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2018年11月

2018年11月30日 (金)

くるみ割り人形

 昨日,『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』を観てきた.
 物語上の設定で私には理解できないことがあった.それは,悪の魔法使いであるグリンデルバルドが,彼を支持する魔法使いたちを墓地に集めて,その墓地の巨大な集会場で演説を振るう場面である.
 墓地に物凄く大きな集会場があるってのは,ヨーロッパ (ここではパリ) では特に違和感を持たれないことなんだろうか.
 これが昨日からずっと気になっている.

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』が上映される前に二十分近く延々と予告編を見せられたのだが,近々に『くるみ割り人形と秘密の王国』が上映されることを知った.
 それで我ながら「あっ」と驚いたのだが,私はこの歳になるまで『くるみ割り人形』のストーリーを知らなかったのである.遅ればせながらネット情報を検索して,バレエ版と絵本版の違いとか,今回のディズニー映画のストーリーなどを勉強した.
 ハリポタよりもダークな『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』と比較すると,他愛もないディズニーのファンタジーらしいが,暇つぶしに観に行ってみようと思う.

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架純ちゃんとおしぼり

 有村架純ちゃんの食事作法が物議を醸している.(《有村架純の『食事マナー』がヤバすぎ!? 食べた魚の骨を…》 )   
 この記事から一部引用する.

有村は骨付きのふぐの唐揚げを両手で食べた後、残った骨をおしぼりの中に包み、そのまま口元をおしぼりで押さえるようにしてふき取った。

 この魚の食べ方は,感心しない.もちろん架純ちゃんは可愛いから何をしても許されるので,以下は一般論である.

(1) 食事作法の観点から
 マナー界のカリスマ,西出ひろ子先生の御著書『男の食事完全マナー』(河出書房新社,2008年) に,下のように書かれている.

Q 口に残った小骨は手でとっていい?
   口に残った小骨は、手でとることはしません。
   口元を手や懐紙で隠しながら箸で取り出して、
   骨や皮と同様に皿の隅へときれいによせて
   おきます。

 上に引用した文章に少し補足すると,焼き魚や煮魚を食べる途中で外した頭や中骨,皮や背びれなどは皿の隅に寄せておくのだが,口の中に入ってしまった小骨も,手で口元を隠しながら箸で取り出し,頭などと一緒のところに置くということである.骨付きのフグの唐揚げも同じこと.残った骨は皿の上に置く.これが日本の食事作法,すなわち見苦しくない仕方である.(中国料理の場合は,また別のマナーがある)
 付け加えれば,男女とも日常の食事はこれでいいのだけれど,御見合いの席に,相手がイケメンなので必勝の気合で臨む女性とかの特別な場合は,伏し目勝ちに恥じらうようにしつつ,口元を隠すのに懐紙を使用する.
 そして魚の身を全部食べ終えたら,畳んだ懐紙を骨や皮の上に乗せて,汚らしく見えないようにするのが,改まった会食の席における女性の伝統的な食事作法である.普段はそんなことする必要はないけどね.
 その懐紙だが,ポケットティシュで代用できないかというと,代用できない.やってみるとわかるが,皿の上の食べ残しにティッシュをかぶせると,余計に汚らしく見えるからである.和紙で上品な模様が入った懐紙だからよいのであって,間違ってもティッシュとか,食卓の上に備えてある紙ナプキンなどで代用しないこと.
 「たかが秋刀魚を食うのに,なんで女だけがそんなめんどくせーことをしなくちゃいけないのだ」とのお叱りがあろうかと思う.それはごもっともなのであるが,男の持ち物の懐紙は,刀の血糊を拭うのに用いたものだが,今はもうその必要がなくなったので廃れた.しかし女性は化粧方面で使えるから数枚持っていると便利ということがあるので御容赦願いたい.

 さてこの時,架純ちゃんがやったように,おしぼりに骨を包んではいけない.なぜかというと,それは昔の渡世人の食事作法に似ているからである.(出典:田村栄太郎『江戸やくざ研究』,雄山閣,2003年)
 賭場を流れ歩く渡世人は,土地の親分さんの家で仁義を切り (挨拶をし),その夜の宿と夕飯の世話になる.これすなわち一宿一飯だが,一飯の作法が普通ではない.飯の菜に魚が出された場合,残った骨は,皿の上に残さずに懐の手ぬぐいに包み,また懐にしまうのが渡世人の作法なのである.理由はわからぬが,たぶん親分の御内儀にも一宿一飯の恩義があるわけだから,その恩人に食べ残しを片付けさせては申し訳ないという意味なのであろう.

(1) 衛生の観点から
 各地の保健所は街中の飲食店の衛生指導をしているが,その他に色々な調査もやっている.昔,東京都が,飲食店で使われているおしぼりが衛生的かどうか調べたことがある.
 私はその検査結果を見て驚いた.極めて不潔だったのである.
 これに驚いた厚生省は,おしぼりについての衛生基準を定めた.(昭和五七年一一月一六日・環指第一五七号「貸おしぼりの衛生確保について」 )
 この基準ができてかなり改善されたようだが,それでもおしぼりの袋を破って臭いをかぐと腐敗臭が感じられるものが時々ある.バクテリアならまだしも,ウイルスが付着しているかも知れないから,おしぼりの使用は指先だけに留めておくのが安全である.架純ちゃんは《口元をおしぼりで押さえるようにしてふき取った 》とされているが,これは絶対にやめた方がよろしい.
 そういえば昔は,真夏に喫茶店で熱いおしぼりが出されると,額,顔,首,手,腕,脇の下など満遍なく拭く脂ぎったおやじがいましたなあ.今でも絶滅していないかも知れない.その意味でも架純ちゃんには,おしぼりを口元に触れさせるのをやめて欲しいと思うのである.

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2018年11月29日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 16)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 15) 》の末尾を再掲する.
 
とはいうものの,この手紙は西郷が岩倉具視に宛てて覚悟を促したもので,大久保と西郷が交わした言葉ではないから,《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」 》の出典ではない.止むを得ず,今は大久保利通の評伝を数冊読んで,この文言がその中にあるかどうか調べている.
 
 西郷と大久保が討幕に際して交わした文言に関する史料のことは,この連載記事の主題である「日本カレーライスの発祥の地は,本当に横須賀なのか?」から少々離れることだから,ここで『ある明治人の記録』第一部のことに話を戻す.
 第一部に書かれているのは,柴五郎の幼年時代から陸軍幼年学校に入学し,明治十一年 (1878年) 八月二十三日に起きた帝国陸軍近衛兵部隊による武装反乱事件「竹橋事件」までである.
 大久保利通暗殺さるの報を「喜べり」と書かれているのは第一部の最終章であるが,会津戦争の始まりから竹橋事件発生に至るまで,第一部の基調は薩長に対する憎悪と怨念である.
 その怨念がどれほど深いものであったかが,第一部の最初の章で次のように書かれている.
 
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど,ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 …… (中略) ……
 悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
 
 この一節の真贋は,如何であろうか.
 江戸期は言うに及ばず,明治の人々にとっても,現代の私たちよりずっと仏教の信仰は親しいものであったろうと思う.それ故に石光真人は,柴五郎が幼年時の回想録を恵倫寺に奉納したことは《会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される 》と書いているわけだが,しかし上の引用箇所にあるように《心を悟道に託すること能わ 》ずして,怨念の書を今は亡き肉親に献ずることは,その菩提を弔うことになるのであろうか.
『ある明治人の記録』第一部に書かれているように,もしも柴五郎がその死に至るまで,既に世を去って久しい西郷や大久保らを憎み続けたとすれば,柴五郎はその執着により死して必ずや鬼となったであろう.だがやがて鬼と化すべき者に亡き家族の菩提を弔えるはずがないことくらい,明治人である柴五郎にわからぬはずがない.
 よって柴五郎は晩年に心の平穏に努め,死を目前にして真筆の回想録を《心を悟道に託 》して恵倫寺に奉納したに違いない.その回想録は『ある明治人の記録』と異なり,憎悪や怨念の書ではなかったであろう.またそうでなければ,恵倫寺の住職がこれを供養として仏前に受理することはなかったと思われる.
 
 ここまでに述べたことを箇条書きにまとめる.
 
(1) 石光真人は,柴五郎に回想録の添削を依頼されたと称しているが,実際に添削したかどうかは,『ある明治人の記録』に書かれていない.
(2) 石光真人は,柴五郎の没 (昭和二十年) 後,かなり後になって「柴五郎に回想録の校訂を委託された」と詐称して,無断で校訂の範囲を大きく超える加筆と編集を行い,これを『ある明治人の記録』第一部とし,昭和四十六年に中公新書から出版した.編集したのは,出版時期から推定すると昭和四十年代であろう.
(3) 柴五郎が,柴家の菩提寺である恵倫寺に回想録を奉納して門外不出としたことからすると,柴はこれを『ある明治人の記録』第一部として出版するつもりはなかったと考えられる.実際,石光真人は,柴五郎から出版許可を得たか否かについて触れていない.著作権のことがあるから,出版許可を得ていれば,石光はそれを明記したはずである.従って許可は得ていないと断定できる.
(4)『ある明治人の記録』の出版は昭和四十六年であるから,当然,その第一部は没後久しい柴五郎による著者校正が行われていない.著者校正がされていないということは,書かれている内容を事実として引用してはならない,ということである.
(5) 以上のことから,『ある明治人の記録』第一部は,石光真人が柴五郎の回想録を材料にして,会津怨念史観を盛り込んで創作した偽書であると私は考える.真の柴五郎回想録は,柴家菩提寺恵倫寺にあるはずだ.
 
 柴五郎が幼年学校に在籍したのは明治六年四月から十年五月 (この年に陸軍幼年学校は陸軍士官学校に吸収された) までである.開校当初はフランス人教師による教育が行われ,給食はフランス料理であったと『ある明治人の記録』第一部に書かれている.しかるに同書に《土曜日の昼食のみライスカレーの一皿を付す 》とあるのは唐突で奇異なことに思われる.これが仮に事実だとしても,この「ライスカレー」は「カレー風味のフランス料理 Riz au Cari 」(Riz au Cari ;これは現在の和風洋食でいうと,カレー味のピラフだと思われる) だったと解するのが妥当だろう.日本語の「ライスカレー」の初出は,東京のレストラン「風月堂」の明治十年に洋食店を開業したときのメニューだとされている.(後述)
 ちなみに柴の記憶にある「ライスカレー」とフランス料理が幼年学校で提供されたのは,幼年学校の初期,明治八年 (この年に,幼年学校は陸軍幼年学校に名称が変更された) までであったと推定される.『ある明治人の記録』第一部に書かれているように明治八年には陸軍の命令でフランス式教育が廃止され,食事は陸軍式の白飯偏重で副食軽視となったと思われるからである.実際,それが原因で柴五郎はやがて脚気を発症することになった.『ある明治人の記録』第一部に,明治十一年のこととして,《八月二十三日、この日はわが家族、会津において殉難せる日なれば、余は脚気の脚を引きずりて …… 》と書かれているのである.
 
 幼年学校が陸軍幼年学校に名称が変わったのちの柴五郎が登場する小説がある.団塊世代に読者の多い山田風太郎が書いた『警視庁草紙』(文藝春秋,1975年;現在はちくま文庫の「山田風太郎 明治小説全集に収められている) である.

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2018年11月28日 (水)

小言幸兵衛「暴走老人との決めつけ」

 先日の記事《共感力 》に《大竹まことが,ほんのちょっとのことで泣いてしまうと番組中で述懐していたが,大竹と義務教育同学年の私も全く同じだ 》と書いた.
 渡辺正行は六十二歳だから私よりもずっと若いのだが,テレビの旅番組で美しい風景をみてはボロボロと泣いている.
 PRESIDENT Online 掲載の《 "キレる老人"原因を医師分析 》と題した記事によると,ちょっとしたことですぐ泣くのを「感情失禁」とか「情動失禁」というとのことである.
「失禁」は自分の意思に関係なく大小便や涙を排泄してしまうことと Wikipedia【失禁】に書いてあるが,失禁と聞くと普通は大小便のおもらしを想起するだろう.美しい風景を眺めたり,感動的な映画を観て思わず流す涙を失禁と呼ぶのはやめて欲しいと老人の私は思う.何かよい言葉はないものか.年寄りが感情を抑えきれずに泣くのは,ほろほろと泣くのであり,あるいは嗚咽するのであって,わあわあ号泣するわけではないから,医学方面の用語を感動落涙とかにしてくれないか.
 
 さて,《 "キレる老人"原因を医師分析 》の筆者は,記事の終わりに近いあたりで,沢田研二を暴走老人の仲間に入れている.

この「脱抑制」のせいで感情をコントロールできなくなる高齢者は少なくない。今年10月にライブをドタキャンした歌手の沢田研二さんも、その1人のように私の目には映る。
沢田さんを高齢者扱いすると、ファンの方の反感を買うもしれない。しかし、もう70歳なのだから高齢者の範疇に入る。また、加齢による「脱抑制」が起こっても不思議ではない年齢である。だから、さいたまスーパーアリーナでの公演直前に、9000人の集客予定が7000人しか集まらないことを知って激怒したのは、「脱抑制」によって感情をコントロールできなかったからではないかと疑わずにはいられない。

 この記事の筆者は精神科医の片田珠美という女だが,沢田研二本人の診断をしてもいないのに,芸能ニュース記事を読んだだけで沢田研二について名指しで書くなと言いたい.まことにもって非常識極まりない.それでも医師か.
 片田珠美は,沢田研二を暴走老人だと決めつけたい情動を抑制できなかったものと思われる.それは,《私の目には写る 》とか《疑わずにはいられない 》という,科学的根拠に基づかない,感情的な言葉が用いられているところに現れている.片田珠美は,前頭葉が委縮していないかどうか,検査してもらったほうがいいのではないか.

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2018年11月27日 (火)

小言幸兵衛「事件報道ディテイルへの疑問」

 宮崎県高千穂町で起きた一家六人斬殺事件に関する,AERA dot. の報道記事 (2018/11/27 10:35) の中に次のような箇所がある.
 
20181127d  
 
事件現場から見つかった遺体は、飯干さんと妻の実穂子さん(66)、次男の昌大さん(42)の妻の美紀子さん(41)、昌大さんの長男の拓海さん(21)、長女の唯(ゆい)さん(7)と発表した。もう一人の男性の遺体は昌大さんの知人とされる。

と書いてあり,主語がない.文脈からすれば警察発表であるが,その場合でもきちんと「○○署は…」と書かねばならない.
 もっと問題なのは,《ナタのような鋭利な刃物 》で《刺す 》ことが可能なのか,ということである.包丁などの刺殺可能な刃物と,鉈とでは殺害の状況が全く異なるであろう.
 警察発表が間違っていたのに AERA の記者が確認もせずに書いたのか,あるいは AERA の記者は鉈がどのようなものか知らなかったのか,はたまた鉈と包丁などの両方を用いたのを,AERA の記者がテキトーに省略したのか,どちらかわからぬが,いずれにせよ AERA の記者の程度はこんなものかと思わせる.

 さて同事件を報じたNHKの記事では次のようになっている.

6人は飯干さんの家族などとみられ、このうちの1人は小学生の女の子と見られるということです。中には外傷がある人もいるということで、警察は殺人の疑いで詳しい状況を調べています。

 この記事では,外傷のない遺体もあるとしている.AERA の記事では《「現場は遺体が折り重なり、血の海という状況。見るも無残な状況です」(捜査関係者) 》としており,犯行現場の様子が全く異なる.どうなっているのだろうか.

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「かつや」の新潟風カツ丼

 先日,雑多なものを入れておくブリキ箱の中を整理していたら,「かつや」の百円割引券がでてきた.とっくに期限切れしたやつだ.
「かつや」は,初めて行ったときだけ,グランドメニューに記載の値段で代金を払うが,その時に必ずレジで百円割引券をくれるから,次回からはずっと百円引きで食べられるのだ.そして券面には期限が書いてあるが,実は無期限なのである.無期限だということは,レジのお姉さんが会計の時に教えてくれる.「使用期限」を記載する意味がわからぬが,とにかくこれはよいことである.

 で,昨日,ジムの帰りに「かつや」に立ち寄り,晩飯に「カツ丼弁当 (梅) 」をテイクアウトで注文して買った.四百九十円のところを百円引きにして三百九十円也だ.
 帰宅して夕食時になり,「カツ丼弁当 (梅) 」のフタを開けた私は,驚きのあまりヘナヘナと腰が抜けた.
 そのカツ丼弁当は,米飯の上に,切って割下で煮ただけのカツが載っていたのである.
 玉葱は全く使用されていなかった.卵は,五切れに切ったカツのうちの二切れにだけ,ほんの申し訳程度にこびり付いていた.そしてそこに,1cm 程に切った三つ葉の茎がわずかに散らしてあった.

20181127a

 新潟県でメジャーなカツ丼は他県と異なり,卵で綴じない.私も自分でカツ丼を拵える時,新潟風にすることがあるが,昨日「かつや」で買ったカツ丼は,それと似ていないでもないが,新潟のカツ丼をもっとずっと貧相にした感じである.
 これは一体どうしたことか.スーパーの弁当売場で売られている二百九十円のカツ丼弁当よりも百円高いだけに,がっかり感がある.

 だが店内で食う「かつや」のカツ丼は,普通の関東風カツ丼だったと記憶している.上の画像と比較するために,「かつや」の公式サイトに掲載されている「カツ丼 (梅) 」の画像を下に引用する.

20181127c

 経営上の理由でコストダウンしたのであろうか,それとも調理担当者がトイレに長居をしたまま帰ってこないので,作り方を知らぬバイトのお嬢さんがテキトーに作ったのであろうか.はたまた私がみすぼらしい老人だから馬鹿にしたのであろうか.もしそうであるなら悔しい.
 そこで今朝,再び「かつや」でカツ丼を買ってきた.
 それが下のものである.

20181127b
 
 昨日買ったのとこれとではエライ違いだ.
 これで判明したのは,私の人相風体が貧しそうなので馬鹿にされたのではない,ということである.よかったよかった.いいのかよ.

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2018年11月25日 (日)

平塚 Kitchen 伊志川

 昨日,娘夫婦とランチを食べに行くことになった.
 私の愛犬 (老トイプードル) を久しぶりに連れて行きたかったので,「ペット可×ランチ」で検索してみた.
 藤沢市とその周辺は,ペット可のレストランが意外に少ない.その上,いわゆるドッグカフェは,料理に難がある (いかにもな軽食) 店の場合が多い.あるいはイタリアンを標榜しているのに,コースに飲み放題二時間が付いていたりする.どんなコースだよ.w
 鎌倉に,ペット可だが,料理はそこそこの内容のものを提供してくれそうなレストランがあるのを見つけたのだが,土・日曜日の鎌倉は駐車場探しに苦労するのでパス.
 そんなこんなで結局,平塚市内にある「 Kitchen 伊志川 」というレストランに行ってみた.車の運転は娘がしてくれた.
 私はこの店は初めてである.ま,ここも飲み放付きのイタリアンという不思議なコンセプトではあるが.

 到着したのは昼前の十一時半.空は快晴だったけれど,この時は少し風があった.ペット同伴席は店の玄関の外にあるテラス席だったから,いささか肌寒く,ちょっと失敗だったかなーと思った.
 でもまあ,折角ここまで来たんだからと,私たちはテーブルに着いた.テラス席の客は私たちだけで,そして最後まで私たちだけだった.w

 さて献立だが,ワンプレートランチの他に,ランチコースAとBがあり,私たちはランチコースAを注文した.お店の公式サイトのランチメニューから,説明書きを画像にして下に引用する.右側に掲載されている料理画像はコース内容の例.

20181125c

 メインディッシュは肉か魚かをチョイスするのだが,このレストランは経営母体が畜肉製品の製造販売業者なので肉料理がウリなんだろうから,全員,肉にした.飲み物は,私だけグラスワインを頼んだ.
 愛犬用のメニューが用意されていたので,チキンを注文したら,小型犬には食べきれないくらいの量があった.
 前菜盛り合わせは,ハムとサラダが主で,味は大したことはなかった.本日のパスタは,ツナと水菜のスパゲッティで,これは少し塩味が強かったが,ちゃんとアルデンテだった.まぁ,悪くない.
 メインは牛肉のソテーで,シャリアピンソースと紫芋のピュレ添え.肉質は柔らかく,三千円以下のランチコースとしては,なかなかおいしかった.

20181125a

 メインを食べ終えるとデザートの注文を取りに来た.私はティラミスを,娘たちはガトーショコラをオーダー.
 ほどなく私の前に届けられたティラミスは,ふわっとした味わいで.絶賛モノ.私は年に数回しか甘いものを食べない人間であり,スイーツ慣れしていないので,ほとんどの場合,絶賛するのだが.w

20181125b

 皿にはティラミスの他に,皮ごと食べられる緑と紫のブドウが一粒ずつ,それから小さなガラスの器に入れられたシャーベットが載っていて,これにキウイとオレンジのソースが添えてあった.『林先生が驚く 初耳学』によると,ティラミス,ナタ・デ・ココ,クレーム・ブリュレを「バブルスイーツ」というのだそうだ.レストランの定番デザートなのに,平野ノラのネタみたいで,ちょっとかわいそうなネーミングである.

 食事が終わる頃になったら,風は止み,ぽかぽかと暖かくなった.家をでる時刻をもう少し遅くすればよかった.テラス席って,季節とタイミングがドンピシャなら快適なんだけどね.
 このランチコース,お値段はお手頃だが,お値段以上ニトリ.満足した.テラス席の季節はもう終わりだろう.再訪するとしたら来年の暖かい春の日かな.ごちそうさまでした.

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2018年11月24日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 15)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 14) 》の末尾を再掲する.
 
かようにこの一節はよく知られているが,これはまた私が『ある明治人の記録』第一部の中で,最も違和感を持つ箇所なのである.
 
 上の《 》にある《この一節 》も再掲する.
 
この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭にあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり。
 これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお咎むる気なし。

 
 私が抱いた違和感とは,この文章の主体がブレていることである.
 例えば,《大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保 》は,まるで二人に関する中立的な評伝中の文言のようである.いや,二人に対するリスペクトさえも感じられる.
 しかし《結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり 》は,西郷と大久保の専横と暴走を非難する立場に立っている.西郷と大久保が天寿を全うできなかったことを《喜べり とまで言い切っている.
 しかるに,この文中の《非業の最後 》は「志半ばで倒れた」ということであり,両人に対する同情を示す表現なのである.従って《一片の同情も湧かず 》とは矛盾している.敵である者が戦争で敗死 (西郷) したり,あるいは暗殺 (大久保) されたりした場合,日本人の感性ではこれを「前世の業」の当然な結果であるとして,「非業の死」とは言わない.文章の一貫性としては,「両雄無残な最期を遂げたるを」でなければならないのである.
 また「血祭に上げたる」は,会津を倒すことで戦意高揚した側に立った表現である.政府軍に戦意高揚されては困る会津藩側の人間 (柴五郎) が使う言葉ではない.
 以上のように,『ある日本人の記録』第一部の中で,この箇所は非常にちぐはぐな印象を与える.西郷隆盛と大久保利通に対する評価の立ち位置が定まっていない.あたかも,元の文章に後から誰かが手を入れたかのようである.
 
 また,《この年の五月、…… 今もなお咎むる気なし 》に一貫性がないということとは別の話であるが,この箇所における《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」》だが,わざわざ括弧に括って書いているということは,この文言がそのままの形で書かれた文書 (出典) があることを意味している.それは文脈からすると,西郷隆盛と大久保利通の間で交わされた文言である.明治維新前夜,徳川慶喜に大政奉還させたのち,慶喜を新しい政治権力の中に留めておこうとする勢力に対して,大久保と西郷は徳川幕府を武力で倒す意思を貫いた.そのことに関する言葉であろう.
 
 しかし,ネットを検索してもこの文言を含む史料が見つからない.ヒットするのは『ある明治人の記録』のこの一節を引用したブログ等の記事だけである.
 もしかすると「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」は,出典と少し語句が異なっているのかも知れない.慣用的な表現では「耳目を惹く」ではなく「耳目を集める」と書くのだが,それを考慮して検索しても,この文言の出典は発見できなかった.
 しかし,私には西郷が遺した文章に,これに似た表現があったような記憶があった.そこで奈良本辰也『西郷隆盛語録』(角川ソフィア文庫,2010年) を購入した読んだところ,書簡の部に次の文章があった.(Kindle 版の位置 No.2345-2347)
 
このたび朝廷では御英断なされ、王政復古のご基礎を召し立てられたいとの御命令をお出しになりました。大混乱がおこるかもしれませんが、人心は二百年もの泰平の旧習に慣れきっておりますから、いちど戦乱がおこればかえって天下の耳目を新しく切りかえることができ、政局安定の御盛挙になるはずです。戦乱の決心をなされ、死中に活を得られる御覚悟が最も急務であると考えます。
 
 『西郷隆盛語録』には,この現代語訳は『大西郷全集』(大西郷全集刊行会,大正十五年,国会図書館はじめ首都圏の公立図書館には蔵書なし) を底本としていると書かれているが,同じ文章が,毛利敏彦『大久保利通 維新前夜の群像 5』(中公新書,1974年、改版1992年,Kindle 版の位置 No.1659-1661) では次のようになっている.
 
一動干戈候て、かえって天下の眼目を一新、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候得ば、戦を決し候て、死中活を得るの御着眼、最も急務と存じ奉り候
 
 そして,これは議論の根拠とするような種類の本ではないが,高橋伸幸『人生を切り開く 西郷隆盛の言葉 100』(扶桑社,2017年) には下のように書かれている.
 
今般、朝廷では御英断なされ、王政復古の御基礎を召し立てられたいとの御命令について、必ず大混乱がおこるかもしれませんが、人心は二百年もの泰平の旧習に汚染されておりますから、一度戦争が起こればかえって天下の耳目を一新することができ、政局安定の御盛挙になるはずです。戦いの決心をなされ、死中に活を得る御覚悟が最も急務であると考えます。
 
 これらの本には 「天下の耳目を新しく切りかえる」「天下の眼目を一新」「天下の耳目を一新する」とあるが,正しいのは「耳目」なのか「眼目」なのか,よくわからない.仕方ないので『大西郷全集』の古書を手に入れて読んでみることにした.
 とはいうものの,この手紙は西郷が岩倉具視に宛てて覚悟を促したもので,大久保と西郷が交わした言葉ではないから,《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」 》の出典ではない.止むを得ず,今は大久保利通の評伝を数冊読んで,この文言がその中にあるかどうか調べている.

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2018年11月23日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 14)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 13) 》の末尾を再掲する.

得々として《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが》と書いて,折角の嘘を台無しにしてしまったというわけである.

 せっかくの嘘を台無しにした石光真人の失策をもう一つ挙げる.それは《本書の由来 》の中の次の文言である.

死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 石光の無知ではなく,失策の話に移る.ここで《本文 》(ほんもん) とは,石光が柴に無断で「校訂」して確定させたテキストを意味している.すなわちこれは,柴の原稿を材料にして石光が作成・編集した原稿=『ある明治人の記録』の第一部を指している.

 それは柴五郎の没後に作られたものであるから,時系列的に会津若松の菩提寺恵倫寺に納めることは不可能である.従って,柴五郎が昭和二十年に恵倫寺に納めて門外不出としたものこそが,柴が推敲清書した自筆の回想録に違いない.
 これを石光は《本文の抜粋 》と書いたが,これは取りも直さず,柴の自筆原稿よりも『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということを意味している.石光は,柴五郎の原稿から,無断で,

翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略し

た.それでもなお『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということは,柴五郎の許可なく,石光の手によってかなりの加筆がなされたことを意味している.
『ある明治人の記録』の第一部において,石光真人が勝手に挿入した加筆部分を特定することは,柴の自筆稿が門外不出であるから,不可能である.
 しかし,おそらくそれは,『ある明治人の記録』の第一部において,会津藩を倒した薩摩藩と長州藩を糾弾している部分であろうとは容易に想像できる.
『ある明治人の記録』の第一部において石光は,柴五郎をエキセントリックで,かつ身分差別意識の強い人間として描いている.だが果たしてそれは柴五郎の実像だったのだろうか.それに関して,私が「如何なものか」と思う箇所の例を二つ,下に挙げる.
 一つ目は明治元年,戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いで,新政府軍に敗北した会津藩主松平容保が,会津藩士を置き去りにして敵前逃亡し,会津城下に戻ってきた時のことである.

この布告を読みて切歯扼腕せざるものなく、噂の真実なるを知りて怒るもの悲嘆するもの城下に満つ。街の様子喪に服せるがごとし。余等幼きものとても悲憤やるかたなく、木刀もて手当り次第立木を打ちまわり、小枝たたき折りて薄暮におよべるを記憶す。
「薩摩の芋武士奴!来たれ!」
「目にものみせてくれん!」
 満面涙に濡れてたたきまわりたれども心おさまらず。その夜、食卓に着けども一人として声を発する者なし。芋武士というは薩摩人の常食が薩摩芋 (唐芋) なりと伝えられ、これを軽蔑してかくよびたるなり。討幕、討会の軍は薩摩、長州、安芸、土佐、大垣の連合軍なれど、その主導権を握れる薩摩藩兵を当面の怨敵となしおれり。
》 (当ブログ筆者による註;この箇所は改版された中公文庫『ある明治人の記録』の p.22にある.また「芋武士」には「いもざむらい」とルビが付されている)

 上の引用箇所中,(唐芋) は柴五郎の原稿にはなく,石光真人がテキスト中に挿入し,テキストと一体化させてしまった註記である.
 また《怨敵となしおれり 》は武人の用いる言葉とは思われぬ.単に「敵」とすべきであるのに「怨敵」としたところに,後世に流行した「観光史学」あるいは「会津怨念史観」の影響が見られる.すなわち《この布告を読みて 》以下の一節は,おそらく柴五郎の言ではなく,石光真人が加筆した文章と思われる.
 話が横に逸れるが,「食い物の恨みは…」という.上に引用した文章には,会津藩士たちが薩摩藩士を芋武士と呼んで軽蔑したと書いてあるが,こんなことを言われたほうは,いかばかり悔しかったであろうか.薩摩藩士たちは粗食に耐えて,新時代到来に備えて富国強兵に励んできた.それに対して会津藩は,領民に重税を課してその苦しみの上に胡坐をかき,しかも武士としての鍛錬を怠った.それが会津戦争の勝敗を分けた.鳥羽・伏見で敵前逃亡した領主と弱卒藩士たち.薩摩藩士の気持ちとすれば,謂われなく薩摩藩士を芋武士と嘲笑した連中は,下北の果てまで追いつめて滅ぼしてくれる,と思っていたのではないか.薩摩からすれば,会津こそが「怨敵」だったに相違ない.
 話を元に戻す.上の引用箇所を読んだ読者は,柴五郎を「心中に独善的な怨念を燃やす品性卑しい人間」だと感じるのではないか.上の引用箇所が本当に柴五郎の言ならば,少なくとも私はそう感じる.
 しかしその程度の人間が,義和団事件において,北京籠城した各国人を団結させ,僅か五百人弱の武官・兵士を指揮して二ヶ月近い籠城戦を戦い抜けるものであろうか.そんなはずがない.これも,上に引用した一節が,柴五郎の原稿にはない,石光真人の創作ではないかと私が思う理由である.

 二つ目は,明治十一年の五月のこと.

この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭にあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり。
 これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお咎むる気なし。

 上の引用部分は,作家やブロガーたちが,丸ごとあるいは部分的に引用することの多い文章である.Wikipedia【柴五郎】は,例によって出典を示さずに,部分的に引用している.
 かようにこの一節はよく知られているが,これはまた私が『ある明治人の記録』第一部の中で,最も違和感を持つ箇所なのである.

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2018年11月22日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 13)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 12) 》の末尾を再掲する.

その程度の知力でよくまあ《校訂を依頼された 》と嘘を書いたものだと呆れる他ない.

 文章というものは,事実をありのままに書けば,何の矛盾破綻もなく,辻褄が合う.当然だ.事実だからである.
 ところが,事実の中に嘘を紛れ込ますと辻褄が合わない文章になる.そこで嘘がばれないように色々と辻褄合わせをやらねばならぬことになるのだが,それは頭の悪い人間には無理な相談で,どこかで矛盾が露呈する.
 石光真人はそういう種類の人間のようで,辻褄合わせに見事に失敗している.ところが石光は小細工はできるけれど,ばれない嘘をつく詐欺師的能力に欠けており,その結果,自分が辻褄合わせに失敗しているという認識をできず,堂々と『ある明治人の記録』を出版した.
 石光の小細工とは何か.
『ある明治人の記録』の第二部に,柴五郎に回想録の原稿を添削してくれと頼まれた (これが事実だとの証拠はない) ことを切っ掛けにして,その原稿を筆写する (柴の許可を得たと書いているが,事実だとの証拠はない) ことができたと書かれている.本書の終わり近くにある第二部のこの叙述が,『ある明治人の記録』の巻頭に置かれた《本書の由来 》に続くという倒叙になっているのは,石光の苦心したところであろう.連続して書けば,嘘がモロバレなのだが,読者が読み流してしまうかも知れない《本書の由来 》に

この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。

と分割して書けばバレないと思ったのだろう.実際,石光が,当用漢字云々と余計なことを書かなければ,私は石光の嘘に気が付かなかったかも知れない.柴五郎に添削を依頼された原稿中の漢字を,柴の没後に公示された当用漢字に置き換えることは,時系列的に不可能であるから,これで石光の嘘がバレてしまったのだ.
 では,何故に石光は当用漢字のことに触れたのか.それは石光が新聞業界の人間だったからである.
 どのような理由か知らないが我が国は,政治体制あるいは権力構造に大変動が起きた際に,アンチ日本語の動きが二度にわたって発生した歴史を持つ.その最初の有名な例は,明治十八年年 (1885年) ,第一次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任した森有礼が主張した「英語を日本の国語とすべし」との論であった.そういう主張を,日本語を母語として育った森有礼は,頭の中では日本語で考えていたわけであるから,もう頓珍漢でお話にならないものではあった.この問題は別の機会にふれるとして,次は先の大戦で敗戦したあとのことである.
 戦後,GHQは,日本が軍国主義に走ったのは国民の教育レベルが低かったことに起因すると考えた.国民が皆きちんと読み書きできれば,情報を平等に受け取ることが可能となり,ひいては戦後日本の民主化に寄与するとでも考えたのであろう.そこで,欧米人からすると日本語習得の壁となっている漢字を廃し,日本語をローマ字表記とする方針を立てた.そして日本国民の識字率を調査したが,案に相違して日本人の識字率は非常に高かった.そのため日本語のローマ字表記化は頓挫した.
 しかし,GHQの意向を忖度したのか,従来からの漢字廃止論者が勢い付いた.詳細は Wikipedia【漢字廃止論】に譲るが,「漢字が廃止されるまで当面の間,可能な限り漢字の使用を制限する」ことを目的として昭和二十一年に当用漢字が内閣告示された.
 Wikipedia【当用漢字】には《1981年(昭和56年)の当用漢字表の廃止以降は書き換えに強制力(法的拘束力)はなくなったが 》とあり,あたかも当用漢字に法的拘束力があったのように書いているが,これは嘘である.公文書においては行政的に強制が行われたが,その他の一般社会には,当用漢字が国民的コンセンサスなしに制定されたことから,科学者や文学者など,業として日本語を読み書きする人々から反対の声が上がったのである.
 例えば作家の舟橋聖一は第1期国語審議会第3総会で次のような反対意見を述べた.

われわれ作家と審議会との関係は対立的であるように世間では見ている。しかし,われわれは国語の簡素化に反対でなはい。小説家は,やさしい表現と達意のために骨身を削っている。でないと読者が離れるからである。ところが当用漢字表は,達意のじゃまをする。山本有三氏がわれわれの代表として審議会に参与したのがまちがいである。山本氏のやり方は,独善的,独裁的で,もまないでまとめることばかりにほねをおる。審議会は大いにもんでもらいたい。》 (この引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 また当用漢字の強制力については,やはり第1期国語審議会第3総会における山口吉郎 (東京大学工学部教授) と宮沢俊義 (東京大学法学部教授,審議会副会長) との間で以下の遣り取りがあり,当用漢字に法的強制力はないことが明言されている.

山口
 学術語の全部が当用漢字表で制約され,術語を変えろと言われているが困る。学術語にはジャーナリズムには使わないが,出度の高い文字がある。攪(かく)拌を「まぜること」,抛(ほう)物線を「物を投げる線」では困るし,「楕(だ)円」の楕の字はない。鉱物の名称・色・形・結晶・成分など,1850字の範囲内で決めることはむずかしい。文部省の検定教科書には,術語の表記が漢字・かな混用の不便・不体裁のものがある。当用漢字表はどの程度厳格なものか許容はどの程度認められるのか,学会の連中は困っている。きょうは,ぜひこの点について確かな返事をもらって帰らなければならない。
 
 宮沢副会長
 どうやれというような命令はどこからも出ていない。もし強制するなら法律で決めなければならないのだから,今のお話は問題にならないのではないか。

 制定当初の状況で放置すれば当用漢字の普及は望めなかったであろうが,ここで政府のお先棒を担いだのが新聞業界であった.敗戦直後の反省もどこへやら,率先して漢字制限を実践して普及に努め,政府に協力したのであった.
 上に述べたことは私のような高齢者にとっては常識だが,Wikipedia の編集に参加するような若い人たちは,調べずにテキトーに書くことが当たり前だと見えて,当用漢字に強制力があったなどと百科事典に書いてしまうのである.
 余談だが,当用漢字に不信感を表明した科学者,山口吉郎は,俳人の山口青邨である.

 ともあれ新聞業界人の石光真人は,当用漢字表外の漢字は難読漢字であるとの思い込みがあり,柴五郎の原稿中の漢字をそのままにしておくべきではないと考えたのであろう.得々として《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが》と書いて,折角の嘘を台無しにしてしまったというわけである.

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2018年11月21日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 12)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11) 》の末尾を再掲する.
 
この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.
 
 重大な撞着とは次の記述である.
 
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが
 
 この箇所が何を意味するかについて説明する前に,『ある明治人の記録』の編著者である石井真人が,《本書の由来 》に
 
このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
と書いているので,第二部に書かれている重要な箇所から一部を引用する.
 
亡父の遺稿整理のためしばしばお訪ねして、少年時代のことなどお聞きしているとき、持ち出されたのが本書の草稿であった.毛筆で半紙に細々と書かれていた.
 翁はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が受けられませんでした。幼年学校に入るときは、文字通りの泥縄、一夜漬けで、野田豁通閣下のお蔭で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などはアメリカの教科書の翻訳でしたが、上級に進むにしたがって、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。そのような基礎訓練を充分受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文がだめなのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。よけいなことをお願いしてすみませんが添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください」
 このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
「それでは拝見させていただきます、添削とか何かは別としまして……」
と答えて、内容も見ずに持ち帰ったのであった。
 ところが、帰宅してから数日後に内容を読むにしたがい、戊辰戦争に関する私の先入観はくつがえされ、非常な驚異を感じたので、このまま巻を閉じて柴家の筐底に納むべきでないことを知り、筆写することを乞うたところ、幸いにも許された。

 
 柴五郎は,学歴こそ陸軍士官学校卒のみで陸軍大学校は出ていないが,義和団事件で勇名を世界に轟かせ,会津出身でありながら最終的に大将の地位に上った俊秀である.その柴五郎の《日本文がだめ 》なはずがない (柴五郎は語学堪能であり,英語,仏語,中国語に通じていた) のである.従ってこれはほんの謙遜に過ぎず,《添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください 》と言ったのは,単に文章の軽微な瑕疵を添削してくれ程度の依頼に違いない.またここで重要なのは,《書き足りないところ、疑問に思う箇所について 》は指摘してくれとだけ言っている点である.
 ところが,ここで前回の記事で引用した《本書の由来 》に戻るが,石光は巧妙に
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。
 
と,柴五郎に《校訂を依頼された》ことにしてしまった.校訂とは,文書に異本がある場合に比較検討してテキストを確定するなど,文章の添削や不具合の指摘をする以上のことを含む行為なのである.柴の原稿には異本がないから校訂のしようがないのだが,添削を校訂と言い換えることで,石光は大胆不敵なことを始めた.
 そこで,これに続く箇所を《本書の由来 》から再度引用しよう.
 
筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。
 
 この箇所を読むと,石光真人著『ある明治人の記録』は,柴五郎の依頼を受けて,柴の草稿を石光が整理したもののように受け取れる.ところが違うのである.
 この記事の冒頭に戻るが,《本書の由来 》には重大な撞着がある.それはこの後にある《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが 》である.
 柴五郎が没したのは昭和二十年 (1945年) 十二月十三日であるが,当用漢字が内閣告示されたのは翌昭和二十一年 (1946年) 十一月十六日である.ということは,
 
翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。
文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、
一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた
 
は,柴五郎が没した二十五年後に,柴の許可なく行われたのである.すなわち,上の《 》に挙げた作業は,柴五郎の添削依頼とは無関係の,昭和四十六年 (1971年) になって石光が中公新書の一冊として『ある明治人の記録』を出版する際に行われた編集作業なのだ.つまり柴五郎は石光真人が『ある明治人の記録』に何を書いたか,知らずに亡くなったのである.
 この石光真人の勝手な行為の中でも,特に暴挙と言うべきは,柴五郎にとって如何ほどに大切な思い出であったかも知れぬ《身辺の些細な記憶 》や《幼時に親しんだ人々 》についての記述を削除したことである.この乱暴狼藉により,『ある明治人の記録』は,明治人柴五郎の回想録としての価値を失ってしまった.
 また,文は人也,文体はその人そのものである.それを勝手に《リライト 》するなど許されるものではない.
 さらに,石光の《振り仮名 》は,著しく低レベルであり,例えば浅草寺に「せんそうじ」とルビを振っている.どこの世界にこれを「あさくさでら」と読む馬鹿がいるか.
 さらにさらに,『ある明治人の記録』の第一部を読むと,本文 (ほんもん,テキスト) とは別に書かれるべき多数の「註」を,あろうことか本文中に,括弧に入れて挿入してしまったことがわかる.これは,石光真人が,新聞社出身でありながら校訂の仕方を全く知らないことを意味している.その程度の知力でよくまあ《校訂を依頼された 》と嘘を書いたものだと呆れる他ない.

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2018年11月20日 (火)

続・日本スゲー ヾ(--;)

 かなり昔のことだが,ホテル客室のバス・トイレやコップなどの衛生状態についてネット上の掲示板にスレが立てられた.
 そのスレには,実際にホテルの部屋清掃の仕事に携わった (ている) 人たちが書き込みをしていた.
 そのスレの内容を記憶しているわけではないが,大雑把な印象では「本当にきれいにしているかどうかはホテルのグレードによる」ということだった.
 また,おぼろげに記憶してはいるもののテレビ局名とか番組名などは忘れてしまったのだが,ビジネスホテルの客室清掃の実態に関する報道映像を観たことがある.
 そのシーンは今でも脳裏に浮かべることができる.
 あるホテルの清掃員は,ボロキレでトイレの便座を撫でるように拭いて,ただそれだけで「消毒済み」と書いた細い紙を便座の蓋にセットしていた.あるいはまた別の布 (ボロキレではない) でコップを拭いて,その上に,いかにも洗ったコップであるかのように,新しい紙蓋を載せたのだった.

 客室清掃の事情は現在でも同じらしい.例えば《ホテル客室清掃員サブリーダーのブログ 》に《ホテル客室にあるコップの「消毒済み」について 》という記事にも,清掃員の立場から,

結論をいいます。
こんなことをいえば誰かに怒られそうですが、私は1泊7,000円以下のホテルや旅館では客室内のコップは使用しません。

と書かれていて,その目安 (一泊七千円,おそらく税抜き) は妥当だと私は思う.
 だからこそ,一泊税抜き八千円の料金を取りながら客室 (ユニットバスルーム) の清掃を全くしておらず,その上,宿泊客 (私) のクレームをフロント従業員が握りつぶした「ダイワロイネットホテル徳島駅前」の名を,昨日の記事で晒したのである.ちなみに清掃係とフロントのどっちに怒りを覚えたかと言うと,もちろんフロントだ.

 さて本題.旅行用の衛生用品は,災害時にも役に立つ.各家庭で十分な数量を備蓄しておくとよいと思う.トイレ便座除菌用のシート (私は小林製薬の製品を常備している) と,アルコール含有ウェットティッシュ,ディスポのスリッパを,現役の会社員だった時からいつも私は旅行カバンに入れている.

 ともあれ,昨日の記事に書いた評論家みたいに「中国のホテルは酷いが,日本のホテルは高級ホテルでも低級ホテルでもみんな衛生的だ」なんて断言するのは能天気に過ぎる.コストと関係なく,なんでもかんでも日本が優れているわけがない.安く泊まれるところの客室品質は,それなりでしかないと考えるのがまともだろう.この手の評論家は,業界の実態をテレビでしゃべったら,その業界にいられなくなるのかも知れないが.

[追記] ダイワロイネットホテルの客室品質は,各地のそれぞれのホテルによって異なる.私は会社員時代に神戸に頻繁に出張したが,神戸での定宿は三宮のダイワロイネットだった.このホテルは,今はどうか知らないが,客室の清掃状態はいつも行き届いていて,かつて一度も不満を持ったことはない.それで,初めて行く土地に宿泊出張するときは,まずダイワロイネットを選択してきたのだが,その長年のリピーターをダイワロイネット徳島駅前は裏切ってくれたのである.婚約相手の女が,男とホテルから出てくるところを目撃したら誰でもただちに婚約解消するだろう.それと同じだ.違うか.かなり違うな.
 とはいえこの記事は,ダイワロイネットホテル全体を非難するものではない.徳島駅前の同ホテルには泊まらないほうがいいですよというだけである.ただし,他の都市のダイワロイネットホテルにも私は金輪際宿泊しない.鮨を食って食中毒になったら,誰でもその鮨屋には二度と入らないだろう.それと同じだ.違うか.少し違うかも.

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2018年11月19日 (月)

日本スゲー ヾ(--;)

 中国の高級ホテルの衛生管理が極めて酷いという,中国版ツイッター・微博に投稿された動画について,今朝のテレビ各局のニュースショーが報道した.
 そのうちの『ビビット』には,ホテル評論家の瀧澤信秋氏がVTR出演してコメントを述べた.以下はその画面のハードコピーである.

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 瀧澤氏のような著名な評論家が太鼓判を押すのだから日本の高級ホテルもビジネスホテル (高級ホテルの対語は低級ホテルかと思うが違うらしい) も,中国の高級ホテルのようなことはないのだろう.
 なぜかというと,日本のホテルは徹底した衛生管理がなされているし,清掃がきちんとできているかどうかに関して,清掃担当者と管理者による二重のチェック体制ができているからである.さすがは日本だ.日本スゲー.
 
 さて昨年の十一月二十一日から二十二日にかけて,私は徳島の大塚国際美術館を訪れた.一泊目は宿は徳島駅から少し離れた「徳島グランヴィリオホテル」を予約しておいた.
 このホテルは,宿泊料金は七千六百円で,やや安めの中級クラスだが,室内,ベッド,バスともにきれいに清掃されていて,実に快適なホテルだった.
 二泊目は徳島駅前にある「ダイワロイネットホテル徳島駅前」だったのだが,夕飯の際にしこたま酒を飲んだので,朝起きてから風呂に入ることにした.ところが翌朝,バスルームに入ってみたら,浴槽の中と縁の上に人間の体毛 (はっきり書くと陰毛) が多数貼りついていた.全く清掃がなされていないことが明白だった.しかも,ユニットバスルームの床は抜けた毛髪だらけであった.
 極めて不衛生と思われたので,便座は持参の消毒薬で清掃し,歯を磨くときにも洗面台の上に置かれたコップは使わないことにした.
 これで宿泊料金は八千七百八十円で,徳島グランヴィリオホテルよりも高いのである.
 私は,メモ用紙に部屋の清掃が極めて不衛生である旨を具体的に書き,チェックアウトの時にフロントの従業員に手渡した.清掃担当者が給料泥棒のクズだと,室内の机の上にメモを残しても破棄されてしまう恐れがあるからである.
 私は,すぐにホテルから「御指摘ありがとうございます.従業員の教育を徹底いたしますので,今後もよろしくお願いします」というメールがくるものと思ったのだが,ナシのツブテであった.顧客のアドバイスを無視するとは,ダイワロイネットホテル徳島駅前はフロントも給料泥棒のクズだと思われた.
 
 さて今回の中国のホテルの件に関して,評論家の瀧澤氏は,日本のホテルは衛生管理が徹底しているから大丈夫と言うが,どこを見てそんなことを言っているのか.瀧澤氏は,日本のホテルは「ほこりがあるか?」をチェックしていると言うが,それよりも「陰毛があるか?」をチェックしてほしいぞ.日本ヒデー.
 
 ダイワロイネットホテル徳島駅前ほど酷くはないが,今年の十月二十日に近江の仏像を鑑賞するツアーで泊まった「アーバンホテル南草津」も不愉快なホテルだった.浴槽は清掃されていたが,ユニットバスルームの床に陰毛が数本散らばっていた.このホテルも二重チェックなんかやっていないことが明らかだった.
 
 経験則だが,部屋履きのスリッパがディスポのホテルは,比較的清掃が行き届いているように思う.あのスリッパがビニールだと本当に情けない.不潔感極まる.私は昔,ホテルのスリッパで水虫に感染したことがあるのだ.以来,旅行の際はディスポのスリッパを持参することにしている.それから便座の消毒剤もね.

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共感力

 先週放送されたNHK『チコちゃんに叱られる!』はおもしろかった.
 ゲストは,はいだしょうこさんと大竹まことだった.大竹まことがチョロッともらしたが,演出サイドからの要請で,大竹のかつての芸風である乱暴狼藉をはたらくことになっていたらしい.

 MCの岡村隆史とチコちゃんの声の木村祐一は,もちろん大竹の芸風は承知していたろうし,解説役の塚原愛アナも年齢的にはたぶん大竹の暴走乱暴狼藉を見たことがあるはずだが,彼女の解説に激怒のフリをした大竹が,つかつかと塚原愛アナに近寄ったときの塚原アナの「大竹さんっ,聞いてくださいっ!」という慌てぶりが爆笑モノだった.

 で,この日は「なぜ歳を重ねると涙もろくなるのか」という質問が出され,これに対する専門家の回答は次のようなことだった.
 年齢を重ねると共にたくさんの人生経験を積んだ人は,他者やいろいろなことに対して共感する能力が高い.感動しやすくなるわけだ.
 ところが,感情のたかぶりを抑制する働きをする大脳前頭葉は加齢によって衰えるため,結果的に人は,歳をとると湧きあがった感情にブレーキが効かなくなるのである.
 その一方で,年寄りが感動して涙をこぼしてしまうような光景を見ても,共感能力は低いが前頭葉の働きが強い若者は,楽しいと思ったり笑ってしまうのだそうである. (これは番組の中で実験が行われ,その結果に私は,なるほどと納得した)
 大竹まことが,ほんのちょっとのことで泣いてしまうと番組中で述懐していたが,大竹と義務教育同学年の私も全く同じだ.
 それで思い出したことがある.先日の記事《小言幸兵衛「朝食の風景」 》に,私はこんなこと↓を書いた.

昨日久しぶりに『プレバト!』を観たら,俳句の才能査定に小柳ルミ子さんが出ていた.
 彼女は最近愛犬を亡くしたという.それで,俳句のお題写真 (朝食の風景) でも水彩画の才能査定でも,とにかく日常,何をしても愛犬のことが頭に浮かんでくるようで,『プレバト!』に出演している間じゅう泣いていた.
 それを観ながら私は,膝の上で丸くなっている私の犬の背を撫で,ついほろりとした.
 犬とか猫のペットが嫌いな人には全く理解できないだろうが,ペットロスというのは,克服するのに長い時間を必要とする場合が多い.私も愛犬が逝ったら,泣いてばかりいるかも知れない.

 この日の『プレバト!』で小柳ルミ子さんが最愛の犬のことを思い出しては泣きじゃくると,MCの浜田雅功が大笑いし,それに釣られて,出演者たちも,スタジオに収録を見に来た若い視聴者たちも,大爆笑したのだった.
 小柳ルミ子さんが泣けば泣くほど皆が爆笑するので,なぜ笑われるのか理解できない小柳ルミ子さんの発言がこれ↓.

20181119a  

 もちろん浜田雅功は芸能界の大先輩だろうが誰だろうが「イジル」のが仕事であるし,週刊誌の記事によれば,番組収録前にイジリの断りを入れ,収録後はすぐに楽屋に行って失礼しましたとフォローするのだそうだ.
 だからそれは特に問題でもなんでもないのだが,『プレバト!』を観たあとで『チコちゃんに叱られる!』を観て思ったのは,若い人たちというのは,他人が泣いているのを見ても,共感できずに笑ってしまうのだなあ,ということだった.

 その日の『プレバト!』にはアンミカさんも出演していた.ちょっと前に『林先生が驚く 初耳学』でMCの林先生が,アンミカさんには一目置いている旨の発言をしたことがあるが,『プレバト!』で小柳ルミ子さんが泣いたとき,アンミカさんだけがしんみりした表情を浮かべていたのが印象的だった.アンミカさんは,きっと共感力が高い人なんだろう.

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2018年11月18日 (日)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 10) 》で,Wikipedia【カレーライス】が,《大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》という記述の出典として,ハウス食品の企業サイトを記載していることを書いた.
 ところが,ハウス食品のサイトには,たった一行,《陸軍幼年生徒隊の食事、土曜日の昼食はライスカレー 》と書かれているだけであり,これは歴史的なことを調べる際の資料としては全く使えないものであった.すなわち Wikipedia【カレーライス】は,記述の出典として不適切なものを出典だとして記載していたことが判明した.
 だが,これで行き詰ったかというと,そんなことはなくて,実は小菅桂子『カレーライスの誕生』((講談社学術文庫,Kindle 版の位置 No.130-135) に陸軍幼年生徒隊の土曜日の昼食はライスカレーだったとの記載があるのだ.それを以下に引用する.
 
この時代に軍隊ではすでにカレーライスを採用している。『ある明治人の記録』(石光真人編著、中公新書、一九七一年) が伝えてくれる。この本の主人公柴五郎は山川健次郎とおなじく会津の出身、上級武士の五男として生まれているが、祖母、母親、姉妹は会津戦争の際に自決、柴五郎は落城後は捕虜として江戸に収容され、後に下北半島の火山灰地に移され悲惨な日々を過ごしている。柴の残した記録には「ただひとすじに自ら生活し得る道を求めて、あえぎあえぎ月日を送り」とあるが、その後、彼は陸軍大将、軍事参議官まで務めることとなる。
 その柴五郎は明治六 (一八七三) 年に陸軍幼年生徒隊 (のちの陸軍幼年学校) の第二期生として入学し、ここでライスカレーと出会っている。一五歳のときである。幼年生徒隊は陸軍兵学寮の管轄で教官はすべてフランス人、日本人は校長と次長、助手と通弁だけであった。当然食事は洋食である。「スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」。この西洋風の生活や食事について柴は「同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し」と書いている。

 実に整然とした記述である.しかし我が国のカレーライスのルーツ問題は,これで一件落着か.というとそんなことはないのである.
 というのは,小菅桂子『カレーライスの誕生』には誤りが多々あることからすると,石光真人編著『ある明治人の記録』に直接あたって確認してみないと,よかったよかったとはならないのだ.
 そこで『ある明治人の記録』を調べてみた.すると,同書の p.117 に当該の記述《食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す。同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し。》がある.
 これすなわち,複数の日本人に継続的に食事としてカレーライスが提供されたと明記された最初の例である.これで高木兼寛による海軍兵食の改善が日本のカレーライスのルーツであるとする横須賀市当局と横須賀市内のカレー屋たちの主張は否定される.
 しんどい調査だったなあと振り返りながら私は,『ある明治人の記録』の前書きに相当する《本書の由来 》を読んだ.そして驚きのあまり,安楽椅子からへなへなと転げ落ちたのである.
 
 さて本書は「第一部 柴五郎の遺書」と「第二部 柴五郎翁とその時代」の二部構成である.第一部は,柴五郎が執筆した文章を石光真人が編集したもので,第二部は石光真人の著作である.
本書の由来 》から下に抜粋引用する.
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。その折、特に筆写保存を許され、さらに内容について数回お話をうかがった。……(中略)…… 本書の内容は、お読みくださる以外に、これを短文で説明することは不可能である。筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。記憶ちがいと思われるもの、年月の錯誤も少数あったので、できるだけ多くの年表、史書と照合し訂正したつもりであるが完璧とはいえない。
 文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、読みやすくするように努めた。当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた。地名は現在は変わっているのが多いが、あえて訂正しなかった。叙述の順序も前後したものが多かったので特殊なもの以外は年月を追って整理しなおした。
 死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される。したがってこの文書は、弾劾警世を意図して綴られたものではなく、肉親、藩士一同とともに、葬り去られた歴史の一節を密かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代とともに眠りにつかれることを考えておられたのではないかと思う。果たしてその通りに、翁が生涯を賭けて護り愛して来た祖国日本が、アメリカ軍に占領されて間もなく昭和二十年十二月十三日逝去され、会津若松の恵林寺の墓所に、柴五郎少年が焼け跡から拾い集めた祖母、母、姉妹の遺骨と並んで永眠された。
 このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
 この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.

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介護される側の心

 朝日や読売などが伝えたところによれば,吉野家が大阪府吹田市の新店舗で昨日から「やさしいごはん」の提供を始めたという.これは高齢者向けで,飯の盛りを減らしたり,おかゆにしたりしてエネルギーを減らし,かつ塩分も通常の並盛の半分 (0.9g) に抑えた.さらに,牛肉を細かく刻んで嚥下しやすくした特徴があるらしい.
 植木不等式によれば,ラーメン,カレー,牛丼は会社員の三大栄養素であるが,栄養バランス崩れまくりの食事の代表格でもある.だがしかし,一ヶ月に一度くらいは健康なんぞ無視した糖質偏重飯を食ってもいいんじゃないか.それに,一食あたりの塩分が 0.9g というのはかなり優秀だ.吉野家から帰宅したあと,野菜や海藻などをたっぷり摂れば,これは高血圧対策の強い味方になるかも.
 というわけで,私は個人的には,おかゆの牛丼を食ってみたい.
 だけれども,たぶんこの新商品は失敗するのではなかろうか.試みは吹田の新店舗だけで尻すぼみかと.
 というのは,刻み食を必要とする高齢者は要介護状態であり,そういう人が元気に吉野家に出かけるとは思えないからである.w
「やさしいごはん」は通常メニューよりも五十円~百円高いという.それは「やさしいごはん」を通常メニューと別の鍋にするからに違いない.だったら特に刻み食なんか作らずに通常品の白飯をおかゆにするだけでいいから値上げしないほうがいいと思う.

 昨日,テレビをオンにしてNHKを観たら『NHKスペシャル 人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」 』の放送終了寸前だった.
 司会の井上二郎アナが番組の最後で,ゲストの阿川佐和子さんに「人生百年時代の豊かな老後についてどう考えるか」旨の質問をしたところ,阿川さんは「老後が豊かなわけがない」と即答した.体力も記憶力も衰えた高齢者は,最後は「生きていてすみません」という気になってしまうからだという.生きる目的もなく,ただ介護される日々.そんな老後が豊かなはずがない.
 さすがは当代きって才女である.今の高齢化対策は,介護をする側をどう支援するかという視点で進められているわけで,介護をされる側の心のことは考えられていないのだ.
 この問題を突き詰めると,尊厳死のことに至るわけだが,そもそも,NHKが人生百年時代なんぞと騒ぎ立てること自体が,能天気だと思う.私は,そう遠くない時に日本人の平均寿命の延びは止まるような気がする.
 
 話のマクラと本文の繋がりが単に高齢者というだけで,何が言いたいのか不明だとのお叱りは甘んじて受けたい.実は二つの話を単に並べただけなのである.ヾ(--;)

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2018年11月17日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 10)

 一昨日の《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 9) 》には,その前日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 8) 》の補遺を書いた.
 今日は元に戻って《(海軍カレー編 8) 》の記事の末尾を再掲する.

次回も食品大企業の公式サイトのあきれた状況について書く.

 さて,再び Wikipedia【カレーライス】に戻り,《年表 》の最初の部分 (明治時代) を見てみよう.

1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。また、同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された。
1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1889年(明治22年)、神戸居留地にあるオリエンタルホテルのカレーライスをラドヤード・キップリングが新聞「The Pioneer.」誌上で絶賛する。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、大日本帝国海軍が配布した『海軍割烹術参考書』に、「カレイライス」のレシピが載る。海軍カレーの起こり。
1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る。

 明治五年に《北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された 》とのことであるが,これは外国人が食べたのであるから,日本のカレーライスのルーツとは無関係な話である.
 しかし《当時の表記はタイスカリイ 》がちょっと気になる.
 江戸でも明治でもそれ以後の時代でも,耳から聞いた音をそのまま片仮名に移すことはよく行われた.例えばヘボン式ローマ字の考案者 James Curtis Hepburn の Hepburn は確かに「ヘボン」であって,これを「ヘップバーン」と発音したら誰のことやらわからない.昔の人の聴覚は正確だったんだなあと感心する.(脚註*)
 とすると,《タイスカリイ 》とは一体何だ.アメリカ英語でもイギリス英語でも「ライスカレー」という言葉はないからである.ホーレス・ケプロンが「ライスカレー」と言った可能性はゼロである.その上,しかも,「タ」と「ラ」では発音が違い過ぎる.従ってこれは何かカレーライスではない他のものだと思われる.
 そこでホーレス・ケプロンが何を食べたかを検索してみたところ,その献立が,北海道立文書館所蔵の『開拓使公文録』に載っていることがわかった.そしてその献立を撮影した画像がネット上のあちこちに散乱している.例えばこれ.  
 その画像を見ると「タイスカレイ」と書かれている.つまり Wikipedia【カレーライス】に《当時の表記はタイスカリイ 》とあるが,この部分の執筆者は『開拓使公文録』の原文を読んでいないことがわかる.原文を調べずにネット記事を孫引きし,そして正確な孫引きならまだしも,「タイスカレイ」を「タイスカリイ」と間違って転記したのがあからさまである.まったくもって話にならぬ.
 さて年表は次に《大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》とある.
 これが事実なら,これこそは日本のカレーライスのルーツだ.
 そこで,Wikipedia【カレーライス】のこの記述の出典だと記載されている《カレーの日本史 明治時代 - ハウス食品 》を閲覧してみた.すると,そこにあったのは,たった一行の記述であった.
20181117a
 
 この短すぎる記述には,典拠が書かれていない.Wikipedia【カレーライス】を読んだ者が,このハウス食品のウェブページを閲覧しても,これが本当か否か,確かめる術がないのである.よくもまあ Wikipedia【カレーライス】はこんなものを堂々と出典であるとしたものだ.情けなくて涙がでるくらいだ.
 情けないのは Wikipedia だけではない.ハウス食品は食品製造業である.食品製造業というものは,仕入れた原料,例えば小麦粉に関する「201*年の米国産小麦で,これが西海岸○○港から穀物輸送船××丸に積まれて横浜港に輸送され,△△製粉の□□工場で製粉された」などの情報が,消費者から要求されたらたちどころに回答できるようになっている.そのような生産関係情報をトレースする (辿る) システムを有していなければならない.

 ところが,ハウス食品の公式サイトは,カレーライスのルーツに関する情報を,消費者が収集する際のトレーサビリティを途中で遮断している.これは製造業の企業ウェブサイトとしてあるまじき行為である.
 
------------------------------------ 
(脚註*) 似たような例で「ギヨエテとは俺のことかとゲーテ云い」という文句が知られている.これは斎藤緑雨の言葉であるとされており,Wikipedia【斎藤緑雨】には次のように書かれている.
警語
その常識に捉われない機知は、1903年(明治34年)1月から1903年(明治36年)7月まで萬朝報・読売新聞・二六新報などの新聞に発表された「眼前口頭」をはじめとするアフォリズム集によくあらわれている。
" 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし "
"ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ"

 ところがこれが根拠のない話らしい.東京ゲーテ記念館の公式サイトに,斎藤緑雨の言葉であるという根拠はないと書かれている.ここでも Wikipedia は根拠のない記述をしているわけで,これはもう Wikipedia の体質であり,根本的欠陥だとしていいだろう.

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2018年11月16日 (金)

小言幸兵衛「朝食の風景」補遺

小言幸兵衛「朝食の風景」 》に,《こちらも汁椀を飯茶碗の向こう側に置き,汁椀の位置になぜか納豆の小鉢が置かれている.まさかこれが最近の流儀だというのではあるまいな 》と書いてから,「もしかすると」と思い,調べてみた.すると《和食の配膳位置!ご飯はどうして味噌汁の左側に置くのか!? 》というブログ記事があり,下の画像 (ブラウザ画面のハードコピー) にこんなこと↓が書いてあった.
 
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 なるほどねー.まさかとは思ったのだが,汁椀を飯茶碗の向こう側に置くのは,最近の若いモンの流儀であったのか.
 農水省は「一汁三菜は日本の伝統的食事」なんぞと嘘をついてユネスコを欺き,やれ食育だ,やれ学校給食を「和食」にして牛乳を追放するとか浮かれているうちに,その日本の伝統はもはや崩れ去っていたわけだ.ちなみに上記ブログの筆者は,汁のことを「一汁」↓と書いている.つまり「一汁三菜」の意味がわかっていないのだ.きっとこの筆者の頭の中では,「一汁」という汁物があることになっているのだろう.「豚汁」みたいな.w
 
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 遺産という言葉は,それを持っていた人が既に死んでいることを示唆している.まさに「和食は文化遺産」ではある.

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小言幸兵衛「朝食の風景」

 私と長いこと一緒に暮らしているトイプードルが,最近は年老いたせいか,居間の床に置いた毛布の上で一日中寝ている.
 しかし私がテレビの前の安楽椅子に腰かけると目を覚まして,膝の上に乗りたいとせがむ.そして私がテレビ番組を観るときはずっと,私の膝で寝ているのである.

 昨日久しぶりに『プレバト!』を観たら,俳句の才能査定に小柳ルミ子さんが出ていた.
 彼女は最近愛犬を亡くしたという.それで,俳句のお題写真 (朝食の風景) でも水彩画の才能査定でも,とにかく日常,何をしても愛犬のことが頭に浮かんでくるようで,『プレバト!』に出演している間じゅう泣いていた.
 それを観ながら私は,膝の上で丸くなっている私の犬の背を撫で,ついほろりとした.
 犬とか猫のペットが嫌いな人には全く理解できないだろうが,ペットロスというのは,克服するのに長い時間を必要とする場合が多い.私も愛犬が逝ったら,泣いてばかりいるかも知れない.

 さて俳句のお題は「朝食の風景」だったが,いつものことながらこの番組の制作スタッフの程度の低さが情けなかった.

20181116a

 上の画像は,テレビ画面をカメラで撮影し,トリミングしたもの.
 で,御飯茶碗の位置はいいが,なぜそんなところに汁椀を置くのだ.手を伸ばして椀を持とうとするから,親指を椀に突っ込んでしまうのだ.
 ついでにいうと,箸の持ち方がだめだ.親指が人差し指に触れていて,箸を保持するのに使われていないから,箸の先が「イスカの嘴」になっている.さらについでに言うと「イスカの嘴」は「イスカの嘴の食い違い」ともいい,物事が食い違うことをいう.Wikipedia【イスカ】の画像を御覧頂きたい.

 この妻役のタレントさん (かわいいので,箸のことくらいどうでもよいです) の対面に夫がいるわけだが,それが次の画像.
 
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 こちらも汁椀を飯茶碗の向こう側に置き,汁椀の位置になぜか納豆の小鉢が置かれている.まさかこれが最近の流儀だというのではあるまいな.
 こんな仕方で平気で飯を食う人間の常として,この男の箸の持ち方はもっと酷い.親指が反り返って,人差し指の付け根にくっついているのだ.かわいい女子ならともかく,箸をきちんと使えない男は許さぬ.w
 昨年亡くなった野際陽子さんが,テレビのバラエティ番組に出演したときのこと.何か物を食べるシーンが放送されたのだが,彼女の箸の持ち方がだめだと視聴者からバッシングを受けた.
 すると野際さんは,わざわざ「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません」旨のコメントを発表し,それ以後,箸を使う場面のある仕事は断ったという.おそらく箸の持ち方も正しく直したことだろう.素敵な人であった.
 
 余談だが,食卓に椀や皿を並べる仕方がデタラメなのを,最近の若いモンは無知だからなあと笑ってはいられない.ちゃんとした料理屋さんは別として,会社員が昼飯を食いに行くような店,例えば大○屋などでも,いい歳をした配膳係のおばさんが,こういう置き方をすることがあるのだ.私の手前に小鉢を並べ,その向こうに魚,さらにその向こうに飯と汁を置かれると,ファミレスとか大手の定食屋の経営者は従業員の教育をしっかりして欲しいものだと思う.
 
 閑話休題.
『プレバト!』は編集後に,こういう無作法をチェックする係はいないのだろうか.「マナー界のカリスマ」こと,西出ひろ子先生に指導してもらったらいいんじゃないかと思う.容姿といい立居振舞といい,実にテレビ向きの濃いキャラなので,指導だけでなく俳句でもひねって頂いたらどうか.かなりウケると思われる.

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2018年11月15日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 9)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 8) 》の末尾に,
 
次回も食品大企業の公式サイトのあきれた状況について書く.
 
 と書いたが,その前に,前回の記事の補遺を二つ記す.
 キリン食生活文化研究所のコンテンツに嘘が書いてあることについて,私は次の通りに書いた.
 
三宅秀は実在の人物であるが,遣欧航海の船中日記にそんなことは書いていないのである.別の人物の日記の記事を,上記の吉田よし子が『カレーなる物語』の中で取り違えて「三宅秀」と書いてしまったのだ.
 
 上述の《別の人物 》の名を明記すべきだった.その人物とは池田筑後守長発の遣仏使節団 (文久三年十二月~四年六月) に副使の河津伊豆守の従者として参加した岩松太郎である.岩が書き残した『航海日記』は『遣外使節日記纂輯 第3』(大塚竹松編,日本史籍協會,1930年;第1,2,3巻の三分冊) に収められている.古書はそれぞれ五千円程度であるが,第3巻は特にレアのようで,「日本の古本屋」等で購入する場合は検索して在庫ありとヒットしたら即決購入するのがよい.しかし岩の『航海日記』読むだけなら国会図書館から複写を取り寄せれば事足りる.
 
 さて前回の記事は,かつて日本のカレーライスのルーツとされてきた説,すなわち明治九年に来日したクラーク博士が札幌農学校学生寮の食事にカレーライスを導入したという説は,根拠のない伝説であるという話だった.
 
ウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校学生寮の食事にカレーライスを導入したとする説が大手を振ってまかり通っていた.そしていまだにこの珍説を述べているブロガーがいるのだが,上記吉田よし子の調査によるとこれは根拠がないという.Wikipedia【ウィリアム・スミス・クラーク】も否定しているし,何より北大当局自体が否定している.
 
 上の引用文中の《何より北大当局自体が否定している 》の典拠を示すべきであった.
 北海道大学の公式サイトの《FAQ よくある質問と回答 》に次のように書かれている.
 
クラーク博士とカレーライスについて
 クラーク博士とカレーライスの係わりについて、「ライスカレーの名付け親はクラーク博士」、「日本のカレーライスの発祥は札幌農学校」、「生徒は米飯を食すべからず、但しライスカレーはこの限りにあらず。と農学校の寮規則に書かれていた」というのは本当のことか、事実なら資料を見せてほしい、という問い合わせを多くいただきます。
 しかし、札幌農学校当時の記録で[カレー]の記述があるものは、明治10年7月の取裁録(公文書を綴ったもの)の中の、買い上げの品として「カレイ粉 三ダース」、明治14年11月の取裁録の中の、「夕 洋食<パン バタ 肉肴之類ニテ弐品 湯 但隔日ニライスカレー外壱品>」、この2点の史料のみで、クラーク博士とカレーを結びつけるはっきりとした史料は残っていません。

 
 このように現在では否定されているのだが,クラーク博士説を否定した吉田よし子『カレーなる物語』(筑摩書房,1992年) よりも後に出版されたにもかかわらず,小菅桂子『カレーライスの誕生』(講談社,2002年) や,井上宏生『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』(平凡社新書,2000年) では,クラーク博士が札幌農学校学生寮の食事に導入したのが日本のカレーライスのルーツであるとしており,ルーツ探しの進展に逆行してしまった.
 明治の初期に,北海道開拓指導のために雇われて来日した外国人たちは,北海道で米を栽培することに反対した.今でこそ北海道で米は栽培できるが,当時の北海道では,米は著しく経済性の悪い作物だった.そのため彼らは,米よりも栄養的に優れる小麦と,野菜類,畜産で開拓農業を推進しようとした.北海道における食事の洋食化を主張したのである.(『新北海道史 第三巻 通説二』出版者は北海道,1971年;国会図書館等で閲覧可能)
 開拓地の農業を指導し,札幌農学校学生寮における食事の洋食化を推進したクラーク博士が,栄養的に取り柄のないカレーライスを寮食に導入したとは考えにくい.その当時の普通の日本人の食事つまり「飯と味噌汁と漬物」よりはマシだから,せいぜい「カレーライスを学生が食べるのを禁止はしなかった」が実際のところだったろうと思われる.もっともクラーク博士が帰国した五年後には,寮食の洋食化は頓挫したようであるが,私はその典拠である書籍を未読なので断言は避ける.

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2018年11月14日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 8)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 7) 》の末尾を再掲する.
 
この海上自衛隊地方総監の発言《カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがある 》は本当だろうか.
 実は《カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがある 》という話は,横須賀市がカレーで街起こしを始めてから突然現れた説であり,日本風のカレーのルーツにはそれと異なる定説が従前からあったのである.

 
 我が国にカレーライスが広まって行った経緯については,吉田よし子『カレーなる物語』(筑摩書房,1992年),井上宏生『カレーライス物語―面白雑学』(双葉文庫,1996年),同『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』(平凡社新書,2000年) など多くの出版物にまとめられている.しかし,これらの書籍には明らかな引用の誤りや独自研究 w があるので,多数の書籍を突き合わせて矛盾のない事項,きちんと出典が示されている事項,自分の体験に照らし合わせて納得できるような事項などを残すようにする.そして単に伝説に過ぎないものは除く.これはカレーに限らず,調査というものの基本である.
 そのように書籍を調べた上で Wikipedia【カレーライス】を見てみよう.
 明治の初めに料理本にカレーの作り方が掲載されたなど (仮名垣魯文『西洋料理通』他) は実際にカレーが料理されて食べられたわけではないから,ルーツとは呼べない.
 またかつて,明治九年 (1876年) に来日して八ヶ月間の短期間であったが札幌農学校教頭に就任したウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校学生寮の食事にカレーライスを導入したとする説が大手を振ってまかり通っていた.そしていまだにこの珍説を述べているブロガーがいるのだが,上記吉田よし子の調査によるとこれは根拠がないという.Wikipedia【ウィリアム・スミス・クラーク】も否定しているし,何より北大当局自体が否定している.
 ところで現北海道大学構内にある施設「エンレイソウ」に入っている「レストランエルム」のメニューには「クラークカレー」(「食べログ」に記載の価格は \1,260) があるのだが,しかし学内で営業している食堂 (外部の業者による経営)が,献立にクラーク博士の名を遺す程度のことはご愛敬だろう.見た目,なかなかおいしそうなので結構なことである.ただしクラーク博士に因んで名づけるのなら,カレーではなくアメリカ風の料理だったらもっと感心するのだが.
 ここで余談だが,キリンホールディングス (キリン株式会社を傘下に有する持ち株会社) の公式サイトに《キリン食生活文化研究所 》というコンテンツがある.規模は知らないが,社内にそういう組織があるらしい.そのコンテンツ中の記事《日本の学生を指導したクラーク博士とカレーライス 》に恥ずかしい誤りがある.間違いが訂正されてしまうと話が通じなくなるので,ブラウザ画面のハードコピー画像 (作成日 11/14) を掲載する.(←意地が悪い w)

20181114a
 
 恥ずかしい間違いとは,
 
当時の文献を見ると、例えば1863(文久3)年、遣欧使節であった三宅秀(1848~1938)が、船中でインド人がカレーを食す場面を目撃し日記に残している。そこには「飯の上に唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と書いていることから、当時の日本人の食文化からすると、非常に奇異な物に映ったようだ。
 
の部分.三宅秀は実在の人物であるが,遣欧航海の船中日記にそんなことは書いていないのである.別の人物の日記の記事を,上記の吉田よし子が『カレーなる物語』の中で取り違えて「三宅秀」と書いてしまったのだ.これは食文化に関心ある者にはよく知られた事実である.
 ということは,この記事を書いたキリン食文化生活研究所の所員は,自分が読んだ本に間違いがあるなんて思ってもいなかったのだ.まるで,滅多に本を読まない中学生並みの頭の程度だ.だから書いてあることが正しいかどうか調べもせず,手抜きして,『カレーなる物語』中の間違いをそのまま孫引きしたわけだ.しかも,「吉田よし子著『カレーなる物語』によると…」と書くべきところ,まるで自分が三宅秀の日記を読んだかのような嘘をついて《当時の文献を見ると 》と書いている.
 手抜きはまだしも,嘘をつくのは恥ずかしいことである.キリンホールディングスは,人間としてまともな者を食文化生活研究所に配属するべきだろうと私は思う.嘘を社会に拡散してはならない.それは企業の社会的責任だからである.
 
 閑話休題.次回も食品大企業の公式サイトのあきれた状況について書く.

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2018年11月13日 (火)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 7)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 6) 》の末尾を再掲する.

さあ,横須賀市当局と横須賀のカレー屋たちが隠しておきたい真実を述べよう.海軍兵食としてのカレーライス,すなわち海軍カレーの発祥の地は,横須賀ではなく,舞鶴なのである.

「特定非営利活動法人赤煉瓦倶楽部舞鶴」が,舞鶴にある海上自衛隊第四術科学校に保存されている『海軍割烹術参考書』(原本;日本遺産) を底本として,これを現代語訳した本を頒布している.
 その表紙裏に記載されていることを次に引用する.

舞鶴海兵団長  西山保吉
 命令      五等主厨は本書に依り割烹術を習得すること
 発行年月日   明治41年9月1日
 沿革      本団開庁以来実施してきた教材材料を収集し海軍大主計花井申監督の下に海軍一等厨宰今井歳郎堀口篤によって増補改訂したものである。更に佐世保海兵団編纂による参考書を参照して本書を編集したものである。

 

 鎮守府海兵団について少し説明する.
 高木兼寛が兵食改良によって海軍における脚気の蔓延を克服した二年後の明治十九年 (1886年) に「海軍条例」が制定され,日本沿岸の海面を五海軍区に分け,それぞれに鎮守府を設置することとした.海兵団とは鎮守府に置かれた陸上部隊である.
 これに基づき,既に二年前に開庁されていた横須賀鎮守府に加え,明治二十二年 (1889年) に呉鎮守府と佐世保鎮守府,明治二十四年 (1901年) に舞鶴鎮守府が開庁された.
『海軍割烹術参考書』の記述によれば,この参考書が作られた時点で既に佐世保鎮守府は同様の割烹術参考書を作成していたことがわかる.また横須賀鎮守府と呉鎮守府には言及がないことからすると,両鎮守府には割烹術参考書はなかったものと思われる.
 残念ながら舞鶴に先行する佐世保鎮守府の割烹術参考書は現存していないようである.平成二十八年 (2016年) 四月に「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~」が日本遺産に認定された際に,舞鶴海兵団が作成した『海軍割烹術参考書』は文化財に指定されたが,佐世保のそれは現物が発見されなかったためであろうが,申請されなかった.今後,佐世保の割烹術参考書が発見される可能性は少ないと思われる.従って,海軍兵食におけるカレーライスの初出史料は舞鶴海兵団が作成した『海軍割烹術参考書』だとしていいだろう.
 しかるに横須賀市当局と横須賀市内のカレー屋たちは,『海軍割烹術参考書』が舞鶴鎮守府のレシピ集であることを隠して,あたかも『海軍割烹術参考書』に記載されたカレーが横須賀に関係がある料理であるかのようにレシピを簒奪し,宣伝した.道義に悖るとはこのことだ.
 その結果,現在ではネット上に「海軍カレー」のルーツは横須賀であるという記事が溢れている.どうしてこんなことになってしまったのか,経緯を見てみよう.
 まずは横須賀市役所の公式サイトを覗いてみよう.《よくある質問 》に《よこすか海軍カレーの由来について教えてほしい 》があるが,回答は次のように簡単に書かれており,外部サイトへ誘導される.

日本のカレーライスのルーツは明治時代の海軍にあり、この海軍のカレーが横須賀から全国に広まりました。詳細は下記の関連情報をご参照ください。

 外部サイトとは,前にも紹介した飲食業者サイト《カレーの街 よこすか 》である.それを再度閲覧してみよう.
 まずこのコンテンツ中の《「よこすか海軍カレー誕生」エピソード 》に,次のようにある.

平成10年12月、海上自衛隊地方総監の退官を前にお別れパーティーが海上自衛隊 田戸台分庁舎で開かれました。 その席上で総監が、「呉市と舞鶴市では、両市が本家争いをするなど、肉じゃがを“まちおこし”に繋げているが、カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがあるので、海軍の街である横須賀でカレー発信の地として、“カレー”を地域の活性化に利用してみては」という趣旨の話をされました。

 この海上自衛隊地方総監の発言《カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがある 》は本当だろうか.
 実は《カレーライスが庶民の食卓に普及したのは海軍のカレーにルーツがある 》という話は,横須賀市がカレーで街起こしを始めてから突然現れた説であり,日本風のカレーのルーツにはそれと異なる定説が従前からあったのである.

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2018年11月12日 (月)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 6)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 5) 》の末尾を再掲する.

「海軍カレー」の嘘に関して重要なことは,「筑波」では麦飯 (この麦とは,大麦を砕いて作る挽割麦のこと;今は麦飯といえば押麦と米を混ぜて炊いたものであるが,明治時代に押麦はまだ発明されていなかった) は炊飯されなかった (大麦はそもそも高木兼寛が作成した食糧表にない) ことと,「筑波」に積み込まれた食材の中にカレー粉はなかったという事実である.すなわち横須賀市当局が主張する「〈筑波〉の実験航海で,とろみをつけたカレー風味のシチューが兵食として提供された」は歴史の捏造である.
 また木原洋美や多くのブロガーが,麦飯にカレーをかけた「筑波」の献立が「海軍カレー」の始まりであると書いているが,これまた真っ赤な嘘である.挽割麦もカレー粉も,「筑波」は積んでいなかったのである.

 百科事典 Wikipedia の,情報源としての致命的欠陥は,客観性がないことである.端的に言うと,その百科事典項目に利害関係を有する者が「恣意的な編集=捏造」をすることを,Wikipedia のシステムは阻止できないのだ.
 その一例が Wikipedia【海軍カレー】である.Wikipedia【海軍カレー】の捏造部分を指摘していこう.

日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに、白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載(後述)して普及させ、帝国海軍内以外では脚気の解消が、世界中で全くできていない中において、海軍内の脚気の解消に成功した。さらにその後の第一次世界大戦を通じ、その普及に努めた。また、この段階でカレーライスに牛乳が付いたとされる。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った.後述するが,この着色箇所は恥知らずな大嘘である)

 まず最初に《日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに、白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し 》が嘘であることを指摘する.どこをどう探しても,《白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府 》を支持する史料はでてこないのだ.
「白米」を白飯の意味で用いるのは,この文章を書いた者の学力が小学生並みであることを示しているが,そういうツッコミはさておき,海軍軍医高木兼寛は,練習艦「筑波」の遠洋航海で行った脚気予防法の実験においては,主食を白飯とパンの併用とした.ところがその後の検討で,航海中は艦内でパンを焼くことができないことと,兵たちがパンを忌避する傾向が強いことからパンを諦め,翌明治十八年には麦飯を兵食とする方針に転換した.
 これ以後,太平洋戦争敗戦に至るまで帝国海軍は,戦時中,太平洋西部に展開した艦船はもちろん,舞鶴,呉,佐世保など国内の各鎮守府も,主食は麦飯であった.横須賀鎮守府だけが《白米を食べさせる》兵食に回帰したという事実はない.
 また《肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事 》という記述は,この箇所の執筆者が栄養にも調理にも無知であることを示している.一飯家庭や大衆食堂のカレーライス自体は,ラーメンと並ぶ栄養バランス崩れまくりの炭水化物偏重食だ.実際には温野菜や鮮度の高い生野菜を副食に追加し,そしてカレーに肉を増やさないと,健康的な食事とは言い難い.
 さらに,私が知る限り《横須賀鎮守府が 》《食事としてカレーライスを採用し 》たことを示す資料はない.このことが事実であるか調査したのは,実は私だけではない (ネット検索すると記事がみつかるので,関心ある向きは検索されたい).そして横須賀鎮守府がカレーを兵食に採用したということを,その記事も否定している.
 私は,ネットだけでなく書籍や論文などの調査・探索に関して,そこそこの自信をもっている者だが,それでも《横須賀鎮守府が 》《食事としてカレーライスを採用し 》たとする資料を見つけることができていない.まず間違いなくこれは,この箇所を執筆した者の 捏造 独自研究 w であり,私の想像では,この箇所の執筆者は横須賀市の関係者である.
 というのは,《横須賀鎮守府が 》《食事としてカレーライスを採用し 》の箇所に出典を示さず (嘘だから出典を示すことはできない) にサラリと流した上で,さらに何食わぬ顔で《海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載 》と書いているからである.言うまでもなく《海軍当局 》とは海軍省を指す.しかし中央官庁である海軍省が調理の教科書を発行したのは,十年後の大正七年 (1918年) になってから配付した『海軍主厨厨業教科書』が最初である.『海軍割烹術参考書』は海軍省が作ったものではない.よくまあそんな嘘を思いつくものだと感心する.
 では『海軍割烹術参考書』は誰が出版したか.それこそが,横須賀市当局と横須賀のカレー屋たちが隠しておきたいことなのである.

 海軍の兵食としてカレーライスを記載した初出の資料である『海軍割烹術参考書』は,原本が公立図書館は無論のこと,国会図書館にもないという非常にレアな本である.幾つかの図書館にあるのは,イプシロン出版企画という出版社が十年ほど前に発行した『復刻 海軍割烹術参考書』だ.ただしこの本は書名に「復刻」としてあるが,書名に偽りがある.実は復刻ではなく現代語訳にしたものである.しかもこの本は,古書は入手できるが高価だ.
 ならば本物の『海軍割烹術参考書』はどこにあるか.舞鶴の海上自衛隊第四術科学校が,舞鶴海兵団から継承して保存しているのである.
 そしてこれを底本にして「特定非営利活動法人赤煉瓦倶楽部舞鶴」が現代語訳にした書籍を,実に良心的になことに僅か五百円で頒布している.『海軍割烹術参考書』の実物を見たいのではなく内容を知りたいのであれば,『復刻 海軍割烹術参考書』ではなく赤煉瓦倶楽部舞鶴が発行しているものをお勧めする.(私が持っているのもこれである)
 さあ,横須賀市当局と横須賀のカレー屋たちが隠しておきたい真実を述べよう.海軍兵食としてのカレーライス,すなわち海軍カレーの発祥の地は,横須賀ではなく,舞鶴なのである.

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2018年11月11日 (日)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 5)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 4) 》の末尾を再掲する.

吉村昭は現場に赴き,関係者から証言を聞き取り,史料を集めてノンフィクション作品を書いた人である.従って作品中に嘘の記載はない.そして「海軍カレー」の嘘八百を知るだけなら,その吉村昭の『白い航跡』を読めば足りる.海軍カレーについて知識を得たいなら『白い航跡』は必読書なのである.

 では,高木兼寛が行った海軍練習船「筑波」での実験について,吉村昭が何を書き残したかを見てみよう.新装版『白い航跡(下)』(講談社文庫,Kindle 版) から下に引用する.

(Kindle 版の位置No.661-676)
まず、艦艇が港に停泊している折の献立表は、次のようなものであった。
 一週間のうち、日・火・木・土の四日間は、
 朝食――パン六〇匁、バター三匁、ビスケット二匁、 砂糖四匁、茶一匁
 昼食――米飯五〇匁、骨付き生牛肉六〇匁、野菜二五匁
 夕食――米飯五〇匁、骨付き生牛肉四〇匁、野菜二五匁、日本酒二合
 月・水・金曜日の三日間は、
 朝食――まんじゅう五〇匁、バター三匁、ビスケット二匁、砂糖四匁、茶一匁
 昼食――米飯五〇匁、牛肉缶詰六〇匁、野菜二五匁
 夕食――米飯五〇匁、魚肉四〇匁、えんどう豆一〇匁、野菜二五匁、日本酒二合
 これ以外に、芥子、胡椒、醬油、味噌、酢を使用する。まんじゅうは、小麦粉が原料なのでパンと同じものと考え、兵に抵抗感をあたえぬよう日本人になじんだまんじゅうをパンの代用食としたのである。
 ついで、艦艇が航行中の献立表を作成した。航海中は娯楽などの刺激がなく、食事が兵たちの唯一の楽しみであることを考慮して、停泊している場合とちがって日・木曜、月・金曜、火・土曜と水曜の四種類にわけて、それぞれの献立を考えた。
 朝食の主食は、日・木曜と火・土曜の四日間はパン。月・金曜と水曜日をまんじゅうとし、バター、ビスケットを毎食あたえる。昼食と夕食は、碇泊中と同じように米飯五〇匁を主食とすることに変りはないが、火・土曜日は米飯を三〇匁にへらし、その代りに小麦粉が原料であるうどん二〇匁を支給する。
 尚、蛋白源である肉類については、航海中に肉類が腐敗するので長期間保存のきく塩漬けにした牛肉、豚肉を積みこんでこれをあたえる。そのほか、野菜以外に保存がきく馬鈴薯、豆類などが配されていた。

(Kindle 版の位置 No.1111-1117)
兼寛は、遠洋航海に出る「筑波」の乗組員が摂取する食物についての検討に取り組んだ。蛋白質と含水炭素の比率が適正であるようにするため献立表を何度も書き直し、ようやく食物の種類と量を決定した。
  毎人一日分ノ食量表
 米……一八〇匁、魚類……四〇匁以上、肉類……八〇匁以上、脂油類……四匁、砂糖……二〇匁、牛乳……一二匁、味噌……一四匁、醬油……一六匁、野菜……一二〇匁、酢……二匁 香料……三分、酒類……五〇匁(但し日本酒の量なり)、豆類……一二匁、麦粉……二〇匁、茶……二匁、塩……二匁、漬物……二〇匁、菓物……適宜
 早速、有地艦長、青木大軍医を招き、有地にこの表を渡して食料の調達を指示した。また、青木大軍医には、航海中、毎日曜日に乗組員全員の体重測定をし、病気発生の折には病名等を詳細に記録するよう指示した。さらに、寄港地に到着した折には概要でよいから報告書を医務局に送るよう求めた。

 上の引用箇所についていくつか註釈をする.
牛乳 》はコンデンスミルクのことである.また《香料 》は芥子と胡椒である.
 パンについては,『白い航跡(下)』の他の箇所に書かれているが,「筑波」にはパン焼窯は設置されていなかった.従って「筑波」は,停泊港でパンを積み込んだあと,消費したらビスケットでこれを代用した.
「海軍カレー」の嘘に関して重要なことは,「筑波」では麦飯 (この麦とは,大麦を砕いて作る挽割麦のこと;今は麦飯といえば押麦と米を混ぜて炊いたものであるが,明治時代に押麦はまだ発明されていなかった) は炊飯されなかった (大麦はそもそも高木兼寛が作成した食糧表にない) ことと,「筑波」に積み込まれた食材の中にカレー粉はなかったという事実である.すなわち横須賀市当局が主張する「〈筑波〉の実験航海で,とろみをつけたカレー風味のシチューが兵食として提供された」は歴史の捏造である.
 また木原洋美や多くのブロガーが,麦飯にカレーをかけた「筑波」の献立が「海軍カレー」の始まりであると書いているが,これまた真っ赤な嘘である.挽割麦もカレー粉も,「筑波」は積んでいなかったのである.

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2018年11月10日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 4)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 3) 》の末尾を再掲する.

木原洋美の文章のどこが,規範とすべき虚偽から逸脱しているかというと,
《たんぱく質を多く含んでいるということで麦と米を半分ずつ混ぜた麦飯にかけた「ライスカレー」だった。麦を混ぜたおかげで期せずしてビタミンB1の不足も補え、結果、明治18年には海軍の脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、と劇的に改善 》
の箇所である.軍艦 (ただし海軍兵学校の練習艦である)「筑波」の遠洋航海で脚気予防方法の実験が行われたのは明治十七年であるが,海軍が兵食に麦飯を採用したのは,翌明治十八年のことであった.すなわち「筑波」の兵員たちは,実験航海では麦飯を食ってはいなかったのである.そのことについては次回の記事で述べる.

 ダイヤモンド・オンラインに掲載されている自称「医療ジャーナリスト」木原洋美のプロフィルを引用して紹介しよう.
宮城県石巻市の漁村で生まれ、岩手県の山村で幼少期を過ごし、宮城県の穀倉地帯で少女時代を送る。明治学院大学在学中にコピーライターとして働き始め、20代後半で独立してフリーランスに。西武セゾングループ、松坂屋、東京電力、全労済、エーザイ等々、ファッション、流通、環境保全から医療まで、幅広い分野のPRに関わる。2000年以降は軸足を医療分野にシフト。「常に問題意識と当事者感覚を大切に取材し、よ~く咀嚼した自分の言葉で伝え、現場と患者の架け橋になる」をモットーに、「ドクターズガイド」(時事通信社)「週刊現代 日本が誇るトップドクターが明かす(シリーズ)」(講談社)「ダイヤモンドQ」(ダイヤモンド社)「JQR Medical」(インテグラル)等で、企画・取材・執筆を深く、楽しく手掛けてきた。2012年、あたらす株式会社設立(代表取締役)。2014年、一般社団法人森のマルシェ設立(代表理事)。森のマルシェでは、「木を遣うことが森を守ります」の理念を掲げ、国産材の樽で仕込む日本ワインやバルサミコ酢の開発等、国産材の需要を開拓する事業に取り組んでいる。

 驚いたことに,木原洋美は医学はもちろん栄養学も,実際の食品・調理に関しても全く教育を受けていないのである.単なるライターに過ぎない.それが脚気について,高木兼寛についての文章を書いて原稿料を稼いでいる.いい度胸だと恐れ入る.
 そして木原洋美は,書籍や論文などの資料を読むのが嫌いだろう.もし好きであるなら,脚気と高木兼寛に関する次の資料の存在を知ってるはずだ.知っていなければならない.

『海軍衛生制度史』海軍軍醫會
『海軍脚気病豫防事歴』海軍中央衛生會議
「明治初年醫史料」中外醫事新報別刷
『帝国海軍教育史 第七巻』海軍教育本部編,原書房刊
『日本海軍食生活史話』元海軍主計中佐・瀬間喬著,海援舎刊
「龍驤艦航海記事」海軍大学校研究部
『脚気の歴史ビタミン発見以前』山下政三著,東大出版会刊
『明治期における脚気の歴史』山下政三著,東大出版会刊
『高木兼寛の医学』松田誠著,東京慈恵会医科大学発行
『東京慈恵医科大学百年史』東京慈恵医科大学百年史編纂委員会編
『慈恵看護教育百年史』慈恵看護教育百年史

 実は,上の文献一覧は,吉村昭がノンフィクション作品『白い航跡』(現在は講談社文庫に上下二巻として収められている) を執筆するに際して参考とした資料の一部である.これらは明治期の軍隊における脚気の蔓延と,高木兼寛の業績を知るための基礎文献であるから,大学で栄養学を勉強した人は読んだことがあるかも知れない.もちろん「海軍カレー」伝説の嘘を知るためにも必読だ.(これらの本の一部は古書が入手できるが,かなり高価であるので,図書館で閲覧するのがお勧めである)
 木原洋美のデタラメな文章を読んで,資料を調査しない自称「ジャーナリスト」が存在することに私は驚いた.もし彼女がこれらの資料を読んでいれば (読む学力があればの話だが),自分の書いた嘘がすぐバレる嘘だとわかるから,カレーなんぞのことで世間に恥を晒さずに済んだのにと思う.

 さて吉村昭は,言うまでもなく昭和を代表する作家の一人である.
 Wikipedia【吉村昭】から少し引用する.

現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。
没後の2011年に発生した東日本大震災の後、「三陸海岸大津波」が再評価され、新たに多くの読者を獲得したことが話題となった。

 吉村昭は現場に赴き,関係者から証言を聞き取り,史料を集めてノンフィクション作品を書いた人である.従って作品中に嘘の記載はない.そして「海軍カレー」の嘘八百を知るだけなら,その吉村昭の『白い航跡』を読めば足りる.海軍カレーについて知識を得たいなら『白い航跡』は必読書なのである.
 ただし,『白い航跡』にも瑕疵はある.軍船の航海データに,他の資料との齟齬が見られるのだ.その点を修正した総説を,九州がんセンター院長の岡村健先生が“FUKUOKA SOUTHROTARY CLUB MONTHLY REPORT No.654 2013/10”に寄稿しておられるので,併せて読む必要がある.この総説は,ネット上に,
軍艦「筑波」-偉大なる航海-(上)軍艦「筑波」-偉大なる航海-(下)としてアップされている.

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2018年11月 9日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 3)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 2) 》の末尾を再掲する.

上に引用した Wikipedia【日本の脚気史】の記述は,Wikipedia【高木兼寛】と異なり,史実に基づく公正的確なものである.そして,ここには海軍カレーのことは全く出てこない.
 ところが,高木兼寛が明治十七年に海軍練習船「筑波」を長期航海させて行った脚気予防試験が,海軍カレーの始まりであるという でっち上げ 俗説を垂れ流す人々が史料を示さずに異口同音に用いるキーワードは「カレー風味のシチュー (カレーシチュー)」である.一体この献立名はどこからやってきたのか.それを調べる必要がある.

 後述するが,カレー風味のシチュー (カレーシチュー) が海軍カレーの始まりであるという話は,広義の都市伝説である.下に Wikipedia【都市伝説】から引用する.

定義
都市伝説の第一人者である都市伝説ライターの宇佐和通は都市伝説について「『友達の友達』という、近い間柄ではなく、特定も出来ない人が体験したものとして語られる、起承転結が見事に流れる話」と定義している。また「都市伝説とは、本当にあったとして語られる『実際には起きていない話』である」「実存しない可能性が高い人間が体験した虚偽についての物語」と述べている。
都市伝説蒐集家の松山ひろしは「『友達の友達』など身近なようで実際には顔も名前も解らない人々に起きた出来事として語られる奇妙な噂話」と述べている。

 上に「広義の都市伝説」と書いたのには理由がある.都市伝説は通常,《実存しない可能性が高い人間 》や《顔も名前も解らない人々 》が登場する物語なのであるが,しかし「海軍カレー伝説」は,実在の人物である高木兼寛がおこなったとされる《虚偽についての物語 》である点が,狭義の都市伝説と異なるのだ.
 また普通の都市伝説は,その《奇妙な噂話 》の創作者が不明であるが,「海軍カレー伝説」は横須賀市当局と同市のカレー屋たちによる でっち上げ 創作であることが明白だからである.
 そして,狭義の都市伝説は,たわいもない罪のない噂話にすぎないのであるが,「海軍カレー伝説」は現在では「歴史的事実」と化しつつある.いわば歴史の捏造である.さらに,その捏造を最初に行った者が,個人ではなく,横須賀市という公的存在であることが特筆される.
 これまで例に挙げてきた Wikipedia や「カレーの街よこすか事業者部会」の公式サイトにある記述は,実は「海軍カレー伝説」の原型である.横須賀市当局と横須賀市のカレー屋たちは,町おこしと商売のために「海軍カレー伝説」を創作したのだから,一目瞭然の嘘話では困るわけだ.そのためにいわばもっともらしい「規範とすべき 嘘の 物語」を拵えて「カレーの街よこすか事業者部会」の公式サイトに掲載し,その規範を遵守できるカレー屋を「よこすか海軍カレー」として公認するシステムを作ったのである.

 しかし,せっかく規範とすべき嘘があるにもかかわらず,「これ位の嘘の追加は許されるだろう」としてさらに話を「盛る」連中がいる.例えばその一人に,自称「医療ジャーナリスト」の木原洋美がいる.
 余談だが,Wikipedia【ジャーナリスト】に下に引用する記述がある.

一方で日本の法律においては「ジャーナリスト」と自称する際の特別な基準は存在していないが、日本自動車ジャーナリスト協会の様に業界独自の基準を定めている場合も有る。ジャーナリストとなるために教育システムや制度は整備されていない。このため、教育は報道機関の社員教育、経験者に教えてもらう、独学で覚えるなど行う必要がある。誰でも「ジャーナリスト」と自称することが可能であり、ジャーナリストとしての資質や実績が全くない者が「ジャーナリスト」と自称しても法的に詐称にはならない。また、より専門的な分野を得意としていることを示すために、“**ジャーナリスト”(例:国際ジャーナリスト、軍事ジャーナリスト、経済ジャーナリスト、教育ジャーナリスト、芸能ジャーナリスト、中東ジャーナリストなど)を自称することもある。ただし、日本における「ジャーナリスト」は文章を採用するメディアが取捨選択する過程で自然淘汰されることに任せている状態であり、資質や能力に問題がある者がジャーナリストに相応しくないとして強制的に排除されるシステムは存在しない。そのため、文章作成を初めとする能力、資質、倫理観などが欠如している者でも何らかのメディアに寄稿さえしていれば「ジャーナリスト」と自称しても間違いとまでは言えないが、ジャーナリストと呼ぶに値するかの点では議論の対象になる。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)

 木原洋美は《文章作成を初めとする能力、資質、倫理観などが欠如している者 》の一人である.
 この嘘吐き女 木原洋美が半年前,ダイヤモンド・オンラインに《カレーライス誕生秘話、国民食は海軍軍医が健康のため発案した 》を書いた.(嘘というものは,真実と異なって速やかに伝播するものであり,アスキー.jp がたちまち転載した.文章を分割せずに掲載しているので,こちらの方がダイヤモンド・オンライン版より読みやすい)
 木原洋美は《倫理観などが欠如している》ので話を盛って,「海軍カレー」の規範を逸脱してしまった.その逸脱を下の画像 (PCのモニター画面をハードコピーしたもの) で示す.

20181108b
 

 木原洋美の文章のどこが,規範とすべき虚偽から逸脱しているかというと,

たんぱく質を多く含んでいるということで麦と米を半分ずつ混ぜた麦飯にかけた「ライスカレー」だった。麦を混ぜたおかげで期せずしてビタミンB1の不足も補え、結果、明治18年には海軍の脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、と劇的に改善

の箇所である.軍艦 (ただし海軍兵学校の練習艦である)「筑波」の遠洋航海で脚気予防方法の実験が行われたのは明治十七年であるが,海軍が兵食に麦飯を採用したのは,翌明治十八年のことであった.すなわち「筑波」の兵員たちは,実験航海では麦飯を食ってはいなかったのである.そのことについては次回の記事で述べる.

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2018年11月 8日 (木)

刀剣女子

 昨夜,近江の旅から帰った.
 帰宅して,予約しておいたテレビ番組を観たのだが,その一つが『歴史ヒストリア その切れ味は鋭く、美しく 日本人と刀 千年の物語』だ.
 番組内で,いま京都国立博物館で開催されている「京のかたな」特別展の様子が紹介されていた.展覧会来場者のほとんどは女性であるという.なるほどテレビ画面を見ていても,おっさんの姿はほとんどない.
 ガラスケースに収められた国宝級の銘刀をうっとりと眺める若い娘さんたちの表情が,何とも言えないくらい素敵だ.中には,涙を流しながら刀剣を見つめるお嬢さんもいて,もしかするとそれは,彼女が「刀剣乱舞」で育て,失い,もう二度と会えないキャラなのかも知れない.

 一昨日,彦根城の中堀を遊覧する屋形船に乗り込み,出発時間を待っていたら,あとから若い女性が乗ってきた.船頭さんと三人 (客は二人だけ) で雑談していると,どうやら彼女は刀剣女子であるらしかった.きっと「京のかたな」展にいった帰りに,彦根城でやっている「長曽祢虎徹特別展」を見に来たのだろう.
「いま女性に刀剣がすごい人気なんだそうですね」と私が言うと,彼女はとてもうれしそうに笑った.私にもっと刀剣の知識があれば,お茶に誘ったのであるが,残念であった.ヾ(--;)

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宝塚歌劇団のこと (続)

 前回の記事《宝塚歌劇団のこと》に次のように書いた.
 
宝塚歌劇団が生まれるヒントに二説が存在するようだ.いずれが正しいかもう少し調べてみることにした
 
 小林一三が,宝塚歌劇団を発想したことについて,Wikipedia【小林一三】には《三越の少年音楽隊を模して 》とあり,Wikipedia【宝塚歌劇団】にも《三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に想を得て 》と書かれている.つまり先発の模倣だとしているのである.

 だがその他の資料は,明治四十五年 (1912年) に帝劇で上演された日本のオペラ「熊野」が宝塚少女歌劇のヒントであったとしている.
 そこで,この問題に関しては最良の資料と思われる阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』の古書を手に入れて読んでみた.すると,これはもう「熊野」説の圧勝であった.本書中に宝塚歌劇団発足の経緯が紛れなく詳しく書かれている.
 となると,Wikipedia【小林一三】や Wikipedia【宝塚歌劇団】は,何を根拠に「模倣」説を記述したのかが問題となる.
 そこでこのことについてかなり念を入れて調べてみたのだが,「模倣」説の根拠資料が見つからない.断定するわけではないが,この問題は,Wikipedia【小林一三】や Wikipedia【宝塚歌劇団】を書いた者によるテキトーな思い付きの「独自研究」としてよかろう.

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2018年11月 7日 (水)

ターゲティング

 PCのブラウザに表示される広告だが,私が使っているモニターはかなり大きいので,広告が邪魔だということもないので,特にブロックはしていない.
 で,少し前から,女性用ファッションの DHOLIC というブランドの広告ばかりが表示されるようになった.
 誓って言うが,どっかの通販サイトで花柄の水着をチェックしたとかの記憶が,私にはないのだ.
 しかしターゲティングされるからには,何らかの理由があるのだろう.不思議だ.うーむ.
 しかも,特定のモデルさんの画像が表示されることが多い.さらに,しかも,そのモデルさんは私のタイプなのである.w
 これって,簡単なロジックではなく,高齢者セグメントのビッグなデータが背景にあるのかも知れないが,取り立てて不愉快な広告ではないから,ブロック措置は取らない.モデルさんがタイプなので.w
 グンゼのボクサーブリーフ広告が表示されるより,DHOLIC のほうがナンぼか宜しいので,その巨○系モデルさんの名前を検索して調べてみた.ほんとかどうか知らぬが「ヨンチャン」さんというらしい.これで彼女は私のブラウザのサイドバーに常駐するのではないかと思われる.よかったよかった.ヾ(--;)

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2018年11月 6日 (火)

再び近江に旅する

 十月下旬に,連載記事『母子草』と『母子草ノート』の更新を再開するための調査で,湖国を旅してきた.近江における庶民の観音信仰について知識を得るためであったが,あるお寺の御住職さんから重要な示唆をいただいた.
 続いて昨日から,竹生島の弁才天と観音を拝観の旅へ.ついでなので,京都伏見の醍醐寺にも廻る.
 二回の旅の旅行記と,連載記事『母子草』と『母子草ノート』の更新は,帰宅してから,『記念艦三笠でカレーを』と『チャップリンの音楽』『宝塚歌劇団のこと』の続きを書いてからアップの予定.

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2018年11月 5日 (月)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 2)

 昨日の記事の末尾に,Amazon に掲載されている『復刻 海軍割烹術参考書』の商品説明および某ウェブページを例に挙げて《かように海軍カレーの周辺には嘘が多すぎる 》と書いた.
 もう一つ例を挙げよう.
 Wikipedia【高木兼寛】に次の記述がある.

当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。
いわゆる海軍カレーが脚気撲滅にひと役買ったとも言われている。

 ↑この記述の根拠は,横須賀市,横須賀商工会議所,海上自衛隊横須賀地方総監部の三社で構成する「カレーの街よこすか推進委員会」の部会である「カレーの街よこすか事業者部会」の公式ウェブサイトにある↓この記述である.

明治初期、海軍・陸軍軍人の病死の最大の要因は脚気(かっけ)でした。 当時の日本海軍では白米中心で、たんぱく質やビタミンB1が不足した軍隊食が提供されていました。明治16年には脚気による罹患者数が1,632名、死亡者数が49名にも上り、軍内では早急に対策を打つべき深刻な問題となっていたのです。
 明治17年、海軍軍医だった高木兼寛(後の海軍軍医総監)は軍艦筑波号による航海実験を行い「兵食改革」に着手しました。イギリス海軍で提供されていたカレー風味のシチューに小麦粉でとろみを付けて、ライスにかけたメニューを軍隊食に取り入れたのです。 このメニューはシチューの具材と小麦粉により当時の軍隊食に不足していた栄養分を補うことができるものでした。 その結果、明治18年には脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、という劇的な改善が見られ、脚気をほぼ撲滅することに成功したのです。

このときに採用されたメニューが現在の日本のカレーライスのルーツと言われています

その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。 海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです。 現在、横須賀市では、明治期のカレーを現代に再現した“よこすか海軍カレー”をメインブランドとして「カレーによる街おこし」を推進しており、全国に向けてカレーの情報を発信し続けています。》 (引用文中の下線は,当ブログの筆者が付した)

と言われています 》と書く時には「誰が言っているのか」を書かねばならないのだが,横須賀市と横須賀のカレー屋業界にはそんな常識はないようだ.
 上の引用は横須賀のカレー屋業界団体のサイトからであるが,これと同様の文章が「カレーの街よこすか事業者部会」に加盟する各事業者のサイトにもアレンジして書かれている.例えば横須賀市の海軍カレーレストラン「 横須賀海軍カレー本舗」にある次の記述である.言うまでもなく出典は示されていない.

ルーツは海軍の軍隊食!?
明治初めの頃、海軍・陸軍軍人の病死の最大の原因は脚気でした。明治11年の記録のに、海軍の総兵員数4,528名中、脚気患者1,485名(32.79%)死亡者が32名あるほど深刻な問題でした。
この脚気の予防法を確立したのは後の海軍軍医総監・高木兼寛。白米中心で栄養バランスの偏った食事が原因であることを突き止め、模範としていたイギリス海軍の兵食を参考に改善を行ったところ、脚気は激減。この兵食のメニューの中にカレーシチューがあり、それをご飯に合うようにアレンジしたものが現在家庭で食べられているカレーライスのルーツだと言われています。
その後、故郷に帰還した兵士たちによって全国に広まってゆきました。
》 (当ブログの筆者による註;引用文中の文字の着色は私が行った.私は自分の長年にわたる経験から断言するが,ネット記事において「!?」が付された記事はほとんどが無根拠の嘘である w)

 つまり Wikipedia【高木兼寛】は,業界団体による出典不明な宣伝文句をそのまま流布しているのだ.実に不見識極まりない.
 また『料理と味でひもとく史実の新説!! 奇説!? “食”で謎解き 日本の歴史』という書籍に次の記述↓がある.上と同様のことを繰り返すが,書籍名に「!?」が付された本は,まず間違いなくトンデモ本である.w

そして、高木が積極的に採用した栄養食こそ、カレーだったという説がある。イギリス海軍の「カレー風味のシチュー」に着目した高木は、小麦粉でとろみをつけたものを軍隊食に採用したとされる。肉と野菜をバランスよくとれるカレーは、脚気の撲滅にも一役買ったようだ。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 我が国における疫学の先駆者である大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が医務局長のときに行った「海軍の兵食改革」について,Wikipedia【日本の脚気史】から下に引用する.

海軍の兵食改革
ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはたんぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。
その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折を経て1884年(明治17年)1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食を招いていた)が一部見直され、洋食への切り替えが図られた(標準指定金給時代1884年・明治17年-1889年・明治22年)。
同年2月3日、大日本帝国海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験を兼ねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づく医療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年、718人、12.7%、8人、1885年、41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した。この航海実験は日本の疫学研究の走りであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

 上に引用した Wikipedia【日本の脚気史】の記述は,Wikipedia【高木兼寛】と異なり,史実に基づく公正的確なものである.そして,ここには海軍カレーのことは全く出てこない.
 ところが,高木兼寛が明治十七年に海軍練習船「筑波」を長期航海させて行った脚気予防試験が,海軍カレーの始まりであるという でっち上げ 俗説を垂れ流す人々が,史料を示さずに異口同音に用いるキーワードは「カレー風味のシチュー (カレーシチュー)」である.一体この献立名はどこからやってきたのか.それを調べる必要がある.

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2018年11月 4日 (日)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 1)

 三笠桟橋のすぐ隣の公園に記念艦三笠が固定されている.

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戦艦三笠 (パブリックドメイン画像)
 
 Wikipedia【三笠 (戦艦)】に書かれている通り,日露戦争で連合艦隊旗艦を務め,連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した戦艦三笠は大正十二年 (1923年) 九月一日の関東大震災で岸壁に衝突し,大浸水を起こしてそのまま着底した.三笠は既にワシントン軍縮条約で廃艦が決定していたので,そのまま砲塔などの兵装を外して帝国海軍から除籍され,その後は解体されることになった.しかし三笠に対する保存運動が始まり,大正十四年 (1925年) 一月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された.同年六月から十一月にかけて保存工事が行われ,海底に固定された状態になった.保存に際して廃艦時に撤去した兵装の復元は行われなかったが,砲塔等は木製のダミーが取り付けられた.そのため,この時点で三笠は戦艦としての生涯を終え,半レプリカの記念艦三笠となった.
 三笠は太平洋戦争中もそのまま記念艦として現在地に保存されていたが,敗戦後の人心の荒廃は,三笠に大きな打撃を与えた.Wikipedia【三笠 (戦艦)】に次のようにある.
 
敗戦から1年経たない1946年4月の時点で、切断可能な金属はガスバーナーで切断されて盗まれ、甲板のチークは薪や建材にするために盗まれ、「三笠」は急速に荒廃していた。東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥はこれを知ると激怒し、海兵隊を歩哨に立たせた。
連合国軍の構成国で横須賀港を接収したアメリカ軍のために娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上に開かれた。のちに後部主砲塔があった場所に水族館が設置された。

復元運動
この惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンが英字紙「ジャパンタイムズ」に投書、大きな反響を呼ぶ。さらにアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が三笠の状況を憂いて本を著し、その売り上げを三笠の保存に寄付するなどして復元保存運動が徐々に盛り上がりを見せていった。
日本での当時の世論は復元保存派と完全撤去派と賛否両論の真っ二つに分かれた。後者の場合、軍艦を重要文化財に指定した前例が過去になかったのと、すでに荒廃していた三笠を仮に復元したとしても指定が難しいという理由があった。更に高度経済成長期だったため、約四千トン分の鉄屑として売り払い(当時の時価として八千万円分)、それを資金に記念館を作るべきという意見すらあった。海上自衛隊としても維持できる予算が取れない上に「動かない艦など引き取れぬ」というコメントを当時の海上幕僚副長だった伊藤邦彦が述べている。伊藤は帝国海軍の出身で、個人的意見は保存に賛成であった。しかし予算が承認され復元工事が1959年に開始すると、同年6月27日に所管が大蔵省から防衛庁に移管された。工事は1961年に完了し、同年5月27日に復元記念式が挙行された。
復元にあたり、長官室に設置されていたテーブル等をはじめ、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼすべてが完全な形で返還されたが、誰が持ち去ったか不明なものは(戦後の混乱期で致し方ないことがあったとしても)、今日に至るまでほとんど返還されていない。

 
「衣食足りて礼節を知る」というが,言い換えれば「衣食足らざれば礼節を知らず」だ.敗戦前まで半レプリカ状態だった三笠は,ほかならぬ日本人の浅ましい我欲によってほぼ解体された.復元された三笠は,かつての戦艦三笠の単なるレプリカとなった.しかもあまり精巧でないレプリカである.甲板にそこはかとなく漂うハリボテ感が悲しい.すなわち現在,三笠公園に固定されている記念艦三笠は,日本海海戦に勝利した栄光ではなく,私たち日本国民の心性の浅ましさを後世に伝える悲しい記念碑であるといえよう.
 さて三笠の艦内に入って,かつての士官室 (五十人は着席できる広さ) に案内され,まずは海軍カレーの昼食である.
 明治時代に誕生した海軍カレーは「大日本帝国海軍における病死数で最大である脚気は白飯中心で副食の貧しい食事に起因する」と考察し,海軍の兵食改革に成功した海軍軍医・高木兼寛の卓見に遡ると,横須賀市は主張している.(後述)
 これについて Wikipedia【海軍カレー】に次のように書かれている.
 
日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに、白米を食べさせることとなった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用し、海軍当局が1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載(後述)して普及させ、帝国海軍内以外では脚気の解消が、世界中で全くできていない中において、海軍内の脚気の解消に成功した。さらにその後の第一次世界大戦を通じ、その普及に努めた。また、この段階でカレーライスに牛乳が付いたとされる。
 
 上の引用中の《海軍当局 》とは曖昧な記述であるが,これは海軍省ではなく舞鶴鎮守府に設置されていた舞鶴海兵団 (海軍の陸上部隊) のことである.横須賀鎮守府の横須賀海兵団ではないことに注意が必要.
 また《海軍割烹術参考書 》に関する資料としては『復刻 海軍割烹術参考書』(前田雅之,猪本典子;イプシロン出版企画,2007年) がある.
 この書籍についての Amazon の商品説明には,次のコピー (その作者が出版社なのか,Amazon に出品した業者なのかは不明) が掲載されている.
 
明治41年に舞鶴海兵団が発行した大日本帝国海軍版「料理の基礎」が現代語訳で待望の復刻。海軍カレーのルーツがここに。
 
 この文章をそのまま解釈すると,かつて舞鶴海兵団が『料理の基礎』という書籍を発行したのだが,それを復刻したのが『復刻 海軍割烹術参考書』だということになる.もう何を言っているのか意味がわからぬ.コピーの通りであるなら書籍名は『復刻 料理の基礎』にしなければいけないが,日本海軍に『料理の基礎』などという本はない.しかも元の本を現代語訳してしまったら,それはもう復刻ではないではないか.まことに羊頭狗肉が甚だしい.著者は明星大学教授だというが,大丈夫か,この先生.
 おまけに価格 (中古) が \7,382 + 配送料ときた.こんなボッタクリ本を買ってはいけないということの見本である.
 さらに,この本を紹介している某ウェブページは「舞鶴海兵団」を「真鶴海兵教団」と誤記するなどの無知をさらけ出しておる.かように海軍カレーの周辺には嘘が多すぎる.

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2018年11月 3日 (土)

記念艦三笠でカレーを (猿島編)

 クラブツーリズムの日帰りツアー「日本遺産認定記念 横須賀軍港クルーズと猿島 特別に記念艦三笠の中で海軍カレーの昼食」に行ってきた.
 いきなり突拍子もない話だけれど,国とか民族とかについての厳密な議論は横に置いて大雑把なつかみ方をすると,戦争好きな国 (国民) とそうでない国 (国民) というのは,やはりあると思う.
 歴史始まって以来,現代に至るまでに「戦争ばかりやってきた国」番付の横綱は「世界の警察」を自認する米国と,中国 (主に王朝の覇権争いや民族間の戦争だが,外国侵略戦争もやってきた) だろう.
 そして英仏独および我が日本あたりが大関か.世界史的に見ると,日本人は基本的に戦争が好きな国民だったと思う.
 日本列島における「日本」という国家意識が成立する前の段階では,江戸時代の一時期を除いて,ずっと内戦に明け暮れていた私たちは,戊辰戦争の結果として国家統一を成し遂げると,次に国家レベルでの戦争に手を染めた.その戦争の時代の記念碑が,横須賀港に保存されている記念艦三笠である.
 冒頭に書いたツアーは,横須賀の観光地として最近人気のある猿島を見学したあと,記念艦三笠の船内でいわゆる「海軍カレー」を食べ,そのあと横須賀軍港を一周するクルーズを楽しむという内容である.

 まずツアー当日の朝,京急横須賀中央駅に集合した参加者は三十人だった.
 ベテランっぽい年輩の女性添乗員さんに先導された参加者一同は,記念艦三笠が固定されている三笠公園へと歩き,公園内の三笠桟橋から猿島航路の船に乗った.
 
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猿島遠景
  
 猿島は,米軍横須賀基地の南に隣接する三笠公園の東方約 1.75km の沖合にある無人島で,島の大半は横須賀市が管理している.戦後は米国に接収され,その後暫くは海水浴場として開放されていたが,おそらく観光客による島内の荒廃が著しかったのだろう,平成五年 (1993年) に立入禁止となった.
 その後は国から横須賀市が管理を受託し,島内通路の遊歩道化,弾薬庫と兵舎の施錠などの整備を行って現在に至る.
 この日の猿島見学では,全員を三つの班に分け,一班に一人ずつ「猿島公園専門ガイド協会」の現地ガイドさんが付いた.要塞遺跡のうちで,観光客に開放されているのは,切通,トンネルと砲台跡くらいで,いくつか残存している弾薬庫と兵舎は施錠されており,ガイド同行でない一般観光客は中を見ることができない.個人でも「猿島公園専門ガイド協会」にガイド同行を申し込めるとのことなので,次回ゆっくりと見物するときも現地ガイドさんのお世話になろうと思った.

 猿島は,幕末の1847年に江戸幕府により国内初の台場が築造された島である.その後,明治政府はこの島に要塞を築造し,カノン砲の砲台が設置された.砲の規模については,島内の案内板に「24cm カノン砲四門,27cm カノン砲二門」と記されているが,現物がどこかにあるのか,あるいは散逸 (切断や熔解など) したのかは,資料をネット検索しても不明であった.
 しかし Wikipedia【猿島】には《本施設が実戦に用いられたことはない 》と記述されているから,残っていたとしても戦争資料としての価値はあまりないと考えられる.
 また太平洋戦争末期に,12.7cm 高射砲が設置されたと資料 (「猿島公園専門ガイド協会」作成のリーフレット) にあるが,東京湾岸要塞の高射砲は,東京空襲に飛来する B-29 の飛行高度の半分しか届かず,首都防衛には全く役に立たなかった.
 
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高射砲の砲台跡
 
 そこで B-29 を砲撃可能な高射砲として,現在の東京の井の頭線久我山駅近くに設けられていた久我山高射砲陣地に五式十五糎 (cm) 高射砲が急遽二門製造されて配備されたのであるが,それですら B-29 に対して実際に撃墜戦果があったかどうか疑わしいという.あるサイトに,猿島の《高射砲は終戦まで米軍機に向かって火を吹き続けたという 》とか書いてあるが,何を根拠にしてそう書いているのか.砲弾が届くはずもない B-29 を無駄に砲撃する馬鹿はいない.遥か上空を東京空襲に飛行する B-29 を,要塞の兵員たちは切歯扼腕して見送ったに違いないのである.
 以上を要するに,猿島の要塞は幕末以来,太平洋戦争敗戦に至るまで一度も実戦に参画したことがなかったというのが実際のところであろう.

 ま,上にそんなことを書いてはみたが,観光地猿島の人気は,そんな日本近代の戦史的なことではなく,植物が繁茂したレンガ造りの廃墟の雰囲気なんだろう.アニメ『天空の城ラピュタ』の聖地巡りというわけだ.といっても,私は『天空の城ラピュタ』を一度しか観ておらず,ディスクも持っていないので,猿島の印象が『天空の城ラピュタ』を連想させると聞いても,よくわからない.
 
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人気の撮影スポットだそうである
 
 さてガイドさんの先導で私たちの班が,要塞通路の壁に穿たれた横穴式の兵舎や弾薬庫に入って,まず目に入ったのは,カラフルな多数の落書きであった.
 
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弾薬庫跡
 
 ガイドさんはこれらの落書きについて「終戦後,人々は兵舎の壁に落書きすることで敗戦のウサを晴らそうとしました」と解説したが,そういう落書きだけではないと私は思った.というのは「ヨロシク」と書かれていたからである.「夜露死苦」と当て字で書かなかった理由はわからないが,どうみてもこれは修学旅行の高校生程度の頭の持ち主が書いたものであり,敗戦のウサ晴らしではないだろう.w

 この「猿島公園専門ガイド協会」の現地ガイドさんだが,年齢は私とさして変わらないと思われた.帰りの船が出るまでのトイレ休憩の時に,ガイドさんは若い (大学生くらいの軍事オタクっぽい青年) たちに,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲のことを分厚い資料ファイルを開いて解説した.その資料の中に,その日横須賀軍港に停泊していた戦艦長門を遠くから撮影した写真があったので,私は「死んだ私の父親は長門に乗っていたんですよ」と言った.
 
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戦艦長門 (パブリックドメイン画像)
 
 すると彼は手帳を取り出し,もう少し話を聞かせてください,と言った.何か個人的に思い入れがあるのかも知れないと思った私は,父親の軍歴について簡単に話した.
 それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った.
 
 そんなこんなするうちに帰りの船が桟橋について,ツアー一行は三笠公園に戻った.
 
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猿島川の桟橋
 
(続く)

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2018年11月 2日 (金)

口角をあげて笑顔を

 私は大人の休日倶楽部ジパング (JR東日本) の会員なので,JR西日本とか東海の切符も割引購入できる.年に数度の遠距離旅行をして,この割引制度を活用すると,大人の休日倶楽部ジパングの会費はチャラにできるので,これが高齢者に大人気となっている.
 それは嬉しいのだが,システムというか仕組みというか,切符の割引購入手続きがめんどくさいのである.
 会員が割引切符を買うときは,あらかじめ「ジパング倶楽部会員証」の中にある「JR乗車券購入証」に氏名・電話番号・会員番号・券種・使用期間などを手書きし,会員証と共に窓口に提出しなければならないのだ.
 すると窓口係員は,手書きの「乗車券購入証」を見ながら,オンライン端末に入力する.
 割引された乗車券や指定席券が端末から発行されたら,窓口係員は「ジパング倶楽部会員証」から「乗車券購入証」を切り取って,処理 (どんな処理かは知らないが) に回す.
 つまり,買い物だろうが交通機関に乗るのだろうがATMだろうが,オンライン端末とICカードとパスワードを用いて,何でも高速に処理する時代に,昭和四十年代の手書きの紙書類システムが生きているのである.
 JR各社間のオンラインシステムがあるにもかかわらず,なんでこんな手続きが必要なのかと考えてみるに,これは会員の大部分が高齢者であるせいかも知れない.実際,私よりも高齢の七十代,八十代の人たちは,長距離切符を購入する際に,緑の窓口に並ぶ傾向がある.乗車券・特急券などの券売機がガラ空きでも,窓口に並ぶのである.
 時折,JRの女性社員が,緑の窓口の隣にある指定席券売機コーナーに,使用方法を説明しようと立っていたりするのだが,それでも老人は彼女と目を合わさぬようにして窓口に並ぶ.(中年女性も窓口が好きで,券売機を使わない傾向があるが)
 私が思うに「ジパング倶楽部」が手書き書類システムを採用しているのは,むしろ高齢者へのサービスなのかも知れない.無理に指定席券売機を使わせるとパニックになるから.
 しかし,現役会社員のときから指定席券売機の使用になれている世代にとって,むしろ手書きシステムの方が煩わしいのも事実である.このまま「会員手帳」方式を残すとしても,券売機でジパング倶楽部割引乗車券が購入できるようにして欲しいと思う.

 さて先月の末,今月初めに出かける旅行で使う「東海道新幹線のジパング倶楽部割引切符」を買いに行った.二割引きである.
 話のマクラに書いたように,これを買うには緑の窓口に並ばなければいけない.藤沢駅の緑の窓口は受付が二つあり,その時はどちらも若い女性社員が担当者だった.並びかたはフォーク式である.
 やがて順番の来た私が「ジパング倶楽部会員証」と,手書きの「JR乗車券購入証」を提出したのは,二人のうちの,より若そうに見える女性の窓口だった.
 彼女は,ニコリともしなかったのだが,それは少し緊張しているからだと思われた.その若さではまだまだ業務遂行時には緊張しているだろうし,おまけに目の前の客が,いつブチキレるかわからない爺さんなのだ.(よくメディアが話題に取り上げているが,爺さんというものは,自分に理解できないことがあると容易にキレルのであり,私も例外ではない)
 そんな状況下に彼女はつい入力ミスをして,乗車区間が間違っているキップを出力してしまった.
 クレジットカード清算が終わった後になって「あ…」と自分のミスに気が付いた彼女は「すみません,間違えました…」と目を伏せた.
 失敗してしまった彼女に,私は明るく「えーとカード清算金額の訂正もするんだね?」と言って,いったん財布にしまったクレジットカードを取り出した.本当は,彼女の小さな左掌を私の両手で包み込んで優しく励ましてあげたかったのだが,たまたま駅長がそこに現れたりすると厄介なことになるので,それはやめた.ヾ(--;)

 JR東日本のメルマガや会員情報誌を読んでいると,時期によって「お得な切符」のあることがわかる.緑の窓口の担当者は,「お得な切符」があることを知らずに窓口にやってきた顧客に,損をしないように案内しなければいけないのだが,それには自社の複雑な商品情報を完璧に頭に入れておく必要がある.
 切符ではないが,長年 Suica を使っておきながら,私が「Suica のお得な解約方法」を知ったのは,やっとこさ一年ほど前のことだ.これも,知らずに緑の窓口にやってきた顧客には,窓口にいる担当者が教えてくれるのだ.
 いやもう私なんかにはとてもできない仕事を若い人がテキパキとこなしているのを見ると,感心するほかはない.

 上に書いた若いJR女性社員も,数年すれば余裕ができて顧客に笑顔で接客できるようになるだろう.
 それで思い出したのは,少し前 (10/25) に放送された『カンブリア宮殿』JR東日本特集後編に登場したJR立川駅の女性社員だ.彼女は「エキュート立川」のスイーツ担当者である.
 
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 二つの画像 (テレビ画面をカメラ撮影したもの) のうち,上はテレビ局取材スタッフの質問に答えているときの表情で,下は答え終えたときの笑顔である.このようなメリハリのきいた表情は,訓練努力しないとできないだろう.JR東日本はすばらしい社員を持っている.前編後編の二回に分けて放送された『カンブリア宮殿』JR東日本特集を観てそう思った.

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2018年11月 1日 (木)

君もコクリコ われもコクリコ

 昨日放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア 新発見!恋をうたった女たち 与謝野晶子と柳原白蓮』はよかった.最近の放送回では出色の内容であったと思う.
 与謝野晶子は今年が生誕百四十年の節目であるが,去る五月には晶子の未発表直筆和歌が発見されるなどして話題となった.
 そんな状況を背景にして『新発見!恋をうたった女たち 与謝野晶子と柳原白蓮』は与謝野晶子と柳原白蓮の一生を描いたが,晶子に関する部分は,七年前に放送された『今こそ夫婦のチカラ! ~明治最強カップル 与謝野晶子と鉄幹~』を再編集した映像である.
 
 よく知られているように,与謝野鉄幹が『明星』の廃刊後に文学的に行き詰ったとき,晶子は鉄幹を立ち直らせるために鉄幹のフランス留学を思いついた.
 それからあと晶子は,鉄幹の留学費用を拵えるために色紙を書いたり,自作歌をちりばめた屏風を売るなどして猛烈な金策に励んだ.
 番組中にその屏風であるという映像が映された.下の画像 (テレビ画面をデジカメで撮影) である.

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 だが視聴者はすぐにこの画面の致命的な間違いに気が付いただろう.ミクロな時代考証の誤りというか,その間違いの部分を拡大したのが下の画像である.

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 ああ皐月 ふらんすの野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ

 この歌は余りにも有名だから,短歌に関心のある人なら誰でも知っていることだが,鉄幹が渡仏したあと,鉄幹恋しさの余り晶子は鉄幹の後を追ってパリに向かった.そして二人は再会し,フランス国内からロンドン,ウィーン,ベルリンを旅した.
「ああ皐月…」は晶子がパリ郊外の田園で詠んだ歌である.従って,留学費用を作るために売った屏風に書かれるはずがない.すなわちこの屏風は帰国後に書かれたものである.
 この間違いさえなければ,『歴史秘話ヒストリア 新発見!恋をうたった女たち 与謝野晶子と柳原白蓮』はすばらしい出来だったのにと惜しまれる.

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