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2018年11月 5日 (月)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 2)

 昨日の記事の末尾に,Amazon に掲載されている『復刻 海軍割烹術参考書』の商品説明および某ウェブページを例に挙げて《かように海軍カレーの周辺には嘘が多すぎる 》と書いた.
 もう一つ例を挙げよう.
 Wikipedia【高木兼寛】に次の記述がある.

当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。
いわゆる海軍カレーが脚気撲滅にひと役買ったとも言われている。

 ↑この記述の根拠は,横須賀市,横須賀商工会議所,海上自衛隊横須賀地方総監部の三社で構成する「カレーの街よこすか推進委員会」の部会である「カレーの街よこすか事業者部会」の公式ウェブサイトにある↓この記述である.

明治初期、海軍・陸軍軍人の病死の最大の要因は脚気(かっけ)でした。 当時の日本海軍では白米中心で、たんぱく質やビタミンB1が不足した軍隊食が提供されていました。明治16年には脚気による罹患者数が1,632名、死亡者数が49名にも上り、軍内では早急に対策を打つべき深刻な問題となっていたのです。
 明治17年、海軍軍医だった高木兼寛(後の海軍軍医総監)は軍艦筑波号による航海実験を行い「兵食改革」に着手しました。イギリス海軍で提供されていたカレー風味のシチューに小麦粉でとろみを付けて、ライスにかけたメニューを軍隊食に取り入れたのです。 このメニューはシチューの具材と小麦粉により当時の軍隊食に不足していた栄養分を補うことができるものでした。 その結果、明治18年には脚気の罹患者数は41名、死亡者数なし、という劇的な改善が見られ、脚気をほぼ撲滅することに成功したのです。

このときに採用されたメニューが現在の日本のカレーライスのルーツと言われています

その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。 海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです。 現在、横須賀市では、明治期のカレーを現代に再現した“よこすか海軍カレー”をメインブランドとして「カレーによる街おこし」を推進しており、全国に向けてカレーの情報を発信し続けています。》 (引用文中の下線は,当ブログの筆者が付した)

と言われています 》と書く時には「誰が言っているいるのか」を書かねばならないのだが,横須賀市と横須賀のカレー屋業界にはそんな常識はないようだ.
 上の引用は横須賀のカレー屋業界団体のサイトからであるが,これと同様の文章が「カレーの街よこすか事業者部会」に加盟する各事業者のサイトにもアレンジして書かれている.例えば横須賀市の海軍カレーレストラン「 横須賀海軍カレー本舗」にある次の記述である.言うまでもなく出典は示されていない.

ルーツは海軍の軍隊食!?
明治初めの頃、海軍・陸軍軍人の病死の最大の原因は脚気でした。明治11年の記録のに、海軍の総兵員数4,528名中、脚気患者1,485名(32.79%)死亡者が32名あるほど深刻な問題でした。
この脚気の予防法を確立したのは後の海軍軍医総監・高木兼寛。白米中心で栄養バランスの偏った食事が原因であることを突き止め、模範としていたイギリス海軍の兵食を参考に改善を行ったところ、脚気は激減。この兵食のメニューの中にカレーシチューがあり、それをご飯に合うようにアレンジしたものが現在家庭で食べられているカレーライスのルーツだと言われています。
その後、故郷に帰還した兵士たちによって全国に広まってゆきました。
》 (当ブログの筆者による註;引用文中の文字の着色は私が行った.私は自分の長年にわたる経験から断言するが,ネット記事において「!?」が付された記事はほとんどが無根拠の嘘である w)

 つまり Wikipedia【高木兼寛】は,業界団体による出典不明な宣伝文句をそのまま流布しているのだ.実に不見識極まりない.
 また『料理と味でひもとく史実の新説!! 奇説!? “食”で謎解き 日本の歴史』という書籍に次の記述↓がある.上と同様のことを繰り返すが,書籍名に「!?」が付された本は,まず間違いなくトンデモ本である.w

そして、高木が積極的に採用した栄養食こそ、カレーだったという説がある。イギリス海軍の「カレー風味のシチュー」に着目した高木は、小麦粉でとろみをつけたものを軍隊食に採用したとされる。肉と野菜をバランスよくとれるカレーは、脚気の撲滅にも一役買ったようだ。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 我が国における疫学の先駆者である大日本帝国海軍軍医の高木兼寛が医務局長のときに行った「海軍の兵食改革」について,Wikipedia【日本の脚気史】から下に引用する.

海軍の兵食改革
ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはたんぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。
その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折を経て1884年(明治17年)1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食を招いていた)が一部見直され、洋食への切り替えが図られた(標準指定金給時代1884年・明治17年-1889年・明治22年)。
同年2月3日、大日本帝国海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験を兼ねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づく医療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年、718人、12.7%、8人、1885年、41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した。この航海実験は日本の疫学研究の走りであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

 上に引用した Wikipedia【日本の脚気史】の記述は,Wikipedia【高木兼寛】と異なり,史実に基づく公正的確なものである.そして,ここには海軍カレーのことは全く出てこない.
 ところが,高木兼寛が明治十七年に海軍練習船「筑波」を長期航海させて行った脚気予防試験が,海軍カレーの始まりであるという でっち上げ 俗説を垂れ流す人々が史料を示さずに異口同音に用いるキーワードは「カレー風味のシチュー (カレーシチュー)」である.一体この献立名はどこからやってきたのか.それを調べる必要がある.

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