« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »

2018年9月

2018年9月11日 (火)

江戸期の妻たちの戦争

 杉浦日向子『杉浦日向子の江戸塾』などを読むと,如何に初期の江戸が男ばっかりの都市であったかがわかる.例えば十二軒の長屋があるとすると,女房がいるのはそのうちの一軒か二軒で,あとはすべて独身者だったという.
 こうなると当然,力関係は女房が強いということになる.『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』の,杉浦日向子と林真理子の対談から下に少し引用しよう.
 
杉浦 かかあは人間を超越して、床の間に飾って日夜拝んで磨いておくような縁起物なの。持ってるだけで幸せというようなね(笑)。だから、上座に座るのは、"かかあ"のほうです。
 
 しかも,妻子を食わせるのは男の甲斐性であるが,女も仕事をしている場合は,その収入は女房のものだったらしい.
 もしも亭主の稼ぎが悪いと,女房はほかに男を作って,亭主を離縁してしまう.おもしろいのは,その際に亭主は,女房に三行半を強制的に書かせられてしまうという点だ.つまり三行半は,離婚証明書なのであり,これがあれば女は意気揚々と再婚できるのである.
 形式的には男が女房に三行半を書いた格好であるが,実際には妻に離縁されたかわいそうな元亭主は,着の身着のままで長屋を出ていくのだという.長屋に住む権利は,かかあのものなのだ.w
 男が女にプロポーズして所帯をもつとき,男は櫛をプレゼントするのだそうだ.そして離縁のとき,女は元亭主にその櫛を投げつけるのだという.男はその櫛を質に入れて,その日一泊の宿賃にするというから情けない.
 従って,こんなことにならぬよう,亭主は常に女房殿の顔色を伺いながら,決して妻の逆鱗に触れぬようにしていた.
 基本的に江戸では,朝に一度炊飯するだけで昼と夜は冷や飯を食う習慣であったが,この朝の飯炊きは男の役目だった.あったかい飯と味噌汁ができたら,まだ寝ている女房を起こして飯を食わせ,それから仕事にでかけた.
 江戸の女の全員がそうだとは限らぬだろうが,中には,長屋に魚を売りに来た若い男をつまみにして昼間から酒を飲んだりするキッチンドリンカー女房もいたらしい.これは『杉浦日向子の江戸塾』で,杉浦日向子と北方謙三,宮部みゆきの鼎談にある話.
 江戸時代,かくも女が男を尻に敷いていたというのだが,女同士の争いというのがすごい.
 平安時代から家康晩年の慶長年間あたりまで,我が国には「後妻打ち (うわなりうち) 」というものがあった.
 詳しくは Wikipedia【後妻打ち】を読んで頂くとして,これは夫婦が離縁したあと,男が一ヶ月以内に後妻を迎えたときに行われる.女の面子を潰された格好の前妻は,多いときは百人くらいの応援の女を引き連れて,後妻の家に討ち入りに行くのだ.
 このときに前妻は,後妻に対して,討ち入りすることを事前に通告するが,後妻は逃げたりしたら一生の大恥であるとして,断固これを迎え撃つのである.
 下記の引用は Wikipedia【後妻打ち】に書かれている文献からであるが,なかなかユーモラスである.
 
百弐三拾年以前の昔は、女の相応打と云ふ事ありし由、女もむかしは士の妻、勇気をさしはさむ故ならん、うはなり打と云に同じ、たとへば妻を離別して五日十日、或は其一月の内また新妻を呼入たる時はじめの妻より必相当打とて相企る、巧者なる親類女と打より談合して是は相当打仕りては成まじと談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず、
扨手寄のたとへば五三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す、此使は家の家老役の者を遣す、口上は御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候、女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなりとも道具の名を申遣す、木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也
新妻かたにても家老承て新妻へ申達、新妻おどろき何分にも御詫言可申と申も有、また左様によはげ出し候得ば、一生の大恥に成ほど御尤相心得待可申条、何月何日何時待入候と返事有之、其後男の分一切かまはず最前申遣使一度男にて其後男出会事不有之法也、
扨其日限に至り離別の妻乗物にのり、供の女は何ほど大勢にても、皆歩行にてくゝり袴を着、たすきを懸髪を乱し又はかぶりものにて或は鉢巻などし、甲斐甲斐しく先手にしないを持、腰に挿、押寄る也。門を開かせて台所より乱入、中るを幸ひに打廻る也、鍋釜障子相打こわす、其時刻を考へ新妻の媒と待女郎に来る女中と先妻の昏礼の時女郎良したる女中同時に出会、真中へ扱ひ様々言葉を尽し返、供の女ども働に善悪様々あり、
昔は相当打に二度三度頼まれぬ女はなし、七十年計り已前、八十歳斗のばゝ有しが、我等若き時分相当打に、拾六度頼まれ出しなど語りし、百年斗已前は透と是なし。
》 (文中の下線はこのブログの筆者が付した)
 
 台所から乱入して鍋釜を打ち壊すあたりが,台所を追われた前妻の,女の意地であろうか.
 下の画像は,歌川広重が後妻打ちを描いた浮世絵.(右上の画題に「往古」とあるように,広重の時代には,この慣わしは廃れていた)
 最大規模なら双方で二百人に達する女たちが,杖やザル,しゃもじや箒などを持ち,髪振り乱して戦う様子だ.右三分の一の部分に,山椒のスリコギを武器にした女 (前妻だろうか w) がいるが,これはもう凶器に近い.ほとんど戦争だ.w
 
20180910a
(出典;Wikipedia【後妻打ち】,パブリックドメイン画像)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 8日 (土)

江戸,東京の味 (了)

 民放の雑学番組とは異なり,NHK『チコちゃんに叱られる!』では,クイズの回答に必ず一言,「諸説あります」という断りがなされる.当然だ.
 ところが今回の永山久夫監修の「関東の味付けが濃いのはなぜ?」では,「諸説あります」だけでなく,特別に《ご紹介したのは、監修してくださった専門家の見解です》という言い訳が付け加えられた.

20180831a

 想像するに,おそらく,NHK局内の時代考証担当職員あるいは局外の時代考証専門家と,永山久夫の主張が大きく乖離していたのではないか.
 特に今回の『チコちゃんに叱られる!』では,「江戸の生活排水による海域汚染で江戸前の魚がおいしく育った」という永山の主張は酷い.既に述べたように,これは事実無根であり反社会的である.
 この点は,NHKは《監修してくださった専門家の見解です》などとするだけで責任回避ができようはずがない.本来なら謝罪レベルの誤りである.これはNHKが流した誤情報の黒歴史としてここに記録しておきたい.
 
 さて,今回の『チコちゃんに叱られる!』だけでなく,これまでも農水省の走狗として「和食=一汁三菜は日本古来の伝統食」などの大嘘を宣伝してきた永山久夫であるが,江戸の味について,そのデタラメぶりを批判するだけでは片手落ちだ.常識的な見解を紹介しよう.
 かつて東京に住んだ食通作家たちが,東京のうまい食い物について書いた随筆は数多い.それらの作品や,江戸学とでもいうか,江戸の風俗に詳しかった故杉浦日向子の一連の著作に書かれているように,江戸,東京の味を一言で言えば「甘辛」であり,これに異を唱えるひとはまずいないだろう.

 今週の木曜日 (9/6) ,ちょうどいいタイミングで,テレビ東京『和風総本家』で築地市場の特集が放送された.築地の大衆的な飯屋にいけば,江戸から東京に受け継がれた甘辛の味付けがどんなものか,口にすることができるのだ.そこで番組の中から,人気店の幾品かを紹介しよう.

 甘辛い江戸・東京の味付けは,何といっても煮魚だろう.

20180908d

 濃口醤油,砂糖,酒,味醂で煮付けるおかずは,江戸時代中期の煮売り屋 (惣菜屋) に始まる伝統の味だ.杉浦日向子より少し遅れて世に出た宮部みゆきも時代考証が確かであるが,彼女の作品に煮売り屋はよく登場している.長屋に暮らす下層庶民の調理道具は七輪と鍋くらいしかなく,まな板や包丁を持たない彼らは,煮売り屋から飯のおかずを買って食事にしていたのだ.
 永山久夫は,江戸時代初期の工事に集められた土方たちが食べた味の濃いおかずである佃煮 (実は江戸初期には存在しなかった) と大根の塩漬けの二つと,江戸前鮨を「濃い味文化」である (事実は,江戸前鮨は「濃い味」ではないが) と述べたが,実は江戸時代中期以後の町人たちが好んだ甘辛い煮魚や煮豆,きんぴら牛蒡,ひじき煮等々,今もある多くの日常の惣菜こそが,江戸の濃い味の代表なのである.

 先に述べたように天ぷらは屋台のファストフードに始まって次第に洗練されていったが,この天ぷらを丼飯に載せ,甘辛いタレをかけ回せば,一気に江戸大衆の味になるのが面白い.
 
20180908b

 親子丼や玉子丼も,天丼と同じ甘辛.
 
20180908a
 
20180908c

 これ↑は鮪のカマを醤油だれに漬けてから焼いたもの.
 江戸から明治,大正,昭和と,時代は変わっても日常のおかずは,すべて醤油と砂糖で味付けるのが東京の伝統なのである.↓
 
20180908f

20180908g

カツ煮↑

20180908h

 さて,何でも醤油と砂糖で茶色く甘辛く煮たり焼いたりするのが東京の味だが,私のように東京の外の関東の人間は,いまだに東京風の甘辛い味に慣れない.
 生粋の江戸っ子はどんどん減って,東京の人口のほとんどは地方出身者であるという.それなのに,大衆食堂に限って言えば,いまだに江戸風,東京風の味が廃れないのは,考えてみればなかなか面白い現象である.家庭ではみんな健康のために減塩と低糖質につとめて,薄味の食事をしていると思うが.
(了)

[参考図書]
有薗正一郎『近世庶民の日常食』(海青社)
杉浦日向子『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)
杉浦日向子 『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』(PHP文庫)
杉浦日向子 『杉浦日向子の江戸塾 特別編』(PHP研究所)
山田順子『江戸グルメ誕生』(講談社)
山本博文『学校では習わない江戸時代』(新潮文庫)
菅野俊輔監修『別冊宝島 江戸城 天下普請の謎』(宝島社)
 
(本記事中のテレビ画面は,録画データの加工ではなく,テレビ画面を撮影してトリミングしたものである.またこの連載は,私のブログでは日常茶飯事だが,アップしたあと数日のあいだ,何度か加筆推敲する)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 7日 (金)

江戸,東京の味 (八)

 昨日の記事の続き.
 永山久夫によれば,十八世紀の江戸では,庶民が白米を炊いた飯を食べるようになり,同時に刺身が流行したという.そして《刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張した.

20180905d

 だが,濃口醤油の製法がいつ頃考案されたかについては定説がないのが実際のところである.Wikipedia でも,醤油関連の諸項目において,まちまちな説を挙げている.ただし,キッコーマンは濃口醤油の起源について明記していないが,公式サイトのコンテンツ《しょうゆのすべて》に次のようにある.
 
1697年(元禄10年)刊行の『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」とありますが、1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の2種があり、市販されているのはみな小麦を原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。
 
 またヒゲタ醤油
 
1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させた
 
としている.これから推測すると,濃口醤油の起源は,銚子で1700年頃ではないかと思われる.しかし大豆と小麦を原料とする現在の濃口醤油の前段階に,大豆と大麦が使われた醤油があり,これを濃口醤油のプロトタイプとすれば,濃口醤油の起源はさらに四十年ほど遡ることになる.
 いずれにせよ濃口醤油は,江戸に刺身が広まるよりも前にあった.
 また永山久夫は刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張するが,当然ながら濃口醤油は万能調味料であり,特に刺身のために開発されたものではない.
 
20180831b
 
 永山は,濃口醤油は刺身のために考案されたとし,さらに上の画像に書かれているように「魚と白米と濃い口しょうゆの組み合わせは江戸前ずしを生み出した」とした.
 それはとりあえずよしとして,ここまで延々と江戸の味付けはなぜ濃いのかという話をしてきたにもかかわらず,ここで唐突に森田美由紀アナのナレーション (もちろん永山久夫の主張を読み上げているのである) は
 
《…組み合わせは,江戸前ずしを生み出しました.こうして関西の薄味文化にたいする関東の濃い味文化が定着したのです
 
と語った.論理的には「こうして江戸の濃い味文化が定着したのです」となるはずだが,何の説明もなく「江戸の味」を「関東の味」にすり替えてしまったのだ.あっと驚く展開だ.まさかこんなデタラメがなされるとは,全国の視聴者の誰一人として思ってもみなかったのではないか.

 江戸で生まれた食べ物の代表格は,登場順に,蕎麦,鰻,鮨,天ぷらである.どれも最初は屋台で立食いする下衆の食いものだったが,やがて鮨と天ぷらは洗練されていった.
 東京の蕎麦やうどんを「色は真っ黒で味は濃くて,これは人間の食い物じゃない」とまで激しく貶す大阪人でも,江戸前鮨を「味が濃くて,人間の食いものじゃない」とは言わない.そんなことを言われたら,江戸前鮨の職人は怒るに違いない.「大阪の鮨は薄味なんかいっ」と.
 また東京風の天ぷらは胡麻油の風味が特徴だが,その強い香りを嫌う関西人でも,「東京の天ぷらは味が濃い」とは言わない.

 要するに,「江戸前鮨は味が濃い」と主張する永山久夫は,(1) 東京 (江戸) と関東の区別ができていない,(2) 「味が濃い」の意味がわかっていない.
 自ら番組中で「濃い味が好きだ」と白状した永山↓は,
 
20180907a
 
きっと,酢〆の小鰭だろうが昆布〆の白身だろうが,握り鮨のシャリを醤油にどっぷり漬けて濃い醤油味にし,せっかくの職人の仕事を台無しにして食べているのだろう.w
 ちなみに江戸時代の握り鮨は,旨味のある赤酢 (粕酢) で酢飯を作り,ネタにも仕事がしてあるので,当時の人々は醤油をつけずに食べていたという説が有力である.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 6日 (木)

激動のラーメン史

 昨日放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア「波乱万丈!ラーメンと日本人 震災・革命・復興 激動のドラマ」』は,気合の入った番組であった.再現VTRの中で登場人物の服装に少し疑問がある他は,食文化の時代考証的に全く文句はない.
 本気ならこういう上質の番組を作れるのだから,『チコちゃんに叱られる!』の監修に永山久夫みたいなデタラメ男を使わないでくれと言いたい.
 今回の放送は,今週の土曜日に再放送される予定だから,未見の高齢者諸兄におかれては,ぜひとも視聴をお勧めする.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

江戸,東京の味 (七)

 十八世紀の江戸時代,米将軍と呼ばれた徳川吉宗の治世に,米の生産量が増加した.
 それを背景にして江戸の人々は,分搗き米ではなく白米を主食とするようになった.これについて永山久夫は次のような嘘うんちくを傾けた.
 
20180905a
 
20180905b
 
20180905c
 
20180905d
 
 昨日の記事に書いたように,永山は,江戸時代後期の人口増加によって生活排水が江戸前の海に流れ込み,その海域汚染によって魚介が《栄養を蓄えおいしく育った》という反社会的な妄説を主張した.その結果,江戸では《刺身が大流行 》したというのだ.
 
 ところがこれは大嘘で,実は江戸が人口の少ない田舎だった頃から,三浦半島から房総半島に至る関東沿岸の海は大きな漁場であった.テレビや映画の時代考証を仕事にしている山田順子氏の『江戸グルメ誕生』(講談社,2010年) などの資料をまとめると,関東の漁業は次のようであったらしい.
 
 戦国時代の末期,春から秋にかけての漁期になると,関西,特に紀州の漁民が関東にはるばると出漁してきて,房総半島や三浦半島に納屋を立てて漁を行っていた.獲った魚や貝は干物にして,関西に持ち帰って販売していた.(出典;慶長見聞集)
 江戸開府後,家康は,かねてより家康に仕えていた摂津国西成郡佃村 (現在の大阪市淀川区佃町) の名主孫右衛門を呼び寄せて,江戸向島 (現在の佃島) に住まわせた.孫右衛門には,佃村と隣村大和田村の漁師三十余名が付き従ってきた.
 家康は孫右衛門に森という苗字と,漁業権などの特権を与え,徳川家の御膳魚を納める役を仰せつけた.森孫右衛門は納めた魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したという.これが日本橋魚河岸の始まりであり,森孫右衛門ら一族がその始祖であるとされる.(出典;国立国会図書館デジタルコレクション『日本橋魚市場沿革紀要』,国会図書館で閲覧可能.高価であるが古書も入手可能)
 それまでは江戸前各所の漁師が,獲れた魚を浜で売っていたが,これでは広域に流通させることができない.魚河岸とは,それらの漁獲を問屋が一ヶ所に集め,これを配下の仲買に売り,仲買は小売りに売るという流通システムだったのである.
 このようにして江戸の住人による漁業は,森一族 (一説には摂津の海賊であるという) に始まったが,その漁獲量では,とてものことに獲れた魚が庶民の口にまで回ることはなかったろう.
 しかし,やがて江戸の人口が増えると,優れた漁業技術を持つ紀州の漁民が関東に移り住み,獲れた魚を江戸に流通させるようになった.江戸時代中期,房総半島の漁民の半数以上が紀州出身者であったという.(出典;『江戸グルメ誕生』)
 すなわち,江戸の町人が魚を食べられるようになったのは,永山が妄想するように「生活排水で江戸前の海が汚染されたために魚が《栄養を蓄えおいしく成長 》したから」(爆) ではなく,先進的漁業技術を持った関西の漁民が関東に移住したことと,魚河岸という流通システムの発達によるのである.
 
 ところで当時は冷蔵技術がないから,魚は獲れて死んだときから傷み始める.これについて『江戸グルメ誕生』に次のようにある.
 
現代人は、魚といえばまず刺身を連想する人が多いようですが、江戸で刺身を食べられるのはごくわずかな人たちで、しかも、大変なご馳走でした。
刺身にするためには、魚の鮮度が重要ですが、江戸時代はたとえ江戸前で獲れたとしても、冷凍や冷蔵はもちろん、氷詰めもないので、夏場などは数時間で鮮度が落ち、足が速い魚は生食が危険な場合もあります。そこで、庶民はなるべく刺身を食べないようにしていました。
しかし江戸時代後期になると、江戸の各地にできた料理茶屋で、刺身を出すことを売りにする店が多くなり、そのために店内に生簀を作ったり、高い金額を払っても鮮度のいい魚を仕入れたりしました。それにともない料金も高くなるのですが、それでも食べたいという裕福な町人が増えたからです。
》 

 
 永山は《刺身が大流行》というが,それは富裕層のことであり,長屋に住む庶民にとって刺身は,身の程をわきまえぬ贅沢であった.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 5日 (水)

江戸,東京の味 (六)

 昨日の記事に次のように書いた.

永山久夫は,塩分の多い佃煮や大根の塩漬けで大量の玄米を食べる食事スタイルを,土木工事を早く進めるために徳川家康が考案したのだと述べた.しかし実際にはその時代,玄米が主食として食べられていた事実はなかったし,現在の私たちが食べているような佃煮は,家康の時代にはまだ存在していなかったのである.

 史実を無視した上の大嘘に続いて,永山の思い付きホラ話はさらに続く.
 十九世紀初頭,江戸の人口は百万に達していたという.この人口増加により,江戸の海に流れ込む生活排水が増加し,その結果,江戸前の漁獲高が増加したと永山は言う.
 
20180904a_2
 
上の画像の一部を拡大↓(魚の骨を流すんじゃないっ 〈〉)
20180904d_2

20180904b_2 
 
20180904c_2
 
 現代日本で,「生活排水の海域への流入が漁場を豊かにする」という反社会的な主張をしているのは,私の知る限り永山久夫ただ一人である.
 戦後,ある時期以前の日本には,生活排水にせよ工場廃水にせよ,浄化してから水域に放流しなければいけないという環境維持・保全の意識が希薄であった.
 私が子供の頃を思い出すと,郷里の田舎町では,生活排水は細い下水管や,側溝へ流されていた.それらの排水は「ドブ川」に通じていて,「ドブ川」は市内を流れる河川や,近くの池沼に流れ込んでいた.側溝や「ドブ川」は定常的な水の流れがあるわけではないから,淀んで腐敗臭を放っていた.
 状況は昭和四十年代の東京でも変わらず,私が大学生になって住んでいた地域を流れていた妙正寺川は,元々は湧水なのに,神田川と合流する辺りでは幅広のドブ川と化していた.神田川は言うまでもない.かつては上水路であっのに,昭和四十年代には都内で最も汚れた川の一つとなっていた.
 こうして多摩川から荒川に至るまで,魚も昆虫も,きれいな水を好む生き物たちは姿を消し,悪化した環境に住むフナなどが河川の一部に生き残っていた.
「死の川」とまで言われたこれらの河川から腐敗した水が流れ込んだ東京湾は,富栄養化して酸欠状態となり,湾内の漁業は大きなダメージを受けたのであった.
 こうなっては,国民も行政も生活排水による河川の汚染と環境破壊を直視せざるを得ず,昭和の後半あたりから改善の取り組みが始まった.今はまだ河川の環境回復の途半ばであるが,しかし私たちの生活排水による環境破壊に対する認識は大きく変わった.
 その変化に資するところ大きかったものが二つある.
 一つは,「森と川と海は一つの生態系である」とする思想とその実践者たちであった.(参考資料と書籍は多数.検索されたし)
 そしてもう一つは,循環型社会のモデルとして江戸時代を再発見する試みであった.(参考資料;書籍と文献多数あり)
 上に挙げた画像 (永山久夫の自筆か?) では,生活排水のゴミが江戸前に流れ込み,それによって《海の養分が増加》し,魚が《栄養を蓄えおいしく成長》したとしているが,それは事実か.根拠となる史料はあるのか.私はそのような文献資料を目にしたことがない.
 陸上で植物が繁茂し,枯れる.そして微生物がこれを分解する.長い長い時間をかけてこれが繰り返され,土地は豊かになる.川はその大地の有機物や微量栄養素を海に運ぶ.海に運ばれた栄養素によってプランクトンが繁殖し,これによって海の生き物が育てられる.この静かで安定した生態系において,人間の生活排水は擾乱因子である.
 仮に永山の説が正しいとすれば,水のきれいな海では魚は育たず,沿岸漁業は不可能という結論になる.かような事実に反する嘘を永山は平然と語る.その神経は,常人には理解しがたい.
 
 かつて武蔵野台地に住んだ人々の海産物採取は,寒冷化のために陸上の食糧資源が減少した縄文時代後期に遡る.この頃から,武蔵野とそこを流れる川と,その前に広がる海は,豊かな生態系と漁場を形成していた.江戸の人々は,その生態系を擾乱しないような生活をしていたというのが,「江戸=循環型社会」論である.
 東京都小平市環境部の公式サイトに《江戸の下水道》と出したコンテンツがあり,次のように書かれている.
 
江戸の下水道(どぶ)は、雨水排除を主眼に整備されていました。家庭からの雑排水は、現在と違って水を大切に使っていたので、「どぶ」に流される量はごく少量(たとえば、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、さらに残ったものは植木に撒いた)であり、屎尿が下水に含まれることもなく、下水といってもそれほど汚れてはいなかったと思われます。
 
 永山久夫は,それらの見解に反対し,生活排水による海域汚染こそが江戸前の漁業を発展させたと主張するのなら,その根拠を示せ.またNHKは,公共放送としての責任がある.番組『チコちゃんに叱られる!』の内容に責任を持ち,主張の根拠を示さねばならぬ.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 4日 (火)

江戸,東京の味 (五)

「徳川家康が行った土木工事に従事した労働者は一日に玄米一升を食べた」説をブチかましたあと,永山久夫は「それほど大量に玄米飯を食うためには,味の濃いおかずが必要であった」と述べた.いよいよ妄想に拍車がかかったのである.

20180903e

20180903c_2 
 
永山が言う「味の濃いおかず」とは何か. 

20180903d

 当時,江戸の農地で栽培されていた大根を塩漬けにしたものと佃煮であるという.

 だが,上の画像に示されている佃煮は,江戸時代の初期には,まだなかったのである.
 現在の東京都佃島あたりでとれた小魚は,塩で煮て (名称はそのまんま「塩煮」と呼ばれていた) 食べられており,醤油と砂糖で甘辛く煮詰めることによって保存性を高めた佃煮が考案されたのはもっと後,幕末の頃である.第一,関東で濃口醤油が製造されるようになったのは,寛永年間 (1640年頃) のことで,家康の死後,三十年近く経った時代のことである.しかも寛永の頃は,醤油はまだ貴重品であり,庶民は専ら塩,味噌,梅干し,酢,酒などを材料にして酢味噌や山椒味噌あるいは,煎酒 (いりざけ;酒に梅干しと削り節を加え,煮詰めて漉したもの) を拵えて調味料としていた.濃口醤油と砂糖で煮詰めた佃煮が登場したのは醤油の製造量が増えて安価になった江戸時代の後期である.それ以前の時代は,刺身も醤油ではなく煎酒をつけて食べられていたし,蕎麦のつけ汁も味噌味だった.
 
 永山久夫は,塩分の多い佃煮や大根の塩漬けで大量の玄米を食べる食事スタイルを,土木工事を早く進めるために徳川家康が考案したのだと述べた.しかし実際にはその時代,玄米が主食として食べられていた事実はなかったし,現在の私たちが食べているような佃煮は,家康の時代にはまだ存在していなかったのである.
 
 余談だが,江戸以外の地方で当時の主食であった五分搗き米や,江戸で食べられていた精白した米を,「玄米 (実は一分搗きの米であった) に換算して何合」ということは江戸時代からあった.土地の生産性を表す「石高」は玄米の体積で計算されていたし,武士の扶持米も玄米換算であった.ちなみに標準の扶持米は,成人男性の武士で一日に玄米換算で五合であった.体力勝負ではない武士が実際に食べる量はもっと少ないから,扶持米五合との差が換金されて,米以外の生活費に充当されたのである.
 また宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ト」の四合もおそらく玄米換算での話である.ただしこの時は既に,籾から籾殻を外すのは,杵と臼とで行ったのではなく,機械式だったから,「アメニモマケズ」に書かれた玄米は現在の玄米と同じ品質だったと考えられる.そして搗精歩留を90%とすれば,宮沢賢治が口にしたのは日に三合五勺ほどであったろう.
 
20180826g_2

 逝去後は神君として崇められた徳川家康公を,恐れ多くもこの永山という男は,飯場で土方たちの飯の手配をする工事現場監督であるかのように言うのである.国家統治の頂点に立つ為政者が,天下国家の重大事を横に置いて,「佃煮は御飯が進むのう」などと暢気なことを言っていたはずがない.w 無礼者めが,世迷言もいい加減にするがよい.w

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 3日 (月)

そしてまた昭和が逝く

 麻生美代子さんの訃報が流れた.享年九十二.
 昭和の香りのする得難い声優であった.御冥福を祈る.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

江戸,東京の味 (四)

 永山久夫という人は,思い付きを書くばかりで,史料を示したことがない.
 今回の『チコちゃんに叱られる!』でも,根拠を示すことなく,絶好調の永山節を歌い始める.

20180826c

 そもそも出題されたクイズは,上の画像に書かれているような実にアバウトなもので,関東とはどこなのかが先ずわからない.東京のように経済的に豊かな土地では調味料をふんだんに使うが,群馬のように昔は貧しかった土地ではそんなことはしなかった.関東にも色々あるのだ.
 また,このクイズは,家庭料理のことを言っているのか,料理店の味付けのことなのか.それもわからない.江戸前寿司は,別に「味も色も濃」くはないぞ.w
 色が薄い (淡い) と濃いのは容易に肉眼で比較できるが,「味が薄い」とはどのような意味なのか不明である.このクイズで漠然と「味」といっているのは,科学的な五味 (五原味) のことではないようだ.ようするに『秘密のケンミンショー』レベルの雑学なのだろう.しかし雑学クイズだとしても,嘘はいけない.
 
20180826e

20180826f
 
 前回の記事で書いたように,この嘘吐き男は,徳川家康の江戸城再建工事と,三代将軍家光の時代まで続いた天下普請=江戸城拡張工事を一緒くたにしているので,話が支離滅裂なのだが,我慢して講釈の続きを聞いてみよう.

20180903a

 用語の定義をしないのは嘘吐きの常套手段だ.言うまでもなく「労働者」というのは近代的な概念であり,江戸時代に「労働者」がいたわけがない.そこを敢えて好意的な解釈をするとして,永山が言う「労働者」は土木建設作業に駆り出された農民を指しているのだろうが,「労働者の主食は玄米」というのが根拠のないデタラメなのである.
 実は日本の食文化史上,玄米が主食になったことはないとするのが定説なのである.明治時代に玄米食を提唱した宗教的思想家 (石塚左玄) 人間がいたが,全くはやらなかった.現在でも「玄米は体にいい」として玄米を食べる人がいるが,その「玄米」は近代的農業機械 (精米機) が普及して初めて作られるようになったものである.それ以前は杵と臼で搗精していたから,籾から籾殻を外すときに既に糠層が少し削り取られて,一分搗きの状態になるのだ.
 ここで米穀の専門家の見解を紹介しておこう.米穀安定供給確保支援機構のコンテンツ「お米・ごはん食データベース」に次の記述がある.

 
米は縄文時代後期から栽培されはじめ、弥生時代には一部の地域で主食としての地位を築き奈良時代には常食とされるようになっていました。そのことを示す木簡(木片に墨で書かれた荷札や役所間の請求書)が都跡から出土しています。玄米をついて精白し、白米と書き「しらげのよね」と呼びました。白米は身分の高い人びとが食べ、庶民はもっぱら黒米とよばれた精白度の低いウルチ米を食べ、アワやヒエに混ぜることもあったようです。玄米は食べていません。江戸時代に入ると黒米は玄米をさすようになりますが、これを飯に炊いて食べた記録は少なく、食べるためには白米より薪を多く使わなければならなかったからです》 (下線はこのブログ筆者が付した) 
 
 ほかの農業関係団体の公式サイトを検索しても,「玄米が食べられたことはない」とする定説が支持されている
 また有薗正一郎氏 (愛知大学文学部教授) の『近世庶民の日常食』(海青社,2007年) に示されている詳細な研究によれば,近世の農民は五分搗きの米を炊いて食べていたようである.食べていた量は,一日に五合弱であった.これはきちんと史料に基づいて計算された数字で,信用できる.ところが,我らが永山久夫は,ここで突拍子もない独自研究=嘘を炸裂させた.
 
20180903b
 
 徳川家康が行った土木工事に従事した「労働者」が,一日に食べた玄米の量は一升だと永山久夫はいうのだ.
 私はこの画面を見て爆笑した.番組に出演したゲスト回答者の長嶋一茂も,思わず「そんなに食えるのかよー!」と笑った.
 食えるわけがないのである.これが白米ならば,ギャル曽根は食べるかも知れないが,玄米は彼女でも無理だ.消化の悪い玄米を一日に一升も食べたら,消化不良で体をこわす.w
 有薗正一郎氏が解析検討した江戸時代の史料に基づけば,きつい肉体労働に従事していた農民でも,一日に食べていたのは五分搗きの米を五合程度であった.どこから「労働者は一日一升の玄米を食う」という話がでてきたのか,史料を出せと言いたい.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 2日 (日)

江戸,東京の味 (三)

 昨日の記事の続きを書く前に,この連載の最初,一昨日の記事に《農水省は「一汁三菜が日本の基本的食事スタイルである」という大嘘をついて 》と書いたことの補足をしておく.
 日本人の食事に副菜が付くようになったのは,古い話ではない.江戸時代はもちろんのこと,今の高齢者はよく知っているように,戦後の経済成長期以前の庶民の食事は米飯に偏重した「飯と汁と漬物」が基本だった.
 近代の我が国の食事風景は,探せば写真資料がたくさん見つかるから,ここでは江戸時代の史料を掲載する.下の画像は,歌川国芳が歌舞伎の場面を描いた浮世絵「美盾十二史 申与次郎」である.
 
Photo
国立国会図書館所蔵
国立国会図書館デジタルコレクション;インターネット公開 (保護期間満了)

 
 ここに描かれている男 (申与次郎) が肘をついているのは飯櫃である.彼の前に置かれた膳 (足付折敷) の上には,箸と飯椀と漬物の小皿が載っている.膳の横の黄色い皿にも,取り分け用の箸があるところを見ると,漬物が入っているようだ.江戸時代の江戸市中では火事を恐れて一日に朝一度しか炊事をしなかった (為政者に禁じられたこともあったという) から,朝飯以外は冷や飯を食べた.この絵は,飯櫃から冷や飯を飯椀に盛り,土瓶から番茶を注いで茶漬けにして食べているところである.
 江戸時代に書かれた『守貞謾稿』によれば,庶民の食事は,朝に飯を炊いて味噌汁を付ける.昼飯は冷や飯に野菜か魚のおかずを一品添える.夕飯は簡単で,お茶漬けと漬物を食べるとある.
 関西,特に,京都は古くからの食文化が残されていて,東京の人たちの食事に毎度毎度,汁が付くのに違和感があるという人が多い.私の生まれは群馬の田舎で,京都と一緒にするのは恥ずかしいのであるが,やはり味噌汁は朝のものであった.毎度の食事に汁が付くのは,古いことではなく,「定食屋」ができてからの食事習慣だろう.「飯と味噌汁と漬物」がワンセットで,これにおかずが付く形ができたのである.
 
 さて本題に戻る.
 森田美由紀アナが「徳川家康は現在の静岡県中部にあたる三河の国を治めていた」とナレーションした (もちろん森田さんは原稿を読んだだけで,永山久夫がそう言わせたのだ) のを信じてしまったサイトを例示する.管理者が誤りに気付いて修正するかも知れないので,下の二枚の画像はスクリーンショットをトリミングしたものである.
 一つは《What an Interesting World 》というテレビ番組内容紹介サイト.
 *********************************************************
20180902a
 *********************************************************
 

 もう一つも《チコちゃんクイズ 》という番組内容紹介サイトである.
 *********************************************************
20180902b
 *********************************************************
 
 悪貨が良貨を駆逐するに似て,誤情報は正しい知識を駆逐する.永山久夫が全国放送の人気番組で嘘を吐いたせいで,三河は静岡県中部のことになってしまった.三河の人々はNHKに抗議されたい.
 
 さて永山久夫は次のように続けた.
 秀吉が家康を関東に移したのは,家康の財力を削ぐためであったとされているが,
「しかし家康は奮起して,荒れ果てた江戸城の再建と街づくり,湿地帯である領地の治水工事に取り掛かり,そのために全国から大勢の労働者が江戸に集まった」
 
20180902c

20180902d
 
20180902e
 
20180902f

20180902g
 
20180826h
 
 家康の行った大工事は二つに分けなければいけない.
 豊臣秀吉の命で関東の領地に封じられ,そこで最初に行った江戸城再建工事と,関ヶ原のあと政権を掌握したのちに行った江戸城拡張工事,通称「天下普請」である.
 地理を知らないだけならともかく,高校レベルの日本史も知らない永山久夫は,この二つを一緒くたにして,上に挙げた画像のように,江戸城再建工事に全国から労働者が江戸に集まったとした.(クイス監修者がここまで無知であると,視聴者は呆れながら番組の進行を観ているほかはない)
 しかし最初の江戸城再建工事では,まだ家康は大名の一人に過ぎないから,他の諸大名が治める全国各地から勝手に労働者 (=農民) を集めることは不可能 (*脚註) で,自分の領地,関東で調達するしかなかったであろう.
 
 ところが江戸城の拡張工事である天下普請では事情が異なった.徳川幕府の事業だからである.「全国から大勢の労働者が江戸に集」められた大規模工事は慶弔八年 (1603年) から万治三年 (1660年) まで数次にわたって行われたのだが,家康と,これに続く二代将軍徳川秀忠,三代将軍徳川家光は普請を命じたのであって,実際に普請を行ったのは諸大名であった.従って自領の農民を労働力として調達し,彼らに食事を供給したのは諸大名であった.天下普請は,諸大名を経済的に疲弊させる意味合いを持っていたであろう.
(続く)
  
*脚註;Wikipedia【逃散】から引用する.
江戸時代には、逃散した百姓が都市部へ出て、安い賃金で生活することが一般に見られた。生産者である百姓の逃散は、生産活動の減退を意味するため、支配者(幕府、大名、旗本ら)は百姓の逃散を厳しく禁ずるとともに、移住も原則として認めなかった
 上に挙げた画像の最後に《江戸に大勢の労働者が集まった》とあるが,農民たちが職を求めて自発的に江戸に集まったわけがない.農民たちに移住の自由はなかった.すべて大名が自国の領民を江戸に徴集移動して働かせたのである.
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 1日 (土)

江戸,東京の味 (二)

 先々週金曜日に放送されたNHK『チコちゃんに叱られる!』で,「なぜ関東の味は関西よりも濃い?」という出題がなされた.
 ゲスト回答者の長嶋一茂は「関西は素材の味を大事にする.関東は味付けのセンスが悪いから」と答えた.さすがに育ちがよい人はちがう.この答えは正解にしていいと思うが,このクイズの監修をした自称食文化研究家の永山久夫は一茂説を否定し,正解として独自研究の珍説「関東の味が濃いのは家康のせい」を堂々と開陳したのである.
 この日の放送のおかげで,永山久夫の独自研究=嘘が,もうネット上に流布拡大されてしまっている.まことに困ったことである.

 NHKに対して私のブログなんぞ蟷螂之斧ではあるが,やらぬよりはマシだ.永山久夫の嘘に反論,訂正して行こう.
(1.) 番組では先ずナレーションで「徳川家康は現在の静岡県中部にあたる三河の国を治めていた」と語られた.
 ここでもう,中学生もあっと驚く嘘デタラメのパレード開始だ.w
 三河が現在の愛知県東部であることは常識だ.現在の静岡県中部は駿河である.永山久夫は,恥ずかしげもなく,よくこんなことを言えるものだ.
 永山久夫の嘘を指摘するために,少し詳しく書く.

 家康は,織田信長に仕えていた時代の永禄九年 (1566年),今川氏の領地であった東三河,奥三河を奪取平定して三河国を統一した.続いて今川氏真の掛川城を攻囲してこれをを降し,三河の岡崎から遠江国 (現在の静岡県西部に相当) の曳馬に移ると,ここを浜松と改名し,浜松城を築いてこれを本城 (領地支配の拠点) とした.
 その後の家康は,紆余曲折の末に武田氏との抗争に勝利し,この戦功により信長から駿河国を与えられたのであるが,信長が本能寺の変で倒れた後,家康は豊臣の家臣となるわけである.
 天正十四年 (1586年),家康は長年にわたって拠点としてきた遠江国の浜松城から,隣国駿河の駿府城 (現在も静岡市内に城址がある) に移った.
 ところが天正十八年 (1590年),北条氏を攻めて降したあと,秀吉の命により,駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の五ヶ国を召し上げられ,代わりに北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された.
 極く簡単に書くと以上の事情であるが,それを事もあろうに史実を無視して永山久夫は《徳川家康は現在の静岡県中部にあたる三河の国を治めていた 》と解説したのである.この永山久夫という人物は以前からデタラメを吹き放題して世渡りしているほんとにもう不愉快な男なのであるが,天下のNHKが何ゆえに,かようにいかがわしい人物に番組の監修を依頼したのか理解に苦しむ.

 NHKは,大河ドラマの関係からか,時代考証を専門に担当する職員がいる.その職員は,『チコちゃんに叱られる!』の監修を永山久夫がすると知って青ざめたのではなかろうか.それくらい,永山久夫という人物はトンデモな人なのである.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »