« 滅びゆく味噌汁 | トップページ | 林先生がまたまた大嘘を »

2018年12月18日 (火)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18) 》の末尾を再掲する.

さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.

 ゴーフルでお馴染みの凮月堂は,創業家,暖簾分け店,それらに無関係の同名店などがあって,ややこしい. Wikipedia【風月堂】に書かれているように,江戸時代創業の菓子商の直系は「凮月堂総本店」であるが,この店は後継者がなくて途絶えた.しかし,嫡流ではないものの創業家に家系を遡ることができる傍系の「上野凮月堂」は今も健在である.
 この凮月堂総本店の番頭であった米津松造は明治五年 (1872年),暖簾分けによって両国で「凮月堂米津本店」を開いた.さらに明治十年 (1877年) には銀座に「米津分店南鍋町凮月堂」を出店した.この後,米津松造系の凮月堂には,経営破綻,経営譲渡,吸収合併などがあって,一般消費者には何が何だかわからないことになる.
 それはともかく,米津系凮月堂の現在の店名である「東京凮月堂」が公式サイトに掲げている《沿革 》には《1877年 (明治10年) フランス料理を開業、カレーライス、オムレツ、ビフテキ (*) 等を8銭均一で売る 》とある.確か,その事実を示す資料は東京凮月堂が持っていると報道された記憶がある.(* 当ブログ筆者註;ビフテキはステーキのフランス語料理名)
 ただし,この明治十年のレシピがどのようなものであったかは資料が見当たらない.米津分店南鍋町凮月堂がフランス料理店であったことからすると,この《カレーライス》は日本風のカレーライスではなく,カレー風味のピラフ“ Riz au Cari ”だった可能性があると言われても,否定できない.
 また Wikipedia【カレーライス】

1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる

と書いているが,東京凮月堂自身は《初めて日本で 》カレーライスをメニューに載せたとは主張していない.単に「カレーライスを売った」としているだけである.つまり他のホテルレストランや西洋料理店にもカレーライスがあった可能性は否定できない.
 では Wikipedia の《初めて日本で 》は,どこから出て来たのか.当事者が主張していないことを第三者が述べるのであれば,その《初めて日本で 》の根拠を示さねばならないはずだが,例によって Wikipedia は出典を示していない.おそらく《初めて日本で 》は根拠のない独自研究である.
 ちなみに,吉田よし子『カレーなる物語』(筑摩書房,1992年) は,いい加減な嘘が書かれており,それが井上宏生 (『カレーライス物語』『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』)によって真偽を確かめもせずに繰り返し孫引き (根拠が『カレーなる物語』であることを井上自身が明らかにしている) され,カレー関係誤情報の発信源となった本であるが,凮月堂の件は,『カレーなる物語』では次のように書かれている.

明治一六年に鹿鳴館が開設され、ヨーロッパ風の仮装舞踏会などが催されるようになると、日本の洋風化はさらに拍車がかかった。
 そして明治一九年 (一八八六) には凮月堂がライスカレーをカツレツやオムレツ、ビフテキなどと並べて八銭で食べさせはじめた。

 つまり凮月堂がカレーライスを売り始めたのは明治十年どころか,その九年後,鹿鳴館開設よりも三年もあとのことだとしている.吉田よし子『カレーなる物語』は出典も参考図書も全く挙げていないので,この説がどこから出てきたものかは不明であり,さすがにこのデタラメは,井上宏生の著書では採用されていない.

 さて凮月堂のカレーライスには後日談がある.

|

« 滅びゆく味噌汁 | トップページ | 林先生がまたまた大嘘を »

外食放浪記」カテゴリの記事

冥途の旅の一里塚」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19):

« 滅びゆく味噌汁 | トップページ | 林先生がまたまた大嘘を »