母子草 (十六)
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* 前回の記事は《母子草 (十五) 》
この連載もそろそろ終わりに近づいた.藤沢衞彦作「母子草」の作品評価を始めよう.
ここで連載前回の末尾を再掲する.
《戦後,小川未明は軽々と転向したが,藤澤教授は戦後を,戦前戦中の未明のミニチュアとして生きたのである.そしてこれこそが,上笙一郎が『児童文学研究=北邙の人たち』(日本児童文学協会編『戦後 児童文学の50年』,p.113) の中で,藤澤教授を指して《世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》と書いたことなのである.》
藤沢衞彦教授の世界観や人生観の古さは,自ら「標準語の使用」を明らかにしていることに示されている.
現代日本ではもはや「標準語」は死語である.戦前の日本史に明るくない世代の人々が,標準語と共通語とを混同している場合があるが,かつて明治政府が富国強兵策の一環として国を挙げて取り組み,あるいはまた昭和期戦前の政府が海外植民地 (特に朝鮮) 統治のための道具として用いた「標準語」を話し,読み書きした人々は既に世になく,標準語は言語としては忘れ去られた.従って標準語は,単語として残っているが実体はない.それがどのようなものであったかは,《母子草 (十一) 》の註に記した.
ここでは藤澤教授の童話「母子草」から一部を引用してみよう.(便宜のために全文を最後に掲げる)
《『おなつかしいお母さま。お母さまは、いまごろ、どうしておいでやら。』 》
《毎日毎日、小雪は、ふるさとのお母さまにむかって、おわびするのでありました。》
《『それは、小雪のお母さまの、清い涙のしずくからはえた草だよ。』 》
藤澤教授の童話「母子草」の中で,主人公小雪はもちろん,話に登場する村人も小雪の母親を「お母さま」と呼んでいる.この「母子草」は戦後の昭和二十四年に書かれた作品であるにもかかわらず,明治時代に標準語の基礎となった東京山手の中流家庭 (官吏や会社員など比較的富裕な層) の言葉である「お母さま」が用いられているのだ.現代の私たちからすると,違和感を持たざるをえない.
また「母子草」は,戦後の口語文の文学作品としてはあまり用いられない「であります」調 (一般には軍隊言葉として知られている) と「です・ます」調を混在させて書いている.ここで指摘しておかねばならないのは,「であります」調は小川未明が多用した表現であったということである.未明の「であります」調については,古谷綱武氏は「小川未明論」(『日本人の知性』〈学術出版会〉所収) で次のように書いている.
《むやみやたらに「あります」でむすんでいる文章のまずさ、明治の雄弁術が現代に生きのこっているようなその目ざわりなかたさは、それがそのまま頭のかたさであるが、現代の評価にあてれば、欠点とよんでいいものである》
これはまことに的確な指摘であり,《「あります」でむすんでいる文章のまずさ 》は,そのまま藤澤衞彦教授作の童話にも当てはまる.
著名な童話作家であった奈街三郎 (1978年12月23日没) は昭和四十八年 (1973年) に,藤澤衞彦作「母子草」をほぼ丸ごと剽窃して奈街三郎名義の「母子草」(『幼年みんわ かなしいはなし』〈偕成社〉所収) を発表したが,これは完全なコピーではなく,姑息なことに,原作中の「お母さま」を「おかあさま」と平仮名にし,かつ「であります」を「です・ます」に書き換えている.剽窃者は剽窃者なりに,いくら何でも童話に軍隊言葉は馴染まないと考えたのであろうか.
実際,藤澤衞彦作「母子草」から派生した戦後の童話作品には,奈街三郎らが剽窃して発表した二作品も含めて,標準語で書かれたものは一つもない.標準語で書かれたのは藤澤衞彦作「母子草」だけである.
なぜ藤澤教授が,戦後になっても大日本帝国の残滓である標準語で童話を書こうとしたのかは,今となってはわからない.
しかし推測できる理由が一つある.それは,藤澤衞彦教授が昭和二十四年,童話集『母子草』巻末に掲げた後書き《父兄方へ 》 (前回の記事《母子草 (十五) 》に掲載した) を読めば明らかなように,藤澤教授の童話は子どもに向けて書かれたものではないことである.
藤澤教授は,戦前の標準語教育を受けた「父兄」を対象にして童話を書くことを意図したのであり,従って,戦後の普通の子どもが理解できる言葉ではなく,標準語を用いて書いても何ら問題はないと考えたのだろう.これは小川未明が,子どもではなく大人に鑑賞されることを期待して童話を書いたのと同じ姿勢である (小川未明《今後を童話作家に 》;青空文庫).そして未明ら明治生まれの童話作家たちの作品は,戦後になってから登場した児童文学者たちによって「子ども不在の童話」として厳しく否定されたのであった.
藤澤衞彦作「母子草」には,標準語の使用の他にも,いくつかの問題点がある.
その一つは,この作品では童話の基本的な作法が守られていないことである.次回はそのことについて述べる.
この連載もそろそろ終わりに近づいた.藤沢衞彦作「母子草」の作品評価を始めよう.
ここで連載前回の末尾を再掲する.
《戦後,小川未明は軽々と転向したが,藤澤教授は戦後を,戦前戦中の未明のミニチュアとして生きたのである.そしてこれこそが,上笙一郎が『児童文学研究=北邙の人たち』(日本児童文学協会編『戦後 児童文学の50年』,p.113) の中で,藤澤教授を指して《世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》と書いたことなのである.》
藤沢衞彦教授の世界観や人生観の古さは,自ら「標準語の使用」を明らかにしていることに示されている.
現代日本ではもはや「標準語」は死語である.戦前の日本史に明るくない世代の人々が,標準語と共通語とを混同している場合があるが,かつて明治政府が富国強兵策の一環として国を挙げて取り組み,あるいはまた昭和期戦前の政府が海外植民地 (特に朝鮮) 統治のための道具として用いた「標準語」を話し,読み書きした人々は既に世になく,標準語は言語としては忘れ去られた.従って標準語は,単語として残っているが実体はない.それがどのようなものであったかは,《母子草 (十一) 》の註に記した.
ここでは藤澤教授の童話「母子草」から一部を引用してみよう.(便宜のために全文を最後に掲げる)
《『おなつかしいお母さま。お母さまは、いまごろ、どうしておいでやら。』 》
《毎日毎日、小雪は、ふるさとのお母さまにむかって、おわびするのでありました。》
《『それは、小雪のお母さまの、清い涙のしずくからはえた草だよ。』 》
藤澤教授の童話「母子草」の中で,主人公小雪はもちろん,話に登場する村人も小雪の母親を「お母さま」と呼んでいる.この「母子草」は戦後の昭和二十四年に書かれた作品であるにもかかわらず,明治時代に標準語の基礎となった東京山手の中流家庭 (官吏や会社員など比較的富裕な層) の言葉である「お母さま」が用いられているのだ.現代の私たちからすると,違和感を持たざるをえない.
また「母子草」は,戦後の口語文の文学作品としてはあまり用いられない「であります」調 (一般には軍隊言葉として知られている) と「です・ます」調を混在させて書いている.ここで指摘しておかねばならないのは,「であります」調は小川未明が多用した表現であったということである.未明の「であります」調については,古谷綱武氏は「小川未明論」(『日本人の知性』〈学術出版会〉所収) で次のように書いている.
《むやみやたらに「あります」でむすんでいる文章のまずさ、明治の雄弁術が現代に生きのこっているようなその目ざわりなかたさは、それがそのまま頭のかたさであるが、現代の評価にあてれば、欠点とよんでいいものである》
これはまことに的確な指摘であり,《「あります」でむすんでいる文章のまずさ 》は,そのまま藤澤衞彦教授作の童話にも当てはまる.
著名な童話作家であった奈街三郎 (1978年12月23日没) は昭和四十八年 (1973年) に,藤澤衞彦作「母子草」をほぼ丸ごと剽窃して奈街三郎名義の「母子草」(『幼年みんわ かなしいはなし』〈偕成社〉所収) を発表したが,これは完全なコピーではなく,姑息なことに,原作中の「お母さま」を「おかあさま」と平仮名にし,かつ「であります」を「です・ます」に書き換えている.剽窃者は剽窃者なりに,いくら何でも童話に軍隊言葉は馴染まないと考えたのであろうか.
実際,藤澤衞彦作「母子草」から派生した戦後の童話作品には,奈街三郎らが剽窃して発表した二作品も含めて,標準語で書かれたものは一つもない.標準語で書かれたのは藤澤衞彦作「母子草」だけである.
なぜ藤澤教授が,戦後になっても大日本帝国の残滓である標準語で童話を書こうとしたのかは,今となってはわからない.
しかし推測できる理由が一つある.それは,藤澤衞彦教授が昭和二十四年,童話集『母子草』巻末に掲げた後書き《父兄方へ 》 (前回の記事《母子草 (十五) 》に掲載した) を読めば明らかなように,藤澤教授の童話は子どもに向けて書かれたものではないことである.
藤澤教授は,戦前の標準語教育を受けた「父兄」を対象にして童話を書くことを意図したのであり,従って,戦後の普通の子どもが理解できる言葉ではなく,標準語を用いて書いても何ら問題はないと考えたのだろう.これは小川未明が,子どもではなく大人に鑑賞されることを期待して童話を書いたのと同じ姿勢である (小川未明《今後を童話作家に 》;青空文庫).そして未明ら明治生まれの童話作家たちの作品は,戦後になってから登場した児童文学者たちによって「子ども不在の童話」として厳しく否定されたのであった.
藤澤衞彦作「母子草」には,標準語の使用の他にも,いくつかの問題点がある.
その一つは,この作品では童話の基本的な作法が守られていないことである.次回はそのことについて述べる.
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「母子草」全文
底本:『日本傳承童話集 第二集 母子草』(雄鳳堂揺籃社,昭和二十四年七月三十日発行初版第一刷)
「母子草」全文
底本:『日本傳承童話集 第二集 母子草』(雄鳳堂揺籃社,昭和二十四年七月三十日発行初版第一刷)
小雪は、いつものように、湖のほとりに立って、はるかむこう岸をじっとみつめているのでした。
『おなつかしいお母さま。お母さまは、いまごろ、どうしておいでやら。さぞ、ご不自由でございましょう。小雪の年期 (やとわれて働くことを約束した年數) も、あと三年ですみます。それまではお母さま、どうかおたっしゃにおくらしください。』
毎日毎日、小雪は、ふるさとのお母さまにむかって、おわびするのでありました。
人の一心の、なんで通じないことがありましょう。ふるさとでは、小雪のお母さまも、
『小雪、小雪、私のかわいい小雪よ、どうかたっしゃでいておくれ。せっかくお前がご奉公に出てまでととのえてくれたお藥も、どうしたことか、ききめがあらわれず、私はめくらになってしまったけれど、私はお前の美しい心がよく見えます。神さま、どうか、小雪の身の上がしあわせでありますように。』
やさしい小雪のお母さまも、毎日いくたびか湖とわが家のあいだをいききしては、小雪のいる他國 [ルビ=よそぐに] はあの方角かと見えぬ目でのぞんでは、涙をながしておりました。今まで三年のあいだに、こうしてながしたお母さまの涙は、まあどのくらいだったでしょう。それにもおとらない小雪の涙は、きょうもまた湖のほとりに来て、とめどもなくながされるのでした。
はるばると廣い大きな近江の湖、その湖の上には、きらきらと美しい太陽の光が波にてりはえて、なんともいわれぬ美しいながめでしたが、小雪には、やっぱり悲しい湖でありました。
いつものように、草かりかごをそこへおろすと、小雪は、じっとふるさとの方をながめて、
『お母さま、きょうは私の身の上に悲しいことが起こりました。あと三年でお母さまにおあいできると、指おりかぞえて待っておりましたのに、きけば、ここでは、その年期が約束通り守られないらしいのです。きょう、七年たったお友だちが、なんとかりくつをつけられて、また三年のびました。私も三年たったら、うまくお母さまのもとへかえれるかどうか、あやしく思われます。でも、にげてはいかれない湖のお國です。ああ、私はお母さまがこいしい。…… ふるさとこいし、母こいし。』
小雪は、うたって泣きました。
するとそのとき、ふしぎにも湖の中に、『ふるさとこいし、母こいし。』という文字が、波の上にありありとあらわれました。見ているうちにその文字は、だんだんのびて、ふるさとの方へひろがっていきます。ゆめではないかと、小雪が見ていますと、その文字のみちを、はるかに通ってこちらに来る一人の女の人、それは湖のはなれ島におまつりしてある、べんてんさまでありました。
べんてんさまは、やがて、なぎさ近くまでおいでになって、手まねで、小雪について来いと申されます。小雪が文字のみちをつくづく見ますと、それはなんと、たくさんのお魚がもりあがって橋をわたしているのでした。みちびかれるままに、小雪は、べんてんさまについて、魚の橋をわたっていきました。そして、長い長い橋をつかれもせず、なつかしいふるさとの岸までたどりつきました。
ふと見れば、いつのまにやら、べんてんさまのおすがたが消えていました。小雪が岸につくと、そこからわが家の方にむかって、二列になってはえている、ふしぎな草が目につきました。ついぞ見なれぬ草なので、村人にたずねますと、
『それは、小雪のお母さまの、清い涙のしずくからはえた草だよ。』
とこたえてくれました。小雪はその草のみちをたどって、なつかしいお母さまのもとにかえりました。
皆さんも初夏のころ、あぜみちや野みちをいくと、小さい黄色い花をつけた、くきの長い草を見つけることでしょう。これこそ、この母と子の、やさしい心によって生まれ出た、記念 (かたみ) の母子草だということです。
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