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2018年6月22日 (金)

初めての台湾 (七)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (六) 》 
 
 九份 (Wikipedia【九フン】) までのバス車中で,現地ガイドのRさんが九份という古い町の歴史を話してくれた.旅の途中で感じたことだが,美人のRさんはとても賢い人でもあるらしく,バス車中ではずっとマイクを放さないで喋り続けているが,台湾が日本の植民地であった時代のことに触れざるを得ない時でも,上手に「植民地」とか「統治」という言葉を避けてガイドをした.
 クラブツーリズム添乗員のSさんとは仕事で旧知の間柄らしく,SさんはRさんの人柄を手放しで褒めるのだった.Sさんも仕事のデキる添乗員だったから,このツアーはいい旅であった.メンバーが女性ばっかりだったし.ヾ(--;)
 さて Wikipedia【九フン】にも書かれていることだが,九份はかつて金を産出する鉱山の町で,日本統治時代に最盛期を迎えた.
 台湾出身で最も有名な歌手の一人である一青窈の父は,九份の金鉱経営で成功し,台湾五大財閥の一つに数えられた顔一族の長男・顔恵民であった.
 金鉱は第二次世界大戦後に採掘量が減り,1971年に金鉱が閉山されてから九份は寂れたが映画『悲情城市』のロケ地になったことをきっかけに観光地化に成功し,現在は台湾を代表する観光地である.
 
 その九份観光について書かれたブログを覗くと,「九份」と書く人もいるし「九份老街」と書いている人もいるが,混乱している人もいる.「老街」は固有名詞ではなく“old town”の意だから「九份老街」は間違いではないだろうが,地域の呼称としては少し広いかも知れない.
 そこら辺の的確な解説はないかと検索したら,《基山街》というウェブコンテンツに,
 
基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります。平均3メートルに満たない幅の曲がりくねった細い老街です。「基山」とは「基隆山」のそばにあることを意味し、基隆山のふもとの古道から山沿いに曲がり道が続き、大竿林地区で軽便路と合流します。全長は850メートルにも達し、古くは「暗街仔」と称されました。
 
基山街の歴史は明治38年(1905年)ごろ、基山街と豎崎路の交差点付近にいくつかの店舗が並び始めたところから始まります。大正5年(1916年)には、顔雲年が土地を提供し、台北庁が経費を負担してできた魚菜市場(現公営市場の前身)が営業を開始し、基山街の地位が確立して商店が林立しました。ゴールドラッシュの時期には、基山街は九份で最もにぎわう商店街でした。
 
九份が没落すると、基山街は3~4軒の商店しか残らないほど寂れました。そして九份が再び繁栄すると、基山街は地の利を生かしてあっという間に大商店街の活気を取り戻しました。両脇には200軒もの商店が軒を連ね、基山街は狭く曲がりくねっていますが、人の波が押し寄せ、まるで影響はありません。民国89年(2000年)に九份では「大紅燈籠まつり-媽祖を迎え、百年を慶ぶ」が催され、多くの人出でにぎわいました。そして沿道の赤い燈籠も基山街と豎崎路の主な特色のひとつとなっています。
 
バス停の表示は基山街の入口が「旧道口」、豎崎路の入口が「九份」となっています。その理由は汽車路が開通する前、九份の主要幹線は豎崎路と保甲路を通って物資を運んでおり、豎崎路が九份地区の代表だったからです。昭和12年(1937年)、自動車路(汽車路の旧名)が開通すると、交通の中心は汽車路に移り、基山街は現地で「旧道」と呼ばれるようになりました。そして汽車路と基山街の交差点は「旧道口」と呼ばれ、九份地区の生活物資の出入口となり、貨物輸送の新たな中心となったのです。

 
という説明があった.
 
 上の引用中の《基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります》が「老街」の意味と規模を示す良い用例だと思われる.ついでにこのサイト《九份老街日帰りの旅》は台湾観光に大層役に立つと紹介しておく.
 
 九份の街に到着してツアーバスを降りると,すぐ昇り階段があり,ここを上がって行くと狭い広場があった.
 今日の夕食会場はこの広場に面した九戸茶語だ.
 
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 添乗員Sさんが「この階段をどんどん上がって行くと,茶館やレストランが両側にあって,途中に撮影スポットもあるし,上の方の十字路で左右に曲がるとお店がたくさんありますので,夕食まで自由時間をお楽しみください」とメンバーに行動予定を説明した.
 私は単独行動したが,女性たちは数人のグループで買い物やお茶を楽しんだようだ.
 Sさんが「この階段」と呼んだのは豎崎路という細い坂道で,ここに『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆の湯屋のモデルであると自称している阿妹茶酒館 (阿妹茶樓) がある.日本人女性観光客必訪の店であり,それでかなり儲けていると思われるが,さすが宮崎監督は事を荒立てることなく大人の対応である.日台友好万歳.
 
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 さらに坂を昇ると,上の引用文に書かれている九份最大の商店街である基山街と交差する.街区の名称が基山街で,観光客向け案内図には“street”と書いてあったから,たぶんこの細い道自体は基山路というと思う.
 ここを左に曲がると,行けども行けども果てしなく商店が並んでいる. 無駄遣い 買い物と 暴飲暴食 飲食を楽しむつもりのない私は飽きてしまい,途中で引き返して,会食場所の九戸茶語に戻り,再集合までそこらをぶらぶら歩きして時間をつぶした.
 九份散策を楽しみたい向きには,ブログ《ぺたぺた台湾とりっぷ 》がよくできているので紹介しておく.
 
 さてそうこうするうちに陽が落ちて,広場から豎崎路の上まで張り巡らされた提灯に灯がともった.九戸茶語の周辺は異国情緒たっぷりで,台湾では女性観光客に人気のレストランの一つとされているのが納得である.
 
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 会食の献立は台湾の郷土料理だそうであるが,それほど普通の中国料理と異なるものではなかった.
 コースの中で「エビの紹興酒蒸し」が出されたのだが,昼に鼎泰豐で会食した時に「甲殻類は気持ち悪いので食べられない」と放言したツアーメンバーAが「エビは気持ち悪くて食べられないので,どなたか私の分を食べてください」とまたもや言いやがったのだ.
 同行者の中で一番御高齢と思しい上品な御婦人がツアーに参加しておられたのだが,料理が運ばれてくると,マナー知らずのAは年長者をそっちのけでターンテーブルを回し,自分の食いたいものをどんどん取って行くのであった.「エビをあげるんだから,いいわよね」と言わぬばかりの呆れた振る舞いだった.この女がいなければ最高な夕食のはずであったのだが,私は呆れつつ老酒の盃を口に運ぶのであった.
 
 夕食後は台北のホテル,洛碁大飯店・林森館に戻ったのだが,ロビーでAを除く若い娘さんたちに「飲みにでかけるのですけど御一緒しませんか」と誘っていただいた.爺さんに否やのあろうはずはなく,欣喜雀躍して彼女たちとタクシーに乗った.行先は日本人に人気のあるというパブだ.
 私はいつも紙パック入りの安い焼酎を愛飲しているのだが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.ワインメニューからおしゃれなカクテルを選び,彼女らのおしゃべりを楽しく聴いた.もちろん勘定は私持ちである.(あとでカード請求された日本円金額を見て驚いたが後悔はしてない.するもんか.うう)
 
 暫くして,一番若いお嬢さんが「また夜市にいきません?」と言うので,そうしましょうそうしましょうとタクシーをパブに呼んでもらい,ホテルに一番近い夜市に行った.
 その夜市は観光客相手というよりは地元の人たちが食事をするところらしく,固定ではない屋台が道路の真ん中にテントを張って営業していた.私は満腹だったので,ウズラ卵のフライを食べた.これは,ウズラ卵を,油を引いたタコ焼きの鉄板に手際よく投入し,衣なしの素揚げにしたものを,食べやすいように串刺しにしたものである.日本の屋台では見たことがない.調味は屋台店に備え付けのケチャップとかマスタードである.これは小腹がすいた時に二本くらい食べるとちょうどいいかも知れない.
 
 そんな風に二日目の夜は更けていったが,若いお嬢さんたちは頗る元気で,ホテルは近いから歩いて帰りましょうと言う.私はいささか疲労していたが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.元気っぽく彼女らの後を付いていき,ホテルの部屋に戻るなりベッドにぶっ倒れたのであった.
(続く)

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