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2018年10月

2018年10月29日 (月)

宝塚歌劇団のこと

 大衆音楽史はおもしろい.
『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書,2010年) の Kindle 版を読んでいたら,次のような記述があった.(位置 No.535)

帝劇歌劇部が1912年に上演した《熊野》の舞台。謡曲をベースにした日本物オペラの嚆矢となる作だったが、不評だった。小林一三も観劇しており、これをヒントに宝塚少女歌劇が生み出された。

 上の既述は舞台写真のキャプションであるが,写真の出処は『帝劇の五十年』(東宝が出版した書籍で,古書が流通している.国会図書館等で閲覧可能) である.
 帝劇で上演された日本のオペラ「熊野」が宝塚少女歌劇のヒントであったというのは初耳であった.Wikipedia【小林一三】には《三越の少年音楽隊を模して 》とあり,Wikipedia【宝塚歌劇団】にも《三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊に想を得て 》と書かれていて,帝劇で上演された「熊野」のことは記載がない.
 そこでさらに調べを進めると,小林一三の生まれ故郷である韮崎市の公式サイトに《小林一三翁生誕140周年記念特集 小林一三ものがたり 》と題したコンテンツが見つかった.その一部を下に引用する.

《◆宝塚少女歌劇の設立―「清く、正しく、美しく」
 ある日一三は、東京の帝国劇場で歌劇『熊野』を見ました。それを少女にさせたらどうだろうかと考え、世界のどこにもない女性だけの劇団と歌劇の学校をつくり、先生として東京から作曲家の安藤弘・ちゑ子夫妻を招きました。

 宝塚歌劇団が生まれるヒントに二説が存在するようだ.いずれが正しいかもう少し調べてみることにした.
 そこで古書の阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』(河出文庫,1983年) を注文した.この本に,宝塚歌劇団創設に関する資料が書かれている可能性が高い.著者の阪田寛夫は小説家で,女優で宝塚歌劇団の元花組男役トップスター大浦みずきの父である.
 小林一三の自伝『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』(講談社学術文庫,1991年) は宝塚歌劇団創設よりも前のことが主に書かれているらしいので,これは古書を買わずに図書館の蔵書を探すことにする.

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2018年10月26日 (金)

小言幸兵衛の映画音楽

 Amazon で古い邦画を漁っていたら,『蘇州の夜 松竹映画 銀幕の名花 傑作選』というディスクのレビューに,たぶん若いと思われる人「おりおなえ」氏が嘘を書いていた.
 
これと混同され易い「支那の夜」(戦後の改題で「蘇州夜曲」になった)の方も、一度ソフトになっていた記憶があるけど、出すに出せない状態なのか。
 
 昭和十三年 (1938年) に渡辺はま子がレコーディングし翌年に大ヒットした歌謡曲「支那の夜」を基にして,当時の東宝映画 (現在の東宝) が,昭和十五年 (1940年) に歌と同名の映画『支那の夜』を制作した.主演は長谷川一夫と李香蘭 (山口淑子) だった.この映画『支那の夜』の制作の際に劇中挿入歌として後から作られた歌が,戦後から現在に至るまで多くの歌手によってカバーされている名曲「蘇州夜曲」である.
 映画『支那の夜』は戦後に大幅に編集されて『蘇州夜曲』とタイトルを変えて上映されたが,もはや別の映画である.この『蘇州夜曲』は会員制の映画ソフト販売会社「キネマ倶楽部」がVHF版を販売し,現在も中古品が流通している.オリジナルは東京国立近代美術館フィルムセンターにある.
 ちなみに流行歌「支那の夜」は渡辺はま子,「蘇州夜曲」は渡辺はま子と霧島昇がオリジナルだが,後に李香蘭がカバーすると,むしろ彼女のレコードの方がよく人々に知られた.
 ちなみに戦後になって山口淑子 (李香蘭) 歌唱の「蘇州夜曲」が、自身主演の映画『抱擁』の主題歌として発売された.従って山口淑子の歌う「蘇州夜曲」はふたつの映画の挿入歌と主題歌であるというややこしいことになっている.
 
 古い邦画に若い人が興味を持つのは喜ばしいことであるが,Amazon の購入者レビューは準パブリックな場であるから,誤情報を拡散することが多いのは困ったことである.
 もう一つ,というかもっと酷いブログの例を示す.訂正されてしまわぬように,このブログのモニター画面のハードコピー画像を示す.
 
20181031a1

『支那の夜 (蘇州の夜/蘇州夜曲)』と書いているところをみると,この人は三つの作品が同じものだと思い込んでいる.
 
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 戦時中の作品『支那の夜』と,それを編集した戦後の作品『蘇州夜曲』の主演俳優は長谷川一夫であるが,戦後の昭和二十一年 (1941年) の映画『蘇州の夜』は佐野周二で,全然別の作品だ.この人は『支那の夜』と『蘇州夜曲』と『蘇州の夜』が同一の映画だと勘違いしたまま,わざわざ上海に出かけて記事を書いたのである.もうほんとにご苦労さまとしか言いようがない.

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2018年10月25日 (木)

チャップリンの音楽 (一)

 映画音楽の流れでもう一つ.
 二十世紀の偉大な映画人を三人あげなさいと言われたら,その一人にチャップリンの名を挙げる映画ファンは多いのではなかろうか.チャップリンを二十世紀で最も偉大な映画人だとする人もかなりいるだろう.
 Wikipedia【チャールズ・チャップリン】に次のように記述されている.
 
イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。
チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり…》
 
 もちろん,映画監督や脚本家や俳優,あるいは映画プロデューサーなど各分野における偉大な才能は星の数の如くであろうし,《マルチな才能 》もチャップリンだけではない.例えばクリント・イーストウッドはその代表格.
 しかし,Wikipedia【クリント・イーストウッド】に《アメリカ合衆国カリフォルニア州、サンフランシスコ出身の映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、政治活動家 》とあるが,クリント・イーストウッドが作曲した映画音楽を列挙できる人は,現在ではほとんどいないだろう.
 しかしチャップリンの作った映画音楽は (たとえそれが通俗的なメロディ・ラインであるとしても) 『モダン・タイムス』の主題歌“スマイル”と『ライムライト』の“テリーのテーマ”は古い映画ファンなら誰でも知っている.むしろチャップリンがチャップリンたる所以はその音楽的才能にあると私は思う.
 映画音楽という楽曲のジャンルは面白いもので,主題曲・歌はよく知られているが,映画そのものは凡作で,今はもう忘れられてしまったという作品が多々ある.ところが『モダン・タイムス』の“スマイル”と『ライムライト』の“テリーのテーマ”(「エターナリー」とも呼ばれる) は,それだけで傑作である各映画作品から受ける感動を,主題曲がさらに高めた例である.
(続く)

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2018年10月24日 (水)

アパートの鍵貸します

 私は,買ったばかりのCDはスタンドアローンのオーディオシステム (YAMAHA TSX-B235) で何度も聴き,それからPCの iTunes に全曲を取り込むことにしている.そして iTunes には,取り込んだ全曲の中から気に入ったものを,たくさんのライブラリに分類して収納しておく.
 そのライブラリに「映画音楽」があり,その中でも私のお気に入りなのが「『アパートの鍵貸します』のテーマ」だ.洋楽の曲名としては映画と同名の“The Apartment”でいいのかと思う.
 昨日,この曲が突然マイブーム化して,文章を書きながら何時間も繰り返して聴いた.
 そのついでに何気なく『アパートの鍵貸します』について検索したら,町山智浩氏が『アパートの鍵貸します』の解説をするというトークショー (前編後編) がヒットした. 
 私は町山氏の著書は何冊も読んでいるが,ネットに上げられている講演を聴くのはこれが初めてである.
 そしてこの解説が大変に参考になったので,昔買った古いDVDを引っ張り出して再鑑賞した.調べたらデジタルリマスター版が出ているらしいが,私のは昔の古い古いディスクである.
 町山氏は『アパートの鍵貸します』の鑑賞者が見落としてはいけないポイントをいくつも指摘しているので,私は何度も再生を止めながらじっくり鑑賞した.すると,ふーむそうか,という発見があった.
 これから往年の名画を再鑑賞する際には,町山氏の講演がネット上にあるかどうか調べてからにしようと思う.

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2018年10月23日 (火)

一見さんお断りの焼鳥屋

 土曜日と日曜日をかけた湖国の仏を訪ねる旅の,一日目の宿は,JR西日本琵琶湖線の南草津駅西口に隣接するアーバンホテル南草津であった..
 チェックインのあと,食事しようと外に出たのだが,駅西口は真っ暗である.駅構内を通って東口に回ったが,ここも居酒屋が二店入ったビルと西友があるだけで,食事ができるような繁華街はない.やむなく少し歩いたら,「花ひこ」(←「食べログ」のリンクを示す) と看板を掲げた店があった.店構えは小奇麗に新しそうで,店内に煙がもうもうと漂う昔風の焼鳥屋ではない.私みたいな年寄りではなく若い人向けの店なんだろうが,そのあたり一帯は繁華街がない田舎の駅前で他に飲食店もなさそうなので,焼鳥を食って寝ることにした.
 店のドアを開けて中に入ると,左側に四人腰かけられるカウンター席があり,あとはグループ客用の席で,既に店内には数人ずつの先客グループが二組いた.
 
 さて店員が注文を取りに寄ってきたので,私は品書きを見て,角ハイボールと「牛串」を二本と「手羽先」を二本注文した.
 すると店員の兄ちゃんが言う.
店員「あのー,食べ物は少しお時間をいただきます」
私「少しくらい構わないよ.どれくらいかかるの? 三十分?」
店員「あー…」
私「一時間?」
店員「いえー,…」
私「二時間?」
店員「はあ,手羽先はもう少し…」
私「おいおい驚いたなー.どういう特別な焼鳥か知らんけどさ,焼鳥食うのに三時間も待てないよ.それじゃさ,割と早めにできるものは何かあるの?」
店員「じゃ牛串と手羽先はキャンセルですね.あっさり系の,冷奴と枝豆なんかは早いです」

 そういう遣り取り (上の会話は,ほぼ実際のまま) があって私は,食事をしたかったのに,突き出しの生キャベツとモヤシ,冷奴と枝豆でハイボールを飲むという侘しい状況に置かれた.
 そういう状況では長居をしても仕方ないので,早々に引き揚げようと思い,枝豆をパクパク食べていたら,カウンターの横の席にカップルが来た.
 その二人は店員の兄ちゃんに焼鳥を注文したのだが,兄ちゃんはなにも言わずにオーダーを受けて,そしてしばらくすると彼らの前に,三時間は待たねば食べられないはずの焼鳥が届けられたのである.
 どういうことだと私が考察するに,そのカップルは常連客である.そしてこの店は一見客お断りなのだ.しかも,私はお一人様だ.そこで店員の兄ちゃんは,店の方針を知らぬ私が,歓迎されていないことを察して早く出ていくように,たった数本の手羽先と牛串を焼くのに三時間かかると言ったのである.
 それにしても,一見の一人客が嫌いなら,私が店に入ってきたときに「うちは初めてのお客さんはお断りしてます」とか「お一人様はご遠慮いただいてます」などと言えばいいではないか.そう言ってくれれば,私は「そうですか」と言って引き揚げたはずである.そしてカウンター席に腰かけて食いたくもない冷奴なんぞ食わなくても済んだのである.
 滋賀の片田舎の飲食店「花ひこ」は,馴染み客以外は排斥する方針の店なんだろう.しかしそのような経営方針であることは一向に構わぬ.店の側が客を選んではならぬという法はない.それならそれで,明るく一見客の入店を断ればいいのだ.しかるに「花ひこ」のやり方は陰湿である.不愉快な接客である.それ故,旅行とか商用で南草津駅に宿泊することになった人は,駅東口の焼鳥屋「花ひこ」には決して入らぬことをお勧めする.極めて不愉快な思いをすること確実だからである.

20181023a

上は「花ひこ」の箸袋の表.下はその裏.上に書いた話がノンフィクションであることを示すために,箸袋の意匠をスキャンして引用する.
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ウチの「たかがやきとり」は三時間待ちの「されどやきとり」だぞ,一見の一人客に食わせてやるものか! 帰れ帰れ!というわけだ.w

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2018年10月22日 (月)

丹後の ぼろ寿 もとい ばら寿司

 一昨日と昨日,琵琶湖周辺の寺を訪ね,仏像群を拝観して回った帰路,名神高速道路の多賀SAに立ち寄った.帰宅は夜九時過ぎになるので,何か弁当を買って帰ろうと思ったのである.
 多賀SAは「いきなりステーキ」があったり,広いフードコートがある.フードコートの周りに店舗が立ち並んでいたが,そのうちの一つで「柿の葉寿司」「焼鯖寿し」「焼鯖巻」「丹後のばらずし」などがガラスケースの上に並べられ,威勢のいい娘さんが「日持ちは明後日までですよー」と買い物客に声をかけていた.
 普通この種の寿司は「本日中にお召し上がりください」で,つまり製造当日の消費に決まったものだが,それが明後日までとはおもしろい.
 これがコンビニ弁当のように対面販売でない場合は,手に取って原材料表示を調べるのだが,販売員の娘さんの目の前で包装を引っ繰り返すのは,彼女に叱られるおそれがあるので,私は何も確認せずに「柿の葉寿司 (三種八個入り)」と「丹後のばらずし」を購入した.買ったら自分のものだから,ゆっくり読めばいいのだ.
 製造者は加悦ファーマーズライスといい,公式サイトの商品一覧を示す.   
 この商品一覧ページには商品画像と価格が掲載されているだけで,原材料表示はない.そのことだけで,この製造者には消費者に情報提供しようという誠実な姿勢がないことがあきらかである.そこで「柿の葉寿司」と「丹後のばらずし」の表示をスキャンした画像を以下に示す.

 まずは「柿の葉寿司 (三種八個入り)」から.
 
20181022a
 
 まあこれはデパ地下などて販売されている弁当
と同程度の食品添加物使用状態である.食品添加物は日持向上のために使用されている.実際にたべてみたところ,うまくはないが,酷くまずいというわけでもない.可もなく不可もないと評価していいだろう.
 次に「丹後のばらずし」を見てみよう.

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 いやもう,加工デンプンやらソルビン酸カリウムまで入れて,食品添加物のオンパレードである.大胆なもんだ.
 食べてみると,いやはや酷い味である.工場の従業員たちは,こんな寿司弁当を作っていて嫌にならないのか.自分で食べてみたことはあるのかと問いただしたい.
 
グリシンを始めとする日持向上用食品添加物の使用量が「柿の葉寿司」よりもかなり多いと思われるが,高速道路のSAで売られているものは,通りすがりの客に売ればいいのであって,まずくても構わないと製造者は考えているのだろう.リピーターなんて想定外なんだろう.
 日持向上を目的とする食品添加物は,確実に食品の味を損ねる.言い換えると,それらの添加物を使用して,それでも異味のないまともな味の食品にするには,高い技術力を必要とする.この製造者には,その技術力はないと考える.

20181022c

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2018年10月20日 (土)

先日のカンブリア宮殿

 仕事をリタイアし,年金生活者になって何年も経つので,私はもうビジネス成功譚に興味をなくしていたのだが,一昨日 (10/18) は,たまたま『カンブリア宮殿【史上最悪から史上空前の鉄道会社へ!JR東日本】』を観た.この日のゲストはJR東日本・冨田哲郎会長であった.
 これは二週連続の特集で,一昨日放送の前半は,(1)「大人の休日倶楽部」の成功,(2) Suica の革新性,(3) 駅ナカや高架下商業施設の展開,(4) 路線のネットワーク化による利便性向上,等を話題にとりあげた.
 私の周囲では,大人の休日倶楽部会員は私だけなのだが,会員数の推移を見ると,この十年ずっと右肩上がりに増加し,今年の一月現在では二百二十四万人に達している.
 会員のほとんどは,Suica 機能付きの VIEW カードを持っている考えられるが,このカードの利便性はかなりの優れモノである.そのうち,高齢者が持つ標準のクレカになるだろう.
 その他の (3) 駅ナカや高架下商業施設の展開についても,利用者は大歓迎だ.
 しかし (4) 路線のネットワーク化 (複数路線の乗り入れ) については,よいことばかりではない.利便性向上と引き換えに,運行の信頼性が損なわれたのは間違いない.例えば高崎線で発生した事故が,湘南新宿ラインや上野東京ラインに,遅延や運休などの影響を及ぼすことが多い.いや,多いなんてレベルではない.ほぼ毎日,遅延が発生している.時刻表通りに運行されていたのは昔のことになった.
 藤沢駅に行ったら電車が止まっていた,なんことは珍しくない.そのため,東京駅に早朝集合のツアーに参加するときは,かなり早めに藤沢駅を出発しないと,集合時間に間に合うか不安である.また午前のフライトで行く海外旅行の場合は,万一に備えて都内で前泊する必要がある.
『カンブリア宮殿』は企業を褒めあげる番組だから,JR東日本の運行不安定化を取り上げるはずはないと思わないでもないが,MCの村上龍が一言それについて富田会長に質問してくれれば,JR東日本としてどのような対策を考えているのかを聞けたかも知れない.それが残念だ.

[追記] 今日から数日,近江の長浜や大津などを旅するためブログ更新が滞ります.旅の目的は,中断している連載『母子草』と『母子草ノート』の更新を再開するために,中世から近世における琵琶湖周辺の仏像群と庶民の信仰をこの目で見ることです.

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2018年10月19日 (金)

インチキ寺田屋

 昨日の記事《こうして歴史は作られる》に寺田屋事件のことを書いた.その補遺を少し.
 私が京都伏見の旅館「寺田屋」に行ってみたのは昭和五十年代のことだった.その当時は,「寺田屋」は坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件の現場であると世間の人たちは信じていた.「寺田屋」がそう宣伝していたので,私もそう信じていた.
 ところが次第に色々と辻褄の合わないことが判明したため,平成二十年 (2008年) に京都市は調査を行い,公式に「寺田屋」が偽物であることを認めた.龍馬が襲撃された寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したのである.そこで元々の建屋があった場所の隣に,寺田屋の経営者が旅館を再建し,この新しい「寺田屋」が寺田屋事件の現場であるかの如き虚偽の宣伝を行ったのである.
 昔,私が見学したときも,いかにもそれらしく粉飾されていて,簡単に騙されたのがまことに腹立たしい.この件について,Wikipedia【寺田屋事件】から少し引用する.
 
現在の寺田屋
現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。
京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し、現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。
大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。
》 (文字の着色は当ブログ筆者による)
 
 この「寺田屋」がインチキであることは今ではかなり知られているが,腹の立つことに,今なおインチキ「寺田屋」は「お龍さんは裸だった」という嘘を流し続けている.そして「寺田屋」を見物したブロガーたちはこれに騙されて,「お龍さんは裸で風呂場を飛び出した」との誤情報を拡散し続けている.
「寺田屋」が風呂を増築し,これを「お龍が入っていた風呂」としたのは明治三十八年だとのことだから,この嘘の出所は「寺田屋」かも知れない.お龍さんが亡くなったあとになって風呂を作り,虚偽の宣伝を開始するあたり,元々の寺田屋の経営者はかなり悪質なペテン師であったし,それを引き継いで世間を騙し続けている現在の経営者も相当なワルである.京都市は,このインチキ「寺田屋」を放置してネット上で笑いものになっているのだから,法的な処置をとれぬものか,考えるべきだろう.「寺田屋」は京都の恥である.
 
 余談だが,司馬遼太郎は歴史家ではないから,かなり簡単に偽書,似非史料にだまされており,司馬ファンは,そのあたりを気を付けて読む必要がある.とはいうものの,司馬遼太郎には,小説家でありながら「司馬史観」と呼ばれる程の思想があったことは間違いない.その司馬遼太郎に比較して,無思想にして無節操な半藤一利や出口治明が書くインチキ「歴史」漫談が売れているのは,まことに残念無念である.

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2018年10月18日 (木)

成金

 自分のことを放っておいて言うのはナンだが,片山さつき大臣という御人も,何を着てもだめだなあ.とにかくあの昭和中頃のキャバレー歌手みたいな髪型ではどうにもならぬ.
 先日の内閣認証式の直前になって服装がドレスコードにアウトだと内閣府職員に指摘され,慌ててシルバーのドレスをデパートで購入したというドタバタ騒ぎは既に報道されたところであるが,そのドレスがもうほんとに似合ってませんでしたなあ,下品で
 で,今現在のさつき氏は文春砲に撃たれて不正疑惑の只中にあるわけだが,これを報じた産経新聞に載ったさつき氏の写真がすごい.意外な美脚であるのは横に置いて,アメ横で買ったのか,この服は.w
 私は思うのであるが,さつき氏はストレートのセミロングにしたらどうか.今の ケバケバ うっとおしい イメージを払拭しないと政治家としての将来はないと思われる.ま,在庫整理内閣だけど.
 さつき氏は文春を名誉棄損で「訴える方針だ」と記者会見したが,実際には訴えないというのが見え見えだなあ.ああうっとおしい.

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こうして歴史は作られる

 時代考証について書いたついでに,もう一つ.
 もう亡くなって久しいが,稲垣史生という時代考証家がいた.「時代考証家」は稲垣の造語で,時代考証家と名乗ったのはこの人物が最初である.
 稲垣史生は,江戸文化・風俗の研究家として名高い三田村鳶魚が遺した膨大な文章を整理して事典形式にまとめた「三田村鳶魚 江戸武家事典」「三田村鳶魚 江戸生活事典」(青蛙房) や,『三田村鳶魚全集』(中央公論社) の編者として知られる.
 その稲垣史生の著書『江戸時代大全』(KKロングセラーズ) の「まえがき」に,有名な寺田屋事件について次のように書かれている.
 
風俗で思い出すのは寺田屋騒動のときの坂本龍馬で、慶応二年 (一八六六年) 一月、伏見の寺田屋で幕吏に襲われた龍馬は、意外にもまずおのれの袴をさがした。隣室に脱いだことを思い出し、やむなく袴なしで戦ったが、護衛の三吉慎蔵はきちんと袴をつけてから戦っている。
 敵の白刃が眼前に迫っているのに、なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか。当時、袴は武家スタイルには不可欠であり、ほとんど皮膚の一部分とみなされていた。だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした。もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである。
 これは龍馬の手紙にある史実だが、まさに現代人には理解できない生活感情といえよう。
 
 ほとんどの読者は,《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いてあるので,そのまま信じてしまうだろう.
 そこで,この寺田屋事件の経緯を坂本龍馬が記した手紙が青空文庫に収められているので,稲垣史生が《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いている部分を下に引用しよう.
 
上ニ申伏見之難ハ去ル正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(此時二階居申候。)人の足音のしのび/\に二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音から/\と聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、(名ハ龍今妻也。)勝手より馳はセ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき鎗を持ちて是も腰掛にかゝる。》 (当ブログ筆者の註;原文にある漢文調の箇所に挿入されている返り点は,読みにくいので敢えて省略した)
 
 驚いたことに稲垣史生は《なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか 》と書いているが,龍馬の手紙のどこにも「命がけで袴をはこうとした」などと思わせる記述はないのである.単に《はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付 》とあるだけだ.
 また稲垣史生は《(袴は) ほとんど皮膚の一部分とみなされていた 》と言うが,「ほとんど皮膚」であるなら,なぜ龍馬は寝るときに袴を脱いだのか.風呂にも袴をはいて入るのか.その説明がない.当たり前だが,袴は武士の準正装衣服の一つに過ぎない.生きるか死ぬかの緊急時に身に着ける必要はないし,実際に龍馬は袴なしで闘った.
 さらに稲垣史生は《だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした 》と話を大盛にしているが,龍馬の手紙のどこに「無意識で」などと書いてあるのか.これは史実だと書けば,読者は原文を読まないに違いないと,稲垣史生は読者をナメているのに違いない.いい加減にせよと言いたい.
もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである 》に至っては,もはや時代考証家の文章ではない.小説家気取りである.普通の神経の持ち主であれば《耐えられなかったのである 》と断定するのではなく,「耐えられなかったのであると考えられなくもないと思うにやぶさかではない」くらいにするところだ.w
 稲垣史生はこういう 口から出まかせ 融通のきく人間だから,NHKは多くの大河ドラマの似非「時代考証」をやらせたものと考えられる.NHK大河ドラマは事実と異なる架空の演出が許される時代劇であって,史実に基づく歴史劇ではないから,厳格な時代考証をしたら成立しないのである.
 寺田屋事件ついでに,もう一つ.
 Wikipedia【寺田屋事件】に次のように書かれている.
 
龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。
 
 このときのことを,お龍自身がのちに「千里駒後日譚」と題した口述筆記 (川田雪山による聞書,「土陽新聞」連載,明治三十二年十一月) を残している.該当箇所を同じく青空文庫から引用する.ちなみに千里駒とは龍馬を指している.
 
私は一寸と一杯と風呂に這入つて居りました。処がコツン/\と云ふ音が聞えるので変だと思つて居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態 (当ブログ筆者の註;読みは「わざ」) と二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入つて居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云ふと、静にせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足 (当ブログ筆者の註;読みは「はだし」) で駆け出すと
 
濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足で駆け出す 》にはリアリティがある.事件は慶応二年一月二十三日 (1866年3月9日) の夜のことである.京都の三月は厳しい寒さだったろう.それなのに風呂から裸で飛び出られるはずがないではないか.しかも二十代半ばの花も恥じらう女性だ.取り急ぎ袷を引掛け,しかし帯なんかする暇はないから片手で前を合わせて駆け出したに違いない.昔も今も,どんな女性でもそうするだろう.
 さあ,一字違いは大違い.お龍さんが「はだしで駆け出した」と言っているのに,「はだかで駆け出した」と話を盛ったのは誰だろう.稲垣史生か,稲垣史生を高く評価していたとされる司馬遼太郎か,あるいはもっと前の作家か.調べてみると面白いかも知れない.
 
[関連記事]
インチキ寺田屋

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2018年10月16日 (火)

渡世人の飯椀 (補遺2)

 江戸時代の博徒というと,多くの年寄りは昔のテレビ時代劇『木枯紋次郎』を思い出すのではなかろうか.
 この紋次郎の飯の食い方は,当時の視聴者に大きなインパクトを与えたようで,今でも「紋次郎食い」で検索すると,色々なウェブページがヒットする.動画の例から,その一シーンを,モニター画面のハードコピーをして下に掲載する.
 
20181016b
 
 ところが,この場面は時代考証的には大嘘なのである.時代考証家の山田順子さんや杉浦日向子さんらが江戸時代に描かれた絵を調べたところによると,当時の飯屋や居酒屋には,テーブルとイス (大抵は酒樽である) はなかったという.客は縁台 (床几ともいう) に腰かけるか,履物を脱いで小上がり (畳または板敷) で飲食をしたのである.(「江戸庶民風俗図絵」などを検索されたい)
 しかし別の放送回で紋次郎は,街道筋にある茶屋兼の飯屋では縁台に腰かけて飯を食っている.このことから推測するに,江戸や宿場などにあった飯屋や居酒屋は現代の飲食店に似ているだろうという思い込みが,放送作家や演出家など番組制作サイドにあったのだろう.
 これはかつての人気テレビ時代劇『鬼平犯科帳』も同じである.この動画を見ると,御丁寧に,テーブル席だけでなくカウンター席まである.w
 映画でもテレビでも時代劇というものは,鎌倉時代や江戸時代を舞台にしてはいるが,それは表層的なことであり,実は描かれているのは現代人なのだという解釈は正しいと私は思う.従って演出が時代考証的に正しいのが好ましいとは思うが,あまりそれに拘ると,時代劇そのものが成立しなくなるおそれがあり,それでは本末転倒かも知れないと思う.そもそも鬼平こと長谷川宣以が居酒屋で酒を飲むわけがないからである.w
 
 以上,既述のように,江戸時代の博徒の生活に関する史料は多くないと思われ,それ故,時代劇に出てくる親分の生活や賭場の様子は時代考証的には,あまり信用しないほうがよいだろうと,付け加えておく.

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2018年10月15日 (月)

渡世人の飯椀 (補遺1)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
 
このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.

 
 人は誰でも,若い時には葬儀の際のあれこれを知らずとも,歳を重ねるに従い何度も親戚知人の葬儀に出席すると,仏教各宗派によって葬儀の仕来りが少しずつ異なることを知るようになる.
 特に浄土真宗と他の宗派との違いが大きい.
 その違いの一つに,死者あるいは棺の枕元に置く枕飯あるいは枕団子がある.枕飯や枕団子は,死者がこの世に残した未練を慰め,送り出すためのものだが,浄土真宗では,死者はただちに成仏することになっているので,これを行わないという.
 しかしこんなことは仏式で葬儀を行う際の形式的な仕来りであって,大した意味はなく,葬式仏教の僧や葬儀屋がああだこうだと言っているに過ぎない.試みに「一膳飯」をネット検索してみると,葬式関連のコンテンツばかりである.民俗学的な議論は全くみつからない.
 当たり前だが,十七世紀の京都で一膳飯屋が生まれてから現在に至るまで,一膳飯は単に「盛り切りにした一膳の飯」の意であり,それ以上のことではない.しかるに,この一膳飯に箸を立てると枕飯になるのだが,枕飯が一膳盛り切りであることから逆方向に,枕飯を一膳飯と呼ぶ誤用が発生したものと考えられる.ネットを検索調査したところでは,この誤用の伝播者は葬祭業者だろうと思われる.例えば,この匿名サイト.下に少し引用する.
 
茶碗に山盛りにご飯を盛って、真ん中に箸を立てる「一膳飯」 (当ブログ筆者の註;正しくは「枕飯」) は、誰でも目にしたことがあるのではないでしょうか。
 
もともと一膳飯は、二膳や三膳はない、一善 (当ブログ筆者の註;正しくは膳) 限りということで、旅立って二度と戻らない相手との別れの膳で出されていた古くから (当ブログ筆者の註;何世紀から?) の習わしです。これは嫁入り (当ブログ筆者の註;正しくは一膳飯ではなく「高盛り飯」という.もちろん枕飯とは別物であり,箸を立てたりはしない) や独立の際にも行われていた作法でした。
 
このように、一膳飯は最後の食事という意味合いがある (当ブログ筆者の註;出典は?) ことから、「死者のこの世での最期の食事」としてお葬式の作法に使われるようになりました。
 
 上記引用の説に従えば,江戸時代の一膳飯屋では,客に《死者のこの世での最期の食事 》を提供していたことになる.常連客もいただろうに何を言っておるのか.阿呆もいい加減にするがよい.
 
 さて葬祭業者以外で,この誤用を拡散させているブログがよく用いているのが,戦時歌謡の替歌「軍隊小唄」の一節「仏様でもあるまいに一膳飯とは情けなや」である.
 飯茶碗に飯を高く盛って箸を立てた枕飯は,死者の霊に供える枕飾りの一つであって,仏壇にお祀りされた仏様にお供えするものとは異なる.仏壇に供えるのは仏飯という.
 仏飯もおかわりはないところから,「軍隊小唄」は軍隊の一膳飯を仏飯に喩えたのだろう.すなわち「軍隊小唄」の歌詞にある一膳飯は,箸を立てた枕飯のことではない.これを誤解しているブロガーがいるので,特に書いておく.
 また,これはものの喩えであるから,常識的には仏飯を一膳飯と呼んではいけない.
 
 以上,昭和の博徒の親分は一膳飯と枕飯を混同していたが,それは親分が無知だったせいではなく,世間一般に一膳飯の誤用が広まっていたからであるということを付け加えておく.
(《渡世人の飯椀 (補遺2)》へ続く)

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2018年10月14日 (日)

渡世人の飯椀 (二)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.
 
『江戸やくざ研究』の著者は田村栄太郎という在野の左翼歴史家,風俗研究家である.Wikipedia【田村栄太郎】に書かれている田村氏の著書一覧を見ると,左翼でありながら裏社会にも通じているという一口では言い難い人物像が浮かぶ.
 それはともかくとして,『江戸やくざ研究』の中で著者は昭和十三年頃,群馬県高崎市の博徒である武田親分に,仁義のきり方から始まる詳細なインタビューをしている.その中から食事についての部分を引用する.
 
飯は丼ぐらいの茶碗に二杯、山盛りにして出すのですが、これは誰でも食いきれない。しかし少しでも残しては作法に外れるから、はじめの一杯の山盛りの飯の真中だけを食べて真中に穴をこしらえてそこへまた飯を足してもらい二杯分ということにします。山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。菜は有合せを出します。魚を出せば旅人は骨は白紙に包んで懐中に入れるのです。何を出さなければならないという作法はありません。それに旅人は待遇上の不平はいえないのです。草鞋銭をもらってすぐ使ったところを、子分にでも見つかれば取持ちが気に入らなかったかと殴られます。》 (当ブログ筆者の註;「取持ち」はインタビューの他の所にも出てくる言葉で,応接とか接待とでもいう程の意)
 
 とまあこのような次第であるが,この問答の中で武田親分は,博徒の仁義は上州と江戸で異なると述べている.上州は著しく博徒,無法者の多い土地柄であったから,江戸とは違う独自の流儀ができたのだろう.
 また著者の田村氏は,博徒の仁義作法は時代によって変わり,武田親分が述べたのは昭和のやり方だと書いている.ただし,これは武田親分の年齢が不明なので何とも言えない.明治・大正もさほど変わらなかったと考えることは可能だが,考察する材料がない.というか,こんな分野 (やくざの社会) に関する史料なんてものはないと思うが.
 で,武田親分の口述によると,戦前の昭和,上州における博徒の作法では,旅人の夕飯には飯のおかわりを盛ってくれる給仕役がつく.それはおそらく親分の御内儀 (仁義の言葉では「お姉さん」という) だろう.
 重要なのは,有合せでよいが「菜」を出すとしていることだ.これは,夕食を軽く済ませていた江戸時代と異なって,明治以降は夕食の重要性が増したことを意味している.
 Wikipedia【夕食】に,
 
日本
日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化の一つに属している。夕食は、一日で最も質・量ともに充実した食事になることが多い。また、夕食は一日の食事の中では最も時間的なゆとりがある食事である。

 
とあるが,言うまでもなく食事の在り方は時代によって変化してきた.そもそも夕食というのは,江戸時代に一日二食から一日三食に変化してからの話である.明治時代以降,家族が揃って夕食を摂るという食のスタイルが長く続いたが,昭和以降は「食の個食化」が進行し,家族がバラバラに夕食を食べるようになり,夕食は重視されなくなった.今では,一日三食は肥満の原因の一つだとして夕食を食べない人もいる.あるいは逆に少量ずつ一日に何度も食事する人もいる.そのような多様化が進んだ現在,《日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化》だとするのは余りにも大雑把すぎる.史料も根拠も示さないこの主張は「独自研究」(=口から出まかせ) というべきだろう.
 
 本題に戻る.次に武田親分は,一宿一飯の飯を盛る器は,飯椀ではなく丼ほどの茶碗だという.となると,これは重いから旅人の携行品ではない.戦前の群馬の親分衆の家では,客人用の食器一揃いを箱膳にでも収めて用意していたのだろう.もはや日本の近代は,博徒が荷物の中に飯椀を入れて旅をした時代ではなかったのである.
 さてちなみに,武田親分の語った内容で興味を引かれたことが一つ↓ある.
 
山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。
 
 つまりこの親分は,一膳飯と,死者の枕元に供える枕飯を混同しているのだ.
 江戸では,ファストフードではない一膳飯屋が生まれ,人口のかなりの割合を占めていた男性単身者たちの胃袋を支えた.《一杯は仏様だと嫌》われていたという事実はない.
 明治以降は,軍隊が一膳飯であった.死んだ私の父親が語ったところによれば,軍隊というところは,食事も排泄も就寝も起床も,行動すべて迅速であることを旨としたから,悠長な飯のおかわりなんぞが許されようはずがなかった.
 刑務所も一膳飯である.これは毎度の食事で摂取するエネルギーが,受刑者の年齢や作業強度に基づいて計算されるからで,受刑者本人の好きにはならないのである.肥満体であった堀江貴文が収監され,出所した時には普通の体型になっていたことを覚えている人は多いだろう.
 病院も一膳飯であるのは,病院食が栄養計算に基づいた食事だからである.
 現代は国民総健康志向の時代であるからして,糖尿病を恐れる中年以上の国民で,御飯のおかわりをする人はいないはずだ.おかわり自由のとんかつ屋で,白飯をおかわりしているのは若い人だけである.
 このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.
(《渡世人の飯椀 (補遺1)》へ続く)

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2018年10月13日 (土)

渡世人の飯椀 (一)

 今から五十年以上前の事である.
 後に東京都知事になった青島幸男が,ラジオで一人トークの雑学情報番組を持っていた.
 その放送で青島幸男が語った話だが,江戸時代の渡世人は,振分荷物に飯椀を入れて携行していたという.
 静岡市清水区に,山岡鉄舟ゆかりの「鉄舟寺」という寺があり,この寺には宝物殿といえるほどではないが,歴史関係の資料が展示されている.昭和五十年頃のかなり昔のことであるが,私が鉄舟寺を拝観した時には,展示されていた歴史資料の中に,渡世人が旅をする際に携行していた飯椀の実物があった.それが今も展示されているかどうかはわからないが.
 静岡市清水区は,静岡市に吸収合併される前は清水市といい,東海道一の親分であった清水次郎長の縄張りだったところだから,記憶は定かでないものの,その飯椀は幕末から明治にかけて実際に使われたものだったと思われる.
 なぜ鉄舟寺に渡世人の持ち物が展示されていたかは,山岡鉄舟と清水次郎長の親交によるものだろう.
 で,飯椀のことだが,渡世人が携行していた飯椀は,旅先の土地の親分に仁義を切って泊めてもらうときに使ったのである.
 これは上述の青島幸男の番組でのトークと,鉄舟寺にあった飯椀の展示品説明書とが一致していたので,信憑性が高い.
 街道を堂々と旅をしたのでは身に危険が及ぶ凶状持ちや,ほとんどボロボロな恰好をした乞食渡世人は別として,賭場を渡り歩く普通の渡世人は,日が暮れる前に土地の親分のところに顔を出して挨拶をしなければならない.これが「仁義をきる」ということである.
 先を急ぐときは仁義をきってすぐ立ち去るが,そうでなければ例の「一宿一飯」にあずかる.
 仁義の詳細は略すが,一通りの作法を済ませ,食事をもらう時間になると,御内儀さんが飯櫃を持ってくるので,御内儀さんに持参の飯椀を渡す.すると御内儀さんは飯椀に飯をてんこ盛りにしてくれる.もちろん漬物が付いてくる.
 さてここで問題は,何かおかずが出され,それで飯を食ったのか,ということである.

 江戸庶民の日常食は,朝に白飯を炊いて,味噌汁と漬物がこれに付く.これが「一汁」である.漬物は飯とセットなので「菜」のうちには含まれない.
 昼飯は冷や飯と漬物に,煮物とか焼き魚などを付けて食べる.味噌汁は付けない.つまり「一菜」である.
 夜は屋台で天ぷらとか鮨,蕎麦 (江戸の後期) などのファストフードを小腹に入れる (杉浦日向子さんの考証によると,それらをたくさん食べるのは粋ではないとされていたようだ) か,あるいは長屋に帰ってから,漬物で冷や飯を茶漬けにして食う.「一汁」でも「一菜」でもない,この飯と漬物のセットを呼ぶ言葉はないが,敢えていうなら「一飯」,「一宿一飯」の「一飯」だ.
 某似非「食文化史研究家」や農水省の御用学者たちは「一汁三菜が日本の伝統食である」という大嘘を世間に広めたが,実は,我が国庶民の日常の食事は「一汁一菜」ならいいほうだったのだ.

 さて,中山道や三国街道,東海道などの街道筋で親分の家に草鞋を脱いだ渡世人に,江戸のやり方で食事が提供される場合は,大盛の雑穀一膳飯 (江戸の外では白飯は普及しなかった) と漬物が出されただろう.江戸の流儀の夕飯であるから,おかずも汁もない.江戸流ではなく,北関東など貧しい土地の貧乏な親分のところでは,雑穀の雑炊だけだったかも知れない.私は長いことそう理解していた.
 笹沢佐保の小説を原作にしたテレビ時代劇『木枯らし紋次郎』でも,確かそんなシーンがあったように思う.
 ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.
(続く)

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2018年10月11日 (木)

フェイク報道

 昨日 (10/10) の日本テレビ『ザ!世界仰天ニュース』で《死者8人...住宅地でまかれた猛毒ガスの真実 》で,松本サリン事件の再現ビデオ映像が放送された.
 その中で,土谷正実元死刑囚がサリン合成の実験をする場面があったが,これは誤解を招く映像だった.
 下の画像で,土谷正実役の俳優が両手を差し込んでいる箱のようなものは,化学実験室なら必ず設置されているドラフトチャンバーと呼ばれる実験室用設備機器である.
 しかし,この設備ではサリンは作れないのである.サリンの合成実験は,完全に湿度ゼロの乾燥した雰囲気下で行う必要があり,そのためにはグローブボックスという設備を使用する.これはどの化学実験室にもあるというものではないが,市販はされていて,非常に特殊な設備というわけではないから,これを保有している大学や企業の実験室でロケさせてもらえばよかったのだ.
 
20181010a
 
 松本サリン事件発生の当時,警察やメディアは我が国の合成化学の権威者であった森謙治先生 (当時は東大農学部教授) を取材し,森先生からどのような実験室設備が必要であるかという情報を得て (森先生がテレビ局のインタビューに答える場面の報道を私は見た) おきながら,その情報を無視し,あたかもサリンを一般民家で製造できるかのごとき嘘報道の方向に突っ走った.
 あの時,警察が,森先生の説明を理解し,グローブボックスのメーカーのルートを調べ,その設備の購入者を捜査していれば,河野義行さんを犯人扱いすることはなかったのである.
 今回の『ザ!世界仰天ニュース』は,その時の教訓 (=サリン製造は特別な設備を必要とする) を全く理解せず,再び虚偽情報を日本中に拡散してしまった.
 この括弧付き「再現」ビデオは,松本サリン事件に関する基本的な事実の調査をせずに制作されたことが明らかである.従って《死者8人...住宅地でまかれた猛毒ガスの真実 》全体の信用性が疑われるのである.

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2018年10月 9日 (火)

『歴史ヒストリア』の誤謬

 文化庁ウェブサイトに《世界遺産(文化遺産)一覧 》がある.
 これをずらっと見ていくと,平成二十五年の《富士山―信仰の対象と芸術の源泉 》から《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》に至る毎年,連続して世界遺産リストに記載されていることがわかる.
 その一覧中には,昨年の《「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 》のように,ほとんどの日本国民にとって「何それ?」的なものが混入してはいるが,概ね国民的コンセンサスは得られていると思われる.
 昨日の記事に書いた『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』は,今年の七月に《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界遺産リストに記載されたことを受けて制作されたものに違いない.
 しかしこの番組の制作スタッフも,キャスターの井上あさひアナウンサーも《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》の意義を理解していないのではないだろうか.
 キャスターの井上あさひさんが大阪放送局ブログに載せた文章がそのことを示している.その文章の末尾の一節を引用する.

信仰と生活
 弾圧されていても、神父がいなくとも、立派な教会がなくても、続けられる信仰の形を見つけて脈々と信仰を受け継いでいく。信仰を守るために、生活の一部として密着させ、日々に溶け込むように信仰が営まれていく姿は、とてもナチュラルに感じました。
「信徒発見」以降も、隠れキリシタンの末えいの方々がその営みを続けていらっしゃること。あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきたこと。そういうことを知って味わう世界遺産の旅は、きっと格別なのではないでしょうか。

 井上さんは完全に誤解している.江戸幕府によってキリスト教が禁教とされたあと,元々からして正しくカトリックの教義を理解していたとは言い難い信徒たちは,教義の拠り所とすべき司祭を失い,その後,彼ら潜伏キリシタンの信仰は,神道および仏教と習合して変容し,奇怪な民間信仰と化したのであった.《脈々と信仰を受け継いで 》いったのではなく,変容したのである.
 だが,幕末から明治にかけて,再び神父たちは日本に戻ってきた.
 そしてその一人であるベルナール・プティジャンは,元治二年 (1865年) の三月,大浦天主堂を訪ねてきた潜伏キリシタンと遭遇した.これが,長崎に旅して大浦天主堂や浦上天主堂を訪れた人なら誰でも知っている「信徒発見」と呼ばれる事件であった.

 神父たちは,潜伏キリシタンたちが原罪も三位一体も知らず,彼らの信仰が異端化していることに驚いただろうし,潜伏キリシタンたちも自分たちがキリスト教だと信じてきたものが,そうではなかったことに愕然としたに違いない.

 だがこの時,奇跡のようなことが起きた.ローマ法王は潜伏キリシタンを異端視せず,彼らをカトリックの教義に立ち返らせることにしたのである.
 そして潜伏キリシタンたちの一部は神父たちの指導によってカトリックの信仰に復帰したが,父祖以来のキリシタン信仰を捨てなかった者たちがいた.
 その事情が《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産》公式サイトに述べられている.その《(Ⅳ)宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり 》の一部を引用する.

これにより潜伏キリシタンは、宣教師の指導のもとに16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰しようとする者、宣教師の指導下に入ることを拒み、引き続き集落内の信仰指導者を中心に従来どおり自分たちの潜伏キリシタン由来の信仰を続けようとする者(かくれキリシタン)や、様々な葛藤の末に、それまでの信仰から離れて神道や仏教に転宗しようとする者などに分かれた。

 潜伏キリシタンの一部はカトリックに復帰し,一部は信仰を捨てて神道や仏教に転宗したため,潜伏キリシタンの伝統的信仰はほぼ終わりを告げた.今もわずかに潜伏キリシタンの信仰を守る信徒が残っているとされるが,しかしやがて遠くない時期に,彼らの信仰の伝統は絶えるであろう.これが《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界「遺産」たる所以である.
 井上あさひさんは,神父とその信徒たちが建設した教会群について《あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきた》と書いているが,これまた全くの誤解である.実は,それらの教会は,潜伏キリシタンの伝統的信仰を捨ててカトリックに復帰した信徒たちのものであったのだ.彼女は,潜伏キリシタンたちが三派に分裂したことを知らないと思われる.
 番組の画面には,カトリックに復帰した人々の子孫と,潜伏キリシタンの信仰を捨てなかった人たちの子孫の両方が登場したが,彼らの父祖が,明治の初めに袂を分かったことについて何の説明もなかった.潜伏キリシタンについて予備知識のない視聴者は,わけがわからなかったであろう.
 
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》公式サイトは丁寧に書かれている.関心ある向きは,ぜひ全コンテンツを一読されたい.
 
[参考図書]
カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館,2014年)

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2018年10月 8日 (月)

絵踏みのこと

 自然科学の多くの分野は論理で構築されているから「昔,学校で習ったことと現在の教育内容が異なっている」ということはあまりない.ただし,そうでないものもあって,例えば栄養学の本に書かれていることは推測と仮説が非常に多いので,もっともらしい「定説」がいとも簡単にひっくり返るのは諸兄御承知の通り.
 人文系の学問も,そもそも論理に無縁の,言った者勝ちみたいなものが多く,例えば歴史学に基づいて書かれている中学や高校の教科書の内容は,時代と共にどんどん変化している.あまり出版物を読まない高齢者層は時代について行けないのが実情だ.

 先日 (10/7) 放送されたNHK『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』を観ていたら,首を傾げざるを得ない点があった.
 まず,記述に問題がある Wikipedia の項目を挙げる.それは Wikipedia【踏み絵】であるが,その中から下に少し引用する.

踏み絵 (ふみえ) とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教 (カトリック教会) の信徒 (キリシタン) を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏 (えぶみ、えふみ) と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い。

 この項目を編集した筆者は《本来、発見の手法自体は絵踏 (えぶみ、えふみ) と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い》と書いておきながら,項目名および記述において「本来」の呼び方ではない「踏み絵」を用いている.また《と呼ぶ場合も多い 》と根拠を示さない独自研究を書いているが,現在では,日本史の教科書を含む出版物や放送の分野では「踏み絵」ではなく「絵踏」とするのが一般的になっている.(例えば国立国会図書館のサイトにある,この資料 の二ページ目)

 ところが『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』では,キリシタン発見の手法を,昔の呼び方である「踏み絵」としていた.

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 不審に思ったので,理由を考えてみたのだが,もしかすると最近世界遺産に記載された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の関係者 (登録運動を進めてきたのは,たぶん高年齢層の人たちだろう) の間では,未だに潜伏キリシタン発見の手法を「踏み絵」と呼んでいるのかも知れない.それなのに「絵踏」という言葉を用いて放送すると,それらの人々からクレームがつく可能性があることを危惧したのかも知れない.
 NHKの公式サイトの他のコンテンツでは「絵踏」を使っているから,敢えて「踏み絵」を使用した理由は,クレームを事前に回避するためだろう.
 しかし,これから先,中学や高校で,潜伏キリシタン発見の手法を「絵踏」と教えられた生徒たちがテレビ視聴者の中で多数派になるわけだから,ここはやはり「絵踏」を用いて欲しかった.
 
[追記]
 ところで.上に掲載したテレビ画面の画像で,キリシタンを取り締まる役人たちが笠をかぶって居る.晴れた日に何ゆえに笠をかぶっているのか.それが不思議だ.また,その形の笠が天草辺りでは普通の笠であったのか.時代考証はどのようになっているのか,NHKは説明義務があるように思う.

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2018年10月 7日 (日)

マッカーサーの朝食

 このブログの更新が滞っていた時期のことだが,横浜港周辺を散歩するツアーがあったので参加してみた.
 某月某日,桜木町駅に集合したツアーの参加者は私を入れて五人だった.男は私ひとりで,残りの四人は女性である.あとでわかったのだが,その四人のうちで私より若いかたは一人だけだった.
 
 この街歩きの前に参加した芦田愛菜ちゃんのライブを観るツアーも女性ばかりだった.爺さんたちはどこにいるのだろう.
 この五人の参加者に,街歩きガイドさん (かなり御年輩の女性) とツアーコンダクタさん (若い女性) が同行する.
 まずは練習船「日本丸」が係留されているドックまで行き,ガイドさんの説明を受けた.このガイドさんは資料を入れたかなり分厚い透明ポケットファイルを持っていて,たった五人の私たち参加者は,その資料集を覗き込みながら説明を聞いた.耳から聞くだけではないので,大変にわかりやすい.人数が少ないことは,色々と行き届いて,参加者にとってはありがたいことだが,旅行代理店は,社員の人件費を計算に入れると赤字に違いない.しかしこれはたぶん所謂「健全な赤字」であって,いくつかの大手旅行代理店が,講演会とか街歩きとかの企画を充実させるマーケティングを行っているのは,それが海外や国内のツアーによい効果を与えるからだろう.
 
 みなとみらい地区に係留されているこの練習船は,正確には「初代日本丸」である.山下公園に固定されている「氷川丸」と共に,昭和という時代を今に伝える記念碑的船舶だ.ほぼ一ヶ月に一度,帆を上げて帆船としての雄姿を横浜市民にお披露目しているが,実をいうと私はまだ帆を上げた日本丸の姿を見たことがない.死ぬ前に一度,見ておきたいものだが,両船とも,いつまでもあるとは限らぬ. 
 この日は,「日本丸」の目の前にある「横浜みなと博物館」は休館日だったのでスルー.
 ここから遊歩道「汽車道」を辿り,「赤レンガ倉庫」に立ち寄った.倉庫前の広場では何もイベントをしていなかったが,しかし人生の残り時間がまだ五十年以上はありそうなカップルの若い人たちが,食事なのかショッピングなのか,大勢いた.
 私の残り時間はあと十年あるかないか.山田風太郎が『あと千回の晩飯』(角川文庫) に収められたエッセイを発表し始めたのは七十一歳の時だった.《晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う》とエッセイの冒頭に書いた風太郎は,実際にはもう少し飄々と長生きして,享年は七十九であった.
 同じ勘定をすると,私はあと三千回の晩飯を食うことになるわけで,三千回も食うのかと思うと,まだ当分は死なないという気がしてくる.実は十年なんてあっという間だと思うけれど.
 閑話休題.「赤レンガ倉庫」から「象の鼻テラス」は,ほんの少しの距離だ.この公園にある「象の鼻カフェ」でトイレ休憩と,水分補給.
 次に「ジャックの塔」と呼ばれている開港記念会館へ行き,入館してステンドグラスを見学した.この開港記念会館にはボランティアのガイドさんたちがいるので,ツアーではない一般の来館者でも詳しい説明をしてもらえる.横浜市民でもあまり知らない話を聞くことができるので,これはお勧めである.
 開港記念会館を出たところで,正午を回った.少し進行が遅れ気味だったので,ツアーコンダクターのお嬢さんは私たちと別れて,レストランへ「遅れる」と連絡するために先に昼食会場へ向かった.
 
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水の守護神像
 
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氷川丸を望む.
 
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木々の向こうにホテルニューグランドが.
 
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 ホテルの玄関 (↑) で,昼食をとる予定のレストランの人と,ツアーコンダククターさんが待っていてくれた.ここで街歩きガイドさんとはお別れ.
 
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イタリアンの「イル・ジャルディーノ」エントランス
 
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 ここに写っている室内写真の窓際の席に案内された私たちのランチは,肉料理のAコースで,厚く切ったローストビーフだった.ローストビーフもよかったが,デザートのケーキ (たぶん日替わり) が出色の出来で,スイーツを好きな女性はたまらんだろうと思った.
 食事のあと,ホテル従業員のお嬢さんが,館内のガイドをしてくれた.普段は別の仕事をしているだろうこのお嬢さんは,まだホテルに就職したばかりという感じの初々しい娘さんであった.
 彼女は,ちらりちらりと資料に目を遣りながら,時々絶句したり,漢字を読み間違ったりした.しかし私たちは,彼女の絶句をにこにこと見守り,誰も彼女の誤読を訂正しなかった.ツアー参加者にとってみれば彼女は孫みたいな年頃だからである.漢字の読みなんかは,どうせいずれ先輩が教えてくれるに違いない.若い娘さんというものは,それでいいのである.男だったらびしびし指摘するが.おいおい.w
 
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中庭の噴水
 
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 中庭にはイル・ジャルディーノのテラス席がある.希望すればここで食事できるという.

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 ホテルニューグランド旧館は,エントランスを入るとすぐに階段があり,階段を上がったところに昔はフロントがあったという.
 その旧フロントに向かって右側奥に「レインボーボールルーム」が,左側の突き当りに「フェニックスルーム」がある.
 大正十二年 (1923年) の関東大震災で瓦礫と焼け野原の街となった横浜に,復興のシンボルとしてホテル建設の構想が立てられた.その中心となったのは当時の有吉忠一市長だった.彼は今で言う第三セクター方式で資金を調達し,昭和二年 (1927年) 十二月にホテルニューグランドは開業した.
 ホテルの名称を市民に公募したところ,最後まで残ったのは「ニューグランド」と「フェニックスホテル (ホテルフェニックスかも知れない)」だったそうである.
 結局震災以前に山下公園の前にあった横浜を代表するホテル「グランドホテル」を蘇らせる意味で「ホテルニューグランド」が採用されたのだが,横浜復興の象徴としては「フェニックス」も捨てがたいとして,宴会場の名に遺された.
 
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フェニックスルームのドアの上に掲げられているルームネームプレート
 
 下の写真は,もう一つの宴会場「レインボーボールルーム」の前の柱に接して置かれた開業以来の椅子 (下の写真) であるが,これは腰かけると幸せになるとかいうパワースポットなんだそうである.そろそろお迎えが来る歳になって今更ではあるが,寝たきり防止に効果があるかも知れないから,私も腰かけてみた.
 
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 二階を案内してもらったあと,ホテル側のガイド嬢としばし質疑応答.
 私は例の「マッカーサーズ スイート」は見せてもらえるのか問うたところ,「マッカーサーズ スイート」は,ほぼ通年,予約がぎっしり入っているので,まず部屋の中を見ることはできないとのことだった.続いて宿泊料金を訊いたら,一泊三十万円近いという.
 戦後,厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは,東京に行く前にここで三泊しているから,今かつてのマッカーサーと同じことをすると,百万円近く要することになる.
 
マッカーサーは戦前,ホテルニューグランドに二度滞在したことがあり,そのうちの一度は新婚旅行だった.そんなことから,お気に入りのホテルであったと思われる.厚木で占領声明を読み上げたあと,どこに行くかと指示を聞かれたマッカーサーは「ホテルニューグランドへ」と答えたそうだ.
 ちなみに,マッカーサーがホテルニューグランドに到着し,ホテルを米軍が接収した日の彼の夕食は,貧しい魚料理だったそうだ.戦後は東京も横浜も,都市部は極度の食糧危機の状態にあり,ホテルはとてものことに食事を提供できる状態になかった.それでも占領軍司令官に何とか一皿を出したのだが,元帥は一口食べて,あとは残したという.それほどに粗末な料理しか出せなかったレストランのシェフの心中は察するに余りある.
 そのときマッカーサーは,翌日の朝食の卵料理に注文をつけた.それはサニーサイドアップを二つと卵一つのスクランブルドエッグであった.指示を受けたホテル側は,必死に卵を探したが,卵は一つしか手に入らず,しかも朝食には間に合わなかった.
 その日の昼,皿に載せられた僅か一つのサニーサイドアップを見たマッカーサーは,シェフを呼び,一個しかない理由を問いただした.シェフは,命令を受けて必死に卵を探したが,これしか入手できなかったと答えた.
 このエピソードは,現在のホテルニューグランドが用意している宿泊客向けパンフレットには記載がなく,次のように書かれている.
 
ホテルニューグランドでマッカーサー元帥を迎えたのは、当時の当ホテルの会長、野村洋三でした。野村は、マッカーサーに何のおもてなしもできないことを心から詫びるとともに、日本の窮状を流暢な英語で訴えました。横浜全域が空襲で焼失したこと、老人や女性、子供たちが食糧難にあえいでいること、また市民の不安など…。野村の言葉に、マッカーサー元帥は気軽に耳を傾けたそうです。そして、かつては日本を代表したホテルが扇風機ひとつ、ハンバーガー一つ用意できない惨状からも市民の窮状を察したのでしょう。数日後には、横浜市民のための大量の物資を用意してくれたといいます。
 
 しかし上述したマッカーサーがオーダーした朝食の卵料理のエピソードは,ガイド嬢が持っていた内部資料には書かれているようで,彼女の口から聞くことができた.おそらく事実であろう.
 伝聞でものを書くブロガーの常であるが,このブログ《マッカーサーの目玉焼き 》は,次のように話を大盛に盛っている.
 
《「無いんです。横浜中を探し回りましたが、この卵ひとつしか手に入りませんでした。」
この瞬間、マッカーサーは日本の置かれている悲惨な状況を、正確に把握したと言われています。
成人男子の必要な栄養は1日約2500カロリー。
終戦直後の栄養摂取量は
一日わずか1200カロリーにしか満たない状況であり、
町中に栄養失調や餓死者が溢れていました。
『横浜中を走り回って、たった一個の卵しか手に入らない・・・・・・』
マッカーサーは、この日本の悲惨な食糧事情について、すぐさま本国に報告書を送り、わずか三日後には軍艦より大量の食糧が陸揚げされることとなりました。
『即決の人』マッカーサーに判断をうながした一皿の目玉焼き。
そんなエピソードです。
 
 もっともらしい嘘とはこのことだ.どこから写したか知らぬが,このブロガーは,戦後日本の食糧事情と栄養学をもう少し勉強したほうがいい.一日に 1,200kcal も摂れれば《町中に栄養失調や餓死者が溢れ 》るわけがない.医師からエネルギー制限食事療法を指示された糖尿病患者には,このくらいのエネルギー摂取で暮らしている人たちが日本中にゴマンといるのである.
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 それから,このブログのコピーを上の画像に示したが,《朝食に目玉焼きをたのむ。2つ目玉のヤツを 》は嘘である.マッカーサーが所望した卵は三個だからね.そのことはホテルニューグランドが保存している資料に書かれている.コピペする時は信用できそうなブログから剽窃するように.w
 また,別のブログ《平和への一歩?…》には,こんなことが書いてある.
 
マッカーサーは料理人を呼び出し問いただし、帰ってきた答えは
『私は将軍(マッカーサー)から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵をひとつ手に入れることができました。』
と答えたのです。
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき
〈原文のママ〉仕事を理解したと言われています。
つまり、日本がポツダム宣言を受け入れ、ようやく平和な世の中になりつつあるこの状況で卵1つ手に入れることも困難な世の中なのだということを痛感させるエピソードでした。
ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです。

 
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ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです  》ってあなた,事実であるという根拠のない話を書いていいのか.それを嘘と言うのだ.
 
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき仕事を理解したと言われています。》って君,誰からそんなヨタ話を聞いたのだよ.出典を示せ,出典を.
 
 昭和史の常識として,Wikipedia【連合国軍占領下の日本】くらい読みなさい.
 
日本への食糧・物資援助と貸与

初期対日方針
連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
食料輸入禁止
占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
1945年(昭和20年)9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。本国が大きな戦争被害を受けていたイギリスや中華民国、ソ連などは日本に食料を輸出する余裕はなく、またアメリカは世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
》 (下線と文字の色は当ブログの筆者による)
 
 上に引用した記述にあるように,終戦直後,マッカーサーも米国政府も,日本に食糧支援する気はさらさらなかったのである.それどころか,日本政府の食糧輸入を禁止したのであった.
 しかし占領開始翌年の二月になって,ようやく日本の危機的食糧事情を理解したGHQは,方針転換に踏み切った.再び Wikipedia【連合国軍占領下の日本】から引用する.
 
米国からの食糧輸出解禁
1946年(昭和21年)2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」とアメリカ政府に抗議した。3月にアメリカの農務長官クリントン・プレスバ・アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5月から10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。

 
 GHQの方針転換と,日本政府の食糧輸入を禁止する米本国政府の占領政策に対する抗議が受け入れられたのは,言うまでもなくこの年の五月の《食糧メーデー》の結果である.宮城前広場に二十五万人が集結して食糧要求を訴える集会を行った翌日,ここに至ってようやく占領政策の修正を決断したマッカーサーは,吉田首相に対して,アメリカが日本に食糧支援をすることを約束したのであった.従って,マッカーサーがホテルニューグランドに滞在したときの目玉焼きが,戦後の食糧支援を決定づけたなどというのは,大嘘なのである.ホテルニューグランドのパンフレットが,マッカーサーの朝食の話に触れていないのは,世間に流布しているこの嘘話に加担せぬための配慮だと思う.
 上に挙げた二つのブログは,《『即決の人』 》とか《すべき仕事を理解した 》などと,知りもせぬことについて見てきたような嘘を広めてはいけない.反省しなさい.
[関連記事] 終戦直後の食糧事情について記す.
 昭和三十八年のクリスマス
[追記]
 ホテルニューグランドの見学が終わってツアーが解散したあと,私はホテルのショップで,お土産にクッキー (Sサイズ) を買った.このクッキー,あまり知名度は高くないが,安くてなかなかおいしいので,特にここに記しておく.

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2018年10月 6日 (土)

竹崎季長の真情

 昔からNHKは,歴史的事件に材を取った番組が十八番である.現在,水曜日に放送されている『歴史秘話ヒストリア』の前身のような番組『その時歴史が動いた』は,気合の入った番組として知られていて,Wikipedia【その時歴史が動いた】には,
 
番組の再現映像が教育テレビの学校放送で使用されたりもした。さらに毎回ではないものの、歴史上名高い建築物や戦場・場面(安土城、ミッドウェー海戦など)を質の高いCGで再現した。
 
NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、同番組の制作費は1回につき1,650万円掛かる。
 
と書かれている.
 
 先月 (9/19) 放送された《歴史秘話ヒストリア 蒙古襲来の真実 鎌倉武士 最強の秘密 》の中に蒙古の軍勢が描かれている場面があり,その一部をテレビ画面撮影してトリミングしたものを下に掲載する.
 
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 この中央部分の一部を拡大した画像が下のもの.

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 これは,どこかからもってきた実写の資料映像なのか,それともCGなのかがよくわからない.
 ネット上に掲載されている現存のモウコノウマ (蒙古野馬;絶滅種) の画像と比較すると,頭部がかなり小さく,脚も細い.またも口の部分も白くないところが異なっているので,上に掲載した蒙古兵が騎乗している画像は,サラブレッドなどを基にして描かれたCGであるように私には思われるのだが,本当はどうなんだろう.ここに描かれた蒙古兵が持っている刀も,ネット上にある蒙古の刀と比較すると少々刃渡りが長すぎるように思う.
 しかし仮にこれがCGだとすると,刀剣のことは別として,下に挙げた絵画史料に描かれた元寇当時のモンゴル産馬 (モウコウマ=蒙古馬;ポニーに分類される小型馬であり,日本産馬の原種) の体格はよく表現していると思われる.
 
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(Wikipedia【モウコウマ】から引用;パブリックドメイン画像である)
 
 さて,歴史秘話ヒストリア 蒙古襲来の真実 鎌倉武士 最強の秘密 》は,「蒙古襲来」に関して最近の研究成果をいくつか紹介した.その一つに,肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせた蒙古襲来絵詞が,何のために描かれたのか,ということがあった.
 Wikipedia【竹崎季長】には次のように書かれている.
 
弘安4年(1281年)、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年(1293年)には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があると考えられている。》 (下線は当ブログの筆者が付した)
 
 しかし番組では,蒙古襲来絵詞は,文永の役と弘安の役で竹崎季長を指揮した少弐景資と安達盛宗への恩義に基づく鎮魂ではなく,竹崎季長と共に蒙古の襲来を迎え撃った「戦友」であるその他多くの御家人たちへの鎮魂であったとした.

 鎌倉武士の行動原理は「御恩と奉公」(主従関係) であるとされる.しかし,季長が蒙古襲来絵詞を甲佐大明神へ奉納したのは,今は滅んだかつての主たちへの奉公だけではなく,同じく既に世を去った戦友たちへの鎮魂だったとする見解も理解できる.果たして竹崎季長の真情はどちらであったのか,私は戦友鎮魂説の肩を持ちたい気がする.

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2018年10月 5日 (金)

思い立ったが吉日ではあるが…

 今月は湖北の国宝仏像を観に行くし,年末はアンコールワットへのツアーを申し込み済みなのだが,十一月はよい季節なのに旅の予定がないので,突然思い立って近畿方面に旅行することにした.目的地は京都伏見の醍醐寺と近江の竹生島である.

 何はともあれ宿泊予約が取れるかどうかだ.
 そこで色々と探しまくったのだが,十一月は近畿圏観光のハイシーズンだから,希望日にはミドルクラスのホテルは満杯 (喫煙ルームは少し残っていたが) で,結局某所の東横インしか空いてなかった.残念だ.
 東横インの何が残念かというと,その無料朝食だ.
 有料朝食バイキングの提供は,ホテル経営上のコストアップ要因だからこれを実施せず,その代わりに簡単な無料朝食を提供することにより宿泊料金を低価格帯にするというホテル側の経営方針は理解できるが,しかしそれは必然的に,朝飯なんかとにかく口に入ればいいのだとするビジネス客向けの格安プランとなる.

 観光旅行では,私はちゃんとした朝食を食べてから出かけたい.その点で東横インとかルートインには,できれば泊まりたくないなと思う.現役会社員だった頃の出張で,止むを得ず何度か泊まった九州のとあるルートインは,朝食会場は地下の窓のない陰気な狭い部屋だった.w
 これらと同じ低価格帯のホテルでも,もう少し好感度の高いのは各地にあるが,そういうホテルはすぐ一杯になってしまう.
 予約の取れた某東横インの口コミを検索すると,件の無料朝食に関する悪評だけでなく,アメニティグッズもかなり貧弱らしい.やはり秋の関西旅行で,一ヶ月前にホテルを予約しようというのは無理があるのだなあ.

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2018年10月 4日 (木)

つきじ治作流作法 (更新)

 昨日の話の続き.
 私のような年寄り世代の者は,子どもの頃に「敷居を踏んではいけない」と躾けられた.
 昔は日本人のあいだにそのようなコンセンサスができていたのであるし,今でも茶道や華道の習い事をする人たちはその種の作法を身に着けていると思うが,ワンルームマンションとか,あるいは和室のないマンションに住んでいる若い人たちは,そもそも「敷居を踏んではいけない」なんて作法は知らないかも知れない.

 この「敷居を踏んではいけない」は,古くからある作法である.小笠原流礼法三十一世宗家の小笠原清忠氏によると,これは木造家屋の構造を大切にするということが真意であるという.(《畳の縁は本当に踏んではいけないのか?》) 
 引用した文中で小笠原清忠氏が説く「家屋の構造云々」という説の当否はともかくとして,この作法「敷居を踏んではいけない」を心得ておかないと,室内へ進む動作が美しくなく,日本家屋の他家を訪問した際に恥をかくことになるのは間違いない.

 それでついでのことに,玄関の作法を解説する動画があるかと思って調べてみた.
 すると東京では有名な高級料亭「つきじ治作」が《やさしいお作法 1 靴をぬぐとき 》と《やさしいお作法 2 敷居を踏まない 》と題した動画を公開していることがわかった.「つきじ治作」は,先日放送が終了したテレビ東京『和風総本家』が十年にわたって番組収録を行ったことで知られる料亭である.(近く『二代目 和風総本家』が放送スタートする)

 まず《やさしいお作法 2 敷居を踏まない》に下の場面がある.(これは引用のために YouTube の画面をハードコピーしてトリミングした画像であり,ダウンロードした動画データの違法な加工はしていない)
 
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 上の場面は玄関の三和土から靴脱ぎ石で靴を脱ぎ,次いで式台に上がろうという場面である.
 動画のキャプションに《お宅へ訪問~お部屋までの道のり》とあるが,この玄関は明らかに一般住宅の玄関ではない.男性の左後ろに暖簾の掛かった通路のようなものがあるところをみると,ここは料理屋である.暖簾の向こう側は,たぶん客の送迎を担当している従業員の控えている部屋で,そこには下駄箱があると思われる.私は「つきじ治作」で飯を食ったことはないから知らぬが,「つきじ治作」の玄関かも知れない.
 さて画像の男性は今,靴脱ぎ石の上に立っている.このあと,男性は式台に上がるが,本来はその時,式台に膝をついて脱いだ靴を揃えるのが,一般家庭を訪問する時の作法である.しかし男性はずんずんと進んで行ってしまう.これは《お宅へ訪問》ではなく,料理屋に上がる際のやり方である.脱いだ靴は下足番の従業員が下駄箱に運んでいってくれるからだ.
 動画のシーンとキャプションが食い違っているのに放置されているのは,「つきじ治作」側が動画制作を業者に丸投げし,出来上がった動画を監修していないからだろう.また,ネットに上げられたこの動画を,経営者も従業員も,誰も見ていないことが明らかである.

 ところでこの動画には不可解な点がある.下の画像中に描きいれた左側の↓に紳士靴が写っているのだが,そこは式台からは手が届かない.靴は右足側が通路にはみ出ている.脱いだ靴を揃えて玄関下座に置く時は,もっと式台に近い位置になるはずだ.
 また,その靴は男性が履いていた靴ではない.なんとなれば,男性は靴脱ぎ石で靴を脱いで,そのまま先に進んで行ったからである.
 一体これは誰の靴なのであろうか.そして通路にはみ出して置かれているのはなぜなのだろうか.
 さらに,右側の斜め下向き矢印の先に移り込んでいるものは何か.よく見ると,従業員が履く木のサンダル (通称「ベランダサンダル」という.大昔は旅館のトイレなどでも使われたので,「便所サンダル」とも呼ばれたが,現在はゴム製の通称「ベンサン」に駆逐されてしまった w) のようにみえる.その位置に 便所 サンダルなんぞを置くから,紳士靴が通路側に置かれてしまうのである.
 
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 さて次の問題点を指摘する.
 上の画像を見れば明らかだが,紳士靴と 便所 サンダルが置かれている辺りが玄関下座である.そしてその対面が玄関上座だ.
 
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 上の画像は,《やさしいお作法 1 靴をぬぐとき》から撮ったハードコピーである.この場面の左端に写っているものを下の画像に示す.
 
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 やはり 便所 サンダルにしか見えぬ.w
 それはともかく,モデルの男性は靴脱ぎ石の上で靴を脱ぎ,次に式台の上で膝をつき,その靴の向きを正す動作を行う.それが下の画像だ.
 
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しかしこの場面には,トンデモナイものが写っている.下の画像に↓で示す.
 
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 ここに乱雑に置かれているのは,女将や中居が客を送迎する時に履く草履と思われる.しかもそこは玄関上座だ.別段高級店でなくても,経営者がきちんとしている店では,下座 (この場面では 便所 サンダルが置かれている位置) に小さな従業員用の下駄箱があり,そこにしまわれていることが多い.
 ともあれ,作法を説く動画に, 便所 サンダルや向きの乱れた草履が写り込んでいるのはいただけない.というか,そもそも客商売の料亭が,作法を説くという,所謂「上から目線」な態度はいかがなものか.どうしてもエラソーに作法を説きたいのであれば,まず玄関をきれいに片づけてから撮影し,専門家の監修を受けてからネットに上げるべきだ.玄関の整理整頓は作法以前の問題である.

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2018年10月 3日 (水)

皆で日本を守るのだ!

 体調ならびに多忙等諸般の事情でブログ更新が滞っていたが,復調しつつあるので,少しずつ書いていきたいと思う.
 まずは昨日のテレビ番組から.
 昨日 (10/3) 放送されたテレビ東京《なぜ、あの歴史は消えたのか?【鑑定団の今田&福澤が歴史の新常識に迫る】 》は,半年前にも放送された特番の続編だ.内容的には,知っている人は知っているぞという話題ばかりで,特に新味はなかったものの,まあまあ面白かった.
 特に女癖が最低な男であった勝海舟の妻の民子について,これまでは Wikipedia【勝海舟】にあるように

妾とその子と同居であったが、正妻・民子は異腹の9人の子供を分け隔てなく可愛がり、屋敷の人々から「おたみさま」と呼ばれて慕われた。だが民子は遺言で「勝のそばに埋めてくださるな。わたしは小鹿のそばがいい」と言い残したが、遺言の希望は聞き入れられず養子の精の一存で海舟の隣に葬られてしまった。》 (ブログ筆者註;小鹿は早世した長男である)

とされていた.しかし実は,民子は遺言通り一旦は青山墓地に埋葬されたのだが,洗足池公園内にある海舟の墓の隣にあとで移されてしまったのだという.これは初耳だった.
 だが改めて調べてみたら,大田区の公式サイトに,このことはちゃんと記載 (↓) されていた.テレビのエンタメ番組に教えられたわけで,これは勉強になった.

勝海舟(1823年から1899年)は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えました。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。妻である民子の墓は、後に青山墓地から移設されました。区指定文化財。

 海舟の仕打ちに耐える一生であった民子は,夫と同じ墓に入りたくないという現代日本の妻たちの先駆者であった.しかるに今は遺志に反して勝の隣に眠っている.さぞや草葉の陰で無念の思いでいることであろう.

 この番組はそつなく作られてはいたが,ただ一点,苦言を呈しておきたいことがある.
 それは,安政元年 (1854年) 正月にペリー艦隊が再来した際に,ペリーとの交渉役に幕府から任命された林復斎が,再現ドラマに登場する場面である.
 下の画像を見て頂きたい.

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立っているのが林復斎

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「憶することは無い!」が邪魔であるが,復斎が立っているのは…

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敷居の上である.w
 
 このシーン,三人揃いも揃ってこんな時代考証無視の演技をする役者たちも役者たちだが,編集段階で制作スタッフの誰も
気が付かなかったのか.
「皆で日本を守るのだ! 敷居を踏まずにな!」 ww

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