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2018年11月23日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 14)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 13) 》の末尾を再掲する.

得々として《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが》と書いて,折角の嘘を台無しにしてしまったというわけである.

 せっかくの嘘を台無しにした石光真人の失策をもう一つ挙げる.それは《本書の由来 》の中の次の文言である.

死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 石光の無知ではなく,失策の話に移る.ここで《本文 》(ほんもん) とは,石光が柴に無断で「校訂」して確定させたテキストを意味している.すなわちこれは,柴の原稿を材料にして石光が作成・編集した原稿=『ある明治人の記録』の第一部を指している.

 それは柴五郎の没後に作られたものであるから,時系列的に会津若松の菩提寺恵倫寺に納めることは不可能である.従って,柴五郎が昭和二十年に恵倫寺に納めて門外不出としたものこそが,柴が推敲清書した自筆の回想録に違いない.
 これを石光は《本文の抜粋 》と書いたが,これは取りも直さず,柴の自筆原稿よりも『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということを意味している.石光は,柴五郎の原稿から,無断で,

翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略し

た.それでもなお『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということは,柴五郎の許可なく,石光の手によってかなりの加筆がなされたことを意味している.
『ある明治人の記録』の第一部において,石光真人が勝手に挿入した加筆部分を特定することは,柴の自筆稿が門外不出であるから,不可能である.
 しかし,おそらくそれは,『ある明治人の記録』の第一部において,会津藩を倒した薩摩藩と長州藩を糾弾している部分であろうとは容易に想像できる.
『ある明治人の記録』の第一部において石光は,柴五郎をエキセントリックで,かつ身分差別意識の強い人間として描いている.だが果たしてそれは柴五郎の実像だったのだろうか.それに関して,私が「如何なものか」と思う箇所の例を二つ,下に挙げる.
 一つ目は明治元年,戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いで,新政府軍に敗北した会津藩主松平容保が,会津藩士を置き去りにして敵前逃亡し,会津城下に戻ってきた時のことである.

この布告を読みて切歯扼腕せざるものなく、噂の真実なるを知りて怒るもの悲嘆するもの城下に満つ。街の様子喪に服せるがごとし。余等幼きものとても悲憤やるかたなく、木刀もて手当り次第立木を打ちまわり、小枝たたき折りて薄暮におよべるを記憶す。
「薩摩の芋武士奴!来たれ!」
「目にものみせてくれん!」
 満面涙に濡れてたたきまわりたれども心おさまらず。その夜、食卓に着けども一人として声を発する者なし。芋武士というは薩摩人の常食が薩摩芋 (唐芋) なりと伝えられ、これを軽蔑してかくよびたるなり。討幕、討会の軍は薩摩、長州、安芸、土佐、大垣の連合軍なれど、その主導権を握れる薩摩藩兵を当面の怨敵となしおれり。
》 (当ブログ筆者による註;この箇所は改版された中公文庫『ある明治人の記録』の p.22にある.また「芋武士」には「いもざむらい」とルビが付されている)

 上の引用箇所中,(唐芋) は柴五郎の原稿にはなく,石光真人がテキスト中に挿入し,テキストと一体化させてしまった註記である.
 また《怨敵となしおれり 》は武人の用いる言葉とは思われぬ.単に「敵」とすべきであるのに「怨敵」としたところに,後世に流行した「観光史学」あるいは「会津怨念史観」の影響が見られる.すなわち《この布告を読みて 》以下の一節は,おそらく柴五郎の言ではなく,石光真人が加筆した文章と思われる.
 話が横に逸れるが,「食い物の恨みは…」という.上に引用した文章には,会津藩士たちが薩摩藩士を芋武士と呼んで軽蔑したと書いてあるが,こんなことを言われたほうは,いかばかり悔しかったであろうか.薩摩藩士たちは粗食に耐えて,新時代到来に備えて富国強兵に励んできた.それに対して会津藩は,領民に重税を課してその苦しみの上に胡坐をかき,しかも武士としての鍛錬を怠った.それが会津戦争の勝敗を分けた.鳥羽・伏見で敵前逃亡した領主と弱卒藩士たち.薩摩藩士の気持ちとすれば,謂われなく薩摩藩士を芋武士と嘲笑した連中は,下北の果てまで追いつめて滅ぼしてくれる,と思っていたのではないか.薩摩からすれば,会津こそが「怨敵」だったに相違ない.
 話を元に戻す.上の引用箇所を読んだ読者は,柴五郎を「心中に独善的な怨念を燃やす品性卑しい人間」だと感じるのではないか.上の引用箇所が本当に柴五郎の言ならば,少なくとも私はそう感じる.
 しかしその程度の人間が,義和団事件において,北京籠城した各国人を団結させ,僅か五百人弱の武官・兵士を指揮して二ヶ月近い籠城戦を戦い抜けるものであろうか.そんなはずがない.これも,上に引用した一節が,柴五郎の原稿にはない,石光真人の創作ではないかと私が思う理由である.

 二つ目は,明治十一年の五月のこと.

この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭にあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり。
 これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお咎むる気なし。

 上の引用部分は,作家やブロガーたちが,丸ごとあるいは部分的に引用することの多い文章である.Wikipedia【柴五郎】は,例によって出典を示さずに,部分的に引用している.
 かようにこの一節はよく知られているが,これはまた私が『ある明治人の記録』第一部の中で,最も違和感を持つ箇所なのである.

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