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2018年11月21日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 12)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11) 》の末尾を再掲する.
 
この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.
 
 重大な撞着とは次の記述である.
 
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが
 
 この箇所が何を意味するかについて説明する前に,『ある明治人の記録』の編著者である石井真人が,《本書の由来 》に
 
このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
と書いているので,第二部に書かれている重要な箇所から一部を引用する.
 
亡父の遺稿整理のためしばしばお訪ねして、少年時代のことなどお聞きしているとき、持ち出されたのが本書の草稿であった.毛筆で半紙に細々と書かれていた.
 翁はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が受けられませんでした。幼年学校に入るときは、文字通りの泥縄、一夜漬けで、野田豁通閣下のお蔭で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などはアメリカの教科書の翻訳でしたが、上級に進むにしたがって、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。そのような基礎訓練を充分受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文がだめなのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。よけいなことをお願いしてすみませんが添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください」
 このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
「それでは拝見させていただきます、添削とか何かは別としまして……」
と答えて、内容も見ずに持ち帰ったのであった。
 ところが、帰宅してから数日後に内容を読むにしたがい、戊辰戦争に関する私の先入観はくつがえされ、非常な驚異を感じたので、このまま巻を閉じて柴家の筐底に納むべきでないことを知り、筆写することを乞うたところ、幸いにも許された。

 
 柴五郎は,学歴こそ陸軍士官学校卒のみで陸軍大学校は出ていないが,義和団事件で勇名を世界に轟かせ,会津出身でありながら最終的に大将の地位に上った俊秀である.その柴五郎の《日本文がだめ 》なはずがない (柴五郎は語学堪能であり,英語,仏語,中国語に通じていた) のである.従ってこれはほんの謙遜に過ぎず,《添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください 》と言ったのは,単に文章の軽微な瑕疵を添削してくれ程度の依頼に違いない.またここで重要なのは,《書き足りないところ、疑問に思う箇所について 》は指摘してくれとだけ言っている点である.
 ところが,ここで前回の記事で引用した《本書の由来 》に戻るが,石光は巧妙に
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。
 
と,柴五郎に《校訂を依頼された》ことにしてしまった.校訂とは,文書に異本がある場合に比較検討してテキストを確定するなど,文章の添削や不具合の指摘をする以上のことを含む行為なのである.柴の原稿には異本がないから校訂のしようがないのだが,添削を校訂と言い換えることで,石光は大胆不敵なことを始めた.
 そこで,これに続く箇所を《本書の由来 》から再度引用しよう.
 
筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。
 
 この箇所を読むと,石光真人著『ある明治人の記録』は,柴五郎の依頼を受けて,柴の草稿を石光が整理したもののように受け取れる.ところが違うのである.
 この記事の冒頭に戻るが,《本書の由来 》には重大な撞着がある.それはこの後にある《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが 》である.
 柴五郎が没したのは昭和二十年 (1945年) 十二月十三日であるが,当用漢字が内閣告示されたのは翌昭和二十一年 (1946年) 十一月十六日である.ということは,
 
翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。
文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、
一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた
 
は,柴五郎が没した二十五年後に,柴の許可なく行われたのである.すなわち,上の《 》に挙げた作業は,柴五郎の添削依頼とは無関係の,昭和四十六年 (1971年) になって石光が中公新書の一冊として『ある明治人の記録』を出版する際に行われた編集作業なのだ.つまり柴五郎は石光真人が『ある明治人の記録』に何を書いたか,知らずに亡くなったのである.
 この石光真人の勝手な行為の中でも,特に暴挙と言うべきは,柴五郎にとって如何ほどに大切な思い出であったかも知れぬ《身辺の些細な記憶 》や《幼時に親しんだ人々 》についての記述を削除したことである.この乱暴狼藉により,『ある明治人の記録』は,明治人柴五郎の回想録としての価値を失ってしまった.
 また,文は人也,文体はその人そのものである.それを勝手に《リライト 》するなど許されるものではない.
 さらに,石光の《振り仮名 》は,著しく低レベルであり,例えば浅草寺に「せんそうじ」とルビを振っている.どこの世界にこれを「あさくさでら」と読む馬鹿がいるか.
 さらにさらに,『ある明治人の記録』の第一部を読むと,本文 (ほんもん,テキスト) とは別に書かれるべき多数の「註」を,あろうことか本文中に,括弧に入れて挿入してしまったことがわかる.これは,石光真人が,新聞社出身でありながら校訂の仕方を全く知らないことを意味している.その程度の知力でよくまあ《校訂を依頼された 》と嘘を書いたものだと呆れる他ない.

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