« 渡世人の飯椀 (一) | トップページ | 渡世人の飯椀 (補遺1) »

2018年10月14日 (日)

渡世人の飯椀 (二)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.

『江戸やくざ研究』の著者は田村栄太郎という在野の左翼歴史家,風俗研究家である.Wikipedia【田村栄太郎】に書かれている田村氏の著書一覧を見ると,左翼でありながら裏社会にも通じているという一口では言い難い人物像が浮かぶ.
 それはともかくとして,『江戸やくざ研究』の中で著者は昭和十三年頃,群馬県高崎市の博徒である武田親分に,仁義のきり方から始まる詳細なインタビューをしている.その中から食事についての部分を引用する.

飯は丼ぐらいの茶碗に二杯、山盛りにして出すのですが、これは誰でも食いきれない。しかし少しでも残しては作法に外れるから、はじめの一杯の山盛りの飯の真中だけを食べて真中に穴をこしらえてそこへまた飯を足してもらい二杯分ということにします。山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。菜は有合せを出します。魚を出せば旅人は骨は白紙に包んで懐中に入れるのです。何を出さなければならないという作法はありません。それに旅人は待遇上の不平はいえないのです。草鞋銭をもらってすぐ使ったところを、子分にでも見つかれば取持ちが気に入らなかったかと殴られます。》 (当ブログ筆者の註;「取持ち」はインタビューの他の所にも出てくる言葉で,応接とか接待とでもいう程の意)

 とまあこのような次第であるが,この問答の中で武田親分は,博徒の仁義は上州と江戸で異なると述べている.上州は著しく博徒,無法者の多い土地柄であったから,江戸とは違う独自の流儀ができたのだろう.
 また著者の田村氏は,博徒の仁義作法は時代によって変わり,武田親分が述べたのは昭和のやり方だと書いている.ただし,これは武田親分の年齢が不明なので何とも言えない.明治・大正もさほど変わらなかったと考えることは可能だが,考察する材料がない.というか,こんな分野 (やくざの社会) に関する史料なんてものはないと思うが.
 で,武田親分の口述によると,戦前の昭和,上州における博徒の作法では,旅人の夕飯には飯のおかわりを盛ってくれる給仕役がつく.それはおそらく親分の御内儀 (仁義の言葉では「お姉さん」という) だろう.
 重要なのは,有合せでよいが「菜」を出すとしていることだ.これは,夕食を軽く済ませていた江戸時代と異なって,明治以降は夕食の重要性が増したことを意味している.
 Wikipedia【夕食】に,

日本
日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化の一つに属している。夕食は、一日で最も質・量ともに充実した食事になることが多い。また、夕食は一日の食事の中では最も時間的なゆとりがある食事である。

とあるが,言うまでもなく食事の在り方は時代によって変化してきた.そもそも夕食というのは,江戸時代に一日二食から一日三食に変化してからの話である.明治時代以降,家族が揃って夕食を摂るという食のスタイルが長く続いたが,昭和以降は「食の個食化」が進行し,家族がバラバラに夕食を食べるようになり,夕食は重視されなくなった.今では,一日三食は肥満の原因の一つだとして夕食を食べない人もいる.あるいは逆に少量ずつ一日に何度も食事する人もいる.そのような多様化が進んだ現在,《日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化》だとするのは余りにも大雑把すぎる.史料も根拠も示さないこの主張は「独自研究」(=口から出まかせ) というべきだろう.

 本題に戻る.次に武田親分は,一宿一飯の飯を盛る器は,飯椀ではなく丼ほどの茶碗だという.となると,これは重いから旅人の携行品ではない.戦前の群馬の親分衆の家では,客人用の食器一揃いを箱膳にでも収めて用意していたのだろう.もはや日本の近代は,博徒が荷物の中に飯椀を入れて旅をした時代ではなかったのである.

 さてちなみに,武田親分の語った内容で興味を引かれたことが一つ↓ある.

山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。

 つまりこの親分は,一膳飯と,死者の枕元に供える枕飯を混同しているのだ.
 江戸では,ファストフードではない一膳飯屋が生まれ,人口のかなりの割合を占めていた男性単身者たちの胃袋を支えた.《一杯は仏様だと嫌》われていたという事実はない.
 明治以降は,軍隊が一膳飯であった.死んだ私の父親が語ったところによれば,軍隊というところは,食事も排泄も就寝も起床も,行動すべて迅速であることを旨としたから,悠長な飯のおかわりなんぞが許されようはずがなかった.
 刑務所も一膳飯である.これは毎度の食事で摂取するエネルギーが,受刑者の年齢や作業強度に基づいて計算されるからで,受刑者本人の好きにはならないのである.肥満体であった堀江貴文が収監され,出所した時には普通の体型になっていたことを覚えている人は多いだろう.
 病院も一膳飯であるのは,病院食が栄養計算に基づいた食事だからである.
 現代は国民総健康志向の時代であるからして,糖尿病を恐れる中年以上の国民で,御飯のおかわりをする人はいないはずだ.おかわり自由のとんかつ屋で,白飯をおかわりしているのは若い人だけである.
 このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.
(続く)

|

« 渡世人の飯椀 (一) | トップページ | 渡世人の飯椀 (補遺1) »

新・雑事雑感」カテゴリの記事

食品の話題」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡世人の飯椀 (二):

« 渡世人の飯椀 (一) | トップページ | 渡世人の飯椀 (補遺1) »