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2018年6月11日 (月)

母子草 (十四)

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* 前回の記事《母子草 (十三)
 
 前回の記事に以下のように書いた.
 
では,上笙一郎が指摘する《近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》について,検討してみよう.
 藤澤教授が《天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話された》ことは,私は《古くてどうにもならない》とは思わない.自分が長年にわたり研究してきた分野の学識に関し,その第一人者として宮内庁に評価されれば誰だって嬉しく名誉に思うだろうからだ.
 私が思うに,藤澤教授の「古さ」はそんなところにあるのではない.それについては,作品に即して検討してみよう.以下に藤澤衞彦作品の童話「母子草」全文を掲載する.

 
 文学の世界で恥知らずを三人挙げよと言われたら,まず第一位は島崎藤村で確定である.藤村くらいになると,恥知らずを通り越してヒトデナシあるいはケダモノの域に達している.(参照;このブログの過去記事《偽善者あるいは犯罪者 》)
 
 第二位は,童話作家の小川未明である.未明は戦前,島崎藤村と同タイプのヒトデナシにしてアナーキストでもあった大杉栄と親交を結び,アナーキストとして文学活動をスタートした.ロクデナシがヒトデナシに共感したのである.
 そして大政翼賛会が発足するや,未明はそれまでの主義思想をかなぐり捨てて,戦争協力組織「日本少国民文化協会」を設立し,戦争協力の旗を先頭に立って振った.
 ここまではよくある転向の話である.未明の場合は軍部への協力ぶりが度を越していただけのことだ.当時は,わずかな人たちを除いて,国民の誰もが多かれ少なかれ戦争に協力したのである.あの村岡花子だって,「日本少国民文化協会」創立委員の一人だったのだ.だがしかし,未明の真骨頂は戦後である.戦時中の自分を,全くなかったことのようにして,己は反戦姿勢を貫いた人間であるとして振舞ったのである.そして,未明は戦後に設立された日本児童文学者協会の初代会長の席に着いたのである.
 それでも,小川未明の戦争責任について追求した人がいなかったわけではない.代表的な論考は山中恒の『戦時児童文学論』(大月書店,2010年) であるが,ネット上にも山中恒『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社,1978年) の一節《児童文学は、いま……》や,増井真琴《小川未明と日本少国民文化協会:日中・「大東亜」戦争下の歩み》,同《小川未明の再転向 ――敗戦以後―― 》が公開されている.
 
 恥知らずの第三位は,『橋のない川』を書いた住井すゑだ.
 Wikipedia【橋のない川】に次の記述がある.
 
「『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者は、とてつもない数にのぼるはずだ」(灰谷健次郎) と賞賛されることもあるが、「侵略戦争を扇動した西光万吉を美化した作品なのに、その問題点がまったく指摘されずにきた」(金静美)との批判の声もある。
 
 私も《『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者》の一人であったから,雑誌『Ronza』(朝日新聞社,1995年8月号) の記事「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」(単行本としては櫻本富雄『ぼくは皇国少年だった―古本から歴史の偽造を読む』に収められている) で住井すゑの正体が白日の下に曝された時は,本当に呆然とした.
 『破戒』の島崎藤村も『橋のない川』の住井すゑも,「人間の平等と尊厳」を食いものにした人間のクズであった.
 
 以上の三人と比較して,「戦争と文学」「文学者の戦争責任」の観点からして藤澤衞彦教授はどうであったか.
 出版物,ネット上の記事を探しても,戦時中の藤澤教授に関しては何も資料が出てこないのである.おそらく藤澤教授は,小川未明のように声高に戦争協力はせず,黙々と研究生活の日々を過ごしていたのではなかろうか.
 だが,藤澤教授の「母子草」には,小川未明の影響が見て取れる.ここで山中恒の「児童文学は、いま……」から一部を引用する.
さて、一般的な概念からすれば、<児童文学>といえば、グリムやアンデルセン、日本でいえば、小川未明、浜田広介あるいは坪田譲治、新美南吉、宮沢賢治といった作家たちの作品のことで、それは「世俗的なものと隔絶された美しい郷愁のファンタスティックな山野に花咲く童心のロマンの世界である」という思い込みがあって、そうした世間一般の思い込みの庇護のもとに、あるいはその善意にまぎれて、なにやらやってきたのが、この国の<児童文学>とよばれるものなのである。
<児童文学>に対する、この一般的な思い込みはかなり強固なもので、ついでに<児童文学者>とよばれる人たちに対しても、<童心の求道者>といったふうな聖職者イメージがついてまわる。これは<児童文学>をふくめて、児童文化というものが教育文化に従属していると目されている証拠でもある。だから、日本の児童文学状況がそんなものではないということを語ると、人によっては目を剥いてそれはお前の被害妄想だとなじる。彼のイメージの中で<児童文学>の世界はそのようなものではないし、そのようなものであってはならないのである。彼のイメージの中の<児童文学>は、汚れなき童心をはぐくむという崇高な理念のもとに創作されるものであり、その創作者は汚れなき童心の共鳴者であって<児童文学>界で徒党を組んでゲバルなどというのは、とんでもないことなのである。
 確かに戦前の日本の児童文学の多くの作品は「童心主義のロマン」とよばれるにふさわしいものであったと思う。しかし、<童心>なるものに<主義>がつくほど科学的な思想体系など持ち合わせていなかった。童心への憧れは、むしろ極めて雰囲気的なもので、そのようなものとしてしか現象しなかった。
 小川未明を例にとるなら、彼はおとなの文壇への捲き返しに失敗し、世上「童話宣言」とよばれる『今後を童話作家に』(一九二六年・東京日日)というエッセイを書き、ひたすら<児童文学>の創作だけに専念するようになった時期は、昭和恐慌期であり、暗い世相のかげで天皇の統率する股肱は中国大陸へむけて軍靴をそろえていた。それこそ、どちらを見てもろくなことはなかった。そうした中で未明はひたすら<調和した美を求めて童心の世界へ>と埋没していった。しかし未明のいう童心の世界は、おとなの労賃の三分の一から六分の一の安い労賃でこき使われていた幼少年労働者である子どもの心の世界ではなく、未明がおとなの世界を見てみにくいと思う心に対置される美しいと想定された子どもの心であったのである。つまり未明自身の内なる世界にしか存在しない<童心>だったのである。

 
 リンク先も含めると文章が長くなりすぎた.次回は,上の引用と藤澤教授の児童観を考察してみる.
(続く)

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