戦争協力俳句
先日書いた記事《俳句の性善説 (おいおい) 》について少し補足しておく.
私は当該記事の末尾に次のように書いた.
《余談だが,夏井先生が《私も良い句ができたなと思ったら、高浜虚子の句と一言一句同じだったことがある 》と発言したその虚子こそ,桑原武夫が「言葉遊び」として指弾した俳人なのだ.そしてこの発言が,私が先週の「俳句の才能査定ランキング」を観て第二芸術論争を想起した所以である.》
補足とは,夏井いつき先生は《高浜虚子の句と一言一句同じだった》に続いて次のように発言したこと.
《私もいよいよ高浜虚子のところまできたなと思いましたね 》
この言葉でわかるのは,夏井先生が高浜虚子を高く評価していることだ.
夏井先生は私よりも七歳も年下なので,日中戦争から沖縄戦を経て,昭和二十年 (1945年) 八月十五日に終わったあの戦争 (歴史的には大日本帝国政府が公式にポツダム宣言による降伏文書に調印した翌九月二日を指すことが多い) について関心があるのかどうか知らぬが,私たち戦争後すぐに生まれた世代は,自分たちの父親,母親の青春を,人生を大きく狂わせたものとして,あの戦争に無関心ではいられなかった.
戦争に対して私たちが抱いた関心には色々な側面があるが,戦争責任の問題はその一つであった.
戦争責任を問うとはどういうことか.それは,国体護持のために,戦争終結の和平条件として,戦地にいる兵たちを連合軍に労働力として提供することや,沖縄を割譲することなどを意図していた昭和天皇の卑劣さを後世に伝えることである.
それはまた,例えば特攻隊隊員たちに《諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する 》と言ってフィリピンから四百機の特攻を出撃させ,パイロット全員を戦死させておきながら,自分は敵前逃亡した陸軍中将・富永恭次の名を語り続けることである.(《 》は Wikipedia【富永恭次】から引用)
私よりも若い人たちでも,昭和天皇や卑劣な軍人たちの戦争責任については理解してもらえることと思うが,忘れられがちなのは,一般人でありながら戦意高揚の旗を振った者たちの戦争責任である.
私が別稿の連載「母子草」で童話作家小川未明の卑劣振りを何度も書いたが,俳句の世界では高浜虚子が未明に相当する.
小川未明は,軍部と直接の関係を持っていたわけではないが,状況証拠からすると,高浜虚子は戦時中,積極的に軍部と協力した疑いがある
戦時中,いささかでも反戦傾向のある俳人が検挙投獄の弾圧を受けた中で,ひとり虚子は日本文学報国会の俳句部代表として戦争協力に努め,もって虚子の率いるホトトギスが俳句界を席捲したのであった.虚子の行動の陰湿さは,小川未明よりもタチが悪いと言うべきかと思われる.
桑原武夫は『第二芸術』(講談社学術文庫,1976年初版第一刷) の「まえがき」で次のように書いている.
《戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。》
Wikipedia【第二芸術】に,桑原武夫は《俳句に対するそもそもの非好意的な態度》と記されているが,その非好意的な態度は,上の引用箇所にあるように,戦時中の虚子ら戦争協力俳人たちに対する反感によるものであったろう.
夏井いつき先生が高浜虚子を高く評価するのは一向に構わぬが,しかしそれはホトトギス社の黒歴史を容認することなのである.
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