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2018年12月 5日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 17) 》の末尾を再掲する.

私たち戦後生まれの読書人が柴五郎に抱いている人物像は,『警視庁草紙』に描かれた柴青年なのである.

 さて私は,柴五郎を恨み辛みに凝り固まった男として描いた石光真人著『ある明治人の記録』が,日本近代史を叙述する際の出典として採用できない性質のものであることを,これまでに述べてきた.
 石光真人は,『ある明治人の記録』第一部を編集する際に《当用漢字 》(柴五郎の没後に制定された) を用いたと明記していることから,第一部の編集時期が柴の没後であることが明らかである.従って『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎による著者校正が行われていない.しかるに第一部は「遺書」と題して,柴の第一人称で書かれている.これは歴史の偽造であり,『ある明治人の記録』第一部は偽書であることを示している.これに騙されて,ネット上では『ある明治人の記録』第一部の著者は柴五郎であるとの誤解が広まっており,大きな問題である.『ある明治人の記録』第一部の著者は石光真人なのである.
 日本のカレーライスについても,幼年学校 (のちに陸軍幼年学校と改称さる;脚註) の給食 (土曜日の昼食) にカレーライスが提供されたと『ある明治人の記録』に書かれているが,この記述は,幼年学校ではフランス式の食事が提供されたということと矛盾し,信用できない.
 そこで,カレーライスの発祥を追うために,もう一度,Wikipedia【ライスカレー】の《年譜 》に戻る.

1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介。
 1864年(文久4年)、江戸幕府の横浜鎖港談判使節団の岩松太郎が、船中でアラビア人が食事する様子を見て「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のどろどろのような物を掛け、これを手にてまぜ手にて食す。至って汚き人物の者なり」と日誌に記している。
 1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。また、同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された。
 1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
 1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
 1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。

 まず《1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介 》だが,福沢諭吉は軍艦咸臨丸に乗り込んで渡米した際,サンフランシスコの書店で『華英通語』という中国語と英語の辞書を手に入れた.帰国後,この辞書に載っている言葉 (英語の部分) に日本語の発音を書き入れ,『増訂華英通語』として出版した.従って福沢諭吉は,辞書から辞書を作っただけであり,カレーがどのようなものであるかは知らなかったと思われる.この辞書では Curry の発音を「コルリ」と表記しているが,実際に英語の発音を聞いて「コルリ」と書いたのか疑わしい.スペルから発音を想像しただけだろう.
 
 次の岩松太郎が《船中でアラビア人が食事する様子を見て … 》以下は,吉田よし子が著書『カレーなる物語』中で,この目撃談は岩松太郎ではなく三宅秀のものであると嘘を書いたために,いくつかのカレー関係の本やブログに,孫引きされて嘘が定着してしまった.だが,この点は Wikipedia【ライスカレー】の記述が正しい.ただし,《芋のどろどろのような物 》がカレーだったという証拠はない.そして,岩松太郎が目撃した料理がカレーだったとする説を誰が唱えたのかは不明である.もしかすると吉田よし子かも知れない.
 
 次の《北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された 》は,既に述べたように,こじつけだと思われる.
 
 続く《同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された 》は事実であるが,著者らが実際にカレーを作ったかどうかの保証はない.これらは単なるレシピ集である.
 
 その次の《1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》は,詳述したように,根拠のない説である.
 
 また《1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが … 》については,札幌農学校の寮でカレーライスが提供されたとする根拠はないと北海道大学当局が明言している.これは伝説と言っていいだろう.

 さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.
 
(脚註) 『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎が入学した帝国陸軍の教育機関の名称を《陸軍幼年生徒隊 (陸軍幼年学校の前身) 》としている.ところが Wikipedia,ブリタニカ国際大百科事典,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書 (ニッポニカ),百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,大辞林第三版等の辞書,事典には《陸軍幼年生徒隊 》は見当たらない.またウェブを検索しても陸軍幼年生徒隊 》はヒットせず,書籍をも調べたが,発見できなかった.『ある明治人の記録』が間違っているのか否かは,防衛省に出かけて史料を調べないと決着はつかないかも知れないので,深追いはしない.

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