文化庁ウェブサイトに《世界遺産(文化遺産)一覧 》がある.
これをずらっと見ていくと,平成二十五年の《富士山―信仰の対象と芸術の源泉 》から《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》に至る毎年,連続して世界遺産リストに記載されていることがわかる.
その一覧中には,昨年の《「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 》のように,ほとんどの日本国民にとって「何それ?」的なものが混入してはいるが,概ね国民的コンセンサスは得られていると思われる.
昨日の記事に書いた『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』は,今年の七月に《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界遺産リストに記載されたことを受けて制作されたものに違いない.
しかしこの番組の制作スタッフも,キャスターの井上あさひアナウンサーも《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》の意義を理解していないのではないだろうか.
キャスターの井上あさひさんが大阪放送局ブログに載せた文章がそのことを示している.その文章の末尾の一節を引用する.
《信仰と生活
弾圧されていても、神父がいなくとも、立派な教会がなくても、続けられる信仰の形を見つけて脈々と信仰を受け継いでいく。信仰を守るために、生活の一部として密着させ、日々に溶け込むように信仰が営まれていく姿は、とてもナチュラルに感じました。
「信徒発見」以降も、隠れキリシタンの末えいの方々がその営みを続けていらっしゃること。あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきたこと。そういうことを知って味わう世界遺産の旅は、きっと格別なのではないでしょうか。》
井上さんは完全に誤解している.江戸幕府によってキリスト教が禁教とされたあと,元々からして正しくカトリックの教義を理解していたとは言い難い信徒たちは,教義の拠り所とすべき司祭を失い,その後,彼ら潜伏キリシタンの信仰は,神道および仏教と習合して変容し,奇怪な民間信仰と化したのであった.《脈々と信仰を受け継いで 》いったのではなく,変容したのである.
だが,幕末から明治にかけて,再び神父たちは日本に戻ってきた.
そしてその一人であるベルナール・プティジャンは,元治二年 (1865年) の三月,大浦天主堂を訪ねてきた潜伏キリシタンと遭遇した.これが,長崎に旅して大浦天主堂や浦上天主堂を訪れた人なら誰でも知っている「信徒発見」と呼ばれる事件であった.
神父たちは,潜伏キリシタンたちが原罪も三位一体も知らず,彼らの信仰が異端化していることに驚いただろうし,潜伏キリシタンたちも自分たちがキリスト教だと信じてきたものが,そうではなかったことに愕然としたに違いない.
だがこの時,奇跡のようなことが起きた.ローマ法王は潜伏キリシタンを異端視せず,彼らをカトリックの教義に立ち返らせることにしたのである.
そして潜伏キリシタンたちの一部は神父たちの指導によってカトリックの信仰に復帰したが,父祖以来のキリシタン信仰を捨てなかった者たちがいた.
その事情が《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産》公式サイトに述べられている.その《(Ⅳ)宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり 》の一部を引用する.
《これにより潜伏キリシタンは、宣教師の指導のもとに16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰しようとする者、宣教師の指導下に入ることを拒み、引き続き集落内の信仰指導者を中心に従来どおり自分たちの潜伏キリシタン由来の信仰を続けようとする者(かくれキリシタン)や、様々な葛藤の末に、それまでの信仰から離れて神道や仏教に転宗しようとする者などに分かれた。》
潜伏キリシタンの一部はカトリックに復帰し,一部は信仰を捨てて神道や仏教に転宗したため,潜伏キリシタンの伝統的信仰はほぼ終わりを告げた.今もわずかに潜伏キリシタンの信仰を守る信徒が残っているとされるが,しかしやがて遠くない時期に,彼らの信仰の伝統は絶えるであろう.これが《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界「遺産」たる所以である.
井上あさひさんは,神父とその信徒たちが建設した教会群について《あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきた》と書いているが,これまた全くの誤解である.実は,それらの教会は,潜伏キリシタンの伝統的信仰を捨ててカトリックに復帰した信徒たちのものであったのだ.彼女は,潜伏キリシタンたちが三派に分裂したことを知らないと思われる.
番組の画面には,カトリックに復帰した人々の子孫と,潜伏キリシタンの信仰を捨てなかった人たちの子孫の両方が登場したが,彼らの父祖が,明治の初めに袂を分かったことについて何の説明もなかった.潜伏キリシタンについて予備知識のない視聴者は,わけがわからなかったであろう.
《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》公式サイトは丁寧に書かれている.関心ある向きは,ぜひ全コンテンツを一読されたい.
[参考図書]
『カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館,2014年)
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