江戸,東京の味 (八)
昨日の記事の続き.
永山久夫によれば,十八世紀の江戸では,庶民が白米を炊いた飯を食べるようになり,同時に刺身が流行したという.そして《刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張した.
だが,濃口醤油の製法がいつ頃考案されたかについては定説がないのが実際のところである.Wikipedia でも,醤油関連の諸項目において,まちまちな説を挙げている.ただし,キッコーマンは濃口醤油の起源について明記していないが,公式サイトのコンテンツ《しょうゆのすべて》に次のようにある.
《1697年(元禄10年)刊行の『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」とありますが、1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の2種があり、市販されているのはみな小麦を原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。》
またヒゲタ醤油は
《1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させた》
としている.これから推測すると,濃口醤油の起源は,銚子で1700年頃ではないかと思われる.しかし大豆と小麦を原料とする現在の濃口醤油の前段階に,大豆と大麦が使われた醤油があり,これを濃口醤油のプロトタイプとすれば,濃口醤油の起源はさらに四十年ほど遡ることになる.
いずれにせよ濃口醤油は,江戸に刺身が広まるよりも前にあった.
また永山久夫は《刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張するが,当然ながら濃口醤油は万能調味料であり,特に刺身のために開発されたものではない.
永山は,濃口醤油は刺身のために考案されたとし,さらに上の画像に書かれているように「魚と白米と濃い口しょうゆの組み合わせは江戸前ずしを生み出した」とした.
それはとりあえずよしとして,ここまで延々と江戸の味付けはなぜ濃いのかという話をしてきたにもかかわらず,ここで唐突に森田美由紀アナのナレーション (もちろん永山久夫の主張を読み上げているのである) は
《…組み合わせは,江戸前ずしを生み出しました.こうして関西の薄味文化にたいする関東の濃い味文化が定着したのです 》
と語った.論理的には「こうして江戸の濃い味文化が定着したのです」となるはずだが,何の説明もなく「江戸の味」を「関東の味」にすり替えてしまったのだ.あっと驚く展開だ.まさかこんなデタラメがなされるとは,全国の視聴者の誰一人として思ってもみなかったのではないか.
江戸で生まれた食べ物の代表格は,登場順に,蕎麦,鰻,鮨,天ぷらである.どれも最初は屋台で立食いする下衆の食いものだったが,やがて鮨と天ぷらは洗練されていった.
東京の蕎麦やうどんを「色は真っ黒で味は濃くて,これは人間の食い物じゃない」とまで激しく貶す大阪人でも,江戸前鮨を「味が濃くて,人間の食いものじゃない」とは言わない.そんなことを言われたら,江戸前鮨の職人は怒るに違いない.「大阪の鮨は薄味なんかいっ」と.
また東京風の天ぷらは胡麻油の風味が特徴だが,その強い香りを嫌う関西人でも,「東京の天ぷらは味が濃い」とは言わない.
要するに,「江戸前鮨は味が濃い」と主張する永山久夫は,(1) 東京 (江戸) と関東の区別ができていない,(2) 「味が濃い」の意味がわかっていない.
自ら番組中で「濃い味が好きだ」と白状した永山↓は,
きっと,酢〆の小鰭だろうが昆布〆の白身だろうが,握り鮨のシャリを醤油にどっぷり漬けて濃い醤油味にし,せっかくの職人の仕事を台無しにして食べているのだろう.w
ちなみに江戸時代の握り鮨は,旨味のある赤酢 (粕酢) で酢飯を作り,ネタにも仕事がしてあるので,当時の人々は醤油をつけずに食べていたという説が有力である.
(続く)
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