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2018年11月29日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 16)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 15) 》の末尾を再掲する.
 
とはいうものの,この手紙は西郷が岩倉具視に宛てて覚悟を促したもので,大久保と西郷が交わした言葉ではないから,《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」 》の出典ではない.止むを得ず,今は大久保利通の評伝を数冊読んで,この文言がその中にあるかどうか調べている.
 
 西郷と大久保が討幕に際して交わした文言に関する史料のことは,この連載記事の主題である「日本カレーライスの発祥の地は,本当に横須賀なのか?」から少々離れることだから,ここで『ある明治人の記録』第一部のことに話を戻す.
 第一部に書かれているのは,柴五郎の幼年時代から陸軍幼年学校に入学し,明治十一年 (1878年) 八月二十三日に起きた帝国陸軍近衛兵部隊による武装反乱事件「竹橋事件」までである.
 大久保利通暗殺さるの報を「喜べり」と書かれているのは第一部の最終章であるが,会津戦争の始まりから竹橋事件発生に至るまで,第一部の基調は薩長に対する憎悪と怨念である.
 その怨念がどれほど深いものであったかが,第一部の最初の章で次のように書かれている.
 
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど,ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 …… (中略) ……
 悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
 
 この一節の真贋は,如何であろうか.
 江戸期は言うに及ばず,明治の人々にとっても,現代の私たちよりずっと仏教の信仰は親しいものであったろうと思う.それ故に石光真人は,柴五郎が幼年時の回想録を恵倫寺に奉納したことは《会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される 》と書いているわけだが,しかし上の引用箇所にあるように《心を悟道に託すること能わ 》ずして,怨念の書を今は亡き肉親に献ずることは,その菩提を弔うことになるのであろうか.
『ある明治人の記録』第一部に書かれているように,もしも柴五郎がその死に至るまで,既に世を去って久しい西郷や大久保らを憎み続けたとすれば,柴五郎はその執着により死して必ずや鬼となったであろう.だがやがて鬼と化すべき者に亡き家族の菩提を弔えるはずがないことくらい,明治人である柴五郎にわからぬはずがない.
 よって柴五郎は晩年に心の平穏に努め,死を目前にして真筆の回想録を《心を悟道に託 》して恵倫寺に奉納したに違いない.その回想録は『ある明治人の記録』と異なり,憎悪や怨念の書ではなかったであろう.またそうでなければ,恵倫寺の住職がこれを供養として仏前に受理することはなかったと思われる.
 
 ここまでに述べたことを箇条書きにまとめる.
 
(1) 石光真人は,柴五郎に回想録の添削を依頼されたと称しているが,実際に添削したかどうかは,『ある明治人の記録』に書かれていない.
(2) 石光真人は,柴五郎の没 (昭和二十年) 後,かなり後になって「柴五郎に回想録の校訂を委託された」と詐称して,無断で校訂の範囲を大きく超える加筆と編集を行い,これを『ある明治人の記録』第一部とし,昭和四十六年に中公新書から出版した.編集したのは,出版時期から推定すると昭和四十年代であろう.
(3) 柴五郎が,柴家の菩提寺である恵倫寺に回想録を奉納して門外不出としたことからすると,柴はこれを『ある明治人の記録』第一部として出版するつもりはなかったと考えられる.実際,石光真人は,柴五郎から出版許可を得たか否かについて触れていない.著作権のことがあるから,出版許可を得ていれば,石光はそれを明記したはずである.従って許可は得ていないと断定できる.
(4)『ある明治人の記録』の出版は昭和四十六年であるから,当然,その第一部は没後久しい柴五郎による著者校正が行われていない.著者校正がされていないということは,書かれている内容を事実として引用してはならない,ということである.
(5) 以上のことから,『ある明治人の記録』第一部は,石光真人が柴五郎の回想録を材料にして,会津怨念史観を盛り込んで創作した偽書であると私は考える.真の柴五郎回想録は,柴家菩提寺恵倫寺にあるはずだ.
 
 柴五郎が幼年学校に在籍したのは明治六年四月から十年五月 (この年に陸軍幼年学校は陸軍士官学校に吸収された) までである.開校当初はフランス人教師による教育が行われ,給食はフランス料理であったと『ある明治人の記録』第一部に書かれている.しかるに同書に《土曜日の昼食のみライスカレーの一皿を付す 》とあるのは唐突で奇異なことに思われる.これが仮に事実だとしても,この「ライスカレー」は「カレー風味のフランス料理 Riz au Cari 」(Riz au Cari ;これは現在の和風洋食でいうと,カレー味のピラフだと思われる) だったと解するのが妥当だろう.日本語の「ライスカレー」の初出は,東京のレストラン「風月堂」の明治十年に洋食店を開業したときのメニューだとされている.(後述)
 ちなみに柴の記憶にある「ライスカレー」とフランス料理が幼年学校で提供されたのは,幼年学校の初期,明治八年 (この年に,幼年学校は陸軍幼年学校に名称が変更された) までであったと推定される.『ある明治人の記録』第一部に書かれているように明治八年には陸軍の命令でフランス式教育が廃止され,食事は陸軍式の白飯偏重で副食軽視となったと思われるからである.実際,それが原因で柴五郎はやがて脚気を発症することになった.『ある明治人の記録』第一部に,明治十一年のこととして,《八月二十三日、この日はわが家族、会津において殉難せる日なれば、余は脚気の脚を引きずりて …… 》と書かれているのである.
 
 幼年学校が陸軍幼年学校に名称が変わったのちの柴五郎が登場する小説がある.団塊世代に読者の多い山田風太郎が書いた『警視庁草紙』(文藝春秋,1975年;現在はちくま文庫の「山田風太郎 明治小説全集に収められている) である.

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