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2018年9月 6日 (木)

江戸,東京の味 (七)

 十八世紀の江戸時代,米将軍と呼ばれた徳川吉宗の治世に,米の生産量が増加した.
 それを背景にして江戸の人々は,分搗き米ではなく白米を主食とするようになった.これについて永山久夫は次のような嘘うんちくを傾けた.
 
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 昨日の記事に書いたように,永山は,江戸時代後期の人口増加によって生活排水が江戸前の海に流れ込み,その海域汚染によって魚介が《栄養を蓄えおいしく育った》という反社会的な妄説を主張した.その結果,江戸では《刺身が大流行 》したというのだ.
 
 ところがこれは大嘘で,実は江戸が人口の少ない田舎だった頃から,三浦半島から房総半島に至る関東沿岸の海は大きな漁場であった.テレビや映画の時代考証を仕事にしている山田順子氏の『江戸グルメ誕生』(講談社,2010年) などの資料をまとめると,関東の漁業は次のようであったらしい.
 
 戦国時代の末期,春から秋にかけての漁期になると,関西,特に紀州の漁民が関東にはるばると出漁してきて,房総半島や三浦半島に納屋を立てて漁を行っていた.獲った魚や貝は干物にして,関西に持ち帰って販売していた.(出典;慶長見聞集)
 江戸開府後,家康は,かねてより家康に仕えていた摂津国西成郡佃村 (現在の大阪市淀川区佃町) の名主孫右衛門を呼び寄せて,江戸向島 (現在の佃島) に住まわせた.孫右衛門には,佃村と隣村大和田村の漁師三十余名が付き従ってきた.
 家康は孫右衛門に森という苗字と,漁業権などの特権を与え,徳川家の御膳魚を納める役を仰せつけた.森孫右衛門は納めた魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したという.これが日本橋魚河岸の始まりであり,森孫右衛門ら一族がその始祖であるとされる.(出典;国立国会図書館デジタルコレクション『日本橋魚市場沿革紀要』,国会図書館で閲覧可能.高価であるが古書も入手可能)
 それまでは江戸前各所の漁師が,獲れた魚を浜で売っていたが,これでは広域に流通させることができない.魚河岸とは,それらの漁獲を問屋が一ヶ所に集め,これを配下の仲買に売り,仲買は小売りに売るという流通システムだったのである.
 このようにして江戸の住人による漁業は,森一族 (一説には摂津の海賊であるという) に始まったが,その漁獲量では,とてものことに獲れた魚が庶民の口にまで回ることはなかったろう.
 しかし,やがて江戸の人口が増えると,優れた漁業技術を持つ紀州の漁民が関東に移り住み,獲れた魚を江戸に流通させるようになった.江戸時代中期,房総半島の漁民の半数以上が紀州出身者であったという.(出典;『江戸グルメ誕生』)
 すなわち,江戸の町人が魚を食べられるようになったのは,永山が妄想するように「生活排水で江戸前の海が汚染されたために魚が《栄養を蓄えおいしく成長 》したから」(爆) ではなく,先進的漁業技術を持った関西の漁民が関東に移住したことと,魚河岸という流通システムの発達によるのである.
 
 ところで当時は冷蔵技術がないから,魚は獲れて死んだときから傷み始める.これについて『江戸グルメ誕生』に次のようにある.
 
現代人は、魚といえばまず刺身を連想する人が多いようですが、江戸で刺身を食べられるのはごくわずかな人たちで、しかも、大変なご馳走でした。
刺身にするためには、魚の鮮度が重要ですが、江戸時代はたとえ江戸前で獲れたとしても、冷凍や冷蔵はもちろん、氷詰めもないので、夏場などは数時間で鮮度が落ち、足が速い魚は生食が危険な場合もあります。そこで、庶民はなるべく刺身を食べないようにしていました。
しかし江戸時代後期になると、江戸の各地にできた料理茶屋で、刺身を出すことを売りにする店が多くなり、そのために店内に生簀を作ったり、高い金額を払っても鮮度のいい魚を仕入れたりしました。それにともない料金も高くなるのですが、それでも食べたいという裕福な町人が増えたからです。
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 永山は《刺身が大流行》というが,それは富裕層のことであり,長屋に住む庶民にとって刺身は,身の程をわきまえぬ贅沢であった.
(続く)

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