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2018年11月18日 (日)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 10) 》で,Wikipedia【カレーライス】が,《大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》という記述の出典として,ハウス食品の企業サイトを記載していることを書いた.
 ところが,ハウス食品のサイトには,たった一行,《陸軍幼年生徒隊の食事、土曜日の昼食はライスカレー 》と書かれているだけであり,これは歴史的なことを調べる際の資料としては全く使えないものであった.すなわち Wikipedia【カレーライス】は,記述の出典として不適切なものを出典だとして記載していたことが判明した.
 だが,これで行き詰ったかというと,そんなことはなくて,実は小菅桂子『カレーライスの誕生』((講談社学術文庫,Kindle 版の位置 No.130-135) に陸軍幼年生徒隊の土曜日の昼食はライスカレーだったとの記載があるのだ.それを以下に引用する.
 
この時代に軍隊ではすでにカレーライスを採用している。『ある明治人の記録』(石光真人編著、中公新書、一九七一年) が伝えてくれる。この本の主人公柴五郎は山川健次郎とおなじく会津の出身、上級武士の五男として生まれているが、祖母、母親、姉妹は会津戦争の際に自決、柴五郎は落城後は捕虜として江戸に収容され、後に下北半島の火山灰地に移され悲惨な日々を過ごしている。柴の残した記録には「ただひとすじに自ら生活し得る道を求めて、あえぎあえぎ月日を送り」とあるが、その後、彼は陸軍大将、軍事参議官まで務めることとなる。
 その柴五郎は明治六 (一八七三) 年に陸軍幼年生徒隊 (のちの陸軍幼年学校) の第二期生として入学し、ここでライスカレーと出会っている。一五歳のときである。幼年生徒隊は陸軍兵学寮の管轄で教官はすべてフランス人、日本人は校長と次長、助手と通弁だけであった。当然食事は洋食である。「スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」。この西洋風の生活や食事について柴は「同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し」と書いている。

 実に整然とした記述である.しかし我が国のカレーライスのルーツ問題は,これで一件落着か.というとそんなことはないのである.
 というのは,小菅桂子『カレーライスの誕生』には誤りが多々あることからすると,石光真人編著『ある明治人の記録』に直接あたって確認してみないと,よかったよかったとはならないのだ.
 そこで『ある明治人の記録』を調べてみた.すると,同書の p.117 に当該の記述《食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す。同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し。》がある.
 これすなわち,複数の日本人に継続的に食事としてカレーライスが提供されたと明記された最初の例である.これで高木兼寛による海軍兵食の改善が日本のカレーライスのルーツであるとする横須賀市当局と横須賀市内のカレー屋たちの主張は否定される.
 しんどい調査だったなあと振り返りながら私は,『ある明治人の記録』の前書きに相当する《本書の由来 》を読んだ.そして驚きのあまり,安楽椅子からへなへなと転げ落ちたのである.
 
 さて本書は「第一部 柴五郎の遺書」と「第二部 柴五郎翁とその時代」の二部構成である.第一部は,柴五郎が執筆した文章を石光真人が編集したもので,第二部は石光真人の著作である.
本書の由来 》から下に抜粋引用する.
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。その折、特に筆写保存を許され、さらに内容について数回お話をうかがった。……(中略)…… 本書の内容は、お読みくださる以外に、これを短文で説明することは不可能である。筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。記憶ちがいと思われるもの、年月の錯誤も少数あったので、できるだけ多くの年表、史書と照合し訂正したつもりであるが完璧とはいえない。
 文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、読みやすくするように努めた。当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた。地名は現在は変わっているのが多いが、あえて訂正しなかった。叙述の順序も前後したものが多かったので特殊なもの以外は年月を追って整理しなおした。
 死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される。したがってこの文書は、弾劾警世を意図して綴られたものではなく、肉親、藩士一同とともに、葬り去られた歴史の一節を密かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代とともに眠りにつかれることを考えておられたのではないかと思う。果たしてその通りに、翁が生涯を賭けて護り愛して来た祖国日本が、アメリカ軍に占領されて間もなく昭和二十年十二月十三日逝去され、会津若松の恵林寺の墓所に、柴五郎少年が焼け跡から拾い集めた祖母、母、姉妹の遺骨と並んで永眠された。
 このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
 この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.

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