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2018年9月 4日 (火)

江戸,東京の味 (五)

「徳川家康が行った土木工事に従事した労働者は一日に玄米一升を食べた」説をブチかましたあと,永山久夫は「それほど大量に玄米飯を食うためには,味の濃いおかずが必要であった」と述べた.いよいよ妄想に拍車がかかったのである.

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永山が言う「味の濃いおかず」とは何か. 

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 当時,江戸の農地で栽培されていた大根を塩漬けにしたものと佃煮であるという.

 だが,上の画像に示されている佃煮は,江戸時代の初期には,まだなかったのである.
 現在の東京都佃島あたりでとれた小魚は,塩で煮て (名称はそのまんま「塩煮」と呼ばれていた) 食べられており,醤油と砂糖で甘辛く煮詰めることによって保存性を高めた佃煮が考案されたのはもっと後,幕末の頃である.第一,関東で濃口醤油が製造されるようになったのは,寛永年間 (1640年頃) のことで,家康の死後,三十年近く経った時代のことである.しかも寛永の頃は,醤油はまだ貴重品であり,庶民は専ら塩,味噌,梅干し,酢,酒などを材料にして酢味噌や山椒味噌あるいは,煎酒 (いりざけ;酒に梅干しと削り節を加え,煮詰めて漉したもの) を拵えて調味料としていた.濃口醤油と砂糖で煮詰めた佃煮が登場したのは醤油の製造量が増えて安価になった江戸時代の後期である.それ以前の時代は,刺身も醤油ではなく煎酒をつけて食べられていたし,蕎麦のつけ汁も味噌味だった.
 
 永山久夫は,塩分の多い佃煮や大根の塩漬けで大量の玄米を食べる食事スタイルを,土木工事を早く進めるために徳川家康が考案したのだと述べた.しかし実際にはその時代,玄米が主食として食べられていた事実はなかったし,現在の私たちが食べているような佃煮は,家康の時代にはまだ存在していなかったのである.
 
 余談だが,江戸以外の地方で当時の主食であった五分搗き米や,江戸で食べられていた精白した米を,「玄米 (実は一分搗きの米であった) に換算して何合」ということは江戸時代からあった.土地の生産性を表す「石高」は玄米の体積で計算されていたし,武士の扶持米も玄米換算であった.ちなみに標準の扶持米は,成人男性の武士で一日に玄米換算で五合であった.体力勝負ではない武士が実際に食べる量はもっと少ないから,扶持米五合との差が換金されて,米以外の生活費に充当されたのである.
 また宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ト」の四合もおそらく玄米換算での話である.ただしこの時は既に,籾から籾殻を外すのは,杵と臼とで行ったのではなく,機械式だったから,「アメニモマケズ」に書かれた玄米は現在の玄米と同じ品質だったと考えられる.そして搗精歩留を90%とすれば,宮沢賢治が口にしたのは日に三合五勺ほどであったろう.
 
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 逝去後は神君として崇められた徳川家康公を,恐れ多くもこの永山という男は,飯場で土方たちの飯の手配をする工事現場監督であるかのように言うのである.国家統治の頂点に立つ為政者が,天下国家の重大事を横に置いて,「佃煮は御飯が進むのう」などと暢気なことを言っていたはずがない.w 無礼者めが,世迷言もいい加減にするがよい.w

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