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2018年6月 3日 (日)

生け花の化学

 私が会社員だった頃,仕事で必要な専門書とかお気に入りの作家の新刊はどんどん買ったが,町の古本屋には入ったことがなかった.
 古書店という商売がどのようなものかを知ったのは,ベストセラーのミステリー,三上 延『ビブリア古書堂の事件手帖』に書かれていたことによるのが大きい.
 鎌倉の片隅にある古書店「ビブリア古書堂」は普通の古本屋で,読者が想像するに,商品は文学書である.

 で,「ビブリア古書堂」とは全く異なるタイプの古書店があることは,私も知識としては知っている.地方の旧家の蔵から出てきた古文書といった類のものを扱う書店だ.
 磯田道史先生の『日本史の内幕』(中公新書,2017年) を読むと,磯田先生がその種の古書店で貴重な史料を発見したという話がいくつか書かれている.
 同書の一節《秘伝書が伝える「生け花の化学」》(p.137) はその一つで,京都市内の古書店で見つけた和綴じ (!) の冊子の話である.そこから少し引用する.

「挿花養之伝」と表紙に書いてある。「嘉永六 (一八五三) 年八月吉日 佐久間鷺水」とも。巻末には「右、養 [やしない]の巻は、未生 [みしょう]家秘事の秘中にして、猥 [みだ]りに伝えず……未生流薬井斎泉鱗 [やくせいさいせんりん] (花押) 」と記されているから生け花・未生流系統の秘伝書である。これは面白いと思った。生け花を生ける「形」を示した華道の書物は多い。ところが、この秘伝書は「養」といって、生けた花を、長期に、みずみずしく保つ秘法を論じている。当然、植物ごとに、長持ちに効く薬品は違う。植物ごとに薬品の種類と調合を詳細に記している。
 そういえば、先日、未生流笹岡
[ささおか]の家元・笹岡隆甫 [りゅうほ]さんと近所で寿司をつまんだのを思い出した。笹岡さんは幼時に京都祇園祭の御稚児さんの大役を務めたことがあるそうで、私は興味津々で、その内幕を聞いた。これは、笹岡さんにとって大事な古文書かもしれない。買って帰ることにした。解読をはじめると、これが面白い。秘伝書のなかに紙が一枚挟んであり、そこにも秘伝が記されていた。江戸時代に、生け花が、植物の生理に基づいて「花を長持ちさせる科学性」を獲得していく様子がわかる。特に、江戸中期以降、水辺の植物を生ける技術が向上する。例えば、コウホネという水生植物は、山椒 [さんしょう]・茶・明礬 [みょうばん]を調合した薬液を「水鉄砲にて水上 [みずあげ]る」。蓮 [はす]も水鉄砲で「石灰」を湯で煮た水を注入する。「葭 [よし][あし]」などは「焼酎 [しょうちゅう]にて生 [いけ]る」とある。蝋燭 [ろうそく]で根元を焼き切る方法の詳細もある。水生植物に水鉄砲で水を注入したり、石灰でアルカリ性にしたり、「生け花の化学」が江戸期の日本には、あった。》 (ブログ筆者註;引用中,[ ]は原文にあるルビである.また一部の漢字は旧漢字をJISの字体に置き換えた)

 この文章を読むまで私は,華道の体系の中に,植物を長持ちさせる技術が含まれているとは想像もしていなかったのでとても驚いた.
 専門の歴史学の範囲を超えて能狂言を始めとする日本伝統芸能にも詳しい博学の磯田先生にして,未生流の秘伝書を手に入れるまで,このことを御存知なかったのだから,私ごときが知っているはずがないのであるが.w
 ここで興味があるのは,当然ながら磯田先生はこの古文書を解読後,未生流笹岡の家元に渡したと想像されるのだが,はたして笹岡氏はこの秘伝書を保有していただろうか,ということだ.
 そしてまた,未生流笹岡は大正時代に創流された新しい華道流派であるが,他のもっと古い華道各流派にもその種の秘伝が伝えられているのか否かに強い興味をそそられた.

 そこで,色々な検索語で,華道体系にある「生け花の化学」をウェブ上に探してみた.
 すると,未生流笹岡の祖は未生流の流れを汲んでいるのだが,その未生流の公式サイト に《未生流の伝書》として以下の記述があるのをみつけた.

伝書「草木養之巻」
流祖は、いたずらに草木の天寿を害すことを嫌い、草木の生命を永くもたらしめるよう各種薬法を考究しました。その名の通り、草木を養う法が書かれています。

 この公式サイトには,《現在、「未生」を名乗る流派は数多くありますが、未生流を初めて称えたのは当流流祖・未生斎一甫です》とあり,また流派の歴史も書かれているが,磯田先生が手に入れた古文書に見える「佐久間鷺水」「薬井斎泉鱗」の名は見えない.
 また古文書「挿花養之伝」は《未生家秘事の秘中にして、猥りに伝えず》として「秘伝」であることを強調しているが,現在の未生流の伝書「草木養之巻」は公式サイトに《未生流の伝書は、流祖・未生斎一甫が自身のいけばな理論と哲学、その技法を著述したもので、未生流を学ぶ者だけに授与されるものです》と書かれているから,家元が代々継承する「秘伝」書というわけではないようだ.

 池坊はどうなんだと,公式サイトを覗いてみたが通称『池坊専応口伝』の花伝書のことは記載されているが,他の伝書については書かれていない.京都の池坊会館にある資料館に行けば伝書の展示を見ることができそうなので,機会があったら行ってみたい.

 ところで,「生け花の化学」と聞いて昔の記憶を思い出した.
 昔,私が親しくして頂いていたA教授が,ある日偶然,球根の水栽培に爽健美茶が適していることを発見した.水耕容器に入れた水の中で微生物の繁殖が抑制されたのである.そのせいか球根の根の生長がよかったという.
 簡単な予備試験をしてみたところ,どうやら爽健美茶の原料の一つであるチコリーに有効成分があるらしいことがわかったとその教授は話してくれた.爽健美茶が発売されたばかりの頃のことである.しかしその後,このことをまとめた論文は目にしていない.
 昨日,上のことを思い出したので,なぜだろうかとウェブを検索してみた.
 すると,爽健美茶の発売は平成五年 (1993年) であるが,その二年前の平成三年 (1991年),ユーカリの成分研究で有名な西村弘行先生 (現北翔大学学長) が北海道東海大におられた時,日本化学会講演予稿集に講演要旨《チコリー中の抗菌性セスキテルペノイドについて 》を書いておられたのを見つけた.
 たぶんA教授は研究の途中で,抗菌性有効成分がセスキテルペノイドらしいと気が付いたのであろう.先行研究があったのでは,それ以上の追求は断念せざるを得ない.そんな事情だったのかも知れないなあと思った.

 チコリーはキク科である.「挿花養之伝」に日本産キク科植物を煎じた薬液を使うなんて書かれていたらおもしろいのだが,と空想してみた.私は古文書を読めないが.w

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