おお,そうだったのか!」が楽しめる.

『美貌のひと』は,雑誌連載 (PHP スペシャル,2016.1 - 2017.12) された初出稿に大幅な加筆・修正を加え,再編集したものである.(同書奥付の前頁の記載から)
 再編集された結果の構成は,主題「歴史に名を刻んだ美貌」の下に,「第一章 古典のなかの美しいひと」「第二章 憧れの貴人たち」「第三章 才能と容姿に恵まれた芸術家」「第四章 創作意欲をかきたてたミューズ」だ.
 その中で,私には第三章のミュシャ画『サラ・ベルナール』,第四章のルノワール画『ブージヴァルのダンス』,同ボルディーニ画『モンテスキュー伯』,同クラムスコイ画『忘れえぬ女 (ひと)』がおもしろかった.

 私はミュシャの絵が好きで,大判の画集からスキャンした画像を,メインマシンにしているPCのデスクトップに貼り付けている.
 
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 中野先生は,ミュシャが世に出るきっかけとなったのは,十九世紀最大の舞台女優であるサラ・ベルナール主演の『ジスモンダ』のポスターであったというエピソードを紹介している.
 その辺りの事情を,Wikipedia【サラ・ベルナール】
 
広告の重要性を認識していたサラは、舞台において自身の生活の一部分を垣間見せ、消費材の宣伝に自分の名前を躊躇せず関連づけた。彼女のスタイルとシルエットは、流行と装飾美術に刺激を与えたが、それだけでなく、アール・ヌーヴォーの美学にも影響を与えた。彼女は、画家のアルフォンス・ミュシャに自ら訴えかけて、1894年12月からポスターを描いてもらった。以降の6年間に渡るコラボラシオンは、ミュシャの作品に副次的な霊感をもたらした。》 (文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)
 
としているが,中野先生によるとこれは事実ではない.一八九四年十二月,クリスマスの日にミュシャにポスター製作を依頼したのはサラ自身ではなく,公演が行われるルネサンス劇場の側であったという.
 公演初日は一月四日だったから,ミュシャは大変なスピードでポスターを描いたわけだ.そしてできあがったポスターに満足したサラは,これ以後,六年の契約をミュシャと結んだとのことである.
 中野先生と Wikipedia と,どっちが正しいか知らないが,まあ中野先生を信じておくのが無難だろう.
 
207pxalfons_mucha__1894__gismonda
(ミュシャによる『ジスモンダ』のポスター,1894年;Wikipedia【サラ・ベルナール】から引用.パブリックドメイン画像)
 
 下はサラの近影.
 
Sarahbernhardt
(Wikipedia【サラ・ベルナール】から引用;パブリックドメイン画像)

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2018年12月24日 (月)

「もち」と「団子」

(私の書くブログ記事は普通,最初にアップしてから数日間は推敲を行い,およそ一週間ほどで確定稿となる.しかしかなりあとになって誤字などを見つけて,こっそり訂正することもある.そこで今回は,メイキング・オブ《「もち」と「団子」》を書いてみることにした.二日間にわたって推敲の状況をアップしてきたが,以下がほぼ確定稿である)
 
 先日 (12/21) 放送のNHK『チコちゃんに叱られる 年末拡大スペシャル』で,「お餅とおだんごの違いって何?」が出題された.例によって以下の画像は,テレビ画面をコンデジで撮影し,そのファイルを画像処理ソフトでトリミングしたもので,録画データの編集はしていない.

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 チコちゃんに質問されたのは陣内孝則だったが,うまく答えられなかった.
 
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 そりゃそうだろうね.「もち」も「団子」も恐ろしく昔からある食べ物なので,今ではその違いに明快な答えはなくなってしまったのである.つまりこんな質問をするやつの頭が悪いのだ.そして,この愚問にいとも簡単に答えるやつは一種のペテン師だといっていい.
 
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 だがしかし,この問いに敢然と答えた ペテン師 勇者がいた.日本和食卓文化協会代表理事とかいう槻谷順子先生である.先生は五十代半ばにはとても見えない美貌で,肩書はいかめしいが,つまりは料理教室の先生である.公表されているプロフを下に引用する.
 
フードスタイリスト・食卓文化研究家。キッチンスタジオ&スペース・フードスタイリング教室『料理のある風景』主宰。料理を生業とする家に生まれ、「料理のある風景」=「幸せな家族の仕事風景」として育つ。フードスタイリストで現・料理研究家のアシスタントの後、フリーのフードスタイリストとして独立。雑誌・料理本・広告等を中心に,盛り付けや料理製作も含めたトータルなフードスタイリングを行う。日本伝統料理の撮影に多く携わり、和食卓をスタイリングしながら、学び、実践してきたことをベースに、2008年より「子供と大人の和食卓育教室」と「フードスタイリング教室」を開始、このカリキュラムを基軸に2017年より協会講座を始める。
 
「フードスタイリスト」とか「日本和食卓文化」とかの テキトーな 斬新な造語に先生の感性を見てとることができる.
 さて槻谷先生のお答えは,「米の粒から作ったものがお餅で,米の粉から作ったものがおだんごです」という,私のような七十歳近い年寄りは「え~っ」と驚いて尻餅 w をついてしまう程のものであった.
 
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 最近の若者言葉では,白米を炊いた白い御飯を「白米」と呼ぶ誤用がまかり通っているが,槻谷先生は,もち (糯) 米も,うるち (粳) 米も一緒くたに「米」である.実はこの表現も,若者の無知による語彙不足が表出したものなのであるが,槻谷先生はお若く見えるだけでなく,心持もお若いとお見受けした.
 それはともかく,農業分野の用語としても,一般常識的な語彙としても,「米」はうるち米ともち米の総称であるが,単に「米」といった場合はうるち米を指す.つまり「米ともち米」という言い方は成立するが,「うるち米と米」とは決していわない.
 なぜかというと,私たちは,食生活においてうるち米ともち米を区別してきた食文化史を持っているからである.そのことを Wikipedia【もち米】は,端的に
 
モチ性の品種のデンプンは調理時に強い粘性を生じるという特性を持つ。デンプンの成分の点で、もち米はほとんどがアミロペクチンのみとなっており、このアミロペクチンがもちの粘り成分であるため、もち米は蒸してつくと強く粘るのである。
照葉樹林文化に属する地域では、しばしばハレの食材としての役割を持つ
 
と書いている.「もち米はしばしばハレの食材としての役割を持つ」は試験にでるから覚えておくように.w
 このように和語「もち」とは何か,という問いは,農学,食品科学,民俗学の課題であって,お料理教室の授業の範囲を超えるものなのである.
 
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 戦前のことについては手元に資料がない (持っていたが失った) のであるが,昭和三十年代の頃,和菓子屋が行う「賃餅」という仕事があった.当時は一年中,何らかの行事で餅を食べたり配ったりすることが多かったので,和菓子屋が家庭の餅つきを有料で代行し,これを「賃餅」といったのである.現在でも年末になると和菓子屋の入り口に「賃餅承ります」と書いた紙が貼られるかも知れない.
 この際に,少量の注文なら臼と杵でつくこともあったろうが,大口注文の場合は機械「餅つき機」を使用した.この機械は実際には「臼と杵で撞く」のではなく,ミンサー (肉挽き機) に似た構造である一軸エクストルーダーを用いて,蒸したもち米を「練る」のであった.いわゆる「包装もち」の工業的な製造で,大型で電動の臼と杵を用いたのは,新潟の佐藤食品工業が最初であるが,現在でも一軸エクストルーダーで包装もちを製造しているメーカーは多い.さらに,昭和の後半には家電製品の「餅つき機」が登場 (昭和四十六年,東芝製) した.これはエクストルーダーではなく,回転する羽根で叩解する動作により「蒸したもち米を練る」動作を行うものであったが,ともあれ「もち」は,槻谷説とは異なり,臼と杵でついたものに限るわけではない.
 そもそも「もち」は,「とりもち (鳥黐)」に由来するという.とりもちは植物性の粘着性物質を総称したものであるが,「もち」が主に食べ物を指すようになってから,食用以外の「もち」全般を「とりもち」と呼ぶようになったようだ.
 食品科学の見地からすると,食べ物の「もち」の本質は,多量のアミロペクチンを含有する穀物中のでんぷん粒を破壊して,含まれているアミロペクチンの強い粘性を発現させることである.従って「ついて」も練っても「もち」は「もち」なのである.
 
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「もち」と「団子」の違いについて,Wikipedia【団子】は次のように述べている.
 
「団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る」「団子はうるち米の粉を使うが、餅は餅米を使う」「餅は祝儀に用い、団子は仏事に用いる」など様々な謂れがあるが、粉から用いる餅料理(柏餅・桜餅)の存在や、ハレの日の儀式に団子を用いる地方、団子と餅を同一呼称で用いたり団子を餅の一種扱いにしたりする地方[注釈 1]もあり、両者を明確に区別する定義を定めるのは困難である。
 
 槻谷先生の説は上記の《団子は粉から作るが、餅は粒を蒸してから作る 》であるわけだが,これは諸説のうちで最も的外れな説である.すなわち既に述べたように,食品の「もち」とは,含まれているアミロペクチンによって強い粘性が発現されたものだからである.
 ここで大切なことは,アミロペクチンをあまり含まない穀物の粒は,いくらついても叩いても強い粘りの「もち」にはならないことである.逆に,アミロペクチンを多く含む穀物は,これを挽いて粉にしても,水で練って加熱すれば容易に「もち」になる.
 つまり「もち」とは何かという問いは,原材料に着目すれば理解しやすいのである.しかしとにかく,「もち」は古代からある食品なので,似たものに同じ言葉を充てる「見立て」や誤用によって,現代に到るまでに例外がいくつか生じた.これは後述する.
 
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 で,本題に戻ると,私が腰を抜かして尻餅をついた槻谷先生の説は「米の粒から作ったものがお餅で,米の粉から作ったものがおだんごです」だが,この説には辻褄が合わないことが多いため,槻谷先生はここから迷走を始めた.
 
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 先生の迷走の一つが桜餅である.桜餅には関東風と関西風があるが,上の画像は関東風の,江戸時代に考案された「長命寺の桜餅 (長命寺桜餅とも)」である.Wikipedia【桜餅】に次の記述がある.
 
「長命寺の桜もち」は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業して売り出したのが始まりとされる[7]。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされる[8]。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだという。
 
 本来の長命寺桜餅は,小麦粉を材料とした素朴なものであったろうが,現代の和菓子屋は材料に工夫をして,もち米を粉砕した粉 (もち粉,上南粉,白玉粉など) も少し配合する.(和菓子の材料は,ここを参照されたい)
 槻谷先生は「桜餅は「粉」からなので厳密には「餅」ではない」と主張するが,そうとは言い切れないのが,食べ物の名称のおもしろいところである.
 実は桜餅と似た事情が,関東では江戸時代から川崎大師門前の名物としておなじみの久寿餅にもある.大師門前の老舗「住吉」の公式サイトに,久寿餅の由緒について次の記述がある.
 
口碑によれば、天保の頃(1830~1840)大師河原村に、久兵衛という者あり、風雨強き夜、納屋に蓄えた小麦粉が雨で濡れ損じたため、己むなくこれをこねて樽に移し、水に溶いて放置しました。
翌年の飢饉に際し、思い出して調べたところ歳月を経て発酵し、樽の底に純良なる澱粉が沈殿しているのを発見しました。これを加工し蒸し上げたところ風変わりな餅が出来上がりましたので、早速この餅を時の35世隆盛上人に試食を願いましたところ、その味淡白にして風雅なのを賞して、川崎大師の名物として広めることを奨めると共に、「この餅の名は、久兵衛の久の字に、無病長寿を祈念して寿の一字を附して、久寿餅とされるが宜しかろう」とそれ以来川崎大師にては葛餅(くずもち)のことを久寿餅と記されるようになりました。

 
 要するに久寿餅の名は僧侶がつけたのである.当時の僧は知識階級であり,中国語の「餅」が,本来は小麦粉から作るものであること,和語「もち」に「餅」の字を当てたのは古くからの誤用であることを知っていたに違いない.
 Wikipedia【餅】に以下の記述がある.
 
中華文明圏において、「餅(ピン)」は主に小麦粉から作る麺などの粉料理(麺餅(中国語版))全般を指し、焼餅・湯餅(饂飩・雲呑・餃子の原型)・蒸餅(焼売・饅頭の原型)・油餅などに分類され、小麦以外のヒエ、アワ、コメなどの粉から作るものは「餌(アル)」と呼んで区別があった。》 (文中の下線は,当ブログ筆者が付した)
 
 久兵衛が小麦粉から偶然に拵えた食べ物を,川崎大師の上人様が「(久寿) 」としたのは当然のことだったのである.
 同様に長命寺桜餅も寺が発祥であるからして,その命名に際して僧侶が山本新六の相談にあずかっていたと思われ,小麦粉が材料である故に「餅」の字を当てられたのであろう.
 
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 関西で好まれる桜餅は,普通は道明寺餅という.記述の長命寺桜餅よりものちに考案されたものだといわれるが,材料は小麦粉ではなく,もち米から作る道明寺粉である.これを用いて作る道明寺餅は,アミロペクチンによって粘りが発現している正真正銘の「もち」である.道明寺餅は道明寺「粉」から作るから厳密には餅ではない,とする槻谷説には,無知 勉強不足もここに極まれりというしかない.お料理教室の先生であるなら,少なくとも「もち」と「餅」の区別くらいは知っていて欲しかった.
 
 さて槻谷先生は,自分の説が的外れであるため,どんどん墓穴を掘っていく.まず下の画像の右上に「くず餅」とあるが,単に「くず餅」では「葛餅」か「久寿餅」かわからぬ.「葛餅」は和菓子屋にもあるし,甘味を商うお店でも食べることができる.だが画像右上のものは「葛餅」ではなく明らかに「久寿餅」だ.「久寿餅」が「餅」である理由は既に述べた.
 
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 次に画像の右下の「大福餅」を,槻谷先生は「粉から作られているのになぜ餅?」と書いているが,「粉から作られたものは餅ではない」は自分で勝手に捏ね上げた嘘なのに,その嘘にあてはまらないからといって大福は餅ではないというのは,あまりと言えばあんまりである.もち米から作ろうが,もち粉 (もち米の粉) を使用しようが,大福餅の粘りはアミロペクチンによるものだから正真正銘の「もち」なのだ.
 ちなみにきちんとした和菓子屋は,もち粉ではなくもち米で大福を作っているが,大量生産品でも,もち米を使っている製品はある.槻谷先生は大福はもち粉で作っているとしているが,それは偏見である.
 画像左下の「わらび餅」は,本物の「わらび粉」が貴重品であるため,ごく一部の和菓子店でしか本当の「わらび餅」は販売されていない.古くは江戸時代から葛粉を使用したものを「わらび餅」と称した.
 それはともかく「葛餅」や「わらび餅」は,でんぷんを糊化して作るゼリー状の菓子であり,「もち」とは全くの別物である.今なら食品偽装といわれかねないが,これらが考案された大昔は人々がおおらかだったから,特に難癖をつけられずに,これまで伝統的に「餅」と呼ばれてきたのである.
 最後の左上の「柏餅」は,上新粉で作るから「もち」ではないが,端午の節句の供物であったことに鑑みると,もしかすると元々は「ハレの食事」であり,もち米あるいはもち粉で作った可能性が考えられる.しかし「柏餅」には古い資料がほとんどないので,曖昧に「もちではないのに餅と呼ぶ」とせざるを得ない.
 
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 さて以上までのところで,「もち」について書いてきたが,「団子」についてこれから述べる.
 Wikipedia【団子】に,《団子は、柳田國男説の神饌の1つでもある粢(しとぎ)を丸くしたものが原型とされる 》とあり,この「しとぎ」が,「もち (餅)」や「だんご (団子)」に発展していったとされる.「だんご」が現在のような意味になったのは,おそらく室町時代であるが,その発展過程において,「だんご」は原材料が何であるかに縛られず,あまり大きくない形に成形できる食べ物,といった意味合いを持ったようだ.茶葉を成形し,醗酵させて作る「団茶」の「団」も似た用法と考えられる.
 つまり「もち」と「だんご」は,物の見方,観点が異なるのであり,二つに分けて対比できるものではない.すなわちチコちゃんの出題《お餅とおだんごの違いって何? 》は,論理的に無意味な問いなのである.問いが無意味だから,正しい答えはない.この記事の冒頭に,《この愚問にいとも簡単に答えるやつは一種のペテン師だといっていい 》と書いた所以である.
 というような事情であるから,「もち」でもあり「だんご」でもあるものや,「もち」ではないが「だんご」ではある,といった食べ物を例示することができる.雑穀の団子として有名なのは蕎麦団子だが,これは「もち」ではない.
 越後名物の「笹団子」は,昭和三十年代までの家庭では,もち米から作ったが,現在では土産品にはもち粉も使われるようだ.これは「もち」だが,名前は「団子」だ.
 静岡県の一部では,上新粉で作った月見団子でやや扁平な形のものを,「もち」ではないのに昔から「へそ餅」と呼んでいる.この地方の人々は今でも「餅」と「団子」をはっきりとは区別していない.
 
 ところで槻谷先生は,番組中,上の画像で「平たいもの=餅と名付ける場合も」と言っているが,画像の左上のきな粉もち (赤い↓) は,どう見ても丸い.これが例として全くダメなことは小学生でもわかるが,先生は一体何を考えているのか理解に苦しむ.想像するに槻谷先生は,もうここら辺で自分が何を言っているか,話の収拾がつかなくなったのではないか.とうとう先生は次のようなことを語ったのである.
 
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「もち」と「だんご」を区別するのは無意味なことなのに,どうしても区別したい先生は,ここに至って遂に破綻した.チコちゃんの問いに
 
米の粒から作ったものがお餅で,米の粉から作ったものがおだんごです
 
と答えておきながら,その答はどんどん変化してしまうと言ったのである.すぐに変化してしまうならば,将来どう変化するかが不明である以上,つまり答えはないというに等しい.
 ちなみに,日本和食卓文化協会のコラム《チコちゃん・こぼれ話②餅と団子の違い?~桜餅 》に,以下の文章が掲載されている.
 
今、日本中に流通している【餅】【もち】と名が付くもののほとんどが、実はこの【餅菓子】。
餅菓子とは、材料に米粉・もち粉を使った和菓子全般をさします。
本来ならば、とか、厳密に言えば、を前提にした上で、私は餅と団子の違いを、細かく言いましたが、今の日本人が食べて、【餅】だと思えば、餅菓子だって充分【餅】なのです!
食は時代とともに変化するのが、常であります。
そしてみんな餅も餅菓子大好きですよね?
餅が大好き!食べたい!という気持ちであれば、餅でも餅菓子でもOK♪
なんて、実はこれが日本和食卓文化協会の本音です。
》 (文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 槻谷先生は,今の日本人が「餅」だと思えばそれは「餅」だ,と言う.しかし,そんなに簡単に私たちの食の歴史を切り捨てていいのだろうか.
 昔の日本人の「食」は,その生活および精神の在り方と相互に反映し合うものであったし,このことは現代日本人においても同様である.
食は時代とともに変化するのが、常》ではあるが,長い時を経てどのように変化してきたかを知ることは,現代の私たちの生活と精神の在り方を理解することに繋がっている.それが民俗学や食文化史研究の意味するところなのだ.

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2018年12月23日 (日)

駅弁の地方区 vs 全国区

 waiwai さんのブログに郡山駅の駅弁「海苔のりべん」の記事があった.   
 この弁当は,テレビ番組で紹介されたことから人気が沸騰し,東京駅構内の駅弁屋「祭」で,一時は入荷即完売の状態であったらしい.ブログの掲載写真を見ると,いかにも素朴な弁当である.
 首都圏の業者なら,米飯部分をもっと小さくし,おかずは,仕切りを増やして玉子焼き,焼き魚,煮物などいくつかに区分して詰めるのではなかろうか.海苔のりべんはそれを一ヶ所に詰め込んでいるところが,何気なく東北の心意気を表して潔い.ヾ(--;) 強引だな.
 そういうわけで,私は未食である「海苔のりべん」を唐突に食べてみたくなり,電気工作の部品を秋葉原で調達したいということもあり,昨日,東京駅に出かけた.駅弁屋「祭」到着は午前十時前.
 ところが駅弁屋「祭」の駅弁陳列台には,「先月末で海苔のりべんは販売終了いたしました」と書かれたポップが置かれていた.秋シーズンが終わって,冬の商品入れ替えで海苔のりべんは定番落ちしたらしい.駅弁屋「祭」で販売されている全国区有名駅弁の中には不動のロングセラーもあるが,ローカル駅弁の競争は激しいのだろう.海苔のりべんは,これから郡山駅や福島県内のローカル駅でしか買って食べることのできないレアものになるわけであるが,もちろんそれが駅弁本来の姿であるわけで,ネットで「海苔弁当の最高峰」とまでいわれた海苔のりべんの健闘を祈る.
 とはいえ終売にガッカリしたのは確かで,もうひと月早く来ればよかったなあ.そう思ったが,何も買わずに帰るのは業腹なので,店内満杯の客のあいだを泳ぎながら,売り場をぐるっと回ってみた.
 街中の持ち帰り弁当と駅弁の違いはなんだろう.駅弁の やらずぶったくり コスパの悪さは歴然としている.駅弁は,販売コストと 法外な 必要な利益を確保するために,各地のブランド食材のイメージをフル活用しているわけだが,例えば「○○牛」をうたってはいるが,実際に食べてみればわかるように,料理屋の実店舗で食べることのできる銘柄肉に比較すると,どうしようもない品質なのである.
 品質よりもブランドイメージに頼る駅弁は,どうしても肉に偏重せざるを得ない.そして中心価格帯を千円とする,見た目の茶色い弁当になってしまう.
 持ち帰り弁当はといえば,こちらは主たる購入者が若い人だから,胃袋満足度が高い揚げ物をメインに据えることになり,これも同様に茶色い弁当になる.
 以上のことはデータなしで書いているのでただの私見だが,駅弁の銘柄肉 (地鶏を含む) vs 持ち帰り弁当の揚げ物という構図はそれほど的を外していないように思う.
 
 さて,駅弁屋「祭」の棚の中で,高価格帯の弁当の一つに「大人の休日弁当」がある.これはJR東日本の「大人の休日倶楽部」ブランドで,日本ばし大増 が製造販売しているものだ.日本ばし大増は,JR東日本の飲食事業子会社で,大昔は日本食堂といった.
 で,手に入れ損ねた海苔のりべんの代替に,これを買って昼飯に食べてみることにした.価格は海苔のりべんの二倍で,盛り付けは少しばかり上品にしてあるところが差異といえばいえる.
 
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 画像だけでは 何が詰められているか皆目わからないので,弁当に同封の品書きをスキャンして上に示す.
 これが料理屋さんの品書きならばまことに結構な内容なのであるが,しかし実際にはどの料理も小さな一口大 (それぞれの大きさは,金柑や小粒の黒豆からお察し頂きたい) のもので,羊頭狗肉も甚だしいと言わざるを得ない.
 特にどうしようもない品が一の重の「はじかみ」である.おそらくこれは,生産者に特注して作ったものだろう.露地でもハウスでも,どうやったらこんなに細い「はじかみ」を作ることができるのだろう.普通の太さの「はじかみ」ではなぜいけないのか.矮化するためにプランターで栽培 (「はじかみ」専門生産者のサイトによると,土ではなく川砂に種生姜を植えるといいのだそうだ) するのか水耕栽培するのかは知らぬが,いずれにせよ私は,グリコのプリッツよりも細い「はじかみ」を生まれて初めて口にした.w
 次に酷いのは,同じく一の重の「焼あん肝」だ.生臭くてまずい,の一言である.作ったやつには,自分で味見してみろ言いたい.
 一の重では,「鰤バター醤油焼」がそこら辺の弁当屋の幕の内弁当レベルに到達していたが,あとは,有頭海老煮と揚げ物三品は,いずれもバッサバサであった.「玉子焼」はいかにも業務用の製品であるが,コンビニ弁当の水準には達していた.w
 二の重では「煮物~芋煮風~」に使われた牛バラクズ肉が酷かった.こうしてみると,酷くないものを挙げるのが難しい.w
 イクラを飾った白飯は及第点だが,量が二口しかない.エネルギーの表示はないが,弁当全体でも,たぶんかなり低く抑えられている.その意味では「大人の休日弁当 ~冬~」の名にふさわしい 寒々とした 大人の一食であるといえよう.
 実は,この「大人の休日弁当」の貧相な内容を,私は以前から承知していた.なぜそんなものを買ったのかと問われれば,このブログで弁当現物の画像を示し,ディスるためだと申し上げたい.ヾ(--;)
 下に原材料表示を示すが,この弁当と同じ二千円を払うなら,例えば東海道線大船駅界隈の飯屋で,食品添加物不使用の豪勢な「焼き魚のランチコース」を食べることができるのだ.それと比較すれば, この駅弁の やらずぶったくり コスパの悪さは,駅弁屋「祭」の中で群を抜いている.
 冬の旅では,うまいものを食いたいものだ.これから東北新幹線に乗って一人旅にでようという御同輩には,「大人の休日弁当 ~冬~」を東京駅で買われぬよう衷心からアドバイス申し上げたい.
 
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 ところで,角ハイボールを二本買って新幹線車中の人となるのであれば,東海道線大船駅の弁当屋である大船軒 (JR東日本系列業者) が「祭」で販売している「特製おつまみ弁当 祭」はどうなんだろうと,以前から気になっていたので,これも買ってみた.夕飯用である.
 
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 中身は下の画像.
 
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 弁当の内容を下に示す.
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 原材料表示も示す.
 
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 私は食品添加物を容認する者であるが,それは必要最低限の保存性向上に資する添加物に限る.だが上の原材料表示に書かれた添加物には,見た目上の付加価値など,消費者の利益ではなく製造者側の論理で使用されているものが多い.
 この原材料表示を見て私は,車窓に流れ去る景色を心に映しながら飲むハイボールの酒肴には,奇をてらわずにナッツくらいがいいのかも知れないと思ったことである.
 
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2018年12月19日 (水)

林先生がまたまた大嘘を

 先日 (12/16) の『林先生が驚く初耳学』で,「東郷平八郎と肉ジャガ」という使い古された大嘘が,またまた放送された.
 ざっと以下に番組の当該部分を紹介する.
 林先生への出題は「ビーフシチューの偽物が,日本の家庭料理の定番になりましたが,それは何でしょうか」というもの.
 これに対する林先生の答えは,「東郷平八郎がビーフシチューを作ろうとした」というヨタ話から始まった.(画像↓)
 
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 林先生いわく「ところがレシピはないし材料も不十分だった」(画像↓)
 
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 林先生「そこで日本の調味料でビーフシチューの色を出そうとしたら,現在の肉ジャガができて,これはこれでおいしいじゃないかということになった」(画像↓)
 
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 ナレーション「ビーフシチューから偶然誕生したのが肉ジャガなのです」
 
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 とまあ,林先生が中学生並みの浅薄な雑学知識を披露したあと,番組制作サイドの暴走 (捏造) が始まった.
 下のテレビ画面は,没後に神格化される程の人物であった東郷平八郎が,こともあろうに公私混同して「ビーフシチューを海軍 (舞鶴鎮守府) の担当者に命じて作らせた」というバカ話が,明治三十四年のことだったとナレーションされた場面である.
 
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「明治34年頃」の背景に『海軍厨業管理教科書』 (当ブログ筆者による註;海上自衛隊舞鶴総監部に保管されている) の表紙と,「甘煮 材料 生業肉…」の記述が読み取れるが,実はこの『海軍厨業管理教科書』なるものは,昭和十三年に発行されたものである.地方鎮守府が独自に発行したものを含めて海軍のレシピ集において,最初に「肉ジャガと思しきもの」が記載されたのはこの『海軍厨業管理教科書』が最初であり,これを明治に遡ることはできない.例えば舞鶴鎮守府が明治四十一年に発行した『海軍割烹術参考書』には,「肉ジャガと思しき料理」の記載はない.
 テレビ画面に「明治三十四年頃」と書いておきながら,その背景に昭和十三年の本を,あたかも明治の書物であるかのように掲げるところなんぞは,『初耳学』スタッフが視聴者を騙す気満々であることの証左である.
 明治時代の海軍で肉ジャガが作られたという事実はないのであるが,大正時代に民間で出版された多数の料理本に,現在の肉ジャガに相当する料理のレシピが掲載されている.すなわち昭和十三年刊行『海軍厨業管理教科書』に記載された「甘煮」は,民間の料理本を参考にして書かれたものなのである.
 
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 それではなぜ肉ジャガの発祥話が「明治四十三年頃,東郷平八郎がビーフシチューを作ろうとしたが……」で始まるかというと,これは平成七年に,舞鶴市在住の清水孝夫という男が,舞鶴の町起こしのためにデッチ上げた嘘なのである.(嘘がとっくにバレているのに,それでもまだしらばくれている厚顔無恥サイト舞鶴肉じゃがまつり実行委員会;清水孝夫は故人だが,この実行委員会の代表であった)
 バレない嘘をつくには博覧強記の知識と知力が必要であるが,残念ながら清水孝夫にはその知識知力がなかった.そのため清水は,東郷平八郎がビーフシチューを作れと命じた舞鶴鎮守府になかった材料として,よく調べもせずに,ワインとデミグラスソース等を挙げた (画像↑) のである.
 ところが,明治期にイギリスから日本に伝えられたビーフシチューは,牛肉をトマトソースで煮込んだものであり,ワインやデミグラスソースは使われていなかった.この当時のレシピは上記の『海軍割烹術参考書』に記載されている.清水孝夫が舞鶴の町起こしのために広めた「東郷平八郎がビーフシチューを作れと命じたが材料が調達できなかったので作れなかった」は稚拙な嘘なのであった.
 実は,清水孝夫は,東郷平八郎云々は自分が拵えた作り話であると,のちに公表している.そして,その作り話は,それ以前からある「肉ジャガは海軍発祥の料理」説に基づくものなのであった. 
 
 昔,日本テレビ制作の紀行番組・ドキュメンタリー番組『TVムック・謎学の旅』が日本テレビ系列局等で放送されていた.
 昭和六十三年,この『TVムック・謎学の旅』で,肉ジャガの発祥は海軍であるというデッチ上げが放送された.デッチ上げたのは構成・演出の担当者であった大滝裕史という男であった.
 この番組が拵えた大嘘を全国に広めたのが,元自衛官のライターで,舞鶴や呉の町起こしの協力者として知られる高森直史である.
 その高森直史が書き殴った本の一つ『帝国海軍料理物語―「肉じゃが」は海軍の料理だった』(光人社,2010年) に,『TVムック・謎学の旅』が「肉ジャガの発祥は海軍」説を捏造する過程が記されている.「肉ジャガの発祥は海軍」説は日テレと高森直史の合作であるが,肉ジャガの発祥に関する『TVムック・謎学の旅』が一回だけの放送であったのに対して,現在もなお「肉ジャガの発祥は海軍」説の嘘を発信し続けて (印税を稼いで) いる高森直史の罪は大きい.高森が恥を知る人間であるならば,自分が書いた嘘八百本を絶版にして,筆を折ってしかるべきである.
 
「肉ジャガの東郷平八郎由来説」や「肉ジャガは海軍発祥説」を都市伝説だとする人たち (Wikipedia【肉じゃが】など) がいるが,商業目的のために嘘の話を拵えて拡散した者の実名が明らかになっているのだから,これを都市伝説と呼ぶのは正しくない.
 また,これらの説が嘘であることが世間によく知られているにもかかわらず,知ったかぶりして得々と解説し,無知を披露した林先生は嘘を再生産したことになる.まことに恥ずかしい.
 
[参考文献]
「肉じゃが海軍起源説はこうして捏造された」
 著者;光デパート, 『と学会誌34』(と学会,2014年) に収録.
 ただし,光デパート氏は,デマゴーグ清水孝夫が舞鶴町起こしのために食文化史の捏造をしたことを容認している.しかし私は,清水孝夫が実行委員長として得たものが,マイナスであることが証明されない限り,そこに私欲が存在すると考える.ならば清水にも「嘘吐きは泥棒の始まり」という原則が適用されるべきである.

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2018年12月18日 (火)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18) 》の末尾を再掲する.

さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.

 ゴーフルでお馴染みの凮月堂は,創業家,暖簾分け店,それらに無関係の同名店などがあって,ややこしい. Wikipedia【風月堂】に書かれているように,江戸時代創業の菓子商の直系は「凮月堂総本店」であるが,この店は後継者がなくて途絶えた.しかし,嫡流ではないものの創業家に家系を遡ることができる傍系の「上野凮月堂」は今も健在である.
 この凮月堂総本店の番頭であった米津松造は明治五年 (1872年),暖簾分けによって両国で「凮月堂米津本店」を開いた.さらに明治十年 (1877年) には銀座に「米津分店南鍋町凮月堂」を出店した.この後,米津松造系の凮月堂には,経営破綻,経営譲渡,吸収合併などがあって,一般消費者には何が何だかわからないことになる.
 それはともかく,米津系凮月堂の現在の店名である「東京凮月堂」が公式サイトに掲げている《沿革 》には《1877年 (明治10年) フランス料理を開業、カレーライス、オムレツ、ビフテキ (*) 等を8銭均一で売る 》とある.確か,その事実を示す資料は東京凮月堂が持っていると報道された記憶がある.(* 当ブログ筆者註;ビフテキはステーキのフランス語料理名)
 ただし,この明治十年のレシピがどのようなものであったかは資料が見当たらない.米津分店南鍋町凮月堂がフランス料理店であったことからすると,この《カレーライス》は日本風のカレーライスではなく,カレー風味のピラフ“ Riz au Cari ”だった可能性があると言われても,否定できない.
 また Wikipedia【カレーライス】

1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる

と書いているが,東京凮月堂自身は《初めて日本で 》カレーライスをメニューに載せたとは主張していない.単に「カレーライスを売った」としているだけである.つまり他のホテルレストランや西洋料理店にもカレーライスがあった可能性は否定できない.
 では Wikipedia の《初めて日本で 》は,どこから出て来たのか.当事者が主張していないことを第三者が述べるのであれば,その《初めて日本で 》の根拠を示さねばならないはずだが,例によって Wikipedia は出典を示していない.おそらく《初めて日本で 》は根拠のない独自研究である.
 ちなみに,吉田よし子『カレーなる物語』(筑摩書房,1992年) は,いい加減な嘘が書かれており,それが井上宏生 (『カレーライス物語』『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』)によって真偽を確かめもせずに繰り返し孫引き (根拠が『カレーなる物語』であることを井上自身が明らかにしている) され,カレー関係誤情報の発信源となった本であるが,凮月堂の件は,『カレーなる物語』では次のように書かれている.

明治一六年に鹿鳴館が開設され、ヨーロッパ風の仮装舞踏会などが催されるようになると、日本の洋風化はさらに拍車がかかった。
 そして明治一九年 (一八八六) には凮月堂がライスカレーをカツレツやオムレツ、ビフテキなどと並べて八銭で食べさせはじめた。

 つまり凮月堂がカレーライスを売り始めたのは明治十年どころか,その九年後,鹿鳴館開設よりも三年もあとのことだとしている.吉田よし子『カレーなる物語』は出典も参考図書も全く挙げていないので,この説がどこから出てきたものかは不明であり,さすがにこのデタラメは,井上宏生の著書では採用されていない.

 さて凮月堂のカレーライスには後日談がある.

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2018年12月16日 (日)

滅びゆく味噌汁

 カンボジア旅行から帰国してすぐに寝込んで,もう五日が過ぎた.倦怠感と鼻腔粘膜の炎症 (鼻づまり) は軽くなったのでベッドから起き上がったが,依然として下痢が止まらない.
 困ったことに腹を下している割に食欲は普通なので,お粥を炊いたり (といっても米から炊くのではなく,パック御飯をレンジ加熱し,それを煮て作る簡易粥だが),素麺または細うどんを煮て食べている.
 トレーニングをしない上に,炭水化物中心の食事だと,筋肉が落ちてしまわぬか心配だが,回復するまではジムに行けないから仕方ない.まずは元気になって,それからリハビリだ.

 さて動物実験や臨床のデータがあるかどうか知らないが,消化器が弱っている時のタンパク質源は,脂肪の多い肉ではなく,淡白な白身魚,鶏卵あるいは大豆製品がよいような気がする.たぶんこれは肉料理の喚起するイメージが影響しているのであり,肉料理が消化しにくいわけではないとは思うが.
 そういうわけで,豆腐の味噌汁に卵を落として半熟にしたのなんかは,理想的な病人食のように思われる.味噌に含まれる食塩の量に注意が必要だが.
 ところが,岩村暢子さんの著書を読むと,今や日本の家庭から伝統的な作り方の味噌汁が姿を消したらしい.
 子供に食事を作らねばならない母親たちが味噌汁を忌避する理由は,野菜を切ったり煮たりする「面倒感」のようだ.私なんかからすると,味噌汁を作る手順のどこが面倒なのかさっぱり理解できないが,クックパッドを閲覧するとわかるように,彼女たちにとって大切なことは「おいしさ」や「栄養」ではなく「時短」と「簡単」であるから,鍋に材料全部をぶち込んで一手間で作れるわけではない味噌汁は,日常食ではない,作ることが誇らしいポジションにある「凝った料理」なのだ.
 そこで,岩村さんの調査に登場する家庭では,一旦作った味噌汁を鍋のまま冷蔵庫に入れて,繰り返し温めて食べることになる.さらには,具を継ぎ足してずっと冷蔵庫に保存されたりもする.鰻屋の秘伝のタレかよ.
 そしてそこから「味噌汁は一晩寝かすとおいしい」という境地までは,指呼の間である.
 例えばブログ《WOW! FOOD!! 食に関することやその周辺の話題を発射 》の記事《一晩寝かす 》を御覧頂きたい.そこに次のように書かれている.

しかし、カレーだけが寝かせるとうまいわけではない。
私の勘によると味噌汁も寝かせるとうまい。
夜に作った味噌汁を次の日の朝に飲むのだ。
身体にしみ込むあのうまさ。熟味噌汁。
朝だからうまいのかもしれない。
具は大根が一押し。
味噌汁は寝かせすぎると酸っぱくなるので気をつけてね。
本当は寝かさない方がいいかもね。

寝かせすぎると酸っぱくなる》とか暢気なことを書いているが,そりゃ腐敗が始まっているのですよ奥さん.カレーと味噌汁は夏場に腐敗しやすい料理の二大巨頭なのだ.w
 ブログだけではなく,滅びゆく味噌汁文化の残影はクックパッドにも投稿されている.
 例えばつい最近 (12/2) 投稿された《基本の味噌汁(おもてなし和食土鍋使用) 》だが,説明写真を見るとキッチンスケールを使用しているにもかかわらず,材料リストに量の指定がない.それどころか,手順の説明の中で「こうじ味噌」とあるだけで,どのような「こうじ味噌」なのかの説明もない.「こうじ味噌」といっても千差万別であり,それだけでは全く味噌の説明になっていないことを,投稿者は知らないのだと思われる.
 投稿者は《優しい味の味噌汁が好きで、試行錯誤してレシピを考えました 》と書いているが,試行錯誤しなければこの程度の雑駁な味噌汁も作れぬのか.私は思わずはらはらと落涙した.
 
「日常の食事は御飯と具だくさんの味噌汁で充分」(『一汁一菜でよいという提案』,グラフィク社,2016年) であると土井善晴先生は仰るが,それは人間というものを信頼しすぎかもしれない.料理することが死ぬほど嫌いで,玉葱の薄皮を剥くのも嫌だという者にとって「具だくさんの味噌汁」は,自分とは無関係な別世界のお話であるに違いない.
 料理することが死ぬほど嫌い,というのは文学的修辞ではない.下に,岩村暢子さんの『家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇―』(新潮社,2010年) の「あとがきにかえて」から長目の引用をする.
 
【食DRIVE】調査では、本当にいろんな家庭を見てきた。だが、中でも2年前の調査で出会った忘れられない家がある。休日の朝、子供たち (10歳・9歳) は「普段どおり自分たちで」食パンを焼いて食べている。主婦は食べず、夫はお握りを持って出かける。昼は子供に買わせた菓子パンを母子で食べる。夜はスーパーで子供たちと主婦が選んだ揚げ物など惣菜類をパックのまま出して親子4人で食べる。終日、親が選んだり作ったりした料理がないし、野菜もほとんど出てこない。こんな日が続くのだが、主婦 (36歳) は「野菜がないことなんか気にしない」「子供たちは学校給食があるから大丈夫よ」と笑う。
 さらに聞けば、この主婦は以前子供たちから「ママはなぜちゃんとした朝ごはんを作らないんだ」と抗議を受けたことがあるという。そこで、ご飯・味噌汁・おかずを作り、子供たちを早くから起こして正座させ「(お前たちが言ったのだから) 完食しろ」と迫ったそうだ。せっかく作ったのに無駄にされてはたまらないという思いがあったのだ。
 それが数日続くと、子供たちはベソをかき始めた。すると主婦は「親も子も嫌な気持ちになるくらいなら、もういい」と再び朝食を作らなくなった。以後、この家の子供たちは朝食が食べたければ自分で用意し、昼や夜は、お腹がすくと親には言わず、勝手に近所のおばさんの家に食べに行くこともある。しかし、主婦は「これはヤダあれはヤダと言われるよりも、私は子供に選ばせるようにしているから」と、まるで子供の自主性に任せているかのように語る。
 私は苦いものを飲み込んだような気がして、しばらくこの家のことが頭を離れなかった。家庭とは、家族とは、親とは、いったい何であったろうかと思ったのである。さまざまな事情を考えて、百歩譲っても、10歳以下の子供に対し要求されなければ朝食を出さないのは親と言えるだろうか。言われてようやく作っても、その自分の行為を無駄にされたくなくて正座で完食しろとお仕置きのようなことを子供に迫るだろうか。そして、耐え切れなくなった子供が食べ残して泣くと、以後作らなくてもよい口実として平気でいられるだろうか。「嫌な思いをするくらいなら」食事作りさえ放棄できるだろうか。空腹で近所のおばさんの家に食べに行ってしまう子供を見て見ぬ振りできるだろうか。やむなく子供が自分で選ぶ行為を自主性と思えるだろうか。
 だが、ふと考えると同じような話を私はたくさんの主婦から幾度となく聞いてきたのだと気づいた。この家は、単にそれらのわかりやすい典型例に過ぎなかったと。

 
 この一節のあと岩村さんは,「わかりやすい典型例」の類型をいくつも挙げる.岩村さんは,昭和から平成にかけての家庭の食事の変遷を追いかけているうちに,楽しかるべき家庭の食事が遂に児童虐待の道具と化した現場に辿り着いたのだった.
 家庭の経済的困窮が理由で満足な食事を与えられない児童数は,日本は先進国で最悪の状況と言われるが,しかし遅ればせながらもようやく現在,行政の手が貧困児童たちに差し伸べられようとしている.
 だが,家庭が貧困ではないのに,親の手で栄養不良状態に追いやられている子供たちは,貧困児童よりもはるかに多いような直感が,私にはする.病気になったときに,親が落とし卵の味噌汁を作ってくれない子供たちを,政治はどうすればいいのだろう.

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2018年12月13日 (木)

体調絶不調

 先日,成田空港からプノンペンへの全日空便で,隣のシートの客からインフルをうつされたようだ.
 隣の席の男は,離陸前から傍若無人に激しくせき込んでいて,私は非常にむかついたので,トラブルになるかも知れないとは,思いつつ言ってみた.
「マスク,持ってないんですか?」
すると男は「はあ?」と怪訝な顔をした.
「咳をするときはマスクして欲しいんですよ」
「ほー,そうなの」
と言ってポケットからマスクを取り出した. (持ってるんじゃねーか!)
 しかしそいつは,暫くはマスクをしていたが,機内食が来るとマスクをはずし,食い終わっても,そのままでマスクをしようとはしなかった.
 再度クレームをつけるとトラブルになりそうだったので,フライトの間中,私はその野郎の咳を浴び続け,そして今インフルエンザで寝込んでいる.
 軽い胃痛と激しい下痢で,たぶんB型だろう.

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2018年12月11日 (火)

お箸の国の人なのに (四)

 昨日の朝,カンボジアの遺跡を巡る旅から帰った.色々あっておもしろい旅だったが,まだ書き始めていない旅行記がいくつもあり,今回の旅日記のアップはいつになるかわからない.それで,それとは別にエピソードを一つ,話のマクラにして先に書いてしまう.
 今回の旅程は,成田からプノンペンへ全日空で行き,そこで国内線に乗り換えるスケジュールだった.私の自宅から成田空港へは,朝のフライトの場合は大船発の成田エクスプレスで行くのがアクシデントが少ないが,今回は大船駅から総武線快速で成田に行き,成田のアパホテルで前泊することにした.これだとどんな電車運行トラブルがあっても大丈夫である.前泊前提なら,電車の他に藤沢駅から成田空港行のバスも使える.
 で,アパホテル・京成成田駅前に泊まった翌朝,朝食ブフェ会場で同じ四人掛けテーブルで相席 (右斜め向かい) になった男が,ちょっとおもしろかった.
 その男は,大皿に何種類かのおかずを載せ,飯と味噌汁と納豆を席に持ってきた.そして箸を手にしたのだが,その持ち方が,前回の記事《お箸の国の人なのに (三) 》で紹介した永谷園方式だった.つまり,二本の箸を密着させて一本箸として使う方法である.
 この方法では,箸で食べ物を挟んで持つことができない.どうするのか視界の端で見ていると,まずかき混ぜたカップ入り納豆を,飯の上にどさっと載せた.そして飯茶碗の上で,飯と納豆をかき混ぜた.それから茶碗に口を付け,粘る納豆混ぜ御飯を「スプペーッポ」とひょうきんな音を立てて吸い込み食いした.チャーハンとかカレーの吸い込み食いは「スポッ」と短い音だが,納豆かき混ぜ丼はキレが悪いので,どうしても「スプペーッポ」となるのであろう.
 彼が納豆かき混ぜ丼の次にどうしたかというと,大皿を左手で持ち上げ,野菜の旨煮みたいなおかずを飯の上に箸で流し移し,何だかよくわからない丼物を作った.そしてこれを吸い込み食いして全部食べたところで,席を立ち,飯のおかわりを持ってきた.そして今度はその上に味噌汁をぶっかけた.さらにウインナソーセージとスクランブルエッグを皿から移し載せ,ずるずると掻き込み食いをした.
 完成したものを横目でチラと見ての感想だが,これは,手順は前後するけれど,飯に「ウインナソージとスクランブルエッグの味噌汁」をぶっかけたものに等しい.
 そういえば,家庭料理研究家の土井善晴先生が「日常の食事は,おかずを作らんでも,具沢山の味噌汁と白い御飯でいいのです.味噌汁の具は,ウインナでもよろしですよ」とテレビの番組で言っていたような気がする.
 それから,卵を溶き入れた味噌汁は私も時折作る.なかなかおいしいものだ.
 従って,件の男が即席に拵えた「ウインナソージとスクランブルエッグの味噌汁ぶっかけ飯」は特に珍品ではないし,これをぶっかけた飯は,もしかするとうまいのかも知れないと思った.
 
 さて本題.
 少し前 (11/23) に,NHKで『お取り寄せ不可!? 列島縦断 宝メシグランプリ』が放送された.
 
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 番組公式サイトのトップページ左上に,司会の井ノ原快彦が箸を持っている画像が載っている.
 
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 画像 (ブラウザ画面のハードコピー) に矢印で示したように,親指と人差し指,中指の三本で上側の箸を保持している.これは正しい箸のもちかたであり,見ていて気分がよろしい.イノッチの好感度,ますますアップである.
 
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 で,番組内容はなかなかおもしろかったのであるが,この記事では,出演者たちの箸の持ち方を少し紹介しよう.
 まずは昭和二十年生まれの服部幸應先生.箸の持ち方は正しいが,番組中,肘をついていることが多く,姿勢が悪かった.お疲れなのかも知れない.
 
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 次は「つきぢ田村」の田村隆氏.昭和三十二年生まれ.
 以前,テレビ東京『和風総本家』で,外国人の研修生が「つきぢ田村」で短期間の修行をするという企画が放送されたことがある.その時に田村隆氏は,研修生に徹底的に箸の持ち方,遣いかたを練習させ,箸遣いは日本料理の基礎にあると語っていた.もちろん下の画像にあるように,正しい箸の持ちかたである.
 
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 次は料理研究家の土井善晴先生.田村隆氏と同年生まれであるが,残念ながらダメな箸遣いの典型例である.
 
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 この番組を観ていて思ったことは,土井先生に限らず,料理のプロでも子供みたいな箸の持ちかたをする人が多いのだなあということである.ましてや料理好き芸能人においておや.
 下は中尾彬のダメ箸.中尾は戦中派であるが,戦時中は躾けどころの話ではなかったのだろう.
 
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 続いてデヴィ夫人とアンミカさんの例.アンミカさんの方がまだマシである.
 
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 下の画像の左はビビル大木で,手前の女性は,NHK熊本放送局の畠山衣美アナウンサーである.畠山アナは美人だから見なかったことにするが,ビビル大木の人差し指は意味不明なことになっている.
 
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 上の画像右側は,奇想天外自由奔放な発言と料理で知られる「料理愛好家」で,昭和二十二年生まれの平野レミさん.親指が反り返って,ヘンな持ちかたになっている.私も親指の関節がかなり反り返るが,箸を持つ時にレミさんのようにはならない.そこで色々と試してみたところ,箸や包丁を持つ時に親指を反り返らすには,親指の付け根の筋肉に余計な力が入ることが分かった.余計な力とは,道具を自由に使うのを妨げるものである.三谷幸喜が平野さんの料理を評して「雑です」と言っているが,平野さんはきっと,細かい作業に向いていない人だと思う.
 向かって左は平野さんが「嫁」と呼んでいるモデルで食育インストラクターの和田明日香さん.服部幸應先生もそうであるが,さすがに食育関係のかたはきれいな箸の持ちかたをなさる.しかし次男の嫁の立場で義母に箸の持ちかたを説教するわけにはいかないだろうなあ.
 
 私と同世代の人たちは,平野レミさんのように箸を正しく持てない人が多数派である.箸の持ちかたは,家庭料理と同じで親からの「伝承」のようなものである.親が教えないと,子は箸をきちんと持てなくなる.箸を正しく持てない親の子は,正しく箸を持てない.戦後における家庭料理の「伝承の断絶」については岩村暢子さんの論考があるが,料理と同様に,箸の作法も「伝承」されなかった.そうして日本の箸の文化は衰えたのである.ついでに言うと,平野レミさんの「料理」は,日本の家庭料理の「伝承の断絶」の上に成立していると私は思う.彼女が美しく箸を持てないのは当然なのである.
 ちなみに箸の持ちかたは,万年筆や鉛筆などの筆記具と同じである.従って箸をちゃんと持てない人は字が下手である.(毛筆を除く)
 箸の持ちかたが正しくても達筆とは限らないが,箸の持ちかたが間違っている場合は確実に金釘流である.従って現代の日本人は,字が下手な者ばかりとなったのである.

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2018年12月 8日 (土)

旅行中です

 今,カンボジアを旅行中だ.年金暮らしに入る前から,アンコール遺跡を見てみたいと思っていたのだが,ようやくそれが叶った.
 今回のカンボジアはツアーなのだけれど,男性参加者は私ともう一人の二人だけ.国内でも海外でも,私が参加するツアーはほとんど女性ばっかりだ.ほんとに女性は元気だなー.
 帰国は明後日の早朝に成田着だ.ブログ更新はそれ以降になる予定.

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2018年12月 7日 (金)

お箸の国の人なのに (三)

 この連載の第一回で,味の素社は食品のCМに関する見識がないと書いた.ただ,同社とは私が現役会社員だったときに仕事で関係があったこともあり,少し弁護する.
 三田佳子さんを採用した「ほんだし」のCМには欠点があるが,しかしそれは同社の見識を云々される程度のことであって,日本の食文化を破壊しようなどという悪意はなかったと思う.他の食品企業についても味の素社と同様である.しかし,日本の食品業界にただ一社だけ,意図的に日本の食文化を愚弄した上場企業がある.永谷園だ.
 三田佳子さんの「ほんだし」CМからおよそ十年後,悪名高い永谷園のCМが全国に流れた.「お茶づけ海苔」のCМである.(今でも永谷園のサイトに掲載されているバージョンはここ,YouTube にもある)
 このCМ一発で,「大きな音を立てて口に食べ物を掻き込んではいけない」という私たちの慎み深い食事作法は破壊されてしまった.
 当然ながら,この浅ましいCМを不快だとする批判が永谷園に殺到したが,同社はこれを無視する作戦に出た.消費者からの電話に対して,ありがとうございますの一言もなく慇懃無礼に「ご意見は承っておきます」の一点張りで突っぱねたのだった.今でも永谷園の消費者対応部署の電話対応には,はらわたが煮えくり立つ.
 このCМについて,永谷園の公式サイトに次のような説明がなされている.
 
このCMには、当時、有力広告代理店数社が参加した「お茶づけ海苔」新CMの制作コンペのビデオコンテの中で、若手人気タレントのダミーとして出演していた彼の食べっぷりの良さが当社、社長の目にとまり、社長の直感で起用を決断しました。
 
 当時の永谷園の社長は,卑しい食い方を「食べっぷりの良さ」だとした.つまりその社長も卑しい食い方をする人間だったと想像される.
 それはさておき,下の画像は,当該CМの再生画面をハードコピーしたものである.
 
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 上の画像中に↓で示したが,親指が人差し指の上に乗っており,中指は掌側に握り込まれて箸に触れていない.このデタラメな箸の持ち方では,箸先を開いたり閉じたりできない.そのため,二本の箸はくっついて,一本箸になってしまっている.従ってこの男は,普通の炊いた御飯の場合でも,飯茶碗に口を付けて掻き込むやり方でしか食べることができない.この体たらくを見て「良いたべっぷり」であるとした永谷園の社長も,必ずやこの男と同じくデタラメな箸の持ち方をしていたと考えられる.
 
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 上の画像は,この男の飯茶碗の持ち方である.見た目にきれいな茶碗の持ち方は,親指以外の指を揃えて,その上に茶碗の高台を載せるという形である.しかるにこの下品な男は,横から茶碗を掴んでいる.親の顔を見たい,とはこのことだ.
 ともあれ,このCМ以後,永谷園は「箸や茶碗の持ち方なんかどうでもいいんだ,ガツガツと卑しく飯を食うのがいいのだ」というメッセージを流し続け,今ではテレビの食い物番組に出てくる連中は,永谷園流の食い方になってしまった.お箸の国の人なのに.
 ついでだから,チャーハンの素のCМも槍玉に上げる.
 この下衆男は,散蓮華に載せたチャーハンを口に入れる時に,チャーハンと一緒に空気を吸い込んでいるのだが,その音がスポッスポッとうるさい.大衆食堂で,横の席の男にずーっとこれをやられたら,大抵の人は気が狂いそうになるだろう.カレースタンドでも時折,この手の野郎がいる.
 で,最後にこの永谷園野郎は,あろうことか皿に口を付け,音を立ててチャーハンを掻き込み,食い終わると皿の上に散蓮華を放り投げた.このCМの放送を決定した当時の永谷園の社長も,フランス料理の皿に口を付けて掻き込み食いし,食い終わるとナイフとフォークを皿の上に放り投げたのであろう.
 口にする食べ物をありがたく大切にするという気持ちは,食器を大切に扱うという食文化を育てる.永谷園は,食べ物と,食べることを大切にしない会社である.それは,飯粒が食い散らかされた皿の上に散蓮華を放り投げるCМのシーンに表現されている.

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2018年12月 6日 (木)

藤沢駅北口 「渓源」

 辻堂駅北口のテラスモール湘南 (このショッピングモールを地元の若い人たちはテラモと呼ぶが,私のような老人がテラモなんて言うのは気恥ずかしいので,敢えてテラスモールと書く) の中にある109シネマズで『くるみ割り人形と秘密の王国』を観てきた.
 この作品は,ヒロインのクララは魅力的な少女なのであるが,その他のキャラクターたちが,もう全然ダメな駄作だった.
 邦題『くるみ割り人形と秘密の王国』は原題“ The Nutcracker and the Four Realms ”ほぼそのまんまだから,誰だって「くるみ割り人形」が重要な役割を演じると思うだろう.ところが,ほんの端役に過ぎないのだ.「くるみ割り人形」はいなくても構わないくらいで,この映画はヒロインだけが活躍するのである.(*脚註)
 しかも,作品の演出が,張られた伏線を回収しながらストーリーが進行するという普通の形になっていない.一本道を進んでいって終わってしまうし,ヒロインの名付け親として登場する最重要人物ドロッセルマイヤーが何者かは,遂に明らかにされなかった.「金を返せーっ」的な作品だったから,興行的に失敗するんじゃないか.
 私は原作である『くるみ割り人形とねずみの王様』(ドイツ語“ Nußknacker und Mausekönig ”) のストーリーを知らなかったので Wikipedia 等で粗筋を読んでみたが,原作のほうがファンタジーとしてはるかに優れている.
 今回の実写版「くるみ割り人形」のラストの部分に,ドロッセルマイヤーによる後味の悪い差別的な台詞があり,よくもまあこんな脚本が採用されたものだと,幼い観客に対する教育的見地から私は呆れた.

「かねを返せ~」とつぶやきながら映画館をでると,丁度昼飯の頃合いだった.テラスモールのレストラン街はそれほど混雑していなかったが,藤沢駅に戻って,中華を食うことにした.いや,食うというより,駄作を観てしまったので,悔し紛れに昼飲みしたかったのだ.
 昼飲みジャンルを中華に決めたのは,この夏,駅の北口を出て数分歩いたところに「渓源」という店がオープンしたからである.ところがこの店は日中「通し営業」ではなく,私がジムに通うために藤沢駅辺りに出かける時間帯はいつもシャッターが下りていた.そのため今まで訪問してなかったのだ.
 さて店の中に入ると,内装は特に中華料理店という造りではなく,ありきたりな定食屋みたいな内装だった.
 フロア担当というか配膳係というか,厨房外の店員さんはおばさん系で,柔らかい雰囲気があって,これはよい.しかし彼女らは日本人ではないようで,食いたいものをオーダーする時は,アイコンタクトすると来てくれる.料理の注文に,店員さんは無言でうなづくだけで,復唱はしなかった.これでだいじょぶかなー.
 で,私はメニューを開いてすぐ「あ,これは一人で昼飲みに使える店じゃないなー」と思った.一品料理は一皿千円以上のものが多く,ハーフポーションがないのだ.色んな料理を楽しみたい場合は,六,七人で連れだって来る必要がありそうだ.
 しかし初回なので,お手並み拝見の意味で,献立の中では値段の安い八宝菜 (\980),手羽先の唐揚げ (\680),焼き餃子 (\350) の三つを注文した.言い忘れたが,水はセルフ,おしぼりはナシである.手羽先の唐揚げは手で掴んで食うことになるが,汚れた指先は紙ナプキンで拭かねばならない.
 味の評価だが,八宝菜は酷かった.使われている材料はまあまあ普通の中華料理店の水準であるが,味が単調で,しかも全く旨味が感じられない.牡蠣油などの旨味系調味料を使っていないようだ.あるいは,八宝菜は材料を炒めたあとにトロミをつけるが,その際にスープを加えるとかの仕事もしていないと思われた.その結果,そこら辺の大衆中華食堂の八宝菜に味で負けている.
 餃子は,メニューに海鮮餃子や肉餃子など色んな種類のものが載っているが,私が注文した「焼き餃子」はその中で一番安いやつだ.そのせいか,スーパーの惣菜コーナーで売っている安いやつと同グレードの味だった.お値段以下である.ファミマの「お母さん食堂」の餃子のほうが安くておいしい.
 だが世の中は捨てたものではない.皿に盛られた手羽先唐揚げのボリームに,私は思わずのけぞった.食べてみると,カリっと揚がっており,これは酒のお供に大変よろしい.この一皿でハイボール (\430) を三杯は飲める.しかるに私は三品も注文してしまった結果,腹が膨れてハイボールを二杯しか飲めなかった.
 全体的な印象では,おコゲ料理がメニューに載っているところを見ると北京料理系統かと思いきや,点心もあるし,四川麻婆豆腐や上海焼きそばや台湾麺もあるという具合で,この店はインター中華料理なのだろう.もちろん麺類は全部日式だから,中国料理ではないサンマーメンもある.
 酒の肴ではなく食事の料理としては,まだ八宝菜しか食べておらず,他の料理はまともかも知れないから,おいしくない店の烙印を押すのはまだ早いだろう.あともう一回くらいは来るかもね.
 
(*脚註)
 白雪姫やシンデレラのように「白馬の王子さま (強い男) が幸せにしてくれるのを待っているヒロイン」をディズニー・プリンセスと呼ぶ.そのようなヒロインが登場する映画は山のようにあるが,ディズニー作品の場合だけ「教育的見地から」徹底期にバッシングされてきた歴史がある.そのため,ディズニー作品には,ディズニー・プリンセスに関する自虐ネタが出てくることがある.(例えば最新作シュガー・ラッシュ:オンライン』の予告編に,ディズニープリンセスが勢ぞろいしている場面がある.そこでラプンツェルに「つよーい男性に幸せにしてもらったって,みんなに思われてる?」と質問されたヴァネロペが「そう!」と肯定すると,「本物のプリンセスよ!」と仲間に入れてもらえる w)
 このアンチ・ディズニー派からの批判を回避するには,ヒロインを強くする必要がある.原作は「くるみ割り人形」がヒロインを幸せにしてくれるというストーリーだから,そのまま映画化すると批判される.それでこんなおもしろくない脚本になったのだろう.
 
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2018年12月 5日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 17) 》の末尾を再掲する.

私たち戦後生まれの読書人が柴五郎に抱いている人物像は,『警視庁草紙』に描かれた柴青年なのである.

 さて私は,柴五郎を恨み辛みに凝り固まった男として描いた石光真人著『ある明治人の記録』が,日本近代史を叙述する際の出典として採用できない性質のものであることを,これまでに述べてきた.
 石光真人は,『ある明治人の記録』第一部を編集する際に《当用漢字 》(柴五郎の没後に制定された) を用いたと明記していることから,第一部の編集時期が柴の没後であることが明らかである.従って『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎による著者校正が行われていない.しかるに第一部は「遺書」と題して,柴の第一人称で書かれている.これは歴史の偽造であり,『ある明治人の記録』第一部は偽書であることを示している.これに騙されて,ネット上では『ある明治人の記録』第一部の著者は柴五郎であるとの誤解が広まっており,大きな問題である.『ある明治人の記録』第一部の著者は石光真人なのである.
 日本のカレーライスについても,幼年学校 (のちに陸軍幼年学校と改称さる;脚註) の給食 (土曜日の昼食) にカレーライスが提供されたと『ある明治人の記録』に書かれているが,この記述は,幼年学校ではフランス式の食事が提供されたということと矛盾し,信用できない.
 そこで,カレーライスの発祥を追うために,もう一度,Wikipedia【ライスカレー】の《年譜 》に戻る.

1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介。
 1864年(文久4年)、江戸幕府の横浜鎖港談判使節団の岩松太郎が、船中でアラビア人が食事する様子を見て「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のどろどろのような物を掛け、これを手にてまぜ手にて食す。至って汚き人物の者なり」と日誌に記している。
 1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。また、同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された。
 1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
 1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
 1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。

 まず《1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介 》だが,福沢諭吉は軍艦咸臨丸に乗り込んで渡米した際,サンフランシスコの書店で『華英通語』という中国語と英語の辞書を手に入れた.帰国後,この辞書に載っている言葉 (英語の部分) に日本語の発音を書き入れ,『増訂華英通語』として出版した.従って福沢諭吉は,辞書から辞書を作っただけであり,カレーがどのようなものであるかは知らなかったと思われる.この辞書では Curry の発音を「コルリ」と表記しているが,実際に英語の発音を聞いて「コルリ」と書いたのか疑わしい.スペルから発音を想像しただけだろう.
 
 次の岩松太郎が《船中でアラビア人が食事する様子を見て … 》以下は,吉田よし子が著書『カレーなる物語』中で,この目撃談は岩松太郎ではなく三宅秀のものであると嘘を書いたために,いくつかのカレー関係の本やブログに,孫引きされて嘘が定着してしまった.だが,この点は Wikipedia【ライスカレー】の記述が正しい.ただし,《芋のどろどろのような物 》がカレーだったという証拠はない.そして,岩松太郎が目撃した料理がカレーだったとする説を誰が唱えたのかは不明である.もしかすると吉田よし子かも知れない.
 
 次の《北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された 》は,既に述べたように,こじつけだと思われる.
 
 続く《同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された 》は事実であるが,著者らが実際にカレーを作ったかどうかの保証はない.これらは単なるレシピ集である.
 
 その次の《1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》は,詳述したように,根拠のない説である.
 
 また《1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが … 》については,札幌農学校の寮でカレーライスが提供されたとする根拠はないと北海道大学当局が明言している.これは伝説と言っていいだろう.

 さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.
 
(脚註) 『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎が入学した帝国陸軍の教育機関の名称を《陸軍幼年生徒隊 (陸軍幼年学校の前身) 》としている.ところが Wikipedia,ブリタニカ国際大百科事典,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書 (ニッポニカ),百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,大辞林第三版等の辞書,事典には《陸軍幼年生徒隊 》は見当たらない.またウェブを検索しても陸軍幼年生徒隊 》はヒットせず,書籍をも調べたが,発見できなかった.『ある明治人の記録』が間違っているのか否かは,防衛省に出かけて史料を調べないと決着はつかないかも知れないので,深追いはしない.

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2018年12月 4日 (火)

お箸の国の人なのに (二)

 岩村暢子さんの著書『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』に書かれているが,今の若い人たちは丼物が好きだそうである.
 ここでいう丼は,昔からある天丼,親子丼,玉子丼,カツ丼などではなく,白飯の上におかずを載せたもの全般を指す.
 その一例に「納豆丼」がある.これがどんなものかというと,丼に飯を盛り,その上に普通に掻きまわして調味した納豆を,飯が見えないくらいにどっさり載せる.普通の人が納豆を食べるときは,飯の上に一パックの納豆全部を載せたりはせず,御飯の白いところが見えるくらいの量の納豆を載せ,一口ずつ箸先に納豆と飯を載せて口に運ぶが,そうではなく「納豆丼」にすれば,丼の縁に口をつけて,がつがつ掻っ込んでもいいような気分になるのだろう.
 この方法を用いれば,何でも丼にすることができる.冷蔵庫に入っているウインナソーセージを袋から出し,丼飯の上にどっさり載せれば「ウインナ丼」 (これは昨日,私が考案した) のできあがりという具合である.
「ウインナ丼」はあんまりだと自分でも思うが,それよりほんの少しマシな程度の「丼物」はクックパッドにたくさんあり,「のっけ丼」と呼ばれる一つのジャンルを形成している.
 例えば「かぼちゃの葉っぱののっけ丼」には《かぼちゃの葉っぱと目玉焼きで簡単な一食になります 》とキャプションが付いている.
 上の「かぼちゃの葉っぱののっけ丼 」はまだ料理というものの痕跡を残しているが,「温泉卵のキャベツのっけもり丼!」は,昔からの丼物の概念を木端微塵に粉砕する快作である.
 作り方は《温泉卵をかってきて、わり、キャベツを刻んでのせ!温泉卵をのせ、ミニトマトをのせたら、できあがり! 》で,コツ・ポイントは《なしです! 》だ.もしもこれにコツがあったら,私は驚いて腰を抜かすだろう.
 そして「このレシピの生い立ち」は《頭がいたいので、これで簡単にしました! 》である.w
 
 なぜ女性たちがこの手の「のっけ丼」を一所懸命に考案するかというと,《頭がいたいので、これで簡単に 》するという理由だけでなく,箸をうまく使えなくても,丼の縁に口をつけて掻っ込んで食えるからだと私は睨んでいる.そしてこの「のっけ丼症候群」が更に亢進すると,「のっけ丼」をスプーンで食うことになる.そうすれば子育て中のママは,自分はもちろん,箸がちゃんと使えない幼稚園児や小学生の我が子たちにスプーンで食事をさせることができる.食卓上や床のあちこちに食べ物をこぼされてイライラせずに済むのだ.
 こうして箸を持てない世代が再生産されていくのである.w

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2018年12月 3日 (月)

お箸の国の人なのに (一)

 昨日の記事《箸を正しく持てない料理人 》に以下のように書いた.

岩村さんは,今の人たちは箸を正しく持てないと嘆いていたが,いやいやそれは今に始まったことではない.

 現代家族論の美貌の論客,岩村暢子さんの『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』(中央公論新社,2017年) を読んでいるところに,同時に注文した『家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇― 』(新潮社,2010年) が届いた.これもザッと読んでみると,この二冊はセットで読むべき本だとわかった.二冊共に調査研究であり,豊富な写真と文章で構成されているのだが,調査方法については『家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇―』に詳しいので,これから読むなら『家族の勝手でしょ!…』→『残念和食にもワケがある…』の順に読み進むのがお勧めである.
 さて,上に挙げた岩村さんの著書の内容であるが,一言で言うと,既に失われた日本の食文化に対する挽歌のようなものである.彼女の淡々とした叙述に,私はしみじみとした思いを禁じ得なかった.
 よく知られているように,私たちの食生活,つまり食材,調味料,食器,作法などの基本的スタイルは室町時代に源流がある.
 その基本様式は徐々に変化しながら近代に移行してきたのであるが,戦後になって音を立てるが如くに崩壊し,無秩序化した.その無秩序ぶりが,岩村さんの著書に写真付きで解説されているのだ.おもしろくなかろう筈がない.
 例えば,ある家庭 (かならずしも若い人たちの家族ではなく,年寄りもいる) では,おかずは何でもかんでも飯茶碗に盛り,その代わり炊いた飯は洋食器の皿に盛る.つまり白い御飯ではなく「ライス」とでもいうものになった.そして味噌汁はグラタン皿に入れて,スプーンで飲む.なぜグラタン皿かというと,肉厚だから熱くても持てるというのが理由である.汁椀の存在なんか考慮外なのである.
 こうなると白飯もおかずも味噌汁も,スプーン一本で食べるのが楽ちん,ということになる.
 こうして日本の家庭から箸が姿を消そうとしていると岩村さんは言う.
 箸が家庭から消えようとしているのは,美しい扱い方が,スプーンよりやや難しく,多少の練習が必要だということがあるだろう.だが,金儲けにならぬ事に関しては,練習や努力を「ダセー」として嫌うのが現代日本の国民性である.その結果,わずかな一部の人々を除く日本人のほぼ全員が箸を使えなくなった今,箸の存在理由が希薄になったのである.(* 脚注 1)
 詳しくは岩村さんの著書に譲るが,日本の食事作法の崩壊が,いつ頃から始まったのかという疑問に,私は興味をそそられる.

 昭和の最後から平成にかけて,味の素社が「ほんだし」のCМ (* 脚注 2) に三田佳子さんを採用した.
 その時の惹句が「お箸の国の人だもの」であった.(YouTube はここ)
 下の画像 (PCモニター画面のハードコピー) では見にくいが,動画を観ると,三田さんの箸の持ち方が間違っている (左の↓) ことがわかる.持ち方が間違いなだけならまだしも,中央の↓のところで二本の箸が交差し,箸先 (右側の↓) が元の方とは逆方向に開いていることがわかる.幼児に多い,いわゆる「バッテン箸」である.
 
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 三田さんの箸遣いが幼児のようであることは,この当時既に日本の代表的女優となっていた彼女の女優としての才能,業績と対比すれば,まことに微々たる問題だ.問題は,箸を正しく持てない人を敢えて広告に使い,それに「お箸の国の人だもの」というコピーを付けた味の素社の見識のなさなのである.
 
(* 脚註 1) テレビ東京の『YOU は何しに日本へ』などを観ていると,器用に美しく箸を使う外国人がよく登場する.日本の箸の作法は,彼らに継承されているのかも.
(* 脚註 2) CМの中で「かつお風味のほんだし~」というフレーズが歌われたが,国民は「かつお風味のフンドシ~」と歌った.だからどうしたと言われると,どうもしない.ヾ(--;)

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2018年12月 2日 (日)

箸を正しく持てない料理人

 先日の早朝,ニッポン放送に,現代家族論の著作で知られる論客,岩村暢子さんがゲストに招かれて,現代日本の家庭における食事の状況について語った.トークのネタは,彼女が昨年出版した『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』(中央公論新社,2017年) であった.
 その時の岩村さんの話を聴いた限りでは,彼女は一般庶民の家の生まれではなさそうである.というのは,幼少のみぎり,家族で同じ食卓を囲むということがなかったというのだ.
 どういうことかというと,詳しくはわからないのだが,一家のうちの男性たちが例えば床の間のある部屋で食事をするとして,その場合,女性たちは敷居を挟んだ下座にあたる部屋で食事をしたのだという.
 また,来客に食事を振舞うばあい,一家の主が自ら料理し,その客に「これには女の手を触れさせておりません」と言うのが最高の接待だったという.
 最近は女性の鮨職人や日本料理人がテレビで紹介されるなどして,料理の世界に女性が進出しているようだが,昔は女性を不浄視したから,来客に「女が作った料理ではありません」と言うのが良い接待だったらしい.これは超封建的なとんでもない女性差別だから,にわかには信じがたいが,旧華族とか上流士族の家庭ではそのようなことがあったのかも知れない.
 私は貧民階級出身だから,上流階級の家庭の食事シーンを見たことがない.例えば箱膳というものを見て知ってはいるが,実際に使ったことはない.ところが岩村さんの家には箱膳があったらしい.

『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』は,既に崩壊してしまった日本の家庭の食事シーン (例えば子供たちの食事として,コンビニで買ってきたパンや弁当をテーブルに出す母親とか) を写真で紹介している.これを私は今読んでいるところだ. 岩村さんはかなりの上流階級出身のようだから,彼女の見解は多少割り引いて聞く必要はあるだろう.しかし,納得できる点も多いので,彼女の著書を更に何冊か注文してみた.

 岩村さんは,今の人たちは箸を正しく持てないと嘆いていたが,いやいやそれは今に始まったことではない.私と同世代,あるいはそれ以上の高齢者でも,箸を正しく持てるのは少数派だったのだ.
 箸をきちんと持てない親は,子供に箸の持ち方を教えることができないから,現在では美しい箸遣いのできる人は百人に数人程度だろうと思う.(箸の正しい持ち方はココ)
 その一例を挙げよう.一昨日 (11/30) のテレビ東京『たけしのニッポンのミカタ!【それでも食べたい!?最新ニッポンのお米事情】 』 は,
* 24時間全自動!巨大工場のご飯のゆくえ
* 1日3000個!激売れおにぎりのヒミツ
* 超高額でも完売!よみがえる「幻の米」
という放送内容だった.
 ゲストは茂出木浩司 (たいめいけん三代目) と小倉優子さんであった.
 
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 上の画像は,茂出木浩司が調理しているテレビ画面をカメラで撮影し,トリミングしたもの.
 こういう箸の持ち方では,箸先で食材を保持できない.上の画像では,ただ単にかき回しているだけだ.マリンスポーツで真っ黒けに日焼けするほど遊んでいる暇があったら,箸の持ち方の練習くらいしろと言いたい.
 東京駅のところの大丸に,たいめいけんの弁当売場があり,そこで販売されている弁当が添加物まみれで非常にまずいという話を,このブログに書いたことがある.あの時は本当に腹が立ったが,上のシーンを見て思うのは,料理人でありながらこんな箸の持ち方をする人間は,料理人としての自覚がないということだ.箸の正しい持ち方なんて,少し練習すればできるようになること.その程度の努力すらしない怠け者に,おいしい弁当を作れるはずがない.うまいものを作れないのに,なーにがシェフだ.料理人なんかやめてしまえっ.ヾ(--;)
 
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 上の画像は,ゆうこりん が御飯を食べているところ.手元を拡大したのが下の画像.
 
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 箸は揃えて持つといいですね.(左側の↓)
 親指の先を人差し指に乗せてしまうのではなく,あと一センチ人差し指の爪の方に寄せて,親指の先と人差し指の先の両方で箸を保持するようにすると,正しい持ち方になります.(右側の↓)
 とはいうものの, 女手一つで懸命に二人の子を育てている ゆうこりん ですから,箸の持ち方なんかどうでもいいです.
 お仕事,がんばってください.噂では,お付き合いしている男性がいるとか.お幸せに.
 何言ってんのかわかりませんが,そういうことでよろしく.

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2018年12月 1日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 17)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 16) 》の末尾を再掲する.

幼年学校が陸軍幼年学校に名称が変わったのちの柴五郎が登場する小説がある.団塊世代に読者の多い山田風太郎が書いた『警視庁草紙』(文藝春秋,1975年;現在はちくま文庫の「山田風太郎 明治小説全集に収められている) である.

 この連載の本題 (カレーライスの話) に戻る前に,もう少し明治という時代のことを書く.
 周知のように,戊辰戦争が終結したのちも,政情が安定したわけではなかった.近代日本の出発は西南戦争で西郷隆盛が敗死するまで待たねばならなかったのである.
 西南戦争の前に,各地で旧武士階級出身者の反乱があった.その一つに永岡久茂らによる「思案橋事件」があった.
 Wikipedia【思案橋事件】から一部を引用する.

1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。

 この事件で興味深いのは,旧会津藩士である永岡久茂が西郷隆盛の支持者だったことである.
 幕末から明治にかけては,いわば日本における「アメリカン・ドリーム」の時代であった.下級武士の子であっても,政治家,官吏,学者,軍人として世に出ることが可能な時代が来たのである.
 西日本諸藩は諸外国との接触が多かったためか,早くから思想的に身分制社会から脱して,下級の武士たちが時代を牽引したが,無能な松平容保のもとで思考停止に陥っていた旧会津藩士の約二万人は,容保の子,容大を領主として斗南藩が成立すると,そのうちの一万七千三百人余りが藩主と共に厳寒不毛の地に移住した.明治三年のことであった.
 しかし明治四年七月の廃藩置県によって斗南藩が廃止されて旧藩主松平容大が上京したのち,旧会津藩士たちの過半は会津に帰郷したが,青森県に留まる者,東京で一旗上げようとする者など様々な形で離散した.
 それまで,農業や商工業に従事する人々から収奪することで生きてきた藩士たちは,働かねば食っていけない事態に直面し,ようやく幕藩体制下における身分制度の呪縛から離れ,思考停止から脱した.その典型例が,会津藩家老の地位にあった佐川官兵衛である.佐川は廃藩置県後,川路利良 (薩摩藩中でも身分の低い家に生まれたが,戊辰戦争では会津から東北を転戦し,その後に初代大警視を務めた「日本警察の父」である) に懇請されて警視庁に奉職して一等大警部に任命された.惜しくも西南戦争で戦死したが,薩摩がどうのこうのという,後に小説家や,会津戦争を観光資源化して金儲けすることを目論んだ会津若松市当局が拵えた「会津の怨念」から自由な人であった.一流の人物とは,こういう人のことであろう.
 他にも,白虎隊の兵士として会津戦争を戦ったが,戦後は明治四年に国費留学生として渡米し,後に東京帝国大学総長となった山川健次郎らも,新しい時代の日本の建設に努めた.
 一方,冒頭に記した永岡久茂は,在野の論客として西郷隆盛を支持して明治政府を糾弾する側に立ったが,明治九年 (1876年) 十月二十九日,萩の乱に呼応して千葉県庁襲撃を意図したが,事前に発覚して逮捕された.これが思案橋事件である.
 山田風太郎『警視庁草紙』が描くのは,思案橋事件に関わった旧会津藩士の父親たちが逮捕され,路頭に迷ったその子供らである.
 陸軍幼年学校生徒・柴五郎は,子供たちを率い,敢然徒歩で警視庁の目の届かぬ安全な村へ送り届ける役を買って出たのである.
 柴五郎の凛とした姿を描いたこの一節は,引用するには長すぎる.ただ,柴五郎と子供たちが出発したあと,山田風太郎は次のように結んだことを紹介する.

明治三十三年、いわゆる義和団の蜂起により北京が包囲されたとき、悪戦苦闘の籠城五十余日、その間駐留軍の総指揮官としてついに守りぬき、その勇名とともに軍規の厳正をもって連合軍の賞賛のまととなった北京駐在日本武官柴五郎中佐は、この若者の後身である。
 
『警視庁草紙』は『ある明治人の記録』が出版された少しあとに書かれた.山田風太郎は『ある明治人の記録』を読んだに違いないが,その影響を受けていないところが,さすがである.私たち戦後生まれの読書人が柴五郎に抱いている人物像は,『警視庁草紙』に描かれた柴青年なのである.

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