江戸期の妻たちの戦争
杉浦日向子『杉浦日向子の江戸塾』などを読むと,如何に初期の江戸が男ばっかりの都市であったかがわかる.例えば十二軒の長屋があるとすると,女房がいるのはそのうちの一軒か二軒で,あとはすべて独身者だったという.
こうなると当然,力関係は女房が強いということになる.『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』の,杉浦日向子と林真理子の対談から下に少し引用しよう.
《杉浦 かかあは人間を超越して、床の間に飾って日夜拝んで磨いておくような縁起物なの。持ってるだけで幸せというようなね(笑)。だから、上座に座るのは、"かかあ"のほうです。》
しかも,妻子を食わせるのは男の甲斐性であるが,女も仕事をしている場合は,その収入は女房のものだったらしい.
もしも亭主の稼ぎが悪いと,女房はほかに男を作って,亭主を離縁してしまう.おもしろいのは,その際に亭主は,女房に三行半を強制的に書かせられてしまうという点だ.つまり三行半は,離婚証明書なのであり,これがあれば女は意気揚々と再婚できるのである.
形式的には男が女房に三行半を書いた格好であるが,実際には妻に離縁されたかわいそうな元亭主は,着の身着のままで長屋を出ていくのだという.長屋に住む権利は,かかあのものなのだ.w
男が女にプロポーズして所帯をもつとき,男は櫛をプレゼントするのだそうだ.そして離縁のとき,女は元亭主にその櫛を投げつけるのだという.男はその櫛を質に入れて,その日一泊の宿賃にするというから情けない.
従って,こんなことにならぬよう,亭主は常に女房殿の顔色を伺いながら,決して妻の逆鱗に触れぬようにしていた.
基本的に江戸では,朝に一度炊飯するだけで昼と夜は冷や飯を食う習慣であったが,この朝の飯炊きは男の役目だった.あったかい飯と味噌汁ができたら,まだ寝ている女房を起こして飯を食わせ,それから仕事にでかけた.
江戸の女の全員がそうだとは限らぬだろうが,中には,長屋に魚を売りに来た若い男をつまみにして昼間から酒を飲んだりするキッチンドリンカー女房もいたらしい.これは『杉浦日向子の江戸塾』で,杉浦日向子と北方謙三,宮部みゆきの鼎談にある話.
こうなると当然,力関係は女房が強いということになる.『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』の,杉浦日向子と林真理子の対談から下に少し引用しよう.
《杉浦 かかあは人間を超越して、床の間に飾って日夜拝んで磨いておくような縁起物なの。持ってるだけで幸せというようなね(笑)。だから、上座に座るのは、"かかあ"のほうです。》
しかも,妻子を食わせるのは男の甲斐性であるが,女も仕事をしている場合は,その収入は女房のものだったらしい.
もしも亭主の稼ぎが悪いと,女房はほかに男を作って,亭主を離縁してしまう.おもしろいのは,その際に亭主は,女房に三行半を強制的に書かせられてしまうという点だ.つまり三行半は,離婚証明書なのであり,これがあれば女は意気揚々と再婚できるのである.
形式的には男が女房に三行半を書いた格好であるが,実際には妻に離縁されたかわいそうな元亭主は,着の身着のままで長屋を出ていくのだという.長屋に住む権利は,かかあのものなのだ.w
男が女にプロポーズして所帯をもつとき,男は櫛をプレゼントするのだそうだ.そして離縁のとき,女は元亭主にその櫛を投げつけるのだという.男はその櫛を質に入れて,その日一泊の宿賃にするというから情けない.
従って,こんなことにならぬよう,亭主は常に女房殿の顔色を伺いながら,決して妻の逆鱗に触れぬようにしていた.
基本的に江戸では,朝に一度炊飯するだけで昼と夜は冷や飯を食う習慣であったが,この朝の飯炊きは男の役目だった.あったかい飯と味噌汁ができたら,まだ寝ている女房を起こして飯を食わせ,それから仕事にでかけた.
江戸の女の全員がそうだとは限らぬだろうが,中には,長屋に魚を売りに来た若い男をつまみにして昼間から酒を飲んだりするキッチンドリンカー女房もいたらしい.これは『杉浦日向子の江戸塾』で,杉浦日向子と北方謙三,宮部みゆきの鼎談にある話.
江戸時代,かくも女が男を尻に敷いていたというのだが,女同士の争いというのがすごい.
平安時代から家康晩年の慶長年間あたりまで,我が国には「後妻打ち (うわなりうち) 」というものがあった.
詳しくは Wikipedia【後妻打ち】を読んで頂くとして,これは夫婦が離縁したあと,男が一ヶ月以内に後妻を迎えたときに行われる.女の面子を潰された格好の前妻は,多いときは百人くらいの応援の女を引き連れて,後妻の家に討ち入りに行くのだ.
このときに前妻は,後妻に対して,討ち入りすることを事前に通告するが,後妻は逃げたりしたら一生の大恥であるとして,断固これを迎え撃つのである.
下記の引用は Wikipedia【後妻打ち】に書かれている文献からであるが,なかなかユーモラスである.
《百弐三拾年以前の昔は、女の相応打と云ふ事ありし由、女もむかしは士の妻、勇気をさしはさむ故ならん、うはなり打と云に同じ、たとへば妻を離別して五日十日、或は其一月の内また新妻を呼入たる時はじめの妻より必相当打とて相企る、巧者なる親類女と打より談合して是は相当打仕りては成まじと談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず、
扨手寄のたとへば五三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す、此使は家の家老役の者を遣す、口上は御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候、女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなりとも道具の名を申遣す、木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也、
新妻かたにても家老承て新妻へ申達、新妻おどろき何分にも御詫言可申と申も有、また左様によはげ出し候得ば、一生の大恥に成ほど御尤相心得待可申条、何月何日何時待入候と返事有之、其後男の分一切かまはず最前申遣使一度男にて其後男出会事不有之法也、
扨其日限に至り離別の妻乗物にのり、供の女は何ほど大勢にても、皆歩行にてくゝり袴を着、たすきを懸髪を乱し又はかぶりものにて或は鉢巻などし、甲斐甲斐しく先手にしないを持、腰に挿、押寄る也。門を開かせて台所より乱入、中るを幸ひに打廻る也、鍋釜障子相打こわす、其時刻を考へ新妻の媒と待女郎に来る女中と先妻の昏礼の時女郎良したる女中同時に出会、真中へ扱ひ様々言葉を尽し返、供の女ども働に善悪様々あり、
昔は相当打に二度三度頼まれぬ女はなし、七十年計り已前、八十歳斗のばゝ有しが、我等若き時分相当打に、拾六度頼まれ出しなど語りし、百年斗已前は透と是なし。》 (文中の下線はこのブログの筆者が付した)
台所から乱入して鍋釜を打ち壊すあたりが,台所を追われた前妻の,女の意地であろうか.
下の画像は,歌川広重が後妻打ちを描いた浮世絵.(右上の画題に「往古」とあるように,広重の時代には,この慣わしは廃れていた)
最大規模なら双方で二百人に達する女たちが,杖やザル,しゃもじや箒などを持ち,髪振り乱して戦う様子だ.右三分の一の部分に,山椒のスリコギを武器にした女 (前妻だろうか w) がいるが,これはもう凶器に近い.ほとんど戦争だ.w

(出典;Wikipedia【後妻打ち】,パブリックドメイン画像)
平安時代から家康晩年の慶長年間あたりまで,我が国には「後妻打ち (うわなりうち) 」というものがあった.
詳しくは Wikipedia【後妻打ち】を読んで頂くとして,これは夫婦が離縁したあと,男が一ヶ月以内に後妻を迎えたときに行われる.女の面子を潰された格好の前妻は,多いときは百人くらいの応援の女を引き連れて,後妻の家に討ち入りに行くのだ.
このときに前妻は,後妻に対して,討ち入りすることを事前に通告するが,後妻は逃げたりしたら一生の大恥であるとして,断固これを迎え撃つのである.
下記の引用は Wikipedia【後妻打ち】に書かれている文献からであるが,なかなかユーモラスである.
《百弐三拾年以前の昔は、女の相応打と云ふ事ありし由、女もむかしは士の妻、勇気をさしはさむ故ならん、うはなり打と云に同じ、たとへば妻を離別して五日十日、或は其一月の内また新妻を呼入たる時はじめの妻より必相当打とて相企る、巧者なる親類女と打より談合して是は相当打仕りては成まじと談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず、
扨手寄のたとへば五三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す、此使は家の家老役の者を遣す、口上は御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候、女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなりとも道具の名を申遣す、木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也、
新妻かたにても家老承て新妻へ申達、新妻おどろき何分にも御詫言可申と申も有、また左様によはげ出し候得ば、一生の大恥に成ほど御尤相心得待可申条、何月何日何時待入候と返事有之、其後男の分一切かまはず最前申遣使一度男にて其後男出会事不有之法也、
扨其日限に至り離別の妻乗物にのり、供の女は何ほど大勢にても、皆歩行にてくゝり袴を着、たすきを懸髪を乱し又はかぶりものにて或は鉢巻などし、甲斐甲斐しく先手にしないを持、腰に挿、押寄る也。門を開かせて台所より乱入、中るを幸ひに打廻る也、鍋釜障子相打こわす、其時刻を考へ新妻の媒と待女郎に来る女中と先妻の昏礼の時女郎良したる女中同時に出会、真中へ扱ひ様々言葉を尽し返、供の女ども働に善悪様々あり、
昔は相当打に二度三度頼まれぬ女はなし、七十年計り已前、八十歳斗のばゝ有しが、我等若き時分相当打に、拾六度頼まれ出しなど語りし、百年斗已前は透と是なし。》 (文中の下線はこのブログの筆者が付した)
台所から乱入して鍋釜を打ち壊すあたりが,台所を追われた前妻の,女の意地であろうか.
下の画像は,歌川広重が後妻打ちを描いた浮世絵.(右上の画題に「往古」とあるように,広重の時代には,この慣わしは廃れていた)
最大規模なら双方で二百人に達する女たちが,杖やザル,しゃもじや箒などを持ち,髪振り乱して戦う様子だ.右三分の一の部分に,山椒のスリコギを武器にした女 (前妻だろうか w) がいるが,これはもう凶器に近い.ほとんど戦争だ.w

(出典;Wikipedia【後妻打ち】,パブリックドメイン画像)
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