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2018年10月 7日 (日)

マッカーサーの朝食

 このブログの更新が滞っていた時期のことだが,横浜港周辺を散歩するツアーがあったので参加してみた.
 某月某日,桜木町駅に集合したツアーの参加者は私を入れて五人だった.男は私ひとりで,残りの四人は女性である.あとでわかったのだが,その四人のうちで私より若いかたは一人だけだった.
 
 この街歩きの前に参加した芦田愛菜ちゃんのライブを観るツアーも女性ばかりだった.爺さんたちはどこにいるのだろう.
 この五人の参加者に,街歩きガイドさん (かなり御年輩の女性) とツアーコンダクタさん (若い女性) が同行する.
 まずは練習船「日本丸」が係留されているドックまで行き,ガイドさんの説明を受けた.このガイドさんは資料を入れたかなり分厚い透明ポケットファイルを持っていて,たった五人の私たち参加者は,その資料集を覗き込みながら説明を聞いた.耳から聞くだけではないので,大変にわかりやすい.人数が少ないことは,色々と行き届いて,参加者にとってはありがたいことだが,旅行代理店は,社員の人件費を計算に入れると赤字に違いない.しかしこれはたぶん所謂「健全な赤字」であって,いくつかの大手旅行代理店が,講演会とか街歩きとかの企画を充実させるマーケティングを行っているのは,それが海外や国内のツアーによい効果を与えるからだろう.
 
 みなとみらい地区に係留されているこの練習船は,正確には「初代日本丸」である.山下公園に固定されている「氷川丸」と共に,昭和という時代を今に伝える記念碑的船舶だ.ほぼ一ヶ月に一度,帆を上げて帆船としての雄姿を横浜市民にお披露目しているが,実をいうと私はまだ帆を上げた日本丸の姿を見たことがない.死ぬ前に一度,見ておきたいものだが,両船とも,いつまでもあるとは限らぬ. 
 この日は,「日本丸」の目の前にある「横浜みなと博物館」は休館日だったのでスルー.
 ここから遊歩道「汽車道」を辿り,「赤レンガ倉庫」に立ち寄った.倉庫前の広場では何もイベントをしていなかったが,しかし人生の残り時間がまだ五十年以上はありそうなカップルの若い人たちが,食事なのかショッピングなのか,大勢いた.
 私の残り時間はあと十年あるかないか.山田風太郎が『あと千回の晩飯』(角川文庫) に収められたエッセイを発表し始めたのは七十一歳の時だった.《晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う》とエッセイの冒頭に書いた風太郎は,実際にはもう少し飄々と長生きして,享年は七十九であった.
 同じ勘定をすると,私はあと三千回の晩飯を食うことになるわけで,三千回も食うのかと思うと,まだ当分は死なないという気がしてくる.実は十年なんてあっという間だと思うけれど.
 閑話休題.「赤レンガ倉庫」から「象の鼻テラス」は,ほんの少しの距離だ.この公園にある「象の鼻カフェ」でトイレ休憩と,水分補給.
 次に「ジャックの塔」と呼ばれている開港記念会館へ行き,入館してステンドグラスを見学した.この開港記念会館にはボランティアのガイドさんたちがいるので,ツアーではない一般の来館者でも詳しい説明をしてもらえる.横浜市民でもあまり知らない話を聞くことができるので,これはお勧めである.
 開港記念会館を出たところで,正午を回った.少し進行が遅れ気味だったので,ツアーコンダクターのお嬢さんは私たちと別れて,レストランへ「遅れる」と連絡するために先に昼食会場へ向かった.
 
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水の守護神像
 
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氷川丸を望む.
 
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木々の向こうにホテルニューグランドが.
 
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 ホテルの玄関 (↑) で,昼食をとる予定のレストランの人と,ツアーコンダククターさんが待っていてくれた.ここで街歩きガイドさんとはお別れ.
 
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イタリアンの「イル・ジャルディーノ」エントランス
 
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 ここに写っている室内写真の窓際の席に案内された私たちのランチは,肉料理のAコースで,厚く切ったローストビーフだった.ローストビーフもよかったが,デザートのケーキ (たぶん日替わり) が出色の出来で,スイーツを好きな女性はたまらんだろうと思った.
 食事のあと,ホテル従業員のお嬢さんが,館内のガイドをしてくれた.普段は別の仕事をしているだろうこのお嬢さんは,まだホテルに就職したばかりという感じの初々しい娘さんであった.
 彼女は,ちらりちらりと資料に目を遣りながら,時々絶句したり,漢字を読み間違ったりした.しかし私たちは,彼女の絶句をにこにこと見守り,誰も彼女の誤読を訂正しなかった.ツアー参加者にとってみれば彼女は孫みたいな年頃だからである.漢字の読みなんかは,どうせいずれ先輩が教えてくれるに違いない.若い娘さんというものは,それでいいのである.男だったらびしびし指摘するが.おいおい.w
 
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中庭の噴水
 
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 中庭にはイル・ジャルディーノのテラス席がある.希望すればここで食事できるという.

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 ホテルニューグランド旧館は,エントランスを入るとすぐに階段があり,階段を上がったところに昔はフロントがあったという.
 その旧フロントに向かって右側奥に「レインボーボールルーム」が,左側の突き当りに「フェニックスルーム」がある.
 大正十二年 (1923年) の関東大震災で瓦礫と焼け野原の街となった横浜に,復興のシンボルとしてホテル建設の構想が立てられた.その中心となったのは当時の有吉忠一市長だった.彼は今で言う第三セクター方式で資金を調達し,昭和二年 (1927年) 十二月にホテルニューグランドは開業した.
 ホテルの名称を市民に公募したところ,最後まで残ったのは「ニューグランド」と「フェニックスホテル (ホテルフェニックスかも知れない)」だったそうである.
 結局震災以前に山下公園の前にあった横浜を代表するホテル「グランドホテル」を蘇らせる意味で「ホテルニューグランド」が採用されたのだが,横浜復興の象徴としては「フェニックス」も捨てがたいとして,宴会場の名に遺された.
 
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フェニックスルームのドアの上に掲げられているルームネームプレート
 
 下の写真は,もう一つの宴会場「レインボーボールルーム」の前の柱に接して置かれた開業以来の椅子 (下の写真) であるが,これは腰かけると幸せになるとかいうパワースポットなんだそうである.そろそろお迎えが来る歳になって今更ではあるが,寝たきり防止に効果があるかも知れないから,私も腰かけてみた.
 
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 二階を案内してもらったあと,ホテル側のガイド嬢としばし質疑応答.
 私は例の「マッカーサーズ スイート」は見せてもらえるのか問うたところ,「マッカーサーズ スイート」は,ほぼ通年,予約がぎっしり入っているので,まず部屋の中を見ることはできないとのことだった.続いて宿泊料金を訊いたら,一泊三十万円近いという.
 戦後,厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは,東京に行く前にここで三泊しているから,今かつてのマッカーサーと同じことをすると,百万円近く要することになる.
 
マッカーサーは戦前,ホテルニューグランドに二度滞在したことがあり,そのうちの一度は新婚旅行だった.そんなことから,お気に入りのホテルであったと思われる.厚木で占領声明を読み上げたあと,どこに行くかと指示を聞かれたマッカーサーは「ホテルニューグランドへ」と答えたそうだ.
 ちなみに,マッカーサーがホテルニューグランドに到着し,ホテルを米軍が接収した日の彼の夕食は,貧しい魚料理だったそうだ.戦後は東京も横浜も,都市部は極度の食糧危機の状態にあり,ホテルはとてものことに食事を提供できる状態になかった.それでも占領軍司令官に何とか一皿を出したのだが,元帥は一口食べて,あとは残したという.それほどに粗末な料理しか出せなかったレストランのシェフの心中は察するに余りある.
 そのときマッカーサーは,翌日の朝食の卵料理に注文をつけた.それはサニーサイドアップを二つと卵一つのスクランブルドエッグであった.指示を受けたホテル側は,必死に卵を探したが,卵は一つしか手に入らず,しかも朝食には間に合わなかった.
 その日の昼,皿に載せられた僅か一つのサニーサイドアップを見たマッカーサーは,シェフを呼び,一個しかない理由を問いただした.シェフは,命令を受けて必死に卵を探したが,これしか入手できなかったと答えた.
 このエピソードは,現在のホテルニューグランドが用意している宿泊客向けパンフレットには記載がなく,次のように書かれている.
 
ホテルニューグランドでマッカーサー元帥を迎えたのは、当時の当ホテルの会長、野村洋三でした。野村は、マッカーサーに何のおもてなしもできないことを心から詫びるとともに、日本の窮状を流暢な英語で訴えました。横浜全域が空襲で焼失したこと、老人や女性、子供たちが食糧難にあえいでいること、また市民の不安など…。野村の言葉に、マッカーサー元帥は気軽に耳を傾けたそうです。そして、かつては日本を代表したホテルが扇風機ひとつ、ハンバーガー一つ用意できない惨状からも市民の窮状を察したのでしょう。数日後には、横浜市民のための大量の物資を用意してくれたといいます。
 
 しかし上述したマッカーサーがオーダーした朝食の卵料理のエピソードは,ガイド嬢が持っていた内部資料には書かれているようで,彼女の口から聞くことができた.おそらく事実であろう.
 伝聞でものを書くブロガーの常であるが,このブログ《マッカーサーの目玉焼き 》は,次のように話を大盛に盛っている.
 
《「無いんです。横浜中を探し回りましたが、この卵ひとつしか手に入りませんでした。」
この瞬間、マッカーサーは日本の置かれている悲惨な状況を、正確に把握したと言われています。
成人男子の必要な栄養は1日約2500カロリー。
終戦直後の栄養摂取量は
一日わずか1200カロリーにしか満たない状況であり、
町中に栄養失調や餓死者が溢れていました。
『横浜中を走り回って、たった一個の卵しか手に入らない・・・・・・』
マッカーサーは、この日本の悲惨な食糧事情について、すぐさま本国に報告書を送り、わずか三日後には軍艦より大量の食糧が陸揚げされることとなりました。
『即決の人』マッカーサーに判断をうながした一皿の目玉焼き。
そんなエピソードです。
 
 もっともらしい嘘とはこのことだ.どこから写したか知らぬが,このブロガーは,戦後日本の食糧事情と栄養学をもう少し勉強したほうがいい.一日に 1,200kcal も摂れれば《町中に栄養失調や餓死者が溢れ 》るわけがない.医師からエネルギー制限食事療法を指示された糖尿病患者には,このくらいのエネルギー摂取で暮らしている人たちが日本中にゴマンといるのである.
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 それから,このブログのコピーを上の画像に示したが,《朝食に目玉焼きをたのむ。2つ目玉のヤツを 》は嘘である.マッカーサーが所望した卵は三個だからね.そのことはホテルニューグランドが保存している資料に書かれている.コピペする時は信用できそうなブログから剽窃するように.w
 また,別のブログ《平和への一歩?…》には,こんなことが書いてある.
 
マッカーサーは料理人を呼び出し問いただし、帰ってきた答えは
『私は将軍(マッカーサー)から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵をひとつ手に入れることができました。』
と答えたのです。
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき
〈原文のママ〉仕事を理解したと言われています。
つまり、日本がポツダム宣言を受け入れ、ようやく平和な世の中になりつつあるこの状況で卵1つ手に入れることも困難な世の中なのだということを痛感させるエピソードでした。
ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです。

 
20120830a  
 
ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです  》ってあなた,事実であるという根拠のない話を書いていいのか.それを嘘と言うのだ.
 
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき仕事を理解したと言われています。》って君,誰からそんなヨタ話を聞いたのだよ.出典を示せ,出典を.
 
 昭和史の常識として,Wikipedia【連合国軍占領下の日本】くらい読みなさい.
 
日本への食糧・物資援助と貸与

初期対日方針
連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
食料輸入禁止
占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
1945年(昭和20年)9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。本国が大きな戦争被害を受けていたイギリスや中華民国、ソ連などは日本に食料を輸出する余裕はなく、またアメリカは世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
》 (下線と文字の色は当ブログの筆者による)
 
 上に引用した記述にあるように,終戦直後,マッカーサーも米国政府も,日本に食糧支援する気はさらさらなかったのである.それどころか,日本政府の食糧輸入を禁止したのであった.
 しかし占領開始翌年の二月になって,ようやく日本の危機的食糧事情を理解したGHQは,方針転換に踏み切った.再び Wikipedia【連合国軍占領下の日本】から引用する.
 
米国からの食糧輸出解禁
1946年(昭和21年)2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」とアメリカ政府に抗議した。3月にアメリカの農務長官クリントン・プレスバ・アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5月から10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。

 
 GHQの方針転換と,日本政府の食糧輸入を禁止する米本国政府の占領政策に対する抗議が受け入れられたのは,言うまでもなくこの年の五月の《食糧メーデー》の結果である.宮城前広場に二十五万人が集結して食糧要求を訴える集会を行った翌日,ここに至ってようやく占領政策の修正を決断したマッカーサーは,吉田首相に対して,アメリカが日本に食糧支援をすることを約束したのであった.従って,マッカーサーがホテルニューグランドに滞在したときの目玉焼きが,戦後の食糧支援を決定づけたなどというのは,大嘘なのである.ホテルニューグランドのパンフレットが,マッカーサーの朝食の話に触れていないのは,世間に流布しているこの嘘話に加担せぬための配慮だと思う.
 上に挙げた二つのブログ,《『即決の人』 》とか《すべき仕事を理解した 》などと,知りもせぬことについて見てきたような嘘を広めてはいけない.反省しなさい.
 
[追記]
 ホテルニューグランドの見学が終わってツアーが解散したあと,私はホテルのショップで,お土産にクッキー (Sサイズ) を買った.このクッキー,あまり知名度は高くないが,安くてなかなかおいしいので,特にここに記しておく.

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