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2018年10月18日 (木)

こうして歴史は作られる

 時代考証について書いたついでに,もう一つ.
 もう亡くなって久しいが,稲垣史生という時代考証家がいた.「時代考証家」は稲垣の造語で,時代考証家と名乗ったのはこの人物が最初である.
 稲垣史生は,江戸文化・風俗の研究家として名高い三田村鳶魚が遺した膨大な文章を整理して事典形式にまとめた「三田村鳶魚 江戸武家事典」「三田村鳶魚 江戸生活事典」(青蛙房) や,『三田村鳶魚全集』(中央公論社) の編者として知られる.
 その稲垣史生の著書『江戸時代大全』(KKロングセラーズ) の「まえがき」に,有名な寺田屋事件について次のように書かれている.

風俗で思い出すのは寺田屋騒動のときの坂本龍馬で、慶応二年 (一八六六年) 一月、伏見の寺田屋で幕吏に襲われた龍馬は、意外にもまずおのれの袴をさがした。隣室に脱いだことを思い出し、やむなく袴なしで戦ったが、護衛の三吉慎蔵はきちんと袴をつけてから戦っている。
 敵の白刃が眼前に迫っているのに、なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか。当時、袴は武家スタイルには不可欠であり、ほとんど皮膚の一部分とみなされていた。だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした。もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである。
 これは龍馬の手紙にある史実だが、まさに現代人には理解できない生活感情といえよう。

 ほとんどの読者は,《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いてあるので,そのまま信じてしまうだろう.
 そこで,この寺田屋事件の経緯を坂本龍馬が記した手紙が青空文庫に収められているので,稲垣史生が《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いている部分を下に引用しよう.

上ニ申伏見之難ハ去ル正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(此時二階居申候。)人の足音のしのび/\に二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音から/\と聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、(名ハ龍今妻也。)勝手より馳はセ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき鎗を持ちて是も腰掛にかゝる。》 (当ブログ筆者の註;原文にある漢文調の箇所に挿入されている返り点は,読みにくいので敢えて省略した.)

 驚いたことに稲垣史生は《なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか 》と書いているが,龍馬の手紙のどこにも「命がけで袴をはこうとした」などと思わせる記述はないのである.単に《はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付 》とあるだけだ.
 また稲垣史生は《(袴は) ほとんど皮膚の一部分とみなされていた 》と言うが,「ほとんど皮膚」であるなら,なぜ龍馬は寝るときに袴を脱いだのか.風呂にも袴をはいて入るのか.その説明がない.当たり前だが,袴は武士の準正装衣服の一つに過ぎない.生きるか死ぬかの緊急時に身に着ける必要はないし,実際に龍馬は袴なしで闘った.
 さらに稲垣史生は《だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした 》と話を大盛にしているが,龍馬の手紙のどこに「無意識で」などと書いてあるのか.これは史実だと書けば,読者は原文を読まないに違いないと,稲垣史生は読者をナメているのに違いない.いい加減にせよと言いたい.
もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである 》に至っては,もはや時代考証家の文章ではない.小説家気取りである.普通の神経の持ち主であれば《耐えられなかったのである 》と断定するのではなく,「耐えられなかったのであると考えられなくもないと思うにやぶさかではない」くらいにするところだ.w
 稲垣史生はこういう 口から出まかせ 融通のきく人間だから,NHKは多くの大河ドラマの似非「時代考証」をやらせたものと考えられる.NHK大河ドラマは事実と異なる架空の演出が許される時代劇であって,史実に基づく歴史劇ではないから,厳格な時代考証をしたら成立しないのである.

 寺田屋事件ついでに,もう一つ.
 Wikipedia【寺田屋事件】に次のように書かれている.

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。

 このときのことを,お龍自身がのちに「千里駒後日譚」と題した口述筆記 (川田雪山による聞書,「土陽新聞」連載,明治三十二年十一月) を残している.該当箇所を同じく青空文庫から引用する.ちなみに千里駒とは龍馬を指している.

私は一寸と一杯と風呂に這入つて居りました。処がコツン/\と云ふ音が聞えるので変だと思つて居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態 (当ブログ筆者の註;読みは「わざ」) と二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入つて居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云ふと、静にせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足 (当ブログ筆者の註;読みは「はだし」) で駆け出すと

濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足で駆け出す 》にはリアリティがある.事件は慶応二年一月二十三日 (1866年3月9日) の夜のことである.京都の三月は厳しい寒さだったろう.それなのに風呂から裸で飛び出られるはずがないではないか.しかも二十代半ばの花も恥じらう女性だ.取り急ぎ袷を引掛け,しかし帯なんかする暇はないから片手で前を合わせて駆け出したに違いない.昔も今も,どんな女性でもそうするだろう.
 さあ,一字違いは大違い.お龍さんが「はだしで駆け出した」と言っているのに,「はだかで駆け出した」と話を盛ったのは誰だろう.稲垣史生か,稲垣史生を高く評価していたとされる司馬遼太郎か,あるいはもっと前の作家か.調べてみると面白いかも知れない.

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