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2018年9月 2日 (日)

江戸,東京の味 (三)

 昨日の記事の続きを書く前に,この連載の最初,一昨日の記事に《農水省は「一汁三菜が日本の基本的食事スタイルである」という大嘘をついて 》と書いたことの補足をしておく.
 日本人の食事に副菜が付くようになったのは,古い話ではない.江戸時代はもちろんのこと,今の高齢者はよく知っているように,戦後の経済成長期以前の庶民の食事は米飯に偏重した「飯と汁と漬物」が基本だった.
 近代の我が国の食事風景は,探せば写真資料がたくさん見つかるから,ここでは江戸時代の史料を掲載する.下の画像は,歌川国芳が歌舞伎の場面を描いた浮世絵「美盾十二史 申与次郎」である.
 
Photo
国立国会図書館所蔵
国立国会図書館デジタルコレクション;インターネット公開 (保護期間満了)

 
 ここに描かれている男 (申与次郎) が肘をついているのは飯櫃である.彼の前に置かれた膳 (足付折敷) の上には,箸と飯椀と漬物の小皿が載っている.膳の横の黄色い皿にも,取り分け用の箸があるところを見ると,漬物が入っているようだ.江戸時代の江戸市中では火事を恐れて一日に朝一度しか炊事をしなかった (為政者に禁じられたこともあったという) から,朝飯以外は冷や飯を食べた.この絵は,飯櫃から冷や飯を飯椀に盛り,土瓶から番茶を注いで茶漬けにして食べているところである.
 江戸時代に書かれた『守貞謾稿』によれば,庶民の食事は,朝に飯を炊いて味噌汁を付ける.昼飯は冷や飯に野菜か魚のおかずを一品添える.夕飯は簡単で,お茶漬けと漬物を食べるとある.
 関西,特に,京都は古くからの食文化が残されていて,東京の人たちの食事に毎度毎度,汁が付くのに違和感があるという人が多い.私の生まれは群馬の田舎で,京都と一緒にするのは恥ずかしいのであるが,やはり味噌汁は朝のものであった.毎度の食事に汁が付くのは,古いことではなく,「定食屋」ができてからの食事習慣だろう.「飯と味噌汁と漬物」がワンセットで,これにおかずが付く形ができたのである.
 
 さて本題に戻る.
 森田美由紀アナが「徳川家康は現在の静岡県中部にあたる三河の国を治めていた」とナレーションした (もちろん森田さんは原稿を読んだだけで,永山久夫がそう言わせたのだ) のを信じてしまったサイトを例示する.管理者が誤りに気付いて修正するかも知れないので,下の二枚の画像はスクリーンショットをトリミングしたものである.
 一つは《What an Interesting World 》というテレビ番組内容紹介サイト.
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 もう一つも《チコちゃんクイズ 》という番組内容紹介サイトである.
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20180902b
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 悪貨が良貨を駆逐するに似て,誤情報は正しい知識を駆逐する.永山久夫が全国放送の人気番組で嘘を吐いたせいで,三河は静岡県中部のことになってしまった.三河の人々はNHKに抗議されたい.
 
 さて永山久夫は次のように続けた.
 秀吉が家康を関東に移したのは,家康の財力を削ぐためであったとされているが,
「しかし家康は奮起して,荒れ果てた江戸城の再建と街づくり,湿地帯である領地の治水工事に取り掛かり,そのために全国から大勢の労働者が江戸に集まった」
 
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20180902d
 
20180902e
 
20180902f

20180902g
 
20180826h
 
 家康の行った大工事は二つに分けなければいけない.
 豊臣秀吉の命で関東の領地に封じられ,そこで最初に行った江戸城再建工事と,関ヶ原のあと政権を掌握したのちに行った江戸城拡張工事,通称「天下普請」である.
 地理を知らないだけならともかく,高校レベルの日本史も知らない永山久夫は,この二つを一緒くたにして,上に挙げた画像のように,江戸城再建工事に全国から労働者が江戸に集まったとした.(クイス監修者がここまで無知であると,視聴者は呆れながら番組の進行を観ているほかはない)
 しかし最初の江戸城再建工事では,まだ家康は大名の一人に過ぎないから,他の諸大名が治める全国各地から勝手に労働者 (=農民) を集めることは不可能 (*脚註) で,自分の領地,関東で調達するしかなかったであろう.
 
 ところが江戸城の拡張工事である天下普請では事情が異なった.徳川幕府の事業だからである.「全国から大勢の労働者が江戸に集」められた大規模工事は慶弔八年 (1603年) から万治三年 (1660年) まで数次にわたって行われたのだが,家康と,これに続く二代将軍徳川秀忠,三代将軍徳川家光は普請を命じたのであって,実際に普請を行ったのは諸大名であった.従って自領の農民を労働力として調達し,彼らに食事を供給したのは諸大名であった.天下普請は,諸大名を経済的に疲弊させる意味合いを持っていたであろう.
(続く)
  
*脚註;Wikipedia【逃散】から引用する.
江戸時代には、逃散した百姓が都市部へ出て、安い賃金で生活することが一般に見られた。生産者である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者(幕府、大名、旗本ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、移住も原則として認めなかった
 上に挙げた画像の最後に《江戸に大勢の労働者が集まった》とあるが,農民たちが職を求めて自発的に江戸に集まったわけがない.農民たちに移住の自由はなかった.すべて大名が自国の領民を江戸に徴集移動して働かせたのである.
 

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