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2018年8月 7日 (火)

俳句の性善説 (おいおい)

 昔,私がまだ中学生であった頃のこと.父親が読売新聞を定期購読していたので,週に一度掲載される短歌と俳句の欄 (読売歌壇,俳壇) を私は楽しみにしていた.
 読売の縮刷版を調べていないから不確かではあるが,たぶん東京オリンピックの年,昭和三十九年 (1964年) のことだった.歌壇俳壇とは別ページの文芸批評欄に「第二芸術論争」に関する評論が掲載された.その評論の筆者が誰であったかは覚えていないが.
 第二芸術論争とは,フランス文学者の桑原武夫が昭和二十一年 (1946年) ,雑誌「世界」の十一月号に発表した論文「第二芸術論 ― 現代俳句について ― 」に始まる論争である.(講談社学術文庫に桑原武夫著『第二芸術』があり,これは絶版であるが現在も古書が入手できる.青空文庫には収載されていないようである)
 その論争がどのようなものであったかは,俳句の鑑賞はするが実作者ではない私が述べるよりも,当該論争を要領よく紹介している Wikipedia【第二芸術】と,桑原武夫をほぼ支持する立場で書かれているウェブコンテンツ《今もつづく「第二芸術論」の衝撃 》を紹介しておく.
 Wikipedia【第二芸術】は,

桑原の挑発的な論調もあってこの論文は俳人たちの間で多くの反論を引き起こした。主な論者は山口誓子、中村草田男、日野草城、西東三鬼、加藤楸邨などで、山口と桑原は毎日新聞紙上で「往復書簡」のやりとりをしている。反論側の要旨は俳句の党派性などの弊害をある程度認めつつ、桑原の鑑賞力の低さや俳句に対するそもそもの非好意的な態度を批判するもので、中でも中村草田男が激しい反論を行った。

としているが,第二芸術論争に関して中立的に述べた文芸批評が読売新聞に掲載された当時に中学生だった私にすら,草田男らの反論は的外れのように思われたのであった.
 しかしそれから五十余年を経た今の私には,俳句は作者の人生と無関係な処に成立するという桑原武夫の主張はいささか極論だと思われる.

 話は少し逸れるが,「無限の猿定理 (infinite monkey theorem) 」は広く知られている思考実験である.Wikipedia【無限の猿定理】の冒頭から少し引用しよう.

無限の猿定理(むげんのさるていり、英語: infinite monkey theorem)とは、ランダムに文字列を作り続ければどんな文字列もいつかはできあがるという定理である。比喩的に「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出す」などと表現されるため、この名がある。
この「定理」は、巨大だが有限な数を想像することで無限に関する理論を扱うことの危険性、および無限を想像することによって巨大な数を扱うことの危険性について示唆を与える。猿の打鍵によって所望のテキストが得られる確率は、たとえば『ハムレット』くらいの長さのものになると、極めて小さくなる。宇宙の年齢に匹敵する時間をかけても、実際にそういったことが起こる見込みはほとんどない。しかし、定理は「十分長い」時間をかければ「ほとんど確実」にそうなる、と主張する。

 上記が「無限の猿定理」についての超簡単な紹介であるが,《たとえば『ハムレット』くらいの長さのものになると、極めて小さくなる。宇宙の年齢に匹敵する時間をかけても、実際にそういったことが起こる見込みはほとんどない 》としても,猿をスーパーコンピュータに置き換え,これに適当なロジックで俳句を作らせたらどうなるか.
 膨大な時間を要せずに,コンピュータが正岡子規の「絶筆三句」すなわち

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
をとゝひの糸瓜の水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をアウトプットする可能性には現実味があると思われる.
 だがしかし,コンピュータがそんなことをしても私たちは「はーそうですか,それで?」と言うだろう.
 またコンピュータの技術者は誰一人としてそんな愚かな試みはしないだろう.
 何となれば「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」は,正岡子規という人間の人生があってこそ初めて成立したものだからである.
 子規が世を去る前年の「柿くふも今年ばかりと思ひけり」もよく知られた句である.齢七十に近い私はこの一句にしみじみとした感慨を覚えるのであるが,私だけでなく老人の多くは同じ思いであろう.感銘とはそういうものである.
 話を第二芸術論に戻そう.坂口安吾は「第二芸術論について」で次のように書いている.

俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである。

 私は,坂口安吾の意見に賛成である.俳人には,自分の人生を五七五の詩にしない (しようとせぬ) 人と,詩人と呼ばれるべき人々がいるのである.
 では,己の人生と無関係の処に成立する詩魂のない俳句とは何か.遊びである.
 遊びではあるが,それが悪いというのではない.後述のように,遊びにも意味はあると私は思っている.

 以上は長い前フリである.
 先週のテレビ番組『プレバト!』の名物企画「俳句の才能査定ランキング」を視聴して,私は第二芸術論争を想起したのである.
 番組内容は《東国原英夫の盗作疑惑について、俳句講師“この世界ではよくある話” ネットは賛否両論 》をお読み頂きたい.芸能記事であるが,過不足なくまとめられている.
 番組では講師の夏井いつき氏が,番組内で名人の位にある東国原英夫の句が地方紙の投稿句に酷似していることを指して

俳句を査定している俳人・夏井いつきは、句が似通ることは「俳句の世界ではよくある話。17音しかないので、類想類句は山のようにできる」とフォロー。俳句の世界の慣習は「すべて性善説で考える。わざと悪いことをしたって考えない。同じのがたまたまできたんですね(と解釈する)」と見解を述べた。また、類似した句が先に発表されていた際は、「それ以降その句を自分の句と主張しない」と対処法を教示。さらには「私も良い句ができたなと思ったら、高浜虚子の句と一言一句同じだったことがある」と話していた。

と擁護したが,この発言は重大である.もしも夏井先生の言う通りなら,俳句とは何とまあのんびりとしたいい加減なものなのだろうと考えざるを得ないからである.
 例えばこの文章の前半で述べたように,思考実験としてスーパーコンピュータに俳句を作らせる.ランダムに十七音を並べ,その中から俳句として意味あるものをアウトプットさせる.そうすると何万冊,何十万冊もの句集ができるだろう.その結果,夏井先生が今後どんなに工夫を凝らした俳句を作ったとしても,コンピュータが作った句集の中にそれと全く同じ先行作品が見出されるだろう.このような,自分の作る俳句がすべて先行作品の類想類句として全否定されるという局面に際して,夏井先生はそれでも《類想類句は山のようにできる》のが俳句というものであるから,「自分の句だと主張しなければいい」などと平然としていられるか.
 そうではなかろう.文章の芸術というものは,桑原武夫が極論したように,作者の人生と結びついて初めて芸術たり得るのである.(桑原武夫は,俳句には人生を盛り込めぬから,俳句は二流の芸術なのであるとしたが,それは言い過ぎである)
 もし自分の一句が己の人生から生み出されたものであれば,夏井先生はコンピュータ作の同一先行句に対して「これは私の句だ,私の作品だ」ときっぱり否定できる.機械に人生はないからである.同様に,夏井先生の俳句が言葉遊びではないとするなら,他の人の句と同じものになるはずがない.人には,同じ人生などないからである.言い換えれば,他人の句と同じものを作ってしまうというのは,それが言葉遊びであるからだ.今回の東国原の盗作疑惑の件は,言葉遊びとしての俳句のあやうさを示している.そして東国原を擁護した夏井先生には,創作のオリジナリティということに対する潔癖性が決定的に欠けている.それは先日ここに書いた私の文章《されどわれらが日々 》でも指摘した.

 とは書いてみたものの,私は毎週「俳句の才能査定ランキング」を楽しみに視聴している.この番組は,お笑い芸人たちに俳句芸人の夏井先生が「○○と懸けてなんと解く」と「お題」を出す形の,いわば寄席の大喜利と同種の遊びなのである.しかし遊びとしては,なかなか面白いので私は欠かさず観ている.w

 余談だが,夏井先生が《私も良い句ができたなと思ったら、高浜虚子の句と一言一句同じだったことがある 》と発言したその虚子こそ,桑原武夫が「言葉遊び」として指弾した俳人なのだ.そしてこの発言が,私が先週の「俳句の才能査定ランキング」を観て第二芸術論争を想起した所以である.
 子規は生涯に二万句以上の俳句を詠んだという.それらには他人の作品と同じ句はなかったのである.

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